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2010年2月14日 (日)

直木賞とは……「人間が描けていない」と駄目らしいです。それがないと、いくら面白い小説でも黙殺されます。――東浩紀+桜坂洋『キャラクターズ』

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東浩紀+桜坂洋『キャラクターズ』(平成20年/2008年5月・新潮社刊)

 この小説に直木賞は登場しません。……って、最近こんなのばっかし。ワタクシの勉強不足と不甲斐なさゆえです。

 いや、それ以上に、このブログで『キャラクターズ』を取り上げるからといって、何かを論評するだけの力量は、ワタクシにはありませんし。

 すみません。「ラノベと直木賞」とか、「桜坂洋と桜庭一樹」とか、そこら辺の関係性(非・関係性を含めて)を深く知りたい、っていう数多くのネットユーザーのみなさま。これ以上、本エントリーを読んでも、たぶん、つまんないですよ。

 さて、言い訳を済ませたところで、『キャラクターズ』です。

 物語の舞台は、平成19年/2007年。読者を物語を誘いこむ入り口には、「文学賞」っていうツカミが用意されていて、つい引き込まれます。

「その世界では、五月の第三週に、桜庭一樹と佐藤友哉、すなわち「私小説化したライトノベル作家」が相次いで文学賞を受賞した。桜坂とぼくはその受賞劇になぜか深い衝撃を受け、桜坂はあやうく断筆しかけ、ぼくもぼくで剃髪――をする勇気はなかったのでぐっと髪を短くしてみたのだが、ぼくたちがなぜ彼らの文学賞受賞にそれほどの衝撃を受けたのか、その理由はいささか込み入っており、むしろそれこそがこの共作で主題になっていくはずなのでここでは説明しない。」(『キャラクターズ』「2」より)

 以後、「三島由紀夫賞」はともかく、「日本推理作家協会賞」という名称に触れられることはありません。どだい、推理作家協会賞だって「賞」ですから、確かに何らかの組織的力学が介在していそうではありますけど、これを「文学」の賞だと考えるには、ちょっとした違和感があります。

 でも、です。

 この小説が発表された平成19年/2007年に読んだら、「新潮」とか「佐藤友哉」とか「三島賞」とか「文学」とか、そんなキーワードが、ぐいぐい読者の目の前に押し出されたと思います。でも、いま読むとどうでしょう。現実の桜庭一樹さんが直木賞をとったことを知っているいま。

 ワタクシ自身は、直木賞が「文学」の賞だとはとても恥ずかしくて断言できない一派ですけど、一般的には、違うのでしょう。推理作家協会賞よりは直木賞のほうが「文学」の賞だと認識されています。よね?

「ぼくたちとしては、彼らの受賞が、このまま「ライトノベル的想像力の文学への侵入」の記念碑として文学史に刻まれることは、なんとかして阻止しなければならない、それができなくても横槍を入れておかねばならないような気がしたのだ。」(『キャラクターズ』「2」より)

 登場人物のひとりである「桜坂」が、なぜ断筆しかけるほど衝撃を受けたのか、はあまり本作では深く突っ込まれません。なので、直木賞オタクが、勝手な読み方をするのを許してくれる(……?)ありがたい小説なのです、これは。

 『赤朽葉家の伝説』は、たまたま受賞にまで至ったのは推理作家協会賞だけです。でも、吉川英治文学新人賞や、直木賞の候補に残っていることを見れば、もはや「文学」賞の世界に半身のりいれた小説だと、容易に知れます。

 しかもさらに畳みかけて、本作は一般的な「文学」観なるものをとらえてくれています。これを読んで、そうか、なるほど、「桜庭一樹」は、いつからか文学賞の世界の人になったんだな、そして推理作家協会賞も、もはや文学賞の帽子をかぶっているんだな、と気づかされました。

「日本の文学は、虚構そのものの技術というより、近代的な主体を作り、近代的な国家を整備するための現実の(引用者注:下線部は原文傍点)運動として始まった。むろん、近代文学はヨーロッパでもそういう運動だったのだが、辺境は中心よりも極端になりがちであり、日本の文学者はおそらく本家以上にきまじめだったのだ。その結果が、「人間」が描けているのか描けていないのかばかりを気にする、限定された文学観である。」(『キャラクターズ』「4」より)

 つまりは、「人間が描けている」と評されてしまうと、その小説は途端に文学賞の対象になってしまうのですよね。幸か不幸か。

 「桜庭一樹」もきっとどこかで「小説を書くことで人間を描きたい!」と欲して、その道を歩きはじめたときから、(当然、それだけの力量があることが前提だったわけですが)文学賞に縁ある作家になってしまった、のでしょう。

 直木賞も、いまでは「人間が描けているかどうか」を評価基準にする選考委員がいることで知られています。そもそも、直木賞に「正統な文学」なるものを伝えていく役割など、ほとんどの人が期待していないはずなのに、です。

 なぜ直木賞が、「人間が描けている」云々することを芥川賞に任せてしまわないで、自分もやりたがるのか。それは、直木賞が創設以来負ってきた、かわいそうで自意識過剰な性格が絡んでいるんだろうと思いますが、まあ、それはそれとして。

 たしかになあ。当時の日本推理作家協会賞の選評を読んで、ああ、キミもミステリーのお面をかぶっていながら、ミステリー部分以外のところで授賞を決めるようになっちゃったんだね……と、ちょっと悲しい気分になったことを思い出します。協会賞も「文学」賞の心地よさを知ってしまったのですね。たぶん、この賞をずっと見つめてきた人には、何年も前にわかっていたことでしょうけど。

          ○

 『キャラクターズ』の終盤、こんなセリフがあります。

「キャラクターの生は、現実と結ばれていない虚構の生は、じつは人間の生よりもはるかに切実に物語を求める。事件と事件を繋ぐ理由の糸を、必然性を求める。虚構ではすべてに意味がなければならない(引用者注:下線部は原文傍点)。もしぼくがここで事故を起こし、目的を達せずに死んでしまうとすれば、つまり物語が中断されるとすれば、それは必然でなければならない。理由がなければならない。その必然性がうまく設計できなければ、小説は失敗作とされキャラクターは永遠に忘れ去られる。」(『キャラクターズ』「16」より)

 全篇そうですけど、とくにこの箇所を読むと、つい思い出す本があります。都筑道夫さんのあの本格推理論です。

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 すでに古典の部類に入るんでしょうね。都筑道夫『黄色い部屋はいかに改装されたか?』(昭和50年/1975年6月・晶文社刊 左書影は平成10年/1998年4月・晶文社刊[新装版])です。

「どんなに矛盾なく、たくみにつくられた偽アリバイでも、それを使おうと考える犯人の考えかたが不自然だったら、それは非論理的なものであって、推理小説として成立しないのです。どんなに自然で巧妙な密室トリックでも、密室にする必然性がなかったら、それは不自然な密室であって、モダーン・ディテクティヴ・ストーリイとしては、落第なのです。(引用者中略)突きつめていえば、どんなトリックも、不自然ということになるでしょうが、そこを一応うなずかせる言葉の魔術が欲しいのです。」(「黄色い部屋はいかに改装されたか?」「5 トリック無用は暴論か」より)

 まったくです。

 もしかして「推理小説として落第」というよりも、「小説として落第」なんじゃないか、と思いたくもなりますが、ハナシが広がりすぎるので、やめます。

 要は、論理である。必然性に裏打ちされた論理である。いや、必然性があると思わせるように書かれた上での論理である。……これって、もうほとんど、「小説のうえで、「人間」というものを描く」のと、同じようなことを言っています。

 同じようなんですけど、都筑さんの素晴らしいのは、決して「人間を書く」ことを小説の手段にも目的にも置かないところです。

「やや神がかりないいかたをすれば、ある特定の状況における、犯人の行動およびその心理を追究していけば、トリックなんぞは放っておいても出来るのです。本格推理小説において、人間を書く、というのは、そういうことだと私は思います。(引用者中略)

 本格推理小説は、人間が書けていない、という悪口が、ひところ盛んにいわれましたが、それをいった人たちの考えている人間を書く小説とは、ぞんがい古めかしいものであったようです。わかっている人たちの悪口は、もっと簡明で、当をえていました。日本の本格はどうも泥くさい、というのです。

 それは、問題が技術にあることを、しめしています。」(同「10 ふたたびトリック無用は暴論か」より)

 「人間を描く云々」は、最終的に聞かれればそう言わざるを得ない程度のものであって、本格推理に求められるのは、必然性と論理だ、という。

 つまり、読み手が心しときゃいけないのは、ミステリーとか謎ときとか、そういう外面だけを見て拒否反応を起こすなよ、と。たとえば、本格推理とは全然関係ない小説だって、「人間が描けている」ってのは、隣に実在する人物を描写することじゃないでしょ? 現実には絶対いない登場人物を、「必然性と論理」で、読み手に「ああ、いかにも、こういう人いそうだな」と思わせることでしょ? という、この都筑さんの姿勢。さすがです。

 そして、本格推理に限らず、ライトノベルやキャラクター小説も、やっぱり同じような気がしちゃうわけでして。

 ワタクシはラノベそのものに深いなじみがないので、ラノベ信者の方には反論があろうと思いますが、

「必然性がうまく設計できなければ、小説は失敗作とされキャラクターは永遠に忘れ去られる。」

 っていう『キャラクターズ』内のセリフは、マトを得ていそうだ、と感じることができました。

 いずれにしても、直木賞の選評から「人間が描けている」ふうの表現がまったくなくなる時代がきてほしいな。そしたら直木賞も、ワタクシがヤツに期待する「文学じゃないもの」賞に変わった、と思えるんだろうな。……ワタクシが生きているうちに、そんな時代、くるかな。

          ○

 もちろん、『オール讀物』なんちゅう読物雑誌に、「文学」がどうだの、と書かれた選評をのせて、文学的にすぐれていると見なされた小説を、そこに併載する。っていう今の方向性も、一つの楽しい現象としてアリだと思います。

 ただ、ワタクシ個人ファンとしては、直木賞には、芥川賞とは違う軸をもって存在してほしいな。ほぼ無謀な願望であることは、承知のうえですけども。ねえ。どうせキミはどんなに頑張っても、「芥川賞」にはなれないのだから。

「一般に文学とライトノベルの対立は、芸術と娯楽小説の対立に重ねて考えられている。より正確には、純文学>一般小説>ジャンル小説>ライトノベルという位階があり、それが芸術>娯楽>趣味人の娯楽>子供・オタク向けの娯楽という位階と重ねられている。

 しかし上記の整理(引用者注:自然主義的リアリズムとまんが・アニメ的リアリズムの対立を、複数のジャンルを包摂する「想像力の環境」の差異として捉えるという見方)では、両者は質的に違う軸として捉えられることになる。したがって、娯楽小説のなかに自然主義志向(直木賞)とキャラクター志向(ライトノベル)があるのと同じように、リアリズムの純化や解体を目指す「芸術」のなかにも、自然主義志向とキャラクター志向があるということになる。」(平成19年/2007年4月・講談社刊 東浩紀・著『文学環境論集 東浩紀コレクションL』「Journals」所収「東浩紀ジャーナル 第二回(二〇〇六)」より)

 そうだよなあ。「一般に」として東さんが挙げたようなかたちは、やっぱりそういった序列・階層構造で考えるほうが、ふつうにラクだもんなあ。ラクっていうか、商売はしやすいかもしれない。

 「芸術」と「趣味人の娯楽」のあいだに、「娯楽」ってものが配置されているところが、ああ、21世紀の日本は、たしかに昭和の中盤を経過してきたのだなあ、と実感させられたり(当たり前だ)。

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 ねえ。中島梓さん。

「あるときまでは、「読み物」と「文学」はたしかに別のものとして存在していたのだといえる――同じ欲求の上部と下部構造として。(引用者中略)その「あるとき」がいつであったのかも明確である、といっていいだろう。「中間小説」という、ふしぎな呼称が一般化したとき、また「エンターテインメント」という概念があらわれたときである。

(引用者中略)

実際には、五木寛之野坂昭如とが選択したのは、これまでは考えられなかった第三の道――すなわち「知的なエンターテインメント」の提供者として、自らも舞台に登場する、ということであった。」(昭和58年/1983年12月・講談社刊 中島梓・著『ベストセラーの構造』「第二章 知識人の系譜」より ―引用文・左書影は平成4年/1992年12月・筑摩書房/ちくま文庫

 と言って、中島さんは、昭和40年代前半=1960年代後半のところで、一つのクサビを指摘しています。

 それでここに、筒井康隆が現われ、村上龍が受け入れられ、田中康夫が顔を出すようになり……って論は進んでいくんですけども。ワタクシが注目したいのは、中島さんが『ベストセラーの構造』を書く1980年代前半までの数十年のうち、五木・野坂以降、だいたい起爆剤の「賞」として登場するのは、芥川賞のほうばかりだってこと。直木賞は哀しいかな、影もかたちもありません。

「私はあえて云う、この現象の半分(引用者注:1980年代のミリオンセラーの輩出のこと。下線部は原文傍点)をもたらしたのは、多すぎる雑誌にだらだらとルーティンな作品を垂れ流しつづける作家たち、時代から目をそむけて権威主義の夢を追う文壇、そしてつぎつぎと新人をもとめ、漁り、本を出したさに焦るあまりまだ世に問うべきではない段階の青田刈りをつづけてゆく出版社と小説への愛情より雑誌のノルマの優先する編集者なのである。(引用者中略)そうしたかれらに「小説が売れない」「活字文化の衰退」を口にする資格があるものだろうか。」(同書「あとがき」より)

 ここでは「小説」の質のことが挙げられています。そう、ワタクシも「文学」とは言いません。少なくとも「小説」に対して、この時代の直木賞は、いったいどんな寄与を果たしてくれたというんでしょうか。「キャラクター小説家」の栗本薫が、物語の力を信じて描いていた、大衆の心をぎゅっとつかんで離さない小説群には一顧だにせず。

 まあ、直木賞君を責めていても暗い気持ちになるばかりなので(?)やめます。と言いますか、ワタクシは、「じゃあ、どうすりゃいいって言うんだよー」と拗ねながら、芥川賞アニキの背中をよちよち追いかけていく直木賞君の姿も、かわゆくて大好きです。そして、萌えます。

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コメント

こんにちは。
楽しく拝見させていただいております。
文章の最後のくだりにある悩めるお姿には共感を抱きました。
直木賞はニュースで大きく取り上げられますので最高峰の大衆文学賞であると誤解されるのが問題なのでしょう。
細々と運営していれば池波事件とか赤川次郎や森村誠一の落選とかが社会問題まで発展しなかったでしょうし。
ただ、お金を支払ってまでも落選作を買いたいとは思いませんね。
賞の運営は宣伝効果を狙っていると思いますが逆効果になる弊害も大きいようです。
とはいっても、私は赤川次郎と大藪春彦を何冊も読んでいますが。
次の更新を楽しみにしております。

投稿: 真中 | 2010年2月17日 (水) 21時39分

真中さん

まったく、です。
「気になって読んだ小説が、たまたま直木賞の受賞作・候補作だったらしい。ふうん、だから何?」
って感じで、賞がどうのこうのに惑わされずに読書生活を送るのが、
きっと真っ当で、幸せなかたちなのだと思います。

ああ、ワタクシも幸せになりたい……。どうぞこれからも暖かい目でご笑覧ください。

投稿: P.L.B. | 2010年2月17日 (水) 22時36分

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