直木賞とは……こんなに一生懸命、「文学」のために選考してきたのに。落ち目になったら選考委員を解任させられちゃうのかよ。――小島政二郎「佐々木茂索」
小島政二郎「佐々木茂索」(『文藝』昭和53年/1978年11月号)
以前から、小島政二郎という人が気にかかっています。
今もメンメンとつづく直木賞の面白さ。作家同士のいざこざの面白さだったり、ショーとしての面白さだったり、まあいろいろあるわけですが、その性質の多くは、小島政二郎なる人物が長いあいだ選考委員として関わっていたからこそでは? と、うすうす思っていました。
で、この小説(だか何だか判別しづらいシロモノ)「佐々木茂索」を読んで、その思いがますます強まってきたわけです。
政二郎さんがしでかした、直木賞に関わる騒動はいくつかあります。
まず戦前。直木賞委員たち(吉川英治や白井喬二ですね)があまりに怠惰だったことに業を煮やして、選考会に、芥川賞委員たちをも参加させてしまったアクロバチックな画策。
この一事をもってわかるとおり、直木賞のなかに、なぜか「文学性」を求める、ちゅう今にいたるまで続く直木賞観の柱を築きました。
それと戦後には、後輩作家・田岡典夫に、大衆小説は堕落したものだという偏見について、強く噛みつかれた「甘肌」事件。これは以前、『とどまじり』を紹介したエントリーで、少し触れました。
そして、何といっても政二郎さんが直木賞の歴史に、重要な位置を占めるにいたった最大の事件。といえば、最後も最後、彼が直木賞委員を辞めることになった昭和41年/1966年の、「直木賞委員解任劇」です。
前にも引用したことのある箇所ですが、再引用。
「青山(引用者注:青山光二)は、銀座のバーで文藝春秋の役員池島信平に会ったとき、思わず愚痴をこぼした。
「今回の選考、木々高太郎という人は、ちょっとどうかしていませんか」
池島は「私もそう思う」とはさすがに言わなかったが、大きくうなずき返し、認めたも同然だった。青山は、『オール讀物』編集部が直木賞選考に強く不満を抱いているということも耳にした。直木賞というのは『オール讀物』の常連作家を補充するという意味合いもあるが、「今回の二人(引用者注:第54回受賞の新橋遊吉と千葉治平)は使えない」と編集部が考えているというのである。そうした文藝春秋側の意向も働いたのか、木々と小島の二人は次の回から選考委員をはずされた。」(平成17年/2005年12月・筑摩書房刊 大川渉・著『文士風狂録―青山光二が語る昭和の作家たち』「後ずさりした木々高太郎」より)
この年、昭和41年/1966年の暮れに、文藝春秋のドン・佐佐木茂索が亡くなります。文春が選んだ葬儀委員のなかに、小島政二郎の名前はありませんでした。その一件について、数か月前にあった政二郎の直木賞委員解任のハナシをからませる文献もあります。
「「八百長」(引用者注:新橋遊吉の受賞作)について、小島は「描写」もしっかりしているし、また「手に汗を握らせるクライマツクス」も成功していて、ほとんど欠点がないと褒めちぎっていた。(引用者中略)この選考に小島がかなり強引だったというささやきがあるのも、肯けないことではない。少くとも、小島への多少の遠慮が他の委員たちにあったのだろう。なにしろ小島は昭和十年の芥川賞・直木賞創設以来の、生き残りの選考委員なのだから。そうした小島に佐佐木は不快の念を抱き、批評眼の問題もかかわって、二人の仲は壊れ、社内にも小島を軽んじる傾向が増幅されたという話だ。」(平成7年/1995年10月・講談社刊 小山文雄・著『大正文士颯爽』「序章」より)
「佐々木茂索」の一編は、このあたりのことを当の小島政二郎本人が書いているのですからね、そりゃあ面白いに決まっています。
さて、引用するにあたりまして。せっかくなので、直木賞委員解任よりもう少し前の箇所からにします。政二郎さんが戦前、『主婦之友』に「人妻椿」を書き、編集部からたいそう喜ばれたときのことです。
「こんな新派悲劇は書くのはいやだと思ったものを書いて褒められたって、嬉しくも何ともなかった。(引用者中略)私は褒められて、却って大衆小説が分らなくなり、自信を失った。
得たものは金、失ったものは大衆小説の神髄をつかむ唯一の機会と自信。
もう一つ、堕落。」(「佐々木茂索」より)
ここから続く、政二郎さんの自分を評する目は、もう笑っちゃうぐらい鋭いですよ。
「吉屋信子や大佛次郎は、初め大衆小説を書いていて、長ずるに従って芸術的な仕事を始めた。私とは逆の順を踏んだ。
世間では、そういう人に好意を持つ。私だって、故郷恋しく、心を洗って本当の小説を書く時があった。が、文壇では誰も相手にしてくれなかった。
(引用者中略)
名声に最も敏感なのは、雑誌社だった。文藝春秋社から、まず「週刊文春」を送ってくれなくなった。続いて「週刊朝日」も、「サンデー毎日」も、「週刊新潮」もくれなくなった。
生きている限り、送ってくれるものと自惚れていた作者にとって、これ以上のショックはなかった。大関を張っていた力士(ルビ:すもう)が、前頭に落ちた時はこんな気持がするだろうかと思った。身のまわりを突然木枯らしが吹き抜けて行ったような――こんなにまざまざと落ち目を感じさせられたことはなかった。その発頭人が佐々木とは思いも寄らなかった。」(同「佐々木茂索」より)
いっときの流行作家が一気に凋落。とか、そういうよくあるハナシとは、また別種の事情があるから、ここの政二郎さんの心情が重いわけです。
つまり、佐佐木茂索と政二郎とは、いわば新進作家と呼ばれる以前からの仲間、友人なのでした。文藝春秋がヤクザなゴシップ雑誌を出している弱小出版社から、誰もが知っている大出版社になり上がる過程のなかで、政二郎の加担した役割も相当なものであったはず。
それなのに、茂索のやつめ、冷たい仕打ち。コノヤロー。……と政二郎さんに思わせた冷遇の極めつきが、はい、直木賞委員解任、だったというわけで。
「続いて徳田一穂と鷲尾洋二(原文ママ)とを使いに立てて、直木賞詮衡委員の委員をやめてくれと云って来た。直木賞の委員は第一回からの委員だったし、私としては一生懸命勤めたつもりだった。殊に、近頃は文学的要素の少い作品が選ばれる傾向が強かった。
「これではイケない」
と思って、極力社の意向に逆らってその点を力説して来た。川端康成や瀧井孝作が芥川賞の予選に当ったように、私も好意で直木賞の予選をやっていた。これは骨の折れる仕事で、云わば縁の下の舞いのような、間尺にも何にも合った仕事ではなかった。文藝春秋社――いや、日本文学振興会では、十分私達の無償の努力を買っていてくれるものと思っていた。
そのお礼が委員辞退の申し渡しとは――委員であることに未練はないが、しかし正直の話、私は明いた口が塞がらなかった。」(同「佐々木茂索」より)
まず、ここで注目しておきたいのは、「極力社の意向に逆らって」の一節でしょう。
小島政二郎はやたらと「文学、文学」言いたがる。これは直木賞選評を読んでいても、よおくわかります。しかし、これらの頑固な選評、選考姿勢のウラには、その方向性をよしと思わない文春の考え(文学性は二の次にしましょうよ。直木賞を選ぶにはもっと大切なもんがあるでしょ、という)があったんだってこと。はじめて知りました。
それと、ですね。そもそも政二郎さんが直木賞委員を辞めたのは、ほんとうに解任を申し渡されたからなのだな、ってことが判明したのも重要です。
過去、直木賞の選考委員は46名います。うち現在もその任にある7名を除けば、39名。彼らが直木賞委員の座から下りた理由としては、わかっている範囲では、死亡、もしくは自発的な辞任が大半です。
続ける意志のある委員に、文春側から辞任を求める、つうのはねえ。よくよくのことですよ。
昭和40年代前半に、直木賞の大きな転換期があった。という論は実際、けっこう言われることなんですが、ただそれは、五木寛之・野坂昭如の登場によるものだ、って説を語るときに出てくるのが普通です。
ワタクシも五木・野坂の登場は重要だとは思います。思いますが、やはり直木賞の変節、ということでいえば、昭和40年代前半の、文藝春秋側の主導的なやり口は、忘れちゃならないと思います。
その意味でも、政二郎さん側からの証言は、重要です。
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