直木賞とは……賞が欲しくない、なんて言う奴は嘘だ。東京の作家たちはみな生臭いじゃないか。自分もああやって生きてやる。――渡辺淳一『白夜 野分の章』『何処へ』
渡辺淳一『白夜 野分の章』(昭和63年/1988年7月・中央公論社刊)『何処へ』(平成4年/1992年12月・新潮社刊)
(←左書影は『白夜 V野分の章』平成6年/1994年2月・新潮社/新潮文庫、『何処へ』平成7年/1995年11月・新潮社/新潮文庫)
いまや、直木賞のブラックなイメージをひとり背負って立つ男。といった感じですが、まあ、一方の見かたがあれば、かならず別の見かたもあるわけでして。
毀誉褒貶、とはまさにこのことですよね。渡辺淳一さんに対しては、褒め称える一派と、けなし尽くす一派、両方が存在します。ええ、彼だけに限らず、おおかた著名な人はそうかもしれませんけども。
さて、淳一さんの小説は、ごぞんじのとおり、読むのも鬱陶しくなるくらいたくさんあります。私小説の部類に入るものも、何篇もあるらしいです。ここでは、はじめて直木賞候補に挙がってから、なかなかとれず、といった頃を描いた二つの長篇を覗いてみたいと思います。
まずは『白夜 野分の章』。五つの章に及ぶ『白夜』の最終章です。
冒頭、札幌の大学で医者をしている「高村伸夫」の書いた小説が、直木賞候補に挙げられたところから、物語が始まります。
「一般的には、芥川賞は純文学の、直木賞は大衆文学の優れた新人の作品に与えられることになっているが、最近は次第に両者の垣根は取り払われつつある。しかも芥川賞は候補になった一作品について評価しているのに対して、直木賞はその作家が長くプロとしてやっていけるという将来性まで見通して授けているようである。もしそうなら自分の資質のなかに、純文学からもう少し広い範囲にまで延びる可能性があると認めてくれたのか。」(『白夜 野分の章』「一」より)
直木賞の授賞の傾向、ってやつをどう見るかは、じっさい一人ひとり微妙に違っているはずです。現実に「その作家が長くプロとしてやっていけるという将来性」を、あまり念頭に置かなかった選考委員だって、いますし。中山義秀さんとか。阿川弘之さんとか。
ただ、淳一さんは意外に常識的なところがあるので、たぶん彼の今の選考姿勢は「一般的な直木賞観」にひきずられているんだろうな。……ってことをうかがわせる記述です。
おっと。ごめんなさい。「今」のことを持ち出すと、ハナシが逸れちゃいますね。今日のエントリーは、なるべく淳一さんが直木賞候補だった当時のことだけ、触れるようにします。
で、結局、最初の候補作はすっぱりと落選しちゃいます(現実では、「霙」が第57回 昭和42年/1967年・上半期 直木賞で落選)。それでも医師、高村伸夫は、小説を書くことをあきらめきれません。そんなこんなでようやく書き上げて、K社の雑誌に発表した小説が、またまた直木賞候補になりました(現実では、「訪れ」が第58回 昭和42年/1967年・下半期の候補に)。
「はっきり受賞とも決まらぬ前に、感想をいったり、喜びの顔を撮るのは邪道も甚しい。それは一種の人権侵害でさえある。伸夫は断固、拒否するつもりでいたが、日が近づくとともにそんなこともいっていられなくなる。
「会ってくれなければ、もし受賞してもあなたの記事をのせられませんよ」
そんなことをいわれて、やむなく伸夫は数社の記者とだけ会うことにした。」(同「三」より)
あの、綿々と続けられている、候補者たちを襲う「選考日前の取材攻撃」。当然、淳一さんも芥川賞を含めて5度、経験しています。
たいていの候補者は、ここで描かれた高村伸夫の心境と似たり寄ったりなのかもしれません。受賞するか落ちるかわかる前に、受賞コメントを語る、ってのを何度もやらされていれば、次第にウザくなるもんでしょう。
高村伸夫の場合、そのウザさの影に、いつか医者を辞めて小説一本で生きたい、って思いがあるものだから、一度二度、直木賞の候補になるたびに、どんどん受賞を欲する気持ちが高まっているように、読めます。
後から振り返れば、淳一さんの場合、直木賞が決まるから、すでに中間小説誌に進出し、週刊誌の連載小説だって依頼されて、職業作家として立てる地位にはあったんでしょう。でも、です。ここで描かれている段階では、大学の医局に勤務しながら、なかなか執筆時間がとれず、きっかけさえあれば飛び出せるのに、という気持ちを抱えています。やはり「きっかけとしての直木賞」は、魅力的だったらしいです。
「医学と文学と、二兎を追う状態を抜け出て一兎を追う形になりたい。そのきっかけは直木賞しかない。もし妻や母が、その決意をきいたら驚き呆れ、反対するに違いない。だが受賞をする保証もないのに、その先まで考えるのは考えすぎというものである。
伸夫は次第に、一つの賭けをしているような気持になってきた。受賞してもしなくてもいい。とにかくその日がくれば、医学か文学か、どちらかに進路を決めることができる。」(同「一」より)
ただ、直木賞をとりそこねているうちに、きっかけは、別のところからやってきました。
札幌医科大学の和田寿郎が、日本初の心臓移植手術をしたのです。
○
この心臓移植の騒動と、渡辺淳一さんの動きについては、いろいろ語られているので詳細は省きます。
次こそは直木賞、の予備軍のひとりだった淳一さんが、悩んだすえに「小説 心臓移植」なるキワモノを発表し、これが第61回(昭和44年/1969年・上半期)の直木賞候補になった、なんつーのも直木賞史に残る重要事件でしょう。
「他の人はともかく、悠介自身この種の小説としては、さほど悪いものとは思っていなかったが、直木賞の候補作となると、いささか問題がありそうである。(引用者中略)
正直いって、悠介は半ば嬉しく、半ば不満であった。
もちろんノミネートされたことは有難いが、この作品で受賞はまず難しい。
いままでなら、もしかしてという期待があったが、今度だけは受賞の可能性はゼロに近い。」(『何処へ』「揺影」より)
じっさいに第61回候補作『小説 心臓移植』は、その題材ゆえに難色を示す選考委員が何人もいたようです。その結果、落選しました。……したんですが、じつは、それだけの理由でもなかったことは、いちおう頭に入れておきたいところですよね。
中山義秀さん。
「すでにプロとして充分なものがあり、賞を与えるまでもないように思われます。」(『オール讀物』昭和44年/1969年10月号選評より)
松本清張さん。
「新聞記者と看護婦との安手な恋愛を挿入したのもよくない。」(同号選評より)
あはは。ストーリーの中に恋愛をからませる、淳一さんの手法が、早くも駄目出しを食らっていたりして。
それはともかくとして。淳一さんと心臓移植、というエピソードは、淳一さんに付いてまわる「毀誉褒貶」、何ゴトにもいくつもの見方が存在するんだな、っていう当ったり前のことを、よけいに感じさせてくれますよね。
ほら、正義感あふれる若き、そして悩める医者あがり作家、渡辺淳一は指摘します。
「問題なのは、彼(引用者注:心臓移植手術を行った和田寿郎)の単細胞的な、直情径行の裏に、ある種のコンプレックスを基とした自己顕示欲とか自尊心が潜んでいることである。陽気と見える行動の裏に、めらめらと燃えている自己顕示欲がある。相手をおだてる言葉の裏に、それとはっきり分る自尊心が溢れている。」(昭和51年/1976年7月・中央公論社刊『雪の北国から』所収「心臓移植・和田外科の内幕」より ―初出『文藝春秋』昭和45年/1970年10月号)
いっぽうで、マスコミに悪者をレッテルを貼られた、と怒り心頭の当の本人、和田寿郎は述懐します。
「私は、学会講演などのためにアメリカ、カナダに二週間ほど出かけた。そのときも私は、留守部隊にこういい残している。
「私の留守中であっても、もしすべての条件が満たされるようなチャンスがあったら、心臓移植手術を断行してよろしい。私は諸君の腕を信用しているし、諸君ならきっと成功するものと思っている」
後に、日本初の心臓移植手術は、和田壽郎自身の名誉欲からであるかのような報道をされたこともあったが、私の気持ちの中に私自身の名声を高めたいという気持ちは微塵もなかった。それはこの言葉からもわかっていただくことができるだろう。」(平成4年/1992年9月・かんき出版刊『脳死と心臓移植』「第3章 心臓移植を決意するまで」より)
さらに、和田さんは、こうも言うわけです。
「マスコミのレベルでは、私の手術は、二五年後の今日も「和田事件」であるようだ。そして、「和田事件」を構成する“疑惑”にはポイントが数か所あるようだ。手術後、小説家やルポライターなど何人かが、そうしたポイントを指摘する一文を書いているらしい。
しかし、医師でないものに、またその場に居あわせてもいないものに、なにがわかるだろう。憶測のうえに憶測を積み上げていったようなこれらの書物。」(同書「第4章 日本で初めての心臓移植」より)
いや、おれだって医者だった、吉村昭とかと一緒にするな……ていう淳一さんの再反論が聞こえてきそうですが、まあまあ。
語る人が違えば、当然、評価も違う。たいていの事象がそうです。文学賞の……直木賞の選考のようでもあり、また、渡辺淳一に対する世間の声のようでもあり。
○
心臓移植のさわぎがあって、それが原因で医者を辞め、職業作家になるべく上京した、……という一連の話にだって、諸説あるわけですしね。
「この心臓移植の問題に果敢に斬りこんだのが、渡辺淳一の人生最大の冒険であった。私はひるまずこの問題に取組んだ渡辺淳一を信頼する。
この問題で彼は大学にいられなくなった。」(平成5年/1993年11月・集英社刊 川西政明・著『リラ冷え伝説―渡辺淳一の世界』所収「評伝渡辺淳一」より)
「渡辺淳一君についてはすでに『わが交友録』(昭和五十三年、まんてん社)に十分書いたから重複は避けたいが、あえて付け加えたいのが「小説心臓移植」の件である。あの小説が渡辺君を札幌医大に居づらくしたとあちこちに書かれている。そればかりか主任教授が彼を地方の炭鉱病院に左遷したとまで云われた。とんでもない。あれは注文小説に忙しくなった渡辺君がなるべく暇な病院にしばらく出張したいと希望した結果にすぎない。また、あの小説が大学の内部を騒がせたことは確かだが、いられなくなるほどの事ではない。医科大学の内部は伝統的にかなり自由なのである。専業作家へのチャンスの到来が、渡辺淳一君に札幌医大の籍を棄てさせたのだ、と考えていい。」(平成10年/1998年6月・集英社刊『渡辺淳一の世界』所収 河邨文一郎「医学生、渡辺淳一」より)
ほら、この二つの文章を読んだだけでも、まるで印象がちがいます。
それで、このころ、淳一さんが医者の生活を捨てるかどうか悩みながらも、だんだん作家専業にシフトしていこうとする意識のなかで、大きな存在だったものに、東京での作家たちの集まりの場がありました。「石の会」です。
「石の会」については、以前、上坂高生さんの小説を紹介したエントリーでも触れました。有馬頼義さんを中心に、芥川賞・直木賞受賞前の作家たちが集まって、旅行したり駄弁ったり、の会です。
「たとえば、悠介は近くに坐っていた岡田とこれまでの医師の仕事やいまの生活について語り、岡田も前の仕事を辞めたころのことを話し出し、ともに状況が似ていて、さらに親しみを覚える。
だがなに気なく小説の話をはじめた途端、岡田が自分と同じ賞を狙っているライバルであることに気がつき戸惑う。(引用者中略)
札幌にいるころ、悠介の先輩の作家が直木賞の候補になって落ちたとき、「自分はいつもいいものを書きたいと願っているだけで、賞を欲しいと思ったことは一度もなく、したがって今回落ちても、口惜しくも残念でもない」と淡々と語っていたのをきいて、悠介は驚き、感心したことがあった。
候補になって落選して、口惜しくも残念でもない、などということがあるのだろうか。いま東京に出てきて編集者から聞く話や、目の前にいる仲間達の話には、そうした世間から離れて超然とした感じはまったくない。それどころか、賞に対して意欲満々で生臭く、ストレートな感じがする。」(『何処へ』「揺影」より)
『何処へ』は、若手作家「相木悠介」の、東京での駆け出し生活を描いていて、彼と女性との安手な恋愛(おっと失礼)が挿入されて、ストーリーが展開していきます。
そして最終章「花曇」は、「石の会」の仲間のひとりが、直木賞を受賞したお祝いの会の場面で始まります。
「初めに有津先生から、早坂に対して簡単なお祝いの言葉があり、そのあと受賞者の早坂が立って挨拶をした。(引用者中略)
このあと、悠介が驚いたのは、誰も拍手をしないことだった。」(『何処へ』「花曇」より)
つまり、会の仲間である早坂昂が受賞したからといって、他のメンバーにとってはライバルに先を越されただけのことなので、祝うべきでも何でもない、っていう雰囲気らしいのです。
会がはけたあと、悠介は仲間の岡田と連れ立って、飲み屋に行くのですが、そこで岡田の口から、さんざん早坂の作品をけなす言葉を聞きます。しかも、悠介はそれを否定しません。
「たしかに早坂の才能は抜群とはいいがたく、彼程度の才能なら「石の会」にも何人かいるし、恐れるほどのものではない。頭の良すぎる岡田は先き見えしすぎて、早坂のなかに潜むナルシスティックな強味を見逃しているが、自分も彼の領域くらいまでなら追い付けるかもしれない。」(同「花曇」より)
ちなみに、石の会でこの当時、直木賞を受賞したのは、早乙女貢さんです。
石の会の、隣のやつはみなライバル、ふうの空気に触れ、淳一さんは逞しくなってしまいました。「そのころは狂ったように女性を追いかけ、同時に狂ったように小説も書きました」とは、淳一さんご本人の文です。
そう、次のような回想を読むと、淳一さんは正直であるよな、と思うと同時に、やっぱり常人ではないよな、と感じてしまうわけです。
「当時、私は無性に賞が欲しかった。芥川、直木のどちらでも良かった。「賞なんかいらない」「本なんか売れなくていい」という作家も稀にいますが、それはポーズだけで、嘘だと思います。
直木賞に落ち続けていた私は、何となく歴史小説を書いた方が得なのでは、という気がしていました。生意気な言い方をすると、審査員が引っかかりそう、と思ったのです。史実に外れない限りにおいて、人物像はモディファイ(修正)できますし、それに歴史小説の方が重厚そうに見えますから。」(平成20年/2008年7月・集英社刊『渡辺淳一の世界II』所収「私の中の歴史 愛と生を書き続けて」より)
それで、「光と影」(第63回 昭和45年/1970年上半期 直木賞受賞)。むちゃくちゃ狙いに行っていたんですねえ。両賞で都合4度も落ちて、都会の風に触れて、ついにここに、「好きな人からとことん惚れられるが、嫌い人からヘド吐くように嫌われる」作家・渡辺淳一が、形成されていった……。
のかどうかは、これもまた一解釈。
まあ、ワタクシみたいな直木賞オタクにすら、いろいろな面を見させてくれるのですから。渡辺淳一って人は、やっぱ面白い。
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