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2010年4月 4日 (日)

直木賞とは……人気作家になるためのパスポートだって? ふん、そんなこと知ったことか。――森田誠吾「「直木賞」ものがたり」

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森田誠吾「「直木賞」ものがたり」(昭和62年/1987年4月・文藝春秋刊『銀座八邦亭』所収)

(←左書影は平成4年/1992年12月・文藝春秋/文春文庫

 この作品を「小説」と呼ぶのは、さすがに無理があります。

 初出時(『小説新潮』昭和61年/1986年4月号)の誌面にだって、どこにも「小説」をうかがわせる記述はありませんし。

「第一作「曲亭馬琴遺稿」から五年、第二作受賞の日までを著者の日記から綴る!」(『小説新潮』昭和61年/1986年4月号 目次より)

 『小説新潮』での本文の文字組も、ほかの小説とは違い、完全に「エッセイ」のたたずまいです。

 そうではあるんですが、『銀座八邦亭』には、直木賞受賞第一作と銘打たれた「聖路加の見える街」も収められています。そっちを小説とするなら、こっちだって、無理こり「小説」の部類に入れられないこともないですよね。

 いや。作品がどうだのと言っている場合じゃないのです。森田誠吾さんという人物そのものが、おそろしく謎です。

 第94回(昭和60年/1985年・下半期)直木賞。世間のおおかたの目が、いっぽうの受賞者に奪われているスキに、御年60のニコニコした男が泰然と受賞してしまったという。「近ごろの芥川賞は若い女の子ばっかりとってて、面白くない」みたいな発言は、よくネット上に転がっていますが、ご安心ください。20数年前も、似たような状況だったみたいですから。

「昨今、毎回のように華やかな女性候補で話題の多い直木賞選考の間げきを縫うかのように、十六日夜登場したのは初老の紳士。」(『毎日新聞』昭和61年/1986年1月17日「ひと 「魚河岸ものがたり」で第94回直木賞 森田誠吾さん」 執筆:吉野徹直 より)

「近ごろの文学賞は女か新しもの好きの青年がもらうものと思っていたら、珍しや今回の直木賞受賞者の一人は六十歳の男。しかも広告制作会社・精美堂、社員三百五十人の会社の社長というビジネス世界の実年者だった。」(『文藝春秋』昭和61年/1986年3月号「文春ブック・クラブ 徳岡孝夫の著者と60分」より)

 あれ、最近の「若い女の子」というのは、ちょっと違いますか。「女か若者」。……これが、当時の直木賞・芥川賞に対する印象のひとつだったみたいです。

 まあ、どんな人物がとったっていいようなものですが、こと直木賞で、森田誠吾、となると妙な気配があります。だって、それまで書いた小説もわずかなら、受賞後、亡くなるまでの20数年で遺した小説も、おそらく十指に余る少なさ。

 この存在全体が、直木賞にはそぐわない異端児なのです。

 『曲亭馬琴遺稿』で第85回(昭和56年/1981年・上半期)直木賞で候補になり、森田誠吾の名前が、ちらりと知られるようになってから、次の小説刊行まで、まる5年。ほとんど作家活動していないんですから。

「昭和五十六年三月に、「馬琴」(引用者注:『曲亭馬琴遺稿』)が出版され、五月には(引用者注:正しくは七月)直木賞候補にノミネートされたが、受賞作は青島幸男氏の「人間万事塞翁が丙午」であった。(引用者中略)

 しかし私は、その直後に、五十枚ほどの短編一本を書きはしたが、以後、小説には手をつけようとしなかった。

 受賞出来なかったのでふてくされたわけではない。

 「馬琴」という小説は、新聞、雑誌の書評に取り上げられ、見た目には景気が良かったが、実際に読んでくれた読者は、きわめて少なかったのだ。(引用者中略)

 本当に読んでくれた少数の人々の賛辞も届きはしたが、七千部も刷ってもらった小説が、空しく埋もれてしまったのかと考えると、小説なぞ書く気がしなくなったのである。」(「「直木賞」ものがたり」より)

 それでも、新潮社の編集者・梅澤英樹さんから「小説書け書け」と背中をおされて、ようやく1年半かけて書いたのが『魚河岸ものがたり』。このあたりの記述を読むと、あれだなあ、先週の浅田次郎さんの言い草じゃありませんが、『魚河岸ものがたり』が直木賞を受賞したのは、まるまる梅澤さんの手柄じゃないか、と思わされます。

「発表後、ふた月たつのに、「諸君!」のほかに書評らしいものが見えなかった。「馬琴」の時とは、大ちがいである。「魚河岸」は、読んだ人々が、そろって褒めてくれたのに、書評、ことに新聞の書評は一件もない。

 電話で梅沢さんに訴えると、そういうものですよ、これは書評に出ていいと思うものが出ないで、こんなものがというのが出るんです、と慰められる。」(同「「直木賞」ものがたり」より)

 そんな梅沢さん。でも、思わずポロッとつぶやいたところを、著者に目撃されています。

「賞が受けられるかどうかは別として、候補作品には、あげてほしかった。

 というのも、本が出来上がって、梅沢さんと食事をした夜、別れ際に彼が宙を見つめて、トムライ合戦とはいわないまでも、今度は、と呟いた気持が、私の胸の中で、次第に大きくふくれ上がっていったからである。

 編集者としての彼が、狩人のように狙いをつけていたのは、直木賞に違いなかった。」(同「「直木賞」ものがたり」より)

 たった一作しか世に出していない、専業作家でも何でもない一会社社長にむかって、もっと小説を書け(たぶん、直木賞がとれるから、の含みを持たせて)と声をかけた編集者など、ほとんどいなかったそうです。

 しかし、嗅覚の肥えた文芸編集者っていうのは、いるもんなんですね。うむ、こいつは作家としてイケそうだ、とにらんだ人が、少なくとも三人いたそうです。そもそも『曲亭馬琴遺稿』を出版に踏み切った梅澤英樹さんは別格としても、あとの二人は文藝春秋の阿部達児さんと、朝日出版局の涌井昭治さんでした。

「無名の一作者にとって、おのれをみとめてくれた人は忘れ難い。」(同「「直木賞」ものがたり」より)

 と、実名をあげてこのエピソードを発表しちゃう森田誠吾さんは、さすが実社会で揉まれたビジネスマンだよなあ。

          ○

 森田誠吾さんの特異さが際立つのは、偶然にも、同時に受賞した人が、人だったからでもあります。

 ねえ。『朝日新聞』社会面の見出しを目にしたとき、ワタクシは思わず吹きましたよ。

林真理子さん直木賞

もう一人は森田誠吾氏

芥川賞 米谷ふみ子さん(『朝日新聞』昭和61年/1986年1月17日社会面より)

 どうですか。ちなみにフォントの大きさは、紙面での活字の大小を再現してみました。

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 林真理子と森田誠吾。どっちに観客の目がとびつくのかは、わかるにしても。露骨すぎますぜ、朝日新聞。

「一介のOLから売れっ子コピーライターへ、コピーライターからエッセイストへ、エッセイストから作家へ。ほんの数年間で鮮やかな転身を遂げた彼女は、絵に描いたようなシンデレラガール、日本中の若い女性の羨望の的となるようなステップアップのモデルケースでした。しかも(というか、しかしというか)、彼女のステップアップは、たとえば一般公募の新人文学賞に応募するといった「正規の手続き」を踏んだものではなく、「ラッキーな偶然」の集積のように見えた。たまたま書いたエッセイが当たり、たまたま書いた小説が賞の候補になる――作家とは苦節何年、長い文学修業を経てやっと手に入る肩書きである、という古い価値観からいえば、このようなやり方は有名性を利用した「ショートカット」にみえたにちがいありません。」(平成14年/2002年6月・岩波書店刊 斎藤美奈子・著『文壇アイドル論』所収「林真理子 シンデレラガールの憂鬱」より)

 そう、週刊誌や新聞のメディアは、妙にラッキーさを演出したがる。

 ラッキーといえばね、森田誠吾さんだって、「正規の手続き」は踏んでないし、久保栄さんの弟子だった時代があるとはいえ、文学をこつこつやってきた人ではありません。でも、いかんせん、林真理子さんの激しいイジられぶりの前では、霞みます。と言いますか、超然としすぎてて、多くのサラリーマン・OLたちの関心が向くことは、まずあり得ない人です。

 会社社長ですよ。広告版下制作の大手、老舗「精美堂」の。本業とは別に、浮世絵、かるたの趣味に没頭し、本も出しちゃうくらいの、時間とお金のある人ですよ。そんな生活に憧れる人はいたでしょうけど、現実的に真似できるかと言われれば、おとなしく引き下がるしかないじゃないですか。

 たとえば、処女小説でいきなり直木賞候補になった直後の、森田さんの記事。

(引用者注:『曲亭馬琴遺稿』を上梓したのは)「いろはかるた」の調査から派生した偶然と幸運の産物、あるいは執念深い“道楽”であったといえましょう。文学賞の選考を受けるかどうか(引用者注:直木賞の候補になったこと)に迷ったのも、「30年ぶりに宿願を達成した」という見方に同意できないのも、それが理由です。(引用者中略)

 私は一企業の社長ではありますが、幸いに時間には恵まれていますので、これからもこういう執念深い道楽を続けていくことになるでしょう。」(『プレジデント』昭和56年/1981年8月号「判断意見 わが道楽の顛末」より)

 少なくとも一介の勤め人であるワタクシには、とうてい真似できません。しかし、林真理子さんより、森田さんのほうに親近感を抱いてしまうのだよなあ。レベルは違いますけど、モノになるかどうかを度外視して、他人の分け入らないところに首を突っ込んでいってしまう凝り性ぶりに、共感できるからでしょうか。

 ただ、そういう凝り性の才能が、直木賞の必要としていたものだったか、どうか。直木賞からすれば、林真理子さんこそ優等生の働きであって、森田誠吾さんのほうこそ、はみ出しものでしょう。

 受賞から一年後の、こういう発言とか聞くと、よけいにその感を強くします。

「「直木賞をもらわなかったほうが良かったかもしれない……と思ったりもしましたよ」

 こんなセリフを聞かされては、なんてキザな、と思いたいところだが、森田誠吾さんは別に奇を衒っているふうでもない。

(引用者中略)

「文学はもっと有閑のものだと思うんですよ。暇な中から生まれてくるんじゃないでしょうかねえ」

 今年に入って森田さんが書いた原稿は、エッセイ二本十三枚のみ。電話を嫌い、一日に一通は手紙をしたためる。」(『諸君!』昭和62年/1987年7月号「BOOK PLAZA 文学はもっと有閑のものだと思う。 森田誠吾氏に聞く」 文:吉原敦子 より)

 キザ、というより。豊かすぎるぞ誠吾さん!

          ○

 受賞前だって、『曲亭馬琴遺稿』のほかに「雑学者の死」(『別冊文藝春秋』160号[昭和57年/1982年7月]、単行本未収)の一作しかなく、受賞後にも、小説らしい小説といえば、この『銀座八邦亭』に収められた数篇と、『彩雲』(平成2年/1990年5月・文藝春秋刊)ぐらいなものでしょう。

 あなたは佐藤得二か。と思わず、往年の「働かなかった直木賞作家」の名を引き合いに出したくもなります。

 いや、働かなかった、と言ってはいけないのでしたね。自分の興味のあることに集中する徹底ぶりたるや。素晴らしいものです。江戸時代の風物あれこれの調査研究について、いくつかの著作が遺されただけでも、よしとしますか。

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 それと、なぜか書かれた『中島敦』(平成7年/1995年1月・文藝春秋/文春文庫)という評伝も。

 「なぜか」とは言いましたが、森田さん自身は「敦の周辺」なる最終章で、自分と中島敦の関係性について語ってくれてはいます。こんなふうに。

「ほぼ四十年という年月が、私淑の心とともに過ぎていったことになる。

 私淑とは、「教えを受けたことはないが、尊敬する人を私(ルビ:ひそ)かに師と仰ぐこと」と辞書にあるが、中島敦と私とのゆかりを確かに言い得ている。」(『中島敦』「敦の周辺」より)

 それにしてもなあ。「才能がありながら生前に報いられなかった作家」の代表格(?)中島敦だものなあ。穏やかそうで、恬然としている感のある森田さんが、評伝を書くほどに中島敦に心を寄せる、というのは何だか意外です。

 この評伝そのものは、ぜひ探して読んでいただきたいわけですが、うちのブログでは、もちろん、あそこを引用しておくにします。直木賞のことではないのが悔しいですけど。芥川賞に関する記述のあたりです。

「ともあれ「ツシタラの死」あらため「光と風と夢」なる問題作は、こうした経緯から世に出て、“文學界”五月号に掲載され、更に芥川賞の候補作品となった。

 そして選考の結果について、温厚な深田(引用者注:久弥)が珍しく憤慨する。

「芥川賞選定の歴史で、昭和十七年上半期は大きなミステークをした。授賞作品ナシという決定である。そして後世に残る二名作が見落されたのだ。

 それは『光と風と夢』と、石塚友二君の『松風』とである。

 その夏は異常な暑さであった。私はきっと選定委員が暑さと戦争騒ぎのために少し呆けていたのであろうと思う」(引用者中略)

 これに対して、敦も黙ってはいなかった。といっても、タカ(引用者注:敦の妻)を相手の話ではあったが、「佐藤(春夫)にはわからんだろうな」ともらしたという。

 博覧強記の敦、現代日本文学に通じた敦、実作者として長い間雌伏している敦ならば、選考委員の実力の評価など、易々たるものであったろう。」(『中島敦』「中島敦 (8)家路」より)

 「佐藤春夫にはわからんだろうな」のセリフが、いいですねえ。中原昌也さんかと思いましたよ。

 それはそれとして。芥川賞のハナシで終わるのもイヤなので、少し直木賞のことに戻します。

 『中島敦』の最後のほうに、例の「デキる編集者」が出てくるんですよね。うれしいじゃありませんか。

 和田芳恵さんです。

 そして、直木賞マニアにとってもおなじみの(……といっても、ワタクシは詳しく知らないんですが)「今日の問題社」なる出版社名もいっしょに出てきたりして。

「和田芳恵の「自伝抄」にも、

「……野村尚吾とは、今日の問題社から私が企画に参加した『新鋭文学選集』に『旅情の華』をもらったことで知りあった」

 とあることからも、選集の編集企画から構成に至るまで、和田が当ったことがうかがえるが、和田は野口のいう通り、すでに一流の編集者であった。

(引用者中略)

 和田のような名伯楽によって、未発表作品が一本にまとめて編まれたことは、短い生涯の中島にとってせめてもの幸いであろう。」(『中島敦』「敦の周辺」より)

 まったく、いろんなとこに姿を見せるんだな、和田芳恵って人は。

 そんな中島敦とは違って、約83年の生涯をまっとうした森田誠吾さん。三島由紀夫の「夭折」をひきあいに出して、

「私は便便として生きのびているに過ぎませんが、」(平成10年/1998年11月・筑摩書房/ちくま学芸文庫『いろはかるた噺』所収「あとがき」より)

 などと自嘲するとおり、はたから見れば、直木賞なんちゅう小説家にとっては抜群に効力を発揮する切符を手にいれながら、ほとんどそれを有効活用しなかった方。

 森田誠吾にとっての名伯楽、梅澤英樹さんは、『魚河岸ものがたり』ができた直後、こんな声をかけたそうです。

「夜、梅沢さんに逢う。

「これで御礼奉公をすませた、ということにして頂けますか」

「ええ、ええ、御苦労様でした」

 梅沢さんは、やさしかったが、それも束の間で、しみじみとした口調ながら、

「ねえ、森田さん、一生に、三本は書きましょうよ」

 と白刃をつきつけたのである。」(「「直木賞」ものがたり」より)

 直木賞作家にとって、一生に三本は少なすぎるよなあ。などという、後にのこされた勝手な直木賞オタクの感慨をよそに、森田誠吾さんはほとんど、この名伯楽のことばを律儀にまもってしまいました。

 こういう人にかかると、直木賞なんて何ほどのものでもないんでしょう。栄光でも名誉ですらなかったかもしれません。

 そのために、逆に森田誠吾という人物が、まぶしく見えてきてしまうのです。

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