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2010年5月16日 (日)

直木賞とは……確実に一人の女性の人生を変えた。でも、一度は変えそこなった。――堤千代「青いみのむし」

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堤千代「青いみのむし」(『美貌』昭和22年/1947年10月号)

 直木賞選考会は合議です。委員たちが自説を述べ合い、その末に受賞もしくは落選が決まります。

 そういうものの常かもしれませんが、受賞の理由が何だったのか、もしくは選ばれなかった作品の落選理由が何だったのか。特定するのは、非常に難しいものです。

 当日の夜に行われる委員による記者会見だって、『オール讀物』にのる選評だって、つまりは「後づけ」ですしね。決定の場にいた委員それぞれが、それぞれの感覚でもって、受賞理由・落選理由を語っているだけのものです。時にその一つがピックアップされて、「公式の理由」として世間に流布したりすると、余計にホントの理由が何だったかのか、よくわからなくなるところがあります。

 「半落ち現象」、とでも呼べるんでしょうか。

 ええと、横山秀夫さんの『半落ち』が第128回(平成14年/2002年・下半期)の直木賞に選ばれなかった理由が何だったのか、ここでは掘り起こしません。ワタクシの知る限りでは、おそらく、受刑者がドナーとして骨髄を提供することができようができまいが、あの小説は落選していた可能性のほうが高い、ってことです。

 それより60年ほど前のおハナシ。直木賞に落選した一つの候補作・一人の候補者がいました。堤千代「小指」です。

 第11回(昭和15年/1940年・上半期)の受賞作「小指」ではありません。第10回(昭和14年/1939年・下半期)の候補として落選した「小指」です。

 あ、厳密には、堤千代の直木賞受賞作は「小指」だ、とは言っちゃいけないのかもしれませんね。昭和15年/1940年になって『オール讀物』に「雛妓」(4月号)、「賢ちゃん」(7月号)を発表したことで、ようやく受賞したのですから。それでも堤千代の「小指」は後世にいたるまで、彼女の直木賞受賞作ということになっています。そんな例は、川口松太郎「鶴八鶴次郎」と、彼女の二例しかありません。

 で、「小指」落選のことに触れる前に、今日のエントリーの対象作「青いみのむし」のことを言っておきます。

 堤千代が、「小指」発表前後のことを書いた文章は、きっと他にもあるかもしれません。もしかしたら、散逸する膨大な彼女の小説群のなかに、ポロッと語られているかもしれません。まだ探し出せていなくて、申し訳ないことです。

 それで戦後まもなく『美貌』誌に発表された「青いみのむし」を持ってきました。副題に「生いたちの記 「直木賞」の頃まで」と付いています。たぶん小説じゃなくて随筆の類です。

 ただ文中語られるエピソードの多くが、のちの自伝的短篇小説「父」(『別冊文藝春秋』37号[昭和28年/1953年12月])でも使用されています。「父」の原型といってもいい半小説です。

 たとえば、父の背に負われて行った花見のこととか。

「春の花見に一家中が出る時も私は、留守番であったが、その代り、その前に、父は必らず年に一度の花見に私を連れていく為に、役所を休んだ。」(「青いみのむし」より)

「私は体が弱かったので、家の者と外に出かけると云うことは滅多になかった。ただ、ときどき父が思いついたように伴れていってくれるのが愉しみであった。

 ある春の夕方だった。父は役所からいつもより早く帰ってきて、

「今夜お花見にいこう」

 と、言った。

 私は姉や妹達がお花見にいって写真を撮ったりするのが羨しくてならない所であった。」(「父」より)

 そういうなかで、小説「父」には語られていない箇所もあります。語り手が、自分で書いた小説を『オール讀物』に投稿する場面です。

「黒の縞模様の仲人の妻に手を引かれて、自動車のステップに、足を乗せる、角かくしの姉の振袖は――。美しい嫁入り事の真似は、どんなに、羨やましくても、もう、真似て、独り、戯むには、人目にも自分自身にも、心はづかしい年が私に来ていた――。

 何かを得たい。姉妹や周囲の持つ生活の姿に、空しく眺め入って、床の上に老いていってしまいたくはない。

 自分自らの生命の目的を、そのかけらでも、探り当てたい――。その願いが、いつか私を幼い時から、ともない慣れた、物を読み、書くと言うことに、はめ入れていった――。

(引用者中略)私は思うことを四十枚ばかりの原稿紙に書きつめて、白い糸で、綴じた。何処へというアテもなく、毎月取っていたオール讀物の、編輯部を、送り先にした。

(引用者中略)

 それから二週間も過ぎた頃であろうか。

 オール讀物の編輯部から電話が、掛って来た。いく度か、きゝ直して、呼びに来た女中の後から電話口に立つ私は、受話機を持たない方の手も、壁について、震えをとめていた。

「あの小説ですね、「小指」(記。「小指」は昭和十四年直木賞受賞作品となり氏の小説家生活を決定した。)は、大へんよく出来てる。十一月号にのせますからね、直ぐ、次のを書いて下さい……」

 と、電話の声は早口であった。」(「青いみのむし」より)

 それで、その嬉しさを、当日帰宅した父に話したのだけれど、予想したようには喜んでくれなかったのよね、うんぬんと続きます。

 父の反応についてはすっ飛ばすことにしまして。素人投稿家がですよ、はじめて『オール讀物』に送った原稿が褒められて掲載され、それが翌年には直木賞を受賞してしまった、というんですから。ふつうに考えても、これはもうあれです。シンデレラ・ストーリーです。

 しかも並の(?)シンデレラ・ストーリーと違うことに、堤さんの境遇がまた特殊と言いますか、泣かせると言いますか。先天性肺動脈障害で幼少のころより病弱、小学校にすら通うことなく過ごしてきた20歳そこそこの乙女。……そんな女性が幸運にもデビュー半年で受賞しちゃったわけですから、当然のように直木賞史に残る受賞者だったわけです。

 ああ。そういう女性が、現在あるようなあの暴力的な報道にまみれず、スッと直木賞を受賞できて、ほんとよかったなと思います。以下、当時の受賞を伝える『東京朝日新聞』の記事を引用します。もち、ベタ記事です。

直木賞受賞者 芥川賞は辞退

(引用者中略)

河内氏(引用者注:河内仙介は大阪生れ本名は塩野房次郎、大阪市立商業の出身で長谷川伸氏門下生、又堤さんは東京生れ、病身で小学校にも通わなかった独学者である

尚第十一回芥川賞は『歌と盾の門』の作者高木卓氏(本名安藤煕)(三四)に贈る筈だったが同氏が受賞を辞退したので今回は受賞者なしと決定、」(『東京朝日新聞』昭和15年/1940年8月1日より)

 高木卓さんの辞退の件も合わせて、このスンナリ感。新鮮です。

 ええ、高木卓芥川賞辞退も、堤千代「小指」周辺に負けず劣らず(いや、圧倒的にそっちのほうが)、のちに生きる人たちが、なぜ辞退したのかをめぐって、ああだこうだと語りたくなる一件です。

 むろん、芥川賞辞退のほうがテーマとしては面白そうなんですけど。ごめんなさい。ここはご存知のとおり直木賞偏愛ブログなもので。以下、堤千代「小指」はどうしてはじめは落選したのか、について、ああだこうだ語ります。

          ○

 どうなんでしょうね。堤千代「小指」が落選した理由。

「たまたま投稿した『小指』が昭和一四年一二月号の「オール読物」に掲載され、同年下半期の直木賞候補作品になった。受賞できなかった大きな原因は病気持ちでは職業作家として耐えまいという点にあった。ついで同誌に発表した二作とあわせて一五年上半期の直木賞を受賞したのは、新生新派が新人の『小指』を取りあげて上演し、好評だったことも、あずかって力があった。」(昭和52年/1977年11月・講談社刊『日本近代文学大事典 二巻』「堤千代」の項 執筆担当:和田芳恵

 堤千代と関係の深ーい和田さんは、そうおっしゃるわけですが。

 これを語るに当たっての、大モトのモトの資料となりますと、一人の男に行き着きます。小島政二郎です。

菊池寛も、佐佐木茂索も、この作を高く買った。しかし、「小指」は不幸にして――そう云わして貰いたい――芝居に上演されて非常な好評を博した。つまり直木賞に先んじて、十分報いられていると云うのが、委員会に於ける反対意見だった。

 私は、芝居に上演されたことなんか、作者にとって本質に於いて報いられたとは思わない。新進作家にとって最高の名誉は、直木賞を与えられることだと主張したが、通らなかった。――私はそう書いたが、実は――この喜びの機会に、デリケートな真相を打ち明けると、芥川賞も、直木賞も、どんな傑作を書いた人でも、前途のない人には授賞しないと云う立て前なのだ。ところが、「小指」の作者は、重病で幼い時から寝たきりの人だと云う。委員会は、そこに一抹の不安を感じたのだ。然るに、作者はその後「雛妓」を書き、「賢ちゃん」を書いた。不安は一掃された訳である。ここに於いて委員会は、過去に遡って堤千代さんに第十一回直木賞を授与したのだ。」(昭和15年/1940年10月・新潮社刊『小指』 小島政二郎「序」より ―引用は平成12年/2000年11月・ゆまに書房刊『近代女性作家精選集 堤千代『小指』』)

 そう。たしかに、第10回の段階で、選者の佐藤春夫さんも書いていました。

「「作品は悪くはない。よく心得たうまいものだ。しかし、まだ世間も十分に知らない年頃で病床にいる人だというと職業的大衆作家として将来どんどん書けるという見込みは立ちにくかろう。もしこの一作のためだけとすればもう舞台にのぼって観客の拍手と感激とによってこの作は十分酬いられているという感じだから」と賞を出し惜しむ気持に同感される。」(『文藝春秋』昭和15年/1940年4月号 ―引用は『オール讀物』平成14年/2002年10月号)

 作者の健康が量産に耐えられないのではないか、という発言が出たのは事実のようです。では、それを言い出したのは誰か。容疑者は限られています。

 室生犀星大佛次郎瀧井孝作。菊池寛。佐佐木茂索。久米正雄宇野浩二

 真相は、いまのところワタクシにはわかりません。ただし、反対派の真の理由が「作者の健康面」「新生新派で脚色上演されていること」だったか、どうか……。ちょっとツッコんでもいいですか。

 室生さんも瀧井さんも宇野さんも、ここに佐藤春夫さんを含めてもいいですが、はじめて直木賞選考会に参加した芥川賞委員たちは揃って、おおむね、「小指」を認めていません。

 「気転が利きすぎている」「指を切るところが病的」などなど。でも、そういう文学的評価ってやつは、人によって受け取り方が違いますから。そういう反対の仕方をしても、一度激賞のエリアに入っちゃった小島政二郎の思いを、くつがえせるものじゃありません。

 なにせ小島さんって人はねえ。言い出したら聞かない頑固なとこがありますもん。しかも、すげえ熱意のかたまり、と来てる。それゆえに、同席する委員たちがやや辟易、あるいは扱いに困る、って感じがなかったでしょうか。

 たとえば、戦前戦後を通じて長谷川幸延を推したとき。戦後の直木賞の方向性を決めるべく富田常雄を、つづいて山田克郎を推したとき。それから、小島さんが引導に渡されるきっかけになったとされる、第54回(昭和40年/1965年・下半期)新橋遊吉を推したとき、など……。

 直木賞では、「この一作だけでは何とも言えない。あと二、三作見てからでないと……」というのが、反対派にとっての伝家の宝刀です。いつだってそうです。この一言さえ言っておけば、「それもそうだな」とうなずいてくれる同調者を増やすことができる、魔法の言葉です。

 しかも堤さんの場合は、それ以外にも、「健康面」「新派上映」という、直木賞を与えずにすむ口実が二つもありました。政二郎さんの「小指」に対する酔いを、菊池寛や佐佐木茂索などに蔓延させないためにも、と反対派が、あえてこれらの点を口にしたってことは、十分考えられます。

 褒めていたはずの菊池寛も、別の場所では、結局こういうこと言っていますからね。

「今度の直木賞は、遂に授賞中止と決定した。本誌に載った「小指」や、大庭さち子さん、宇井無愁氏などが問題になったが、みんな反対説が出て、結局一致しなかった。「小指」の作者なども、もう一作あの程度のものがあったら、不安なく授賞出来たであろう。」(『オール讀物』昭和15年/1940年4月号「十周年所感」より)

 「小指」一作で終わるのではなく、「雛妓」「賢ちゃん」と書き継いだからこその、第11回受賞、というのは疑いないでしょう。でも、堤千代さんが病床について先々の健康に不安があったことは、半年程度で変わることじゃありません。「健康面の不安により落選」とは、落選させた委員たちの真意ではなかったと、ワタクシは思います。

 でもね。そっちのほうがハナシとしては面白いし、政二郎さんも「デリケートな真相を打ち明けると」などと、こちらの身を乗り出させるような書き方をしてるし、まあ、落選理由として、そちらが語り継がれてきたのもわかります。

 『半落ち』の落選理由が、「受刑者が骨髄バンクのドナーになる、などという現実にはあり得ない設定を描いた」と選考委員がケチをつけた、と言われ続けてしまうがごとく。

          ○

 当時の選考委員たちの心配をよそに、当の堤さんはその後、38歳まで生きました。

 「小指」一発だけの人ではなく、直木賞が求めていたとされる、職業大衆作家としての働きを十二分にこなしました。

「太田洋子は昭和初年に一旦甘い一部のジャーナリズムによって引き出された。(引用者中略)昭和十五年の一月に、「桜の園」で、「東京朝日新聞」に当選し、それが再出発の機会となった。(引用者中略)「朝日」の懸賞金は高額で知られた。既に昭和九年に、横山美智子(明治三十四―)が、同紙に「緑の地平線」で一等に入選したときも、賞金が一万円であった。美智子も通俗作をかいた。少年少女ものの方面でも、ながい間地歩を保っていた。ここで女流通俗小説をかいて、一時非常に流行した堤千代(明治四十三―昭和三十)のことも思い出す。彼女は心臓弁膜症の持病をもっていたが、夫の愛情に保護されて、たくさんの小説をかいて発表した。」(昭和42年/1967年6月・桜楓社刊 板垣直子・著『明治・大正・昭和の女流文学』「昭和時代の女流文学の流れ」より)

 夫の愛情に保護される前、昭和10年代後半にも、すでに堤千代の活動は旺盛だったんですけども。

 『オール讀物』のほか、和田芳恵が編集で働いていた『日の出』には、毎号のように短篇を発表。前掲の『小指』復刻版に「戦争と花柳界――堤千代『小指』」という解説を書いている東郷克美さんによれば、連載小説だってバシバシ書いてますよ。「わが家の風」(『東京日日新聞』昭和17年/1942年12月18日~昭和18年/1943年4月8日)、「窓辺の佳人」(『サンデー毎日』昭和18年/1943年1月3日号~4月4日号)、「文鳥」(『主婦之友』昭和18年/1943年1月号~昭和19年/1944年2月号)、「あと山さき山」(『主婦之友』昭和19年/1944年3月号~昭和20年/1945年3月号)、「飛行機」(『週刊毎日』昭和20年/1945年1月7日号~4月29日号)などなど、たあくさん。

 それはそれとして、たしかに戦後もひきつづいて流行作家の地位にいたみたいです。

 昭和30年/1955年死去のさいには、『朝日新聞』11月11日に訃報が載り、大きさはベタ記事でしたが、顔写真入り。翌12日は、平林たい子さんの追悼文も載りました。

「彼女は、芸術だの何だのといわずに、中間小説家として割り切っていた。小説のもち味にも、そんな所があってそこがわれわれとしては不満だったけれども、こう悟り切って迷わずに歩んだあとをたどると、これも大人の一つの行き方だったのかと頭をさげたくなる。」(『朝日新聞』昭和30年/1955年11月12日 平林たい子「堤千代さんを悼む」より)

 流行作家のあかしとも言える、直木賞選考委員の座にも、堤千代の名前が挙がったことがあります。理由は不明ですが、結局それは実現しなかったんですけども。

「千代に云わせれば、私に会社を辞めさせただけのことはあったのだろう、作家としての堤千代は戦後でいえば二十三年頃からだんだんと調子づいてきて、二十五、六年には最高潮だったように思う。(引用者中略)作品も夫の私が読んで割引なしに面白かったり、涙をそゝられるものが多かった。

「お父ちゃんの批評なんか当てになりやしない。お父ちゃんの誉めるものは世間では却って評判が悪いんだ」

 とひねくれながら内心はまんざらでもないらしい千代の生き生きした顔を見るのは、当時の私の楽しみの一つでもあった。」(『文藝春秋』昭和31年/1956年2月号 福留理一「忘れ得ぬ「小指」の人」より)

 もちろん、昭和15年/1940年、直木賞を受賞できずじまいのままだったら、昭和25年/1950年、昭和26年/1951年に絶頂期を迎える堤千代は、いなかった可能性が高いでしょう。病床でもんもんと暮らしていた20歳を過ぎたばかりの若き女性が、ここまで活躍できたのは、そりゃあシンデレラ・ストーリーです。

 後世に名前が残るとかどうとか、そんなこといいじゃないですか。作家として恵まれた一生を過ごした(と思う)こういう女性の姿を見ると、直木賞も、たまにゃあイイことするんだな、と思わされますよ。

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コメント

先日の「なんでも鑑定団」の出張鑑定に、堤千代さんの甥という方が出演されてましたね。
鑑定品は「菊池寛からおばに贈られた犬の絵」ということで、堤さんが「史上最年少直木賞受賞者」であるという話もしっかり銀河万丈ボイスで解説が入ってましたw

鑑定結果は →ttp://www.tv-tokyo.co.jp/kantei/kaiun_db/otakara/20140715/07.html

投稿: 毒太 | 2014年7月17日 (木) 22時13分

毒太さん、

おお、我らが(もとい、我が)アイドル・堤千代さん関係のことがテレビに!
(すっかり見逃しました……)
もう一般的に作品は読まれておらず、名前も忘れられているのに、
こうやってテレビのネタにしてもらえるのも直木賞の力。
うれしいことです。

投稿: P.L.B. | 2014年7月19日 (土) 01時25分

実は堤さんは私の祖母👵と同じ歳でした。
堤さんとは対照的に2008年5月に満90歳で亡くなりました。

投稿: よーこぶー | 2016年1月14日 (木) 17時21分

読みました。

投稿: | 2016年2月19日 (金) 19時53分

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