直木賞とは……いつだって芥川賞といっしょ。芥川賞が受ける恩恵も祟りも、いっしょに受けざるを得ません。――小谷野敦「純文学の祭り」
小谷野敦「純文学の祭り」(平成21年/2009年1月・論創社刊『美人作家は二度死ぬ』所収)
直木賞は、いわば正統・主流の文学とは別モノの、大衆文学の賞と見られています。そのためなのかどうなのか、過去、この賞に注視して、系統立って語ってくれた評論家は、あまりいません。
そんなこともあって、ワタクシみたいな直木賞オタクは、過去の文献のなかに、直木賞に触れてくれている文章を見出すと、つい嬉しくなってしまうわけです。病気です。
「触れてくれている」なんていうレベルを超えた著作家もいます。尾崎秀樹さんとか、大村彦次郎さんとか。直木賞の歴史というものを踏まえて、さまざまな事象を語ってくれているんですもの。それだけで尊敬しちゃいます。
それで、近年では小谷野敦さんです。
もう小谷野さんについては、ファンやマニアがたくさんいると思いますので、ワタクシなぞは、何も知らない部類に入ると思います。2ちゃんねるや、wikipedia や、その他さまざまなサイトを見るかぎり。ああいうところに書き込んでいる方たちは、小谷野さんをやっぱり愛しているんですよね。……え。違うんですか。
ああいう方たちの小谷野さんに関する知識には、ワタクシ、とうていかないません。
でもね、せっかくうちのブログでは、「小説に描かれた直木賞」シリーズをやっているのですもの。「純文学の祭り」をスルーするわけにはいきませんよね。
「二〇二七年、今ではほとんど使われなくなった元号でいえば、暦仁九年のことである。この日、第百七十六回豊島賞および三上賞の選考会が行なわれるのである。老人は、文壇の長老で、もう三十年近く選考委員を務めている浦上龍、七十五歳だった。浦上が、美大在籍中に、ドラッグとセックスの日々を綴った中編「限りなく卍に近いハーケンクロイツ」で豊島賞を受賞して騒がれたのも、もう半世紀も前のことである。」(「純文学の祭り」より)
と、少し引用しただけで、文学賞好きにとっては、ズルッとよだれが出てきます。
この短篇で描かれているのは、題名のとおり、純文学方面……芥川賞ならぬ豊島賞の選考会です。ですので、直木賞=三上賞については、あまり出てきません。〈壺井公隆〉や〈田中歌子〉なる登場人物が出てくるときに、チラチラッと三上賞の文字が登場するくらいです。
と言いますか、ワタクシがここで、どの人物のモデルが誰なのか、などを指摘するのは野暮なハナシです。すでに、kokada_jnetさんがブログで試みています。興味のある方は、「純文学の祭り」と、そちらの対照表を確認しながら読んでいく、というのも、楽しいですよ。
で、さらに。「純文学の祭り」の物語のなかで、ワタクシにとって興味深かったのは、もうひとつ、そこに描かれた純文学と大衆文学との関係性の部分なのです。
まあ、世の中には、「純文学=芥川賞、大衆文学=直木賞」、と条件反射のごとく認識して信じ込んでしまう現象が蔓延していますよね? ワタクシもその認識が脳みその奥底にへばり付いている一人ですけども、ワタクシだけじゃない、みんなそうらしいぞと知ると、それだけで芥川賞・直木賞のパワー恐るべし、と畏怖してしまいます。
だってねえ、当然のこととして、賞ごときが小説ジャンルを規定できるわけないのに。「芥川賞=純文学賞、直木賞=大衆文学賞」というならまだハナシはわかりますが。
でも、そんなことわかりきったことだ、として文学賞のことを無視する。そういう態度に出ないのが、小谷野さんです。解説してくれています。
「年に二度行われる、日本で一番有名な文学賞である芥川賞と直木賞は、最近また世間の注目を集めるようになったが、ふだん「純文学」などとは無縁に生きているインテリと亜インテリが、罪悪感から注目し、単行本になると買って読んだりするのだが、それがまた実につまらないものばかりが受賞する。(引用者中略)もしこれら「退屈な芥川賞受賞作」を現代文学の病理だと見るなら、その源泉を『蒲団』に求めるのは大いなる間違いである。だいたい、大塚(引用者注:大塚英志)が言うように私小説が今でも純文学の中心にあるなら、なぜ佐伯一麦、車谷(引用者注:車谷長吉)、西村賢太ら私小説作家はみな芥川賞をとっていないのか。
(引用者中略)
もっとも芥川賞に限らず、賞というのは当てにならないもので、私はずいぶん文学賞の受賞作を読んだが、賞に値すると思われるものは四割以下だったのではないかと思う。要するに、その時の選考委員との人脈とか、他の作品が減点法でつぶされたとか、功労賞的な意味あいのものが多いのだ。」(平成21年/2009年7月・平凡社/平凡社新書 小谷野敦・著『私小説のすすめ』「第四章 現代の私小説批判」より)
「やっかいなのは、「純文学」というような言葉であって、たとえば芥川賞は「純文学」の賞だけれども、受賞作のなかには、身辺雑記私小説や筋があるようなないような小説から、難解実験小説まで入っており、そのくせ選考委員には、通俗大河ロマンス作家がいたりする。」(平成13年/2001年1月・筑摩書房/ちくま新書 小谷野敦・著『バカのための読書術』「第六章 「文学」は無理に勉強しなくていい」より)
芥川賞や直木賞によって決まる文学ジャンルの幅なんて、誰かがバシッと区切ったものでも、何でもないんですよね。その時々の風潮というか雰囲気というか流行りというか、何年かたつうちにどんどん変わる尺度と言いますか。
しかも面白いことに、「純文学と大衆文学」と言うと、厳密な二項対立のように感じるのに、じっさいは対立概念ではなかったりもします。小谷野さん言うところの「インテリ、亜インテリ」に属さない人たちにとっては、両者を区別することはやっぱり難しい。「石原慎太郎って直木賞作家だよね」と記憶しちゃう人も、ふつうにいますし。
で、その「どんどん変わる尺度」、プラス「結局、何が何なのかはっきりしない尺度」。そういうものが、短篇「純文学の祭り」の根底には、たしかにあるように思います。
ええ、この感じ。ワタクシはこの小説を読んでいて、じっさいの直木賞が創設以来背負ってきた、ある宿命のことに思いを馳せてしまいました。
ある宿命。……芥川賞とペアである、ということです。
もうちょっと言い加えますと、つまり、直木賞一つしか存在していなかったら、まず言われなかっただろうセリフ、「直木賞ってさ、つまり、芥川賞とどう違うわけ?」と思われてしまう性質と言いますか。「直木賞とは第二芥川賞である」という考え方から、どうにも抜け出せない宿命、ってことです。
○
「純文学の祭り」で言いますと、後半、豊島賞にまつわるこんなエピソードが語られます。
「来野世良子は、古い豊島賞作家だった。(引用者中略)来野は、自分の親玉女性作家を批判したフェミニストの東大教授や、自作を認めない文藝評論家 らに罵声を浴びせるようになり、評論形式でやると名誉毀損になるので、変名で自作の小説に登場させるようになって、遂にはその小説は、半分ほどが、来野が 敵と見なした評論家や作家たちを罵倒する場と化した。(引用者中略)
来野は、遂に文藝雑誌から追放された。一誌、また一誌と、来野の発表の場はなくなっていった。そして来野は、姿を消した。
関西のほうの神社に籠っているとか、モロッコで見かけたとかの説が流れたが、誰も確かめた者はいなかった。代わりに、来野を名乗る者から、純文学 作家や、エンターテインメント、いや、今ではエンターテインメントとはいわず、純粋小説というのだが、純粋小説作家、文藝評論家などに、電話が掛かってく るという噂も流れた。」(「純文学の祭り」より)
〈来野世良子〉の祟り。それの取りつく対象が、純文学だけにとどまらず、エンタメ転じて純粋小説と呼ばれる分野にまで及んでいる、と解説されています。
しかもです。彼女の祟り伝説をいっそう広めた契機は、豊島賞ではなくて、三上賞に関わることだったというのです。
「三年ほど前の、夏の豊島賞の選考会の時、朝から上天気だったのに、選考が始まると、にわかに空が暗くなり、雷雨となったことがあった。(引用者中略)その時の三上受賞者の実家が、氾濫した川に呑み込まれるという事件があった。その受賞者は、「ライトノベル」と言われる、若者向けのアニメ風イラスト付きの小説で人気の作家だった。そのため、「来野世良子の祟り」だという噂が流れ、一時、文壇や文人逍遥社周辺は騒然となった。」(同「純文学の祭り」よ り)
この事件(?)そのもの、というより、それに接したまわりの人たち(文壇や文人逍遥社、そこから派生した巷の人々)の反応がミソです。
純文学とは一線を画すはずの三上賞の受賞者が、災難に見舞われたのに、なにゆえ純文学への祟り、みたいに考えてしまうのか。
ライトノベルとは、読みやすさの観点でいえば、たぶん大衆文学あるいはエンターテインメントに直結する領域かと思われます。そして、そこ出身の作家が三上賞をとるのは、あまり不自然じゃないはずです。でも、どうして純文学への祟りとして都市伝説化してしまうのか。
そこには、「三上賞も豊島賞もけっきょく一緒でしょ」という世の中の考え方が、透けて見えるようです。直木賞が、芥川賞とペアであったことにより蒙ってきた世間の評価、にも似た。
21世紀の日本人は、直木賞の扱う小説を芥川賞のそれと同じレベルで見ているんですよ。とか報告したら、直木三十五はともかく、菊池寛さんは、ウンウンと喜んでうなずいてくれるかもしれません。
三上於菟吉なら、わが意を得たりと得意満面になるかもしれません。
……と、唐突に、三上於菟吉さんの名前を出してすみません。作者の小谷野さんご本人から、三上賞の「三上」は、三上於菟吉からとられている、と教えていただいて、つい連想が及んでしまいました。
昭和初期の大衆文壇の超流行作家、三上於菟吉。
直木三十五とは深い友情で結ばれていた於菟吉。ということ以上に、その破天荒な生活スタイル、一時は飛ぶ鳥おとすほどの売れっ子ぶり、短命ぶり、没後の知名度凋落ぶり、などなど両者の類似点は数多くあります。たしかに直木三十五を冠した賞が残っているなら、三上於菟吉の賞があってもおかしくないな、と思わされるゆえんです。
さらに言えば、大衆文学がエンターテインメントとなり純粋小説となり、純文学とほぼ分かちがたい領域となったときの、文学賞、っていうのを描くときに、「三上」の賞と書かれる。そこに妙があります。
大衆文学いや通俗小説の売れっ子が、昔めざしていた純文学に対するコンプレックスを抱き続ける図、というのは、かなり定番です。久米正雄さんもそうでしょうし、小島政二郎さんなんて、それが一つの持ちネタだったりします。新潮社の二大巨頭、中村武羅夫、加藤武雄は、言わずもがな。
ただ、初期の直木賞委員に選ばれた、「当時、文藝春秋に深い関わりがあって、かつ名の売れていた大衆作家」に限定しますとね。純文学に未練のある大家=三上於菟吉、もうこの組み合わせ、ピッタンコです。
「於菟吉は自力で通俗小説社会に確乎たる位置を築きあげて行った。しかし通俗作家に堕してしまった精神的苦痛を忘れようとしてあおる酒は、益々その量を増し、あちらこちらと飲み歩いた。」
「彼が処女長篇小説「春光の下に」を自費出版したとき、宇野浩二が「おそろしく達者に書いたものだが、そしてその達者な点は本当に感心するが徹頭徹尾通俗小説だよ。三上は、いずれそのうち、文壇へ出て行くだろうが結局一生を通俗作家で終る男だ」と予言したというが、於菟吉の小説には、意識せずに既に大衆小説の要素が含まれていたのである。しかし彼が純文学に志しながら、その意志に反して通俗文学にずるずると引き込まれるようになって行ったのは、彼が金銭に対して弱かったことと、達者すぎ器用すぎるその才能のためであったと思われる。」(『学苑』291号[昭和39年/1964年3月] 加藤久栄「三上於菟吉評伝」より)
そんな三上於菟吉が、いまではほとんど名も知られていないのは周知の事実です(……ん? なんか変な表現だ)。直木三十五の無名度とは、タメを張るぐらいでしょう。
○
じつは、ワタクシも三上於菟吉と聞いて、さしたる具体的イメージが湧きません。
それでも、岩橋邦枝『評伝長谷川時雨』(平成5年/1993年9月・筑摩書房刊、のち平成11年/1999年11月・講談社/講談社文芸文庫)とか、庄和高校地歴部『郷土の作家 三上於菟吉読本 生涯編』(平成2年/1990年9月・庄和高校地歴部刊、庄和高校地理歴史研究部年報4号)とかを眺めていましたら、「忘れ去られた大衆作家像」というイメージのほかにも、ポッと浮かび上がってくるものがあります。
後進の新人作家の才能を見抜く力があった人、という面です。
「於菟吉の慧眼は、無名の林芙美子の「歌日記」を推賞し、「放浪記」と改題して時雨の「女人藝術」に発表の場を与えた例をみてもわかるが、「わが漂泊」を読むと、その見識と先見性に感服させられる。」(『評伝長谷川時雨』「第八章 全女性進出の掲示板「輝ク」」より)
まったくまったく。このあたりの、林芙美子が長谷川時雨には寄りつかず、三上於菟吉に恩を感じていたうんぬん、という箇所は面白くてしかたないエピソードですよね。というのはともかく。
直木賞の場においての於菟吉の慧眼といいますと、角田喜久雄の才能にいち早く目をつけたことで有名です。
「角田の出世作ともなった「妖棋伝」で、関白秀次遺愛の将棋の駒と埋蔵金探しをめぐる、まさに典型的な伝奇小説であった。(引用者中略)角田の登場を「雪之丞変化」の作者三上於菟吉が一面識もないのに推奨した。彼の許を訪れる各社の編集者の誰かれに、角田の「妖棋伝」を読むように口説いた。そればかりか彼の口添えで、読売の新聞連載まで、お膳立てされた。三上と角田は十五歳の年齢差があった。「妖棋伝」が第四回の直木賞候補になり、木々高太郎の「人生の阿呆」と競り合ったときも、選考委員の三上は「妖棋伝」を極力推してやまなかった。結果は「人生の阿呆」が受賞した。三上は翌年発病して、選考委員の座を下りた。」(平成17年/2005年11月・筑摩書房刊 大村彦次郎・著『時代小説盛衰史』「第八章」より)
って、あれ、この文章って前にも引用したことありましたっけ。どうも最近忘れっぽくて困ります。
それで、以下は私見なんですが、創設期に直木賞が、上記にあるように、角田喜久雄ではなく木々高太郎に賞を授けたことは、一つの大きな意義(もしくは問題)をはらんでいると思うんですよね。「大衆文学」なる曖昧なジャンルのなかで、より芥川賞寄り――文学チックなものを目指す、という直木賞の姿勢。
まあ、そのおかげで、「直木賞っぽくない」とか何とか、さまざま言われて排除されてきた小説が、なんとたくさんあることでしょう。
直木賞をとれないことと、小説の価値とは、何のつながりもないはずなのに。「直木賞がとれないから駄目」みたいな論調が跋扈しかねない、妙な空気があったりして。
三上於菟吉が、直木賞が始まってすぐに、からだを壊したりしなけりゃなあ。選考会にきちんと毎回出席して、直木三十五をして瞠目させた勉強家ぶりの成果を発揮して、まあ、直木賞も何かが変わっていたかもしれません。いや、変わっていなかったかもしれません。そんなこと、ワタクシにはわかりません。
わかりませんけども。もし○○であったらな、と空想するのは楽しいことです。
「純文学の祭り」を読んで、なるほど、もしこのまま十数年たったら将来はどうなるだろう、と空想して感じる楽しみと同じように。
……ということで、最後に強引に「純文学の祭り」のハナシに戻しちゃいました。
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