直木賞とは……そんなものを気にする人間が、俗物であることは、言うまでもない。なにせ芥川賞のことを語っただけで俗物なんだから。――富島健夫『青春の野望』
富島健夫『青春の野望』全五部(昭和51年/1976年9月~昭和58年/1983年7月・集英社刊)
(←左書影は昭和56年/1981年4月~昭和60年/1985年9月・集英社/集英社文庫 全五部のうち『第五部 人生、進むべし』)
そうです、またもや自伝モノです。ジュニア青春小説・官能小説の巨頭、富島健夫さんです。
出発は純文学畑で、その後またたく間に青春モノの大流行作家になってしまいましたから、富島さん自身は、さほど直木賞に関係がありません。残念。
というわけで、悔しさを噛み締めながら、やはり芥川賞のことから語り始めなければならないのです。直木賞ファンたちよ、ともに涙を拭きながら、進もうではありませんか。
「無名の新人が作家としてデビューするには、いくつもの道がある。
懸賞小説に当選すること。
同人雑誌に力作を発表して雑誌評で褒められ、芥川賞候補になること。受賞できれば文句はない。
実力ある作家や評論家に認められ、その推挙によって文芸雑誌に発表すること。
(引用者中略)もうひとつは、有力編集者の知遇を得て、その人に認められることである。」(『青春の野望 第五部 人生、進むべし』「「新流」新企画」より)
以上の記述は、昭和20年代後半、富島健夫ならぬ「若杉良平」が、同人誌『新作家』(実際には『文学者』)や第二次『街』(これは、そのまんま)で、小説家としての研鑽を積んでいた頃のハナシです。
たしかに、無名の新人が同人誌に書いた小説で直木賞の候補になり(そして受賞し)……という例は、このころはまだ一般的ではなかったんでしょう。そう考えると、昭和30年代から、そんな例をポツリポツリ生み出す直木賞の姿のほうが、ちょっと本筋から外れていたのかもしれません。結局そんなことは、昭和50年代には、直木賞らしからぬ稀な事象に戻ってしまうのですから。
ともかく。当時の、若き作家志望者たちが目指すところといえば、一に芥川賞、二以下は省略、って感じは、まさによく知られている通りで、『青春の野望』にもそんな連中がバッタバッタと出てきます。
良平は友人たちと、同人誌『街』を出す前に、お互いに自分たちの作品を見せ合うことになります。そのときの、関本英男と飯塚宗昭の喧嘩。
「「ま、イロハから勉強してくれよ。勉強しても、才能がなきゃしょうがないけどな」
「おお、聞き捨てにならんことを言うじゃないか」
飯塚は関本につめ寄った。
「おれに才能がないと言い切るんだな?」
「すくなくとも、これを読んだかぎりではそう言わざるを得ん。論外だよ。おれは中学のときでも、もっとマシなのを書いていたぞ」
「ようし、そのことばは一生忘れんぞ。芥川賞をもらったら吠え面かくなよ」
「芥川賞?」
関本はせせら笑った。
「そんなものをもらおうという根性が通俗的だよ。おれは文学をやっているんだ。賞なんかは興味はないわい」」(『青春の野望 第三部 早稲田の阿呆たち』「合評会」より)
この関本なる友人が、またクセモノなんです。主人公・良平に言わせれば、「文学に淫しすぎている」ほど、かなり危ないやつなんでして。
「関本の『街』に発表した作品は、どの同人雑誌評にも取り上げられなかった。また、周囲の読んだ人の評判もよくなかった。
「どいつもこいつも、おれの作品を理解するだけの能力がないんだ」
関本はそう豪語している。その自信にはおどろくべきものがあった。
「おれは今、三百枚の長編に取りかかっている。これをどこかの出版社に持ち込むんだ。ま、おまえは同人雑誌評ぐらいでよろこんでいるが、あんなのどうということはない。そのうちにあっと言わせるからな」」(同第三部「会員倍増」より)
こんな大学生、滑稽な姿だと思わないでもありません。でも、ここまで狂えれば、もう立派です。
それから、『無』なる同人グループに属する、谷岡高志という出版社勤めの作家志望者もいます。彼のことを語る、元・恋人、村上かずえの言葉。
「口では高級で純粋なことをしゃべっているけど、あの人にかぎらず“無”のグループの連中みんな、文壇的な功名心がすごく強いの。わざとわけのわからんことを書くのも、自分があたらしいことを強調したいからで、目的は文学賞にあるのよ。そのために文芸雑誌に書きたい。その前に、権威ある大きな同人雑誌に書きたい。そんな出世欲にこりかたまっているの。」(『青春の野望 第四部 学生作家の群』「立会人」より)
いひひひひ。なかなか鋭いご意見ですなあ。でまた、そんな人、普通にいそう。
極めつきの登場人物は、この人でしょうね。岸本光一郎。良平の故郷・九州に住んでいる、ほんまもののイカれた芥川賞中毒者です。
良平が昔から知っている奥野文子なる女性がいるんですが、彼女とむかし付き合っていた男として、岸本君が出てきます。浮気したのが原因で、文子に振られたそうです。なのに文子の家にやってきて、今でも彼氏きどり。良平があいだに入って、岸本君の相手をしてやります。
「「何か、同人雑誌でも出しているのか?」
「ばか野郎、岸本光一郎を知らんか! あいつは何もおまえに言っていないな? ふん、そういう女よ。あいつは、野球の選手や俳優など、知性のない低能にあこがれるミーハーなんだ」
「おれも、知らんな」
「おれはな、三年以内に芥川賞をもらって見せる。これでもおい、おまえには興味ないだろうが、九州文壇のホープなんだぞ。おまえみたいな俗物とはちがうんだ」
(引用者中略)
「岸本光一郎というのは、有名なのか?」
「おまえ、何も知っちゃいねえな。火野葦平も劉寒吉も岩下俊作も、おれをちゃんと認めてくれているんだぞ。おれの作品はな、もう何回も文芸雑誌の同人雑誌評で褒められているんだぞ。あと一歩だ。文子なんか、どうでもいいんだ。小説を書くために、おれはお芝居をしているんだ。女に溺れた男の役を演じているんだ。ほんとうは虚態よ。世界は重いんだ。暗い谷間を歩くのが、文学者の宿命なんだ」」(同第四部「材木置場」より)
笑っていいのだか、どうなのだか。有名人の名前を列挙して、その人たちに自分が認められていると信じることで、どうにか折れそうになる我が心を支えようとする精神は、わからんでもありませんが。
しかし大丈夫ですかね、岸本君。虚構世界の中の方とはいえ、心配になっちゃいますよ。その後、まっとうに人生を歩まれたんでしょうか。
○
長篇小説『青春の野望』は、文庫にして500ページ級の本が5冊にもなる長さ。おそらくワタクシの見落としもあるでしょう。本作のなかには何度か「直木賞」の文字が登場するんですが、たいてい、とある一人の人物を語るときに使用されています。
たとえば、良平たちが、丹羽文雄の家に訪れたときの場面。
「「あ、中村君」
丹羽文雄はふいに右側を向いた。
「はい」
中村と呼ばれた人は、姿勢を正して返事をした。
「仏文だから、きみの後輩だ。これからめんどうを見てやってくれ」
「はい。かしこまりました」
年は三十五、六か、あたまのかなりはげた、おだやかな感じの人である。
(中村八朗だ)
と良平は気がついた。すでに何回か直木賞候補にもなったことのある中堅作家である。(引用者中略)
良平は席を立ち、
「よろしくお願いします」
とあたまを下げた。すると、中村八朗もやはり席を立って答礼してくれた。」(前掲第三部「文学教室」より)
中村八朗さんです。
富島健夫さんが、仲間うちだけの文学修業地獄にとどまらず、どんな作品を書いていけばいいか手ほどきを受けたのも、早稲田の学生ながら『文学者』誌のもとに加わり、そこに作品を発表できたのも、丹羽門下きっての名伯楽、中村八朗さんがいたからこそ、だったんですね。
「丹羽文雄の弟子の中で幅広く小説を理解できる人が、中村八朗さんです。戦前には尼僧の話などを書いてましたが、戦後は戦時中の体験を書くようになった。何回も直木賞の候補になり、特に『マラッカの火』で賞をとれるはずだった。もう九分九厘もらえるものと、僕らも思っていたら、もらえなかった。どうしてもらえなかったのかは、今でも不思議です。文学賞には、運・不運というのがあるんですね。でも、中村八朗さんは、僕の恩人中の恩人です。」(平成5年/1993年11月・集英社/集英社文庫 富島健夫・著『女人追憶 第三巻 青い乳房の巻(下)』所収「解説―富島文学の原点を探る その三 早稲田大学時代――学生作家として」より インタビュー・構成:清原康正)
「貝殻追放」(第27回 昭和27年/1952年上半期 直木賞候補)なんかも、ワタクシは好きな作品ですけど。『マラッカの火』(第32回 昭和29年/1954年下半期 候補)。たしかに八朗さん、満を持しての長篇だったからなあ。富島さんいわく「賞をとれるはずだった」「九分九厘もらえるもの」……って言うからには、事前によほど期待を抱かせる空気が、流れたんだろうなあ。
でも、第32回は強敵ぞろいで、「ボロ家の春秋」と「高安犬物語」が受賞するのは妥当な気もします。ああ、八朗よ、残念だ……。
その八朗さんに、富島健夫を語らせると、こうなります。
「私は昭和二十九年の一月から肝臓を病んで以来三年近く病床についてしまった。途中入院したりして、実際には編集委員として「文学者」の仕事にはかかれることは出来なかった。その為に、後輩たちの為に力になってやることが出来なくなってしまった。むしろ、病床の私は富島達によってなぐさめられ、河出書房に入社した富島は私の短篇集を河出書房より出してくれたりして私はむしろ助けられた。
(引用者中略)
その後の彼はいろいろの雑誌に書くようになり、特に青春小説を多作して、その方面の仕事が増大し、次第に流行作家への道を着々と進んで行った。今や私の手におえない世界へ羽搏たいて飛んで行ってしまった。」(昭和56年/1981年1月・講談社刊 中村八朗・著『文壇資料 十五日会と「文学者」』「第六章 リッツからモナミ時代へ」より)
しまった。河出書房から出た中村八朗『高校卒業前後』(昭和31年/1956年3月・河出新書)は未見でした。今度、見ておこうっと。
にしても、八朗さんって、ほんと面倒見いいよなあ。『十五日会と「文学者」』って本にも、その人柄が表れていますよ。富島健夫さんはもちろん、『街』時代の彼の仲間である神野洋三さんのことにも、結構な行数を使って触れているし。その他、文壇的にも知られていなさそうな作家のことまで、そうとう細かく紹介しているし。
ちなみに、八朗さん。師・丹羽文雄から、こんな批評をされたことがあるそうで。
「先生から
「ぬるい気の抜けたサイダーのような小説だ」
と苦々しい顔で言われたことがよくある。そして、
「小説というものは悲劇を書くのだよ」
かんでふくめるようにそう言うと、不肖の弟子の顔をやれやれといった眼で眺めるのだった。
先生の一番嫌いなものは甘い小説であった。
「人間は甘くてもいいが、書く小説はからくなくてはだめだよ」
それは私によっては一番いたい忠告の言葉だった。人間も甘く、小説も甘い私には、今もってこたえている言葉である。」(昭和46年/1971年6月・秋元書房刊 丹羽文雄・著、中村八朗・編『新人生論』所収 中村八朗「先生の人と作品―師弟問答―」より)
いやあ、八朗さんらしいぜ。
丹羽文雄について、後進のために大枚をはたき、菩提樹の存在となった功績をたたえる文章はよく見かけます。同人誌『文学者』で育った、あの作家この作家のことが紹介されたりするときに。……でもね。となると、やはり、丹羽の直下で実際に後進の作品を大量に読み、褒めながらアドバイスしながら若手作家をやる気にさせたという中村八朗の功績も、忘れたくないなあ。
○
富島健夫関連で、もうひとつワタクシの胸を打ったこと。
それは、『富島健夫書誌』(平成11年/2009年10月・富島健夫書誌刊行会刊)の存在です。
編著者は荒川佳洋さん。専門は「病院の環境整備(院内感染対策)」な方らしいんですが、『烏森同人』同人として、この書誌・年譜・関連文献目録をまとめられた、その情熱といいますか根気といいますか。ああ、そもそも「文学研究」っていうか「研究」っつうものは、たいがいマニアックな心で出来上がるものなんだなあ、とジーンとしてしまいました。
「中間小説、新聞小説も不詳が多いが、『文藝年鑑』に記載されない雑誌、新聞が意外と多いことをはじめて知った。当初中間小説は『文藝年鑑』を当れば楽勝と甘く考えていたわたしは、完全に裏切られたのである。わたしは当たりをつけ、思いつく出版社の所蔵図書を片端から調査するという原始的な方法を取るしかなかった。富島には一種の半官贔屓(原文ママ)のようなものがあって、一流誌に執筆しながら、あきらかに三流雑誌のようなものにそれも長く作品を提供した。「どんな発表舞台でも全力投球する」ことをプロの作家の矜持とした小説家だが、逆にそれが書誌制作の上ではわざわいしている。かえすがえすも年譜制作者泣かせの小説家であるといえる。」(『富島健夫書誌』「「富島健夫書誌」刊行にあたって」より)
まったく。直木賞研究なんぞの比にならぬぐらい、富島健夫文献の探索は手間がかかるだろうと、推察します。敬服の一言です。
この書誌を通じて、なるほど、『小説宝石』と『小説CLUB』の二誌が、富島健夫追悼の特集を組んだのか、と教えられたわけですが、前者には直木賞候補作家、加堂秀三さんが追悼文を書いています。
「富島さんは間もなく『おさな妻』の話題沸騰に勢いを得たカタチで「週刊朝日」に連載小説をのせることになった。(引用者中略)
しかし作家仲間は富島さんのその登板をよくはいわなかった。
「あんなものダメだ。あれは『週刊朝日』がどうかしてるんだよ」
と、やはり私の畏敬する先輩作家の作家がパーティー会場で、大勢の人前でいった。」(『小説宝石』平成10年/1998年5月号「ただただ悲しい」より)
お。まるで、『青春の野望』に出てくる、作家志望の脇役みたいだな。ほら、良平の作品が同人誌『新作家』に載ったことをいつまでも愚痴ぐち言っている関本そのものじゃないですか。
「「『新作家』なんて、同人雑誌のひとつに過ぎん」
関本は机をたたいた。
「おそらく、『新作家』も応募するだろう。『新作家』あたりに載せてもらってよろこんでいるようじゃ、『新作家』の代表に勝てるわけはない。あの連中は古い。あの連中に尾っぽを振るようなのはだめなんだ。」」(前掲第五部「「新流」新企画」より)
富島健夫の作家生活は、はじめっから最後まで、こんな連中に囲まれて過ぎていったのかもしれませんね。
大流行作家になってからの富島さんも、こんなこと書いていました。いわゆる「文学青年」なるものを語るのにからめて。
「当時(引用者注:富島が大学生の頃)の文学青年の多くは、もっと頑固であった。
すべての権威を認めず、すべてのミーハー的なものを拒否し、ひたすら「文学」に打ち込んでいた。
「早慶戦? ふん、それが人間探究と何のかかわりがある?」
極端なのになると、ワセダの選手のすべての名を知らなかった。修行僧に似た生活を送っていた。
「おまえは大衆的なものに興味を持ち過ぎるぞ。もっと哲学的になれ」
だれかにそう言われたこともある。(引用者中略)
このごろ出て来る若い作家のすべては「文学一筋」の生き方をした人たちではない。いろんなことに手を出しており、多くの色気がある。(引用者中略)
「芥川賞を取って金を儲けよう」というようなTVコマーシャルが流行する時代である。冗談じゃない。芥川賞は本来、金儲けを拒否する姿勢で書いた「純文学」に与えられる賞であったはずだ。ぼくなどは芥川賞よりもメシを食うことを選んだ「俗物」で、つい最近までかつての文学青年仲間から非難されつづけて来たのである。芥川賞は有名になって堕落した。」(昭和62年/1987年12月・双葉社/双葉文庫『男と女の課外授業』所収「文学青年の今昔」より)
へえ、そうなんだ。そんなCMが流行ったんだ。そりゃ、さんざん純文学信奉者からガーガー言われつづけた身にとっては、何か言いたくなるでしょうよ。
ただ、けっきょくのところ『青春の野望』で描かれているように、芥川賞なんてものは昔っから「俗物」のためのもの、でもあったのかもしれませんよね。ずっと変わらず。
ええと、では、直木賞のほうはどうなのかな……。大衆向け・通俗ゆえに、文学の領域では語る人も少ない直木賞のほうは……。こいつは正真正銘、「文学」の人であろうと、そうでない人であろうと、できた当時から「俗物」そのものであることに、異論はないようで。
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コメント
夫に勧められて読み始めました。
主人公の青年と恋人との愛の展開が段階的であり現実的でした、行為についてはリアルに美しく表現され、心情についても繊細に描かれていたことから、親密的なエロチズムを感じました。
投稿: | 2015年5月10日 (日) 12時43分