直木賞とは……これじゃ読者にウケないよな、と思われていた作品でも、受賞すると一気に世間に歓迎されることがある不思議。――和田芳恵「転心」
和田芳恵「転心」(昭和17年/1942年5月・泰光堂刊『作家達』所収)
まったくもう。この作品、古すぎて、書影をとるための本が手に入りませんでしたよ、申し訳ありません。
和田芳恵さん、生涯最初の小説本です。『作家達』。出版されたのは昭和17年/1942年。芳恵さんが勤めていた新潮社を辞めた翌年のことでした。
この小説のことは、高橋輝次さんもホームページで言及されています。連作短篇集で、書き下ろし5篇を含む8篇が収められているんですけど、一応の主人公は雑誌記者の「津村啓三」。出版社「東洋堂」が、ライバル企業に対抗するために、かなり力を入れて創刊した大衆雑誌「さくら」の編集者なんです。
ね。東洋堂の社長やら、「さくら」編集長やら、または津村の担当する大衆作家たち、寄稿家、挿画家、芸人、校正係などなどが登場していまして、もうそれだけで胸おどるわけですよ。だって、「新潮社」の大衆雑誌「日の出」編集者、和田芳恵が、退社後に発表しているわけですもの。うわあ、この人物のモデルは誰それかな、と推測しながら読む楽しみよ。モデル小説よ、永遠なれ。
いや、芳恵さんは、「あとがき」にて当然のごとく、次のような一文を付け加えています。
「ここに集めた八篇の小説は、過去十年に遡り、その中から色々な問題を探しながら、絶えず雑誌記者の側にたって雑誌機構を眺めたつもりであるが、現われてくる人物や事柄は私の空想によってなされたものである。」(『作家達』「あとがき」より)
はい、了解しました。空想、ですね。
しかしなあ。こちとら、そこまでオトナな読者じゃないもんでして。
なので、連作の掉尾を飾る短篇「転心」に「初見貫作」なる作家が登場してきて、さまざまに描写されているのを見ると、ついつい実在の作家を思い浮かべてしまうのです。ああ、イケナイ子。
「初見貫作は、歴史小説に新らしい分野を拓いた、将来、最も期待されている中堅作家であった。
初見貫作が主宰する「文学同盟」は、既成作家に鋭い批判を与えて、大家と称されるひとたちからは小うるさい存在となっていた。」(『作家達』所収「転心」より)
もうこれだけ読めば、ピンと来なきゃおかしいじゃないのさ、芳恵さん。
「尾崎秀樹著『大衆文学論』に付いている「大衆文学年表」によると、(引用者中略)「文学建設」が創刊されたのは、昭和十四年一月号からである。しかし、文学運動として働きはじめたのは、昭和十三年の夏ごろだったような気がする。この集会所に、新潮社の会議室を提供してほしいと、海音寺さんが社へ交渉に来た(引用者中略)
「文学建設」は、既成の大家に挑戦しようというふくみがあり、そのため社長の賛成を得ることができなかった」(昭和42年/1967年7月・新潮社刊 和田芳恵・著『ひとつの文壇史』
「武田麟太郎、林芙美子」より)
「正統な歴史小説を打ちたてようとした海音寺潮五郎は、機関誌「文学建設」の牙城から、さかんに吉川英治の作品へ巨砲を打ちこんだことがある。」(昭和53年/1978年4月・毎日新聞社刊 和田芳恵・著『作家のうしろ姿』
所収「人間・吉川英治」より)
そう。和田芳恵さんが関わった作家の数は、とても数えきれないほどですが、その中に、歴史小説の大家たちからも一目おかれていた海音寺潮五郎さんだって、当然入っています。
そりゃ、なんつったって、芳恵さんと海音寺さんの関係は深いです。海音寺さんが『サンデー毎日』長篇大衆文芸に入選した作品「風雲」(昭和7年/1932年~昭和8年/1933年)を読んで、芳恵さんは『日の出』編集者として、いち早く京都の海音寺に連絡したんです。その目のつけどころの早さゆえに、『サンデー毎日』以外で海音寺に原稿を依頼した最初の編集者、の名誉ある座についたぐらいでして。
その海音寺潮五郎……もとい「初見貫作」なんですが、実ははじめ、『さくら』編集部内の受けは、よくありませんでした。何度も書き直しを命じられていたそうです。
「初見貫作は、書く原稿も、書く原稿も駄目であった。書き直したら、どうにかなるだろうと、記者ずれのした編集長の佐山伸雄まで気の毒そうに言ったほどであった。(引用者中略)
その頃の初見貫作の小説は、大衆文学青年に喜ばれそうなもので、また、そのおぼつかないところに、苦渋をたたえた真摯なところがあった。津村啓三が、あきずに初見貫作の許へ通ったのもこんな小説を書く、木訥な人柄を好ましくおもったからであった。」(『作家達』所収「転心」より)
ちなみに、実際の『日の出』の編集長は、広瀬照太郎。ライバル・講談社の『現代』『キング』の創刊に立ち会い、「大衆雑誌づくりの神様」とか言われていた、デキる男だったそうです。
しかし、その初見作品に対する評価が、突如変わるときがやってきます。
「その中に、一年あまりたってから、やっと「さくら」に掲載された「海艶記」が、大衆文学賞を獲得した。これは「さくら」の記者の間では、読者にうけないと掲載に相当な難色があった。しかし、一度、賞を得ると、新らしい大衆小説の主流と脚並みがあっていたので、忽ち初見貫作の作風が歓迎されるようになった。」(『作家達』所収「転心」より)
「読者にうけないと掲載に相当な難色」とは、何をぐだぐだ言っておったのだ、『さくら』記者諸君よ。しかも、です。直木賞……「大衆文学賞」をとったら、ころりと手のひらを返しやがって。
……っていうのは、あくまで小説中の話ですからね。『日の出』編集部の人たちを笑うわけにはいかんのでありますよ。
それまで散々文句をつけていた小説(作風)が、賞をとったら、それだけで評価を変えちゃう連中。今でも、そういう人いませんかね。ワタクシは自分のことを揶揄されているのかと思って、つい襟を正してしまいました。
さて。それはともかく、芳恵さんが昭和17年/1942年の段階で、初見貫作「海艶記」(『さくら』掲載)=海音寺潮五郎「武道伝来記」(『日の出』掲載)を、文学賞受賞作と見立てて、小説にもぐり込ませているところに、ワタクシは感慨ぶかいものがあるわけです。
一般に、第3回(昭和11年/1936年・上半期)の受賞作は「天正女合戦」だといわれているわけですから。
「海音寺さんは「オール読物」に載った『天正女合戦』で、昭和十一年上半期の直木賞を受けたことになっている。しかし、正しくは「天正女合戦その他」で『武道伝来記』が選者のあいだで、どんなに好評だったかは選評を見るとわかるだろう。このころ、海音寺さんは、代々木上原の、やたらに部屋数の多い二階家に住んでいた。遅筆だった海音寺さんの『武道伝来記』を間にあわせるために、私は徹夜の泊り込みを続けたので、いまだに忘れないのである。」(前掲『ひとつの文壇史』「偉丈夫、山岡荘八」より)
そうだそうだ。ワタクシも、海音寺さんの受賞作は「天正女合戦、武道伝来記、その他」だと思っています。唯一、『日の出』誌から誕生した直木賞受賞作、それが「武道伝来記」。
ああ、芳恵さん、これにも関係していたのでしたか。
……っていうか、直木賞ということになれば、第1回(昭和10年/1935年・上半期)のエピソードからして、そうですよ。菊池寛が、さて誰を候補にしたらいいのかなと迷っていたときに、芳恵さんは他社の編集者ながら、「川口松太郎さんなど、どうですか」と進言したっていうし。
和田芳恵、あなたはいったいどんだけ直木賞に縁ぶかいのだ。
○
和田芳恵さんの本はたいてい、大衆文壇エピソードの宝庫です。
他の文献ではあまりお目にかからない、でも直木賞オタクにはヨダレが垂れてきてしかたのない、お話や作家名がポロポロ出てきます。
例えば。樋口一葉だあ? 大衆文壇には関係ないな、とか思っていると、
「昭和十一年に、下谷竜泉寺町の、一葉が小店を開いた跡の近くに「たけくらべ」の碑がたった。撰文は菊池寛で、筆跡は小島政二郎氏。このときも、馬場孤蝶のいやみを並べた新聞記事が出た。孤蝶は、たしかにふたりにかわるべき人であったが、このときの事情をいうと、菊池寛の秘書で文才のある佐藤碧子が、この町内に住んでおり、菊池寛が建碑の出資者になったのだから、一葉の理解者として認めていた友人の小島政二郎氏をわずらわしたのは当然なことであった。」(昭和44年/1969年7月・中央大学出版部刊 和田芳恵・著『愛の歪み』
所収「表面は女性だけの手で」より)
佐藤碧子(小磯なつ子)の名前が、すらっと出てくるんですもん。驚きますよ。
あるいは、草川俊さんという直木賞候補作家がいます。戦中の中国を舞台に、やや活劇ふうの面白い小説を書いていた方です。あまり商業誌での目立った活躍はなかったので、大衆文学史に登場することも少ないんですが、え!芳恵さん、草川俊さんと同人誌の仲間だったの?
「今度の旅は、石巻市の招待で、花火を見に行く気楽な旅であったが、これを企てたのは、私たちの同人雑誌「下界」の仲間、草川俊さんである。
彼は、この土地の出身だが、最近、二度続けて直木賞の候補に作品が選ばれ、それがきっかけになって四冊の単行本が出た。
石巻には、それまで作家が出なかったから、郷土の誇りになったらしい。彼は、東北の人にありがちな酒呑みで、たまたま、上京した兄に東京から作家を連れてゆくと約束したもののようだ。」(昭和45年/1970年8月・中央大学出版部/UL双書 和田芳恵・著『私の内なる作家たち』
所収「東北の旅」より)
それで、芳恵さんが仲立ちして、海音寺潮五郎さんを石巻に連れていくことになったとか。
「草川俊は、どこか大きく抜けたところがあった。」「草川氏が、ぶきっちょな手で弁当やお茶をくばる。」などなどの記述が、つい微笑をさそいますよね。草川さん、自分が故郷に錦をかざる旅に、当時の直木賞選考委員・海音寺潮五郎と同行するになってしまって、いやあ、緊張しただろうなあ、と想像してみたり。
こんなの、挙げていったらキリありませんよね。
芳恵さんが戦後はじめて書いた小説は、『西日本』に載せてもらった「塵の世に」らしいんですが、そのときの担当編集者が、なんと大屋典一さん。のちに彼は「一色次郎」の筆名で太宰治賞をとります。その後、芳恵さんは彼の書いた小説を直木賞に推薦したが、候補にも挙がらなかった、んだとか。
新潮社出身の、作家のエピソードも外せません。
奥村五十嵐(納言恭平)は、芳恵さんの前に三上於菟吉の担当編集者だった人ですが、酒で失敗したらしいですし。あるいは、河内仙介。
「和田 それから、「軍事郵便」の河内仙介。里見とん(引用者注:原文は「弓偏+享」の漢字)のところへ出入りしてたんですよ、作家になる前に新潮社の編集にいて。里見さんがああいう人相が気に入らないといって、うちにあいつは寄こさないでくれって。ほかに何も理由はないらしいですよ。そうすると、やはり辞めなければならなかったらしいですね。だからぼくはいちばん我儘だったのが大正作家でないかと思いますよ。」(昭和48年/1973年10月・講談社刊『大衆文学大系 第30巻』「月報30」所収「鼎談 大衆文学を語る(続)」より)
だって、今回のエントリーで取り上げる『作家達』の刊行に、アノ河内仙介さんが関わっていたなんて。はじめて知りました。
「上田広さんが出版の事を蔭ながら骨折ってくれている中に、公務で南方に赴く事になり、その事を知った私たちは急速に房総文学奉公会を結成して、旅立ちの賜物にしようとした。(引用者中略)
私は自分の書いた小説が、つまらなく思えてくるのであったが、私の小説を高く感じとってくれて、河内仙介さんが斡旋の労をとられ、泰光堂の鈴木吉平さんに出版して貰えるようになった事は、無名の新人である私にとっては望外の事であった。」(『作家達』「あとがき」より)
そうだった、河内仙介のことを語れる人間は、北条秀司さんや村上元三さんだけではなかったのでした。
にしても。和田芳恵、あなたはいったいどんだけ直木賞に縁ぶかいのだ!
○
直木賞のオモテとウラ、光と影を知り尽くす男。……とか書くと、あまりに手垢のついた表現で恥ずかしくなりますけど、でも、和田芳恵さんの編集者・作家としての歩みは、ついそう表現したくなります。
大村彦次郎さんが書いていました。
「永井(引用者注:永井龍男)さんも和田さんも、大衆雑誌の編集者としてスタートし、そのあと作家として著名になったが、そこへ至るまでの道のりでは、永井さんが友人に恵まれ、わりあい陽の当たる場所で、順調な歩みを辿ったのに対し、和田さんは損な役まわりをして、うだつの上がらぬ時間がながかった。評論家の平野謙が、
「新潮社に永年いると、和田芳恵のようなシワのおおい苦労顔になるよ」
といったそうだが、この話は当の和田さんから苦笑まじりにきいた。」(平成7年/1995年5月・筑摩書房刊 大村彦次郎・著『文壇うたかた物語』
「第一章」より)
平野謙といえば、『作家達』についても、何やら酷評をくだしたらしいです。芳恵さんの「自伝抄」(初出『読売新聞』夕刊 昭和52年/1977年8月9日~31日、昭和53年/1978年6月・文藝春秋刊『雪女』所収)にも、こうあります。
「私は最初に出た連作短編小説『作家達』以来、平野謙から、こてんこてんにやられどおしだった。」
具体的に、どんなふうにクサしたのかは、すみません、まだ調べ切れていません。
いや、わき道に逸れました。
かように苦労人の芳恵さん。しかも直木賞とは、切っても切れない間柄ですもん。同じく「切っても切れない間柄」にあった永井龍男さんとは、また違ったふうな直木賞観をお持ちになったと思います。なにせ長年、「文藝春秋社」の「外」から、直木賞を意識して眺めていた方の思い、ですからね。貴重です。
やはり後世に生きる者としては、拝聴せずにはいられますまい。
「どうも「直木賞」の場合は、その性格がはなはだあいまいなものになってきた。(引用者中略)
「直木賞」が、はっきりしなくなったのは、中間小説というジャンルができてからである。(引用者中略)
「直木賞」は既成作家賞ということに文壇で通念化されたが、これも、すこぶる不明確だ。」(前掲『私の内なる作家たち』所収「主として直木賞のこと」より ―初出『風信』昭和33年/1958年12月30日)
そこで、芳恵さんは二つの提言をされています。
一つは、選考委員の手にわたる前に、運営者が勝手に芥川賞・直木賞の候補を決めちゃうなよ、と。龍之介や三十五の生前をよく知る選考委員が、合同の会合をして、芥川賞らしい・直木賞らしい、っていうふうに候補作を振り分けるようにしなさいよ、と。
二つ目は、直木賞の枠を小説だけに限定するなよ、と。「小説よりもおもしろい」と言われるような、歴史研究の類も、文学として認め得るものなら、直木賞で取り扱ったっていいだろ、と。
まあ、芳恵さんは、こんな乱暴な言い方はしていませんけども。ワタクシが勝手に意を読み取って、書かせてもらいました。「直木賞オタクのフィルターのかかった文章なぞ、信用できるかい!」って方は、芳恵さんの原文を読んでね。
まあ、「生前をよく知る」つうのは、もはや今となっては無理でしょうけども。芳恵さんの文章が、選考委員に対する注文というより、日本文学振興会(=文藝春秋)への苦言、ってかたちに読めてしまうのは、そうですか、ワタクシだけですか。ごめんなさい。
ただ、ワタクシも、小説だけ(しかも、大手出版社から出た四六判の本だけ)っていうのは、いくら何でも視野せますぎじゃね?とは思うんですよね。お。芳恵さん、なんだか気が合いそうですなあ。
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