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2010年5月の5件の記事

2010年5月30日 (日)

直木賞とは……こんなに一生懸命、「文学」のために選考してきたのに。落ち目になったら選考委員を解任させられちゃうのかよ。――小島政二郎「佐々木茂索」

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小島政二郎「佐々木茂索」(『文藝』昭和53年/1978年11月号)

 以前から、小島政二郎という人が気にかかっています。

 今もメンメンとつづく直木賞の面白さ。作家同士のいざこざの面白さだったり、ショーとしての面白さだったり、まあいろいろあるわけですが、その性質の多くは、小島政二郎なる人物が長いあいだ選考委員として関わっていたからこそでは? と、うすうす思っていました。

 で、この小説(だか何だか判別しづらいシロモノ)「佐々木茂索」を読んで、その思いがますます強まってきたわけです。

 政二郎さんがしでかした、直木賞に関わる騒動はいくつかあります。

 まず戦前。直木賞委員たち(吉川英治白井喬二ですね)があまりに怠惰だったことに業を煮やして、選考会に、芥川賞委員たちをも参加させてしまったアクロバチックな画策。

 この一事をもってわかるとおり、直木賞のなかに、なぜか「文学性」を求める、ちゅう今にいたるまで続く直木賞観の柱を築きました。

 それと戦後には、後輩作家・田岡典夫に、大衆小説は堕落したものだという偏見について、強く噛みつかれた「甘肌」事件。これは以前、『とどまじり』を紹介したエントリーで、少し触れました。

 そして、何といっても政二郎さんが直木賞の歴史に、重要な位置を占めるにいたった最大の事件。といえば、最後も最後、彼が直木賞委員を辞めることになった昭和41年/1966年の、「直木賞委員解任劇」です。

 前にも引用したことのある箇所ですが、再引用。

「青山(引用者注:青山光二は、銀座のバーで文藝春秋の役員池島信平に会ったとき、思わず愚痴をこぼした。

「今回の選考、木々高太郎という人は、ちょっとどうかしていませんか」

 池島は「私もそう思う」とはさすがに言わなかったが、大きくうなずき返し、認めたも同然だった。青山は、『オール讀物』編集部が直木賞選考に強く不満を抱いているということも耳にした。直木賞というのは『オール讀物』の常連作家を補充するという意味合いもあるが、「今回の二人(引用者注:第54回受賞の新橋遊吉千葉治平は使えない」と編集部が考えているというのである。そうした文藝春秋側の意向も働いたのか、木々と小島の二人は次の回から選考委員をはずされた。」(平成17年/2005年12月・筑摩書房刊 大川渉・著『文士風狂録―青山光二が語る昭和の作家たち』「後ずさりした木々高太郎」より)

 この年、昭和41年/1966年の暮れに、文藝春秋のドン・佐佐木茂索が亡くなります。文春が選んだ葬儀委員のなかに、小島政二郎の名前はありませんでした。その一件について、数か月前にあった政二郎の直木賞委員解任のハナシをからませる文献もあります。

「「八百長」(引用者注:新橋遊吉の受賞作)について、小島は「描写」もしっかりしているし、また「手に汗を握らせるクライマツクス」も成功していて、ほとんど欠点がないと褒めちぎっていた。(引用者中略)この選考に小島がかなり強引だったというささやきがあるのも、肯けないことではない。少くとも、小島への多少の遠慮が他の委員たちにあったのだろう。なにしろ小島は昭和十年の芥川賞・直木賞創設以来の、生き残りの選考委員なのだから。そうした小島に佐佐木は不快の念を抱き、批評眼の問題もかかわって、二人の仲は壊れ、社内にも小島を軽んじる傾向が増幅されたという話だ。」(平成7年/1995年10月・講談社刊 小山文雄・著『大正文士颯爽』「序章」より)

 「佐々木茂索」の一編は、このあたりのことを当の小島政二郎本人が書いているのですからね、そりゃあ面白いに決まっています。

 さて、引用するにあたりまして。せっかくなので、直木賞委員解任よりもう少し前の箇所からにします。政二郎さんが戦前、『主婦之友』に「人妻椿」を書き、編集部からたいそう喜ばれたときのことです。

「こんな新派悲劇は書くのはいやだと思ったものを書いて褒められたって、嬉しくも何ともなかった。(引用者中略)私は褒められて、却って大衆小説が分らなくなり、自信を失った。

 得たものは金、失ったものは大衆小説の神髄をつかむ唯一の機会と自信。

 もう一つ、堕落。」(「佐々木茂索」より)

 ここから続く、政二郎さんの自分を評する目は、もう笑っちゃうぐらい鋭いですよ。

「吉屋信子や大佛次郎は、初め大衆小説を書いていて、長ずるに従って芸術的な仕事を始めた。私とは逆の順を踏んだ。

 世間では、そういう人に好意を持つ。私だって、故郷恋しく、心を洗って本当の小説を書く時があった。が、文壇では誰も相手にしてくれなかった。

(引用者中略)

 名声に最も敏感なのは、雑誌社だった。文藝春秋社から、まず「週刊文春」を送ってくれなくなった。続いて「週刊朝日」も、「サンデー毎日」も、「週刊新潮」もくれなくなった。

 生きている限り、送ってくれるものと自惚れていた作者にとって、これ以上のショックはなかった。大関を張っていた力士(ルビ:すもう)が、前頭に落ちた時はこんな気持がするだろうかと思った。身のまわりを突然木枯らしが吹き抜けて行ったような――こんなにまざまざと落ち目を感じさせられたことはなかった。その発頭人が佐々木とは思いも寄らなかった。」(同「佐々木茂索」より)

 いっときの流行作家が一気に凋落。とか、そういうよくあるハナシとは、また別種の事情があるから、ここの政二郎さんの心情が重いわけです。

 つまり、佐佐木茂索と政二郎とは、いわば新進作家と呼ばれる以前からの仲間、友人なのでした。文藝春秋がヤクザなゴシップ雑誌を出している弱小出版社から、誰もが知っている大出版社になり上がる過程のなかで、政二郎の加担した役割も相当なものであったはず。

 それなのに、茂索のやつめ、冷たい仕打ち。コノヤロー。……と政二郎さんに思わせた冷遇の極めつきが、はい、直木賞委員解任、だったというわけで。

「続いて徳田一穂と鷲尾洋二(原文ママ)とを使いに立てて、直木賞詮衡委員の委員をやめてくれと云って来た。直木賞の委員は第一回からの委員だったし、私としては一生懸命勤めたつもりだった。殊に、近頃は文学的要素の少い作品が選ばれる傾向が強かった。

「これではイケない」

 と思って、極力社の意向に逆らってその点を力説して来た。川端康成瀧井孝作が芥川賞の予選に当ったように、私も好意で直木賞の予選をやっていた。これは骨の折れる仕事で、云わば縁の下の舞いのような、間尺にも何にも合った仕事ではなかった。文藝春秋社――いや、日本文学振興会では、十分私達の無償の努力を買っていてくれるものと思っていた。

 そのお礼が委員辞退の申し渡しとは――委員であることに未練はないが、しかし正直の話、私は明いた口が塞がらなかった。」(同「佐々木茂索」より)

 まず、ここで注目しておきたいのは、「極力社の意向に逆らって」の一節でしょう。

 小島政二郎はやたらと「文学、文学」言いたがる。これは直木賞選評を読んでいても、よおくわかります。しかし、これらの頑固な選評、選考姿勢のウラには、その方向性をよしと思わない文春の考え(文学性は二の次にしましょうよ。直木賞を選ぶにはもっと大切なもんがあるでしょ、という)があったんだってこと。はじめて知りました。

 それと、ですね。そもそも政二郎さんが直木賞委員を辞めたのは、ほんとうに解任を申し渡されたからなのだな、ってことが判明したのも重要です。

 過去、直木賞の選考委員は46名います。うち現在もその任にある7名を除けば、39名。彼らが直木賞委員の座から下りた理由としては、わかっている範囲では、死亡、もしくは自発的な辞任が大半です。

 続ける意志のある委員に、文春側から辞任を求める、つうのはねえ。よくよくのことですよ。

 昭和40年代前半に、直木賞の大きな転換期があった。という論は実際、けっこう言われることなんですが、ただそれは、五木寛之野坂昭如の登場によるものだ、って説を語るときに出てくるのが普通です。

 ワタクシも五木・野坂の登場は重要だとは思います。思いますが、やはり直木賞の変節、ということでいえば、昭和40年代前半の、文藝春秋側の主導的なやり口は、忘れちゃならないと思います。

 その意味でも、政二郎さん側からの証言は、重要です。

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2010年5月23日 (日)

直木賞とは……いつだって芥川賞といっしょ。芥川賞が受ける恩恵も祟りも、いっしょに受けざるを得ません。――小谷野敦「純文学の祭り」

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小谷野敦「純文学の祭り」(平成21年/2009年1月・論創社刊『美人作家は二度死ぬ』所収)

 直木賞は、いわば正統・主流の文学とは別モノの、大衆文学の賞と見られています。そのためなのかどうなのか、過去、この賞に注視して、系統立って語ってくれた評論家は、あまりいません。

 そんなこともあって、ワタクシみたいな直木賞オタクは、過去の文献のなかに、直木賞に触れてくれている文章を見出すと、つい嬉しくなってしまうわけです。病気です。

 「触れてくれている」なんていうレベルを超えた著作家もいます。尾崎秀樹さんとか、大村彦次郎さんとか。直木賞の歴史というものを踏まえて、さまざまな事象を語ってくれているんですもの。それだけで尊敬しちゃいます。

 それで、近年では小谷野敦さんです。

 もう小谷野さんについては、ファンやマニアがたくさんいると思いますので、ワタクシなぞは、何も知らない部類に入ると思います。2ちゃんねるや、wikipedia や、その他さまざまなサイトを見るかぎり。ああいうところに書き込んでいる方たちは、小谷野さんをやっぱり愛しているんですよね。……え。違うんですか。

 ああいう方たちの小谷野さんに関する知識には、ワタクシ、とうていかないません。

 でもね、せっかくうちのブログでは、「小説に描かれた直木賞」シリーズをやっているのですもの。「純文学の祭り」をスルーするわけにはいきませんよね。

「二〇二七年、今ではほとんど使われなくなった元号でいえば、暦仁九年のことである。この日、第百七十六回豊島賞および三上賞の選考会が行なわれるのである。老人は、文壇の長老で、もう三十年近く選考委員を務めている浦上龍、七十五歳だった。浦上が、美大在籍中に、ドラッグとセックスの日々を綴った中編「限りなく卍に近いハーケンクロイツ」で豊島賞を受賞して騒がれたのも、もう半世紀も前のことである。」(「純文学の祭り」より)

 と、少し引用しただけで、文学賞好きにとっては、ズルッとよだれが出てきます。

 この短篇で描かれているのは、題名のとおり、純文学方面……芥川賞ならぬ豊島賞の選考会です。ですので、直木賞=三上賞については、あまり出てきません。〈壺井公隆〉や〈田中歌子〉なる登場人物が出てくるときに、チラチラッと三上賞の文字が登場するくらいです。

 と言いますか、ワタクシがここで、どの人物のモデルが誰なのか、などを指摘するのは野暮なハナシです。すでに、kokada_jnetさんがブログで試みています。興味のある方は、「純文学の祭り」と、そちらの対照表を確認しながら読んでいく、というのも、楽しいですよ。

 で、さらに。「純文学の祭り」の物語のなかで、ワタクシにとって興味深かったのは、もうひとつ、そこに描かれた純文学と大衆文学との関係性の部分なのです。

 まあ、世の中には、「純文学=芥川賞、大衆文学=直木賞」、と条件反射のごとく認識して信じ込んでしまう現象が蔓延していますよね? ワタクシもその認識が脳みその奥底にへばり付いている一人ですけども、ワタクシだけじゃない、みんなそうらしいぞと知ると、それだけで芥川賞・直木賞のパワー恐るべし、と畏怖してしまいます。

 だってねえ、当然のこととして、賞ごときが小説ジャンルを規定できるわけないのに。「芥川賞=純文学賞、直木賞=大衆文学賞」というならまだハナシはわかりますが。

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 でも、そんなことわかりきったことだ、として文学賞のことを無視する。そういう態度に出ないのが、小谷野さんです。解説してくれています。

「年に二度行われる、日本で一番有名な文学賞である芥川賞と直木賞は、最近また世間の注目を集めるようになったが、ふだん「純文学」などとは無縁に生きているインテリと亜インテリが、罪悪感から注目し、単行本になると買って読んだりするのだが、それがまた実につまらないものばかりが受賞する。(引用者中略)もしこれら「退屈な芥川賞受賞作」を現代文学の病理だと見るなら、その源泉を『蒲団』に求めるのは大いなる間違いである。だいたい、大塚(引用者注:大塚英志)が言うように私小説が今でも純文学の中心にあるなら、なぜ佐伯一麦、車谷(引用者注:車谷長吉西村賢太ら私小説作家はみな芥川賞をとっていないのか。

(引用者中略)

もっとも芥川賞に限らず、賞というのは当てにならないもので、私はずいぶん文学賞の受賞作を読んだが、賞に値すると思われるものは四割以下だったのではないかと思う。要するに、その時の選考委員との人脈とか、他の作品が減点法でつぶされたとか、功労賞的な意味あいのものが多いのだ。」(平成21年/2009年7月・平凡社/平凡社新書 小谷野敦・著『私小説のすすめ』「第四章 現代の私小説批判」より)

「やっかいなのは、「純文学」というような言葉であって、たとえば芥川賞は「純文学」の賞だけれども、受賞作のなかには、身辺雑記私小説や筋があるようなないような小説から、難解実験小説まで入っており、そのくせ選考委員には、通俗大河ロマンス作家がいたりする。」(平成13年/2001年1月・筑摩書房/ちくま新書 小谷野敦・著『バカのための読書術』「第六章 「文学」は無理に勉強しなくていい」より)

 芥川賞や直木賞によって決まる文学ジャンルの幅なんて、誰かがバシッと区切ったものでも、何でもないんですよね。その時々の風潮というか雰囲気というか流行りというか、何年かたつうちにどんどん変わる尺度と言いますか。

 しかも面白いことに、「純文学と大衆文学」と言うと、厳密な二項対立のように感じるのに、じっさいは対立概念ではなかったりもします。小谷野さん言うところの「インテリ、亜インテリ」に属さない人たちにとっては、両者を区別することはやっぱり難しい。「石原慎太郎って直木賞作家だよね」と記憶しちゃう人も、ふつうにいますし。

 で、その「どんどん変わる尺度」、プラス「結局、何が何なのかはっきりしない尺度」。そういうものが、短篇「純文学の祭り」の根底には、たしかにあるように思います。

 ええ、この感じ。ワタクシはこの小説を読んでいて、じっさいの直木賞が創設以来背負ってきた、ある宿命のことに思いを馳せてしまいました。

 ある宿命。……芥川賞とペアである、ということです。

 もうちょっと言い加えますと、つまり、直木賞一つしか存在していなかったら、まず言われなかっただろうセリフ、「直木賞ってさ、つまり、芥川賞とどう違うわけ?」と思われてしまう性質と言いますか。「直木賞とは第二芥川賞である」という考え方から、どうにも抜け出せない宿命、ってことです。

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2010年5月16日 (日)

直木賞とは……確実に一人の女性の人生を変えた。でも、一度は変えそこなった。――堤千代「青いみのむし」

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堤千代「青いみのむし」(『美貌』昭和22年/1947年10月号)

 直木賞選考会は合議です。委員たちが自説を述べ合い、その末に受賞もしくは落選が決まります。

 そういうものの常かもしれませんが、受賞の理由が何だったのか、もしくは選ばれなかった作品の落選理由が何だったのか。特定するのは、非常に難しいものです。

 当日の夜に行われる委員による記者会見だって、『オール讀物』にのる選評だって、つまりは「後づけ」ですしね。決定の場にいた委員それぞれが、それぞれの感覚でもって、受賞理由・落選理由を語っているだけのものです。時にその一つがピックアップされて、「公式の理由」として世間に流布したりすると、余計にホントの理由が何だったかのか、よくわからなくなるところがあります。

 「半落ち現象」、とでも呼べるんでしょうか。

 ええと、横山秀夫さんの『半落ち』が第128回(平成14年/2002年・下半期)の直木賞に選ばれなかった理由が何だったのか、ここでは掘り起こしません。ワタクシの知る限りでは、おそらく、受刑者がドナーとして骨髄を提供することができようができまいが、あの小説は落選していた可能性のほうが高い、ってことです。

 それより60年ほど前のおハナシ。直木賞に落選した一つの候補作・一人の候補者がいました。堤千代「小指」です。

 第11回(昭和15年/1940年・上半期)の受賞作「小指」ではありません。第10回(昭和14年/1939年・下半期)の候補として落選した「小指」です。

 あ、厳密には、堤千代の直木賞受賞作は「小指」だ、とは言っちゃいけないのかもしれませんね。昭和15年/1940年になって『オール讀物』に「雛妓」(4月号)、「賢ちゃん」(7月号)を発表したことで、ようやく受賞したのですから。それでも堤千代の「小指」は後世にいたるまで、彼女の直木賞受賞作ということになっています。そんな例は、川口松太郎「鶴八鶴次郎」と、彼女の二例しかありません。

 で、「小指」落選のことに触れる前に、今日のエントリーの対象作「青いみのむし」のことを言っておきます。

 堤千代が、「小指」発表前後のことを書いた文章は、きっと他にもあるかもしれません。もしかしたら、散逸する膨大な彼女の小説群のなかに、ポロッと語られているかもしれません。まだ探し出せていなくて、申し訳ないことです。

 それで戦後まもなく『美貌』誌に発表された「青いみのむし」を持ってきました。副題に「生いたちの記 「直木賞」の頃まで」と付いています。たぶん小説じゃなくて随筆の類です。

 ただ文中語られるエピソードの多くが、のちの自伝的短篇小説「父」(『別冊文藝春秋』37号[昭和28年/1953年12月])でも使用されています。「父」の原型といってもいい半小説です。

 たとえば、父の背に負われて行った花見のこととか。

「春の花見に一家中が出る時も私は、留守番であったが、その代り、その前に、父は必らず年に一度の花見に私を連れていく為に、役所を休んだ。」(「青いみのむし」より)

「私は体が弱かったので、家の者と外に出かけると云うことは滅多になかった。ただ、ときどき父が思いついたように伴れていってくれるのが愉しみであった。

 ある春の夕方だった。父は役所からいつもより早く帰ってきて、

「今夜お花見にいこう」

 と、言った。

 私は姉や妹達がお花見にいって写真を撮ったりするのが羨しくてならない所であった。」(「父」より)

 そういうなかで、小説「父」には語られていない箇所もあります。語り手が、自分で書いた小説を『オール讀物』に投稿する場面です。

「黒の縞模様の仲人の妻に手を引かれて、自動車のステップに、足を乗せる、角かくしの姉の振袖は――。美しい嫁入り事の真似は、どんなに、羨やましくても、もう、真似て、独り、戯むには、人目にも自分自身にも、心はづかしい年が私に来ていた――。

 何かを得たい。姉妹や周囲の持つ生活の姿に、空しく眺め入って、床の上に老いていってしまいたくはない。

 自分自らの生命の目的を、そのかけらでも、探り当てたい――。その願いが、いつか私を幼い時から、ともない慣れた、物を読み、書くと言うことに、はめ入れていった――。

(引用者中略)私は思うことを四十枚ばかりの原稿紙に書きつめて、白い糸で、綴じた。何処へというアテもなく、毎月取っていたオール讀物の、編輯部を、送り先にした。

(引用者中略)

 それから二週間も過ぎた頃であろうか。

 オール讀物の編輯部から電話が、掛って来た。いく度か、きゝ直して、呼びに来た女中の後から電話口に立つ私は、受話機を持たない方の手も、壁について、震えをとめていた。

「あの小説ですね、「小指」(記。「小指」は昭和十四年直木賞受賞作品となり氏の小説家生活を決定した。)は、大へんよく出来てる。十一月号にのせますからね、直ぐ、次のを書いて下さい……」

 と、電話の声は早口であった。」(「青いみのむし」より)

 それで、その嬉しさを、当日帰宅した父に話したのだけれど、予想したようには喜んでくれなかったのよね、うんぬんと続きます。

 父の反応についてはすっ飛ばすことにしまして。素人投稿家がですよ、はじめて『オール讀物』に送った原稿が褒められて掲載され、それが翌年には直木賞を受賞してしまった、というんですから。ふつうに考えても、これはもうあれです。シンデレラ・ストーリーです。

 しかも並の(?)シンデレラ・ストーリーと違うことに、堤さんの境遇がまた特殊と言いますか、泣かせると言いますか。先天性肺動脈障害で幼少のころより病弱、小学校にすら通うことなく過ごしてきた20歳そこそこの乙女。……そんな女性が幸運にもデビュー半年で受賞しちゃったわけですから、当然のように直木賞史に残る受賞者だったわけです。

 ああ。そういう女性が、現在あるようなあの暴力的な報道にまみれず、スッと直木賞を受賞できて、ほんとよかったなと思います。以下、当時の受賞を伝える『東京朝日新聞』の記事を引用します。もち、ベタ記事です。

直木賞受賞者 芥川賞は辞退

(引用者中略)

河内氏(引用者注:河内仙介は大阪生れ本名は塩野房次郎、大阪市立商業の出身で長谷川伸氏門下生、又堤さんは東京生れ、病身で小学校にも通わなかった独学者である

尚第十一回芥川賞は『歌と盾の門』の作者高木卓氏(本名安藤煕)(三四)に贈る筈だったが同氏が受賞を辞退したので今回は受賞者なしと決定、」(『東京朝日新聞』昭和15年/1940年8月1日より)

 高木卓さんの辞退の件も合わせて、このスンナリ感。新鮮です。

 ええ、高木卓芥川賞辞退も、堤千代「小指」周辺に負けず劣らず(いや、圧倒的にそっちのほうが)、のちに生きる人たちが、なぜ辞退したのかをめぐって、ああだこうだと語りたくなる一件です。

 むろん、芥川賞辞退のほうがテーマとしては面白そうなんですけど。ごめんなさい。ここはご存知のとおり直木賞偏愛ブログなもので。以下、堤千代「小指」はどうしてはじめは落選したのか、について、ああだこうだ語ります。

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2010年5月 9日 (日)

直木賞とは……幸せなうちはとれません。不幸になればとれるかも。死んじゃうぐらいの不幸が訪れれば。――曽野綾子『砂糖菓子が壊れるとき』

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曽野綾子『砂糖菓子が壊れるとき』(昭和41年/1966年1月・講談社刊)

(←左書影は昭和47年/1972年8月・新潮社/新潮文庫

 砂糖菓子といえば桜庭一樹。と思いきや、直木賞専門ブログのくせして、今日の主役は曽野綾子さんです。

 曽野さんと直木賞、がどうして重なるのか。……いや、重なりはしませんよ。

 それどころか、ご本人にとってはどんな文学賞とも重ねてほしくないでしょう。なにしろ、昭和文学史に何人か存在する「文学賞辞退者」のお一人ですから。

「私の身勝手な感覚によれば、賞をご辞退したのではない。精神的なものとしての賞は、感謝と共にお受けしたのである。ただ、制度としての受賞をお許し願ったに過ぎない。

 芥川賞の候補になって以来、今年で私の作家生活は二十六年である。その間ただの一度も賞と名のつくものを受けなかった。(引用者中略)初めのうちは私もごく普通にいつかは自分も賞を頂く日があるかも知れない、と思って来た。しかし次第に、自分が小説を書く上で、賞というものを考えるのは、不純な情熱だと思うようになった。」(『婦人公論』昭和55年/1980年11月号「受賞を辞退した私の真意」より)

 以上、第19回女流文学賞に『神の汚れた手』の授賞が決まって、その受賞を辞退したときの弁の一部です。

 ふうん、そんな辞退劇があったのか。という知識を得て、それより14年前に書かれた『砂糖菓子が壊れるとき』を読みますと、そりゃあ妄想がよりいっそう広がりますよね。

 ええと、この作はよく知られた小説です。文学賞うんぬんとの関連で有名なわけではありません。マリリン・モンローをモデルにした小説として有名です。

 舞台は全部日本、登場人物も日本人。でありながら、デビューにいたる経緯やら、野球選手との結婚・離婚、有名劇作家との結婚・離婚などの私生活やら、モンローと結びつく小道具が、おなかいっぱい取り揃えられています。

 しかし、ですよ。本作には、要所要所に「賞」が顔をのぞかせているんですよね。

 のぞかせている、なんてもんじゃありません。エンディング近く、主人公〈千坂京子〉の死体が発見されるのが、ちょうど〈日本映画賞〉審査会の日。彼女の主演した〈砂糖菓子が壊れるとき〉が、〈日本映画賞〉受賞と決まった、それと同じタイミングなんですから。

 そう。賞というのは、これです。〈日本映画賞〉。

 女優にとっては誇りであり、欲しい欲しいと切望するほどの名誉らしいです。

「五月に入って、日本映画賞の新人賞候補に選ばれているということを知ってから、私の幸福感は絶頂に達した。私は熱に浮かされたように、落ち着きをなくしてしまった。(引用者中略)

「京ちゃん。お前さん、羽鳥香子と何か気まずいことでもあったのかい?」

 羽鳥香子と言えば、スタジオで、一、二度見かけたことはあった。けれど私が気楽に声をかけられる相手ではなかった。羽鳥は、雅堂さんクラスの大女優だった。新聞社の論説委員の夫人で、四人の子供を持った知識人だった。

「私、お話したこともないんです」

「おかしいな、羽鳥はどうしてああも、お前さんに悪意を持ってるかね。今日の委員会では、あんなは羽鳥のために賞を逃したようなもんだよ。(引用者中略)

 何もかもミソクソさ。お前さんはデリカシーがなくて、趣味が悪くて、服装が不潔でだらしがないって言うんだな。ストリッパーと同じ要素の人気でもっているものを、あんたは、自分の演技だと思いこんでいるんじゃないか、と言うんだ。」」(『砂糖菓子が壊れるとき』「第六章」より)

 マリリン・モンローならぬ〈千坂京子〉は、観客の人気はうなぎのぼりだったけど、映画界からは評価されていなかった、と。ええ、モンローも賞とは無縁の人だったそうですからね。そういう境遇を際立たせるために、「賞」が登場してくるわけですか。なるほど。

 ただ、モンロー=〈千坂京子〉の等式があったとして、そこに、=曽野綾子、という見立てを加えてみたくもなるじゃありませんか。

 じっさい、そういう見方もなくはないようですしね。

「曽野綾子の三十代はほぼ鬱の状態だった。(引用者中略)ウツの最中に夫婦でヨーロッパ旅行に行った。(引用者中略)パリにいる時、マリリン・モンローが死んだ。睡眠薬の誤用、あるいは自殺の可能性もあった。新聞に死体収容所の発表として、彼女の身長、体重が乗っていた。曽野は、

「あたしと同じサイズ」

 と言い、私は、

「フィレでも屑肉でも一キロは一キロ」

 と答えたが、曽野のモンローは自分と同じ精神状態にあったと想像したのだろう。後に彼女はモンローをモデルにしたような、作品を書いた。」(平成21年/2009年2月・扶桑社/扶桑社文庫『椅子の中』所収 三浦朱門「解説」より)

 そうそう、本作はモンローがモデル、とはいえ、完全にモンローの生涯をなぞっているわけではありません。なぞっていない部分、その一つが「賞」と言えるでしょう。

 〈千坂京子〉は、日本映画賞新人賞をとれませんでした。でも、その後、少なくとも三つの賞を受けています。一つは「アメリカのエディソン賞の中で「その年最もその国の映画界で活躍した女優賞」」。一つは「日本映画協会主演女優賞」。一つは「ナポリ映画祭主演女優賞」。

 だけど、〈日本映画賞〉をとれていない、ということが、どうも重要なことであるらしいんです。最後の最後の場面で、大部屋女優時代からの友〈田宮春江〉が、〈京子〉の〈日本映画賞〉受賞を知ったところ。

「「砂糖菓子が壊れるとき」が日本映画賞を受けたという知らせがあった。

 私は二階の階段を、寝室まで一息にかけのぼった。

「京ちゃん! 日本映画賞よ」

 山にのぼったよ、と私は言いかけようとした。」(『砂糖菓子が壊れるとき』「第九章」より)

 山にのぼった……。〈日本映画賞〉とは、評価の頂点であり最高峰である、と。

 それを受けたと同時期に〈京子〉は死んでいた、というのも何かの象徴かもしれません。

 というのも、この物語には、「賞」に関わるあるフレーズが何度か登場します。何度か出てくるくらいだから、意味があるんでしょう。

 こういうものです。

「「君は当分、どんな賞も貰わないな」(引用者中略)「君は今、しあわせだと思われてるからだろうな」

 五来さんは無感動な口ぶりで言った。

「幸福な生活には芸術の香気は存在し得ないものという固定観念がある。だから君に不幸な出来ごとが起れば、多分賞はもらえるよ」」(『砂糖菓子が壊れるとき』「第八章」より)

 不幸になれば賞がもらえる……。ん? どこかで聞いたことがあるフレーズだな、これは。

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2010年5月 2日 (日)

直木賞とは……決定のニュースが翌日の新聞にデカデカと載ります。他の文学賞に比べて異常なくらい。――雫井脩介『犯罪小説家』

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雫井脩介『犯罪小説家』(平成20年/2008年10月・双葉社刊)

 なんで新潮ミステリー倶楽部賞でデビューしたのに、その後、一冊も新潮社から本を出していないのだ?

 で、おなじみの、雫井脩介さんです。

 平成17年/2005年1月、『犯人に告ぐ』で第7回大藪春彦賞を受賞しました。

 平成19年/2007年、『クローズド・ノート』と『犯人に告ぐ』が相次いで映画化されました。

 そこら辺りの経験が、ちょこちょこと盛り込まれたのが、満を持して放った『犯罪小説家』です。雫井さんの場合は、どの作品も「満を持して」の表現がぴったりくるんですけども。

「昨年は『クローズド・ノート』『犯人に告ぐ』が相次ぎ公開され、邦画業界に〈原作者〉として関わった雫井脩介氏。

「映画化にあたって上がってきた脚本に目を通すと、『へえ、あの小説がこんなふうに変わるのか』と毎回新鮮な驚きがありますね。

 別にそれが不愉快だって話ではないんですよ(笑い)。むしろ『なるほど』と感心することの方が多いんですが、彼らの感性や想像力が逆に原作者をどんどん困惑させる方向に向いて行ったらどうなるかというケースを書いてみました」」(『週刊ポスト』平成20年/2008年12月5日号「ポスト・ブック・レビュー 著者に訊け!」より 構成:橋本紀子)

 本作の中心人物は、作家の〈待居涼司〉、ホラー映画脚本家の〈小野川充〉、それとフリーライターの〈今泉知里〉の三人です。

 〈待居〉の書いた小説『凍て鶴』の映画化のハナシが進みます。そこに、過去に世間を騒がせたネット心中グループ〈落花の会〉のことなどがからんでいきます。〈小野川〉の無神経なほどの思い込みにひきずられるかたちで、ずるずると彼ら三人が〈落花の会〉主宰者の自殺や、それにまつわる事件に、関わり合っていきます。

 で、そんなあらすじなどは実はどうでもよくて(こらこら)、本作でも、また一つ文学賞がストーリー展開に大きな影響を与えているわけですよ。

 〈日本クライム文学賞〉です。

「待居はミステリー系の新人賞を受賞し、デビューしてから三年になる。『凍て鶴』はデビュー作から数えて五作目だ。(引用者中略)ほどなく、ミステリー系の新進作家の意欲作に贈られる日本クライム文学賞の候補に選出されたとの知らせが届いた。」(『犯罪小説家』「1」より)

 この文学賞、主催元は出版社の〈文格社〉。「ミステリー系の新進作家」向け、ということなので、むろん、現実の直木賞とは重ね合わせようもありません。

 しいて言うなら、まあやっぱり、大藪春彦賞ふうの賞なんでしょう。

 受賞後の記者会見もあるし、翌朝の新聞には出るし、すぐに重版一万部が決まるし。加えて、選考は春(4月ぐらい)で授賞式が5月中旬、ていう設定も、ああ、いかにもエンタメ文壇の新人賞らしさを演出しています。

 ただ、大藪賞よりはもうちょっと、「格が上」のような雰囲気もかもし出しています。

「仁山が選考委員席に退がると、賞状とトロフィーの授与があり、待居は壇上でそれらを抱えてカメラのフラッシュを浴びた。それに続いて受賞者の挨拶を求められた。

「待居涼司です。このたび、このような歴史ある賞をいただきまして身に余る光栄ですが、(引用者後略)(同書「9」より)

 これが〈待居〉さんのジョークでない限り、「歴史ある賞」というくらいですから、まあ、歴史があるんでしょう。

 ええと、さっきワタクシは「大藪賞より格が上」みたいに表現しました。べつに大藪賞のことを文壇内で格が低い賞だと言いたいわけじゃないんですよ。逆に、格だの何だのうんぬんするような、出版界の力学や作家の階層みたいなものから超越した賞であってほしいと、外野のワタクシは願っているのです。だって、大藪春彦の名を冠した賞なんだもの。

 それはともかくとして。

 本作に出てくる「直木賞」っぽいものに触れなくちゃ、ハナシは始まらないのでしたね。

 料理屋で編集者二人といっしょに、選考結果の報を待っていた〈待居〉。受賞の知らせを受けて、その足で記者会見の場に向かいます。そこに、こんな記述が出てきます。

「選考会場となっていた銀座のホテルには記者会見用の部屋が用意されていて、けっこうな数の記者が待居を待ち構えていた。この手の文学賞はよほど大きな賞でもない限り、一般紙ではベタ記事扱いが普通だが、学芸部の記者たちにとっては取材のトレーニングになるのか、受賞者への質問は微に入り細にわたる。待居がデビューした新人賞のときがそうだったから、心の準備はできていた。」(同書「1」より)

 そう、ほとんどの文学賞は、一般紙ではベタ記事です。その例をまぬがれている「よほど大きな賞」と言われて、思いつく賞は、今のところ二つしかありません。

 直木賞と芥川賞です。

 なるほど。これら二つの賞以外にも、けっこう受賞の記者会見というのは行われていて、でも、ほとんどの場合それが紙面に反映されることはありません。普通の感覚をもった人間が、「なんであの二つの賞だけ、やたらニュースになるんだ」と疑問をもつ所以です。

 そして、たまーに文学賞の受賞作をいくつか読んでみて、「なんだよ、新聞記事が大きいからって、そのぶんその文学賞が上等とか劣ってるとか、そういうことじゃないんだな」と、オトナは学習していくのでした……。

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