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2010年2月28日 (日)

直木賞とは……あれだけ注目を浴びて幸せの絶頂にいた人が、小説を書けなくなったら、そりゃ自殺したくなるはずですわ。――松木麗『恋文』

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松木麗『恋文』(平成4年/1992年5月・角川書店刊)

(←左書影は平成10年/1998年4月・角川書店/角川文庫

 こういう作品を取り上げ始めたら、際限がなさそうだよなあ。際限がない、というか、「小説に描かれた直木賞」の探索でワタクシの一生が終わってしまいます。

 ただね。この『恋文』、「文学賞」が登場する無数のミステリーの中でも、松本清張さんのやつや、森村誠一さんのやつと歴然と違う点があるとすれば……。これが公募の賞のために書かれた、「シロウト」作家の手によるものだ、ってことでしょう。

 出版や文壇の側にどっぷり浸かった流行作家じゃなく、まだデビュー前の、小説好きな一読者が描いた「文学賞」、ってことです。

 より純真な視点の「文学賞」観が、そこには表れているかもしれぬぞ、と言えるかもしれません。

 この作品には、一つの事件が描かれています。48歳の作家・上野兼重が死んだのは、自殺か他殺か。これをめぐって、女性検事の間瀬惇子の視点から、ああでもない、こうでもない、とストーリーが展開していきます。

「四月九日夜、歓迎会から帰宅後、購読し始めた地方紙の夕刊を開くと、大きな見出しが目に飛び込んできた。

  作家上野兼重、自殺――。

 享年四十八歳。十四年前、小説『最後の恋文』で文壇に名高い賞を受賞、その後も文筆活動を続けていたが、糖尿病や肝臓病で体を悪くし、三年前から入退院を繰り返していたという。」(『恋文』「第一章 桜」より)

 「文壇に名高い賞」。これが具体的に何て名前で、どんな作品・作家を対象にしているのかは、あまり説明されません。

 ただ、この賞は、単なる小説内のアクセサリーではなく、上野兼重が死ぬまでに至った文脈のなかで、非常に大きな役割を果たしています。

 まず『最後の恋文』って小説は、古典的な純愛小説だそうで、その後、映画化もされました。上野兼重は、この一作で賞をとり、有名になっただけでなく、ベストセラー作家の地位についたそうです。そう、これ一作が彼にとって唯一の「ベストセラー」だったのです。

「兼重が十三歳年下の規世子と再婚したのは『最後の恋文』を発表して二年後、三十六歳のときである。美男のベストセラー作家として一時期マスコミに話題になった作家と結婚したのである。当座は幸せの絶頂にあったはずの二十三歳の若妻が夫に失望していく様を想像するのは、悲しいまでに容易である。」(『恋文』「第二章 ファムファタール」より)

 兼重は、20代で作家デビュー。「新しい純文学をと様々な試みに挑んだ」らしいですが、芽が出ず、34歳のときに「己の本流だったらしい私小説」に戻り、『最後の恋文』を発表。高い評価を得て、名高い賞を射止めた、って流れです。

 しかし、彼のピークはそこまでで、以降はまったく振るわなくなってしまう。何か新しい世界を描こうとはしてみても、『最後の恋文』を越す傑作は生まれることなく、いつしか忘れ去られた作家になっていった……。と。

「若いころは前衛的ともいえる作風を試みていた兼重。だが、『最後の恋人』を境に、まるでそれまでとは別人のように、古典的な私小説の世界に埋没してしまったかの感がある。そこで、作家は、自由に伸び伸びと息をしているように思える。それが、この作家の本領であったことが、その安心感から分かるのだ。だが、同じ所にいつまでも佇んでいたのでは読者にも飽きられてしまうだろう。芸術家は常に新しいものに挑戦していかなければならない、大変な職業である。」(同「第二章 ファムファタール」より)

 これは、本作の主人公・惇子の視点です。惇子は検事ではありますが、自分で作家を志していたりもします。なるほど、「芸術家」ですか。えらいハナシを持ち出してきたなあ。

 いや、あれです、この「名高い賞」が実在の何かをモデルにしていないことぐらいわかります。まったくの虚構です。でも、「一人の作家が一気に頂点(?)に上りつめ、一気に廃れていく」背景を描くのに、松木麗さんは「名高い文学賞」を持ってきたんですもの、面白いじゃないですか。

 現実がどうかは、ともかく忘れましょう。質の高い作品(作家としての才能がある)、かつベストセラー(不安定な物書き稼業としてもある程度の収入が得られる)、かつ多くの人に存在を知られる(有名になる=華やかさ)。こういうふうな世界を演出したいときに、「文学賞」ほど便利な事象はないんですなあ。

 だって、こう書けば、読者の多くは「上野兼重が死ぬまでの数年間の苦しみ」を納得してくれるだろう、ときっと作者は考えたんでしょうから。

 少なくともワタクシ自身は、デビュー後に何年かの活動期間があって、突如発表された一作だけが飛び抜けて傑作であり(しかも「文壇に名高い文学賞」までとり)、その後まるで低迷、という例を寡聞にして知りません。

 そりゃあ、ワタクシの知識なんてちっぽけ極まりないので、何人かはいるのかもしれませんね。失礼しました。

 いや、だからワタクシにとって『恋文』は面白いのです。……なんつったって題名が『恋文』ですし。いや、連城三紀彦さん的な要素はまったくないんですけど。

          ○

 そうそう。この『恋文』の面白さは、作中に、芸術(!)と名声(!!)と成功(!!!)の権化として「文学賞」が出てくること。……だけにとどまらず、作者の松木麗さんの身に起きたその当時の現象があるから、なおさら面白いわけです。

「検事で作家、などと言われると、随分偉い人のようで、まるで自分のことじゃないような気がする。確かに検事は検事だが、成り行きでなったものが十年続いたというだけだし、作家もほんの卵である。

 平成四年二月、長編推理小説『恋文』が横溝正史賞(角川書店・東京放送主催)を受賞し、これが新聞、雑誌、テレビ等マスコミの取材攻勢にあったのは、私がたまたま検事という珍しい職にあったからに過ぎない。」(『婦人公論』平成5年/1993年1月号「検事で推理作家 二つの顔を持つ女です」より)

 さすが松木さん、よくわかってらっしゃる。そうですよ。もし、松木麗さんが賞を受賞したのではなく、持ち込み原稿か何かで、静かに(?)デビュー作を出していたら、マスコミの取材攻勢はもうちょっと控えめだったかもしれません。

 いや、もうちょっと違う角度からの取り上げられ方だったかもしれません。

「ペンネーム松木麗(れい)。肩書は名古屋法務局訟務部付検事。(引用者中略)身長一六九センチ。明朗、快活。テレビドラマのすご腕“女性検事”をほうふつとさせる。

 自宅でひそかに書き続けた推理小説「恋文」が横溝正史賞を受賞。「佐々木さんが小説を書いてたなんて」と検事仲間から驚きの声で迎えられた。(引用者中略)

 「恋文」は夫を殺害した女性と女性検事が法廷の内外で対決する。「夫殺しは女の気持ちが一番出せるテーマ。法廷場面はかなりリアルに面白く書けました。実際の裁判は小説ほど面白くない」。五月に出版予定。」
(『北海道新聞』平成4年/1992年3月5日「ひと92 人間の内面探る、法廷場面はリアルで面白く」より)

 この回の横溝正史賞の受賞決定は2月5日。その1か月後の記事です。

 ところで、質問があります。この記者、じっさいに『恋文』読んだの?

「受賞作の「恋文」(五月下旬、角川書店から発刊予定)は、わずか一か月半で、原稿用紙四百枚を一気に書き上げた。(引用者中略)

 さて、その作品だが、検事らしくなかなか口が重い。やっと聞き出したところでは、夫殺しの被告と女性検事との心の葛藤を描いた「心理ミステリー」とか。自分の経験が下敷きにあるようだ。

 「法廷場面や捜査の内容も出てきますが、描きたかったのは人間そのもの。ドンデン返し? あるんじゃないですか」

 と思わせ振りだ。」(『週刊読売』平成4年/1992年3月22日号「横溝正史賞の「松木麗」 正体が現職ヤリ手女性検事と分かった後の周囲の驚き」より)

 す、すばらしい。松木麗さんが、どんな作品で受賞したのか、本人に聞き出している。週刊誌にとっては、それがどんな作品であろうと、たぶん、どうでもいいのだ。「検事が受賞した」ことだけが意味がある。だから、『恋文』が刊行された後の5月以降ではなく、まだほとんどの人がそれを読んだことのない段階で、記事にしちゃうのだ。

 ……これぞ、「文学賞」の、もとい「賞」の楽しいところだなあ。

 要は、文学賞の性質のなかには、そりゃあ「いい作品が選ばれる」って面もあるかもしれませんよ。でも、それがきっかけで有名になるとか、「○○賞作家」の肩書で名前が通る、っていうのは、ほとんど受賞作の出来とは関係ないんだな。という、しごく自然なハナシが、松木麗さんの界隈でもあったんですよね。

 いや、松木麗作品がどうのとか、本名・佐々木知子さんがどうのとか、そういうことを言いたいわけじゃないのでして。

 ひょっとすると、上野兼重が、あまり新作を書けなくなってしまったのは、妻の規世子や、息子の邦生や、検事の惇子が、当然のように導き出した答えどおりじゃなかったのかもしれんぞ。佐々木知子さんが小説を書く意欲をなくして他のことに興味をもって活躍されているのを見るにつけ。

 おお。なかなか深い作品じゃないか。『恋文』は。

           ○

 そもそもワタクシが『恋文』に関心を抱いたのは、横溝賞のお決まりとして、その年の暮れに、TBSでドラマ化されていたからです。

 作中で、上野兼重は純文学を書いていた、と出てきます。

 検事の惇子は、兼重の『最後の恋文』以外の作品も読んで、こんな感想を抱きます。

「ミステリーは、あっというトリックやどんでん返しがあって、その印象は鮮やかだ。純文学や中間小説の分野でも、新しい素材や構成で読者を離さない作家は多い。だが、兼重のように、筋や構成ではなく、文章そのもので読ませるタイプの作家は本来地味である。どの小説を読んでも、ここのこの表現は巧いなあ、と感心させられることはあっても、小説自体にはそれほど目新しいものはなく、従って、これといって印象に残るほどの著作はないというのが正直な感想だった。」(『恋文』「第二章 ファムファタール」より)

 ひひ、一般読者の目は手厳しいなあ。目新しいものなきゃ駄目ですか。

 まあ、それはいいとして、文庫版の裏表紙にあるあらすじでは、

「純文学作家・上野兼重が自宅で死体となって発見された。」

 と、思いっきし「純文学」と打ち出してあります。

 これだけ見れば、直木賞専門ブログがちょっかいを出す筋合いは、ありません。

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 でも、ネットに公表されているドラマ「恋文」のキャスト欄には、こうあるわけです。

「上野兼重(“直井賞”受賞作家、惇子の元恋人)」「BS-TBS」のホームページ内 2009年10月5日放送ドラマ「恋文」の紹介ページより)

 ナイス。

 富澤有為男の『東洋』以来(かどうかは知らねども)、めんめんと受け継がれてきた日本の伝統芸能の型をほうふつとさせる、賞名の名づけ方。「直井賞」と来ましたか。

 ええ、このドラマも、やっぱり「二時間ドラマ」の定石を踏んで、原作からそうとう改変されているらしい、ってことは、当時のテレビ欄を読んでもわかります。

「小説をテレビドラマにする場合、多少の変更は仕方ない。この作品では、情感あふれる描写と張り詰めた法廷劇を織り交ぜて、原作の持ち味は守った。

 しかし、上野を惇子の昔の恋人に仕立てたり、別の殺人事件を付け加えることは、必要なのだろうか。また、最後のどんでん返しになる遺書のトリック崩しは、不自然なのではないか。」(『読売新聞』平成4年/1992年12月7日 首都圏版テレビ欄「試写室 情感と緊張 原作の持ち味守る」より 署名「(恭)」)

 小説原作をドラマにするときにどこまで脚色を加えるのが許されるか、みたいな壮大なハナシに持っていくのは、ワタクシの任じゃありません。

 ともかく、ここでは、原作『恋文』は映像的にも、あるいは主人公の立場や環境も、地味だよね、それなら、上野兼重を惇子の恋人だったことにしちゃえ、殺人事件ももう一つ発生させちゃえ、という思考回路がドラマ側にあったんだな、と確認できました。

 そして、それと同じレベルで、じゃあ「文壇で名高い賞」を「直井賞」と名づけちゃえ、っていう創作がドラマ側に働いたことが、面白いと思うのです。

 だって、パーッとテレビや週刊誌や新聞で取り上げられて有名になるのが、作家のいのちでしょ。数年たって、そこらのマスコミで見かけなくなったら「消えた作家」「何も書けなくなった作家」に分類していいんでしょ。そうなったら、ほら、みんな死にたくなるよね。……という見立て。

 乱暴すぎますぞ、と言いますか。笑うに笑えないよ、と言いますか。

 でも、文学賞の存在なんてそんなもんですか。一般的な認識としては。

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コメント

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投稿: 佐藤 大輔 | 2010年3月15日 (月) 15時12分

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