直木賞とは……競馬レースに見立てて予想やて? ったく候補者の気持ちも知らんと……。――阿部牧郎『大阪迷走記』
阿部牧郎『大阪迷走記』(昭和63年/1988年3月・新潮社刊)
四の五の言わずに、まずは、この方の発言に目を向けてみましょう。語り手は、島根の人なのに「難波」の名をもつ直木賞作家@大阪、です。
「直木賞、芥川賞という二つの賞について気づいたことは、大阪・関西では圧倒的に直木賞作家が多く、芥川賞は本当に少ないということです。賞ができた昭和一〇年から六三年が過ぎましたが、不肖私も入れて関西出身の直木賞作家は一三~一四人です。これに対し芥川賞は私が知る限りでは三人です。」(平成13年/2001年1月・創元社刊『未来都市を語る―生活・文化・環境と経済社会』所収「第一章 文学から見た大阪、大阪人」難波利三 より)
えーと。難波さん、さすがに「3人」ってのは言いすぎじゃないですか。櫻田常久、由起しげ子、五味康祐、庄野潤三、開高健、河野多恵子、田辺聖子、阪田寛夫、三田誠広、米谷ふみ子と、大阪生まれで10人(高橋三千綱は東京っ子と見なして外しました)。関西圏と言ったら、辻亮一とか宮本輝とかも入れたいところですしね。この全員が「関西出身」とまで言えないにしろ、そこまで直木賞と芥川賞に偏りがあるとは言えないでしょうよ……。
っていう、まともなツッコみはさておきまして。
いいのです。直木賞は大阪。大阪といえば直木賞。直木三十五がただ一人そこで育っただけで、もうこの公式は成立するのです。
東に野坂昭如『文壇』があれば、西に阿部牧郎『大阪迷走記』がある、って名言があります(?)。『大阪迷走記』は、昭和40年代、直木賞が絶好調だった時代を中心とした貴重な文献です。いや、大阪近辺での直木賞ネタがふんだんに盛り込まれているだけに、より貴重さを増している私小説なわけです。
「大村記者(引用者注:講談社の編集者・大村彦次郎)がどこかへ電話をかけにいった。席にもどって報告した。
「文春では阿部さんは黒三角らしいです。新潮社では無印。うちでも黒三角。まあダークホースというところですかな」
出版各社の編集者が、両賞(引用者注:直木賞と芥川賞)の候補者を馬に見立てて賭けをしているらしい。
酷薄なものだな、と私は思った。候補作家にとって、賞の行方は死活問題である。作家としてやっていけるかどうか、選考結果で大きく左右される。私は尻ごみしているが、蒼白になって発表を待つ人もいるはずだった。それが賭けの対象になる。」(『大阪迷走記』「新しい街」より)
文春だけでなく、まわりの出版社もせっせと賭けを楽しんでいるのが、よけいに酷薄感を増します。
ちなみに、これは阿部さんが初めて直木賞候補になったときのこと。第59回(昭和43年/1968年・上半期)の、ある風景です。
とにかくこの自伝風小説は、正直さがいちばんの取り柄と言ってもいいでしょう。ねえ。たとえば、妙に残る場面がいくつかあるんですが、そのうちの一つは安岡章太郎をとらえたこんな記述だったりします。
安岡さんは、阿部さんがデビュー前に文學界新人賞に応募したとき、その選考委員をやっていました。
「「葡萄屋」で飲みながら、ふっとうしろをみた。安岡章太郎氏がきていた。両手でホステスの胸にさわっている。新人賞で黙殺された直後でもあり、私は興味津々でながめた。わるい印象ではなかった。小説の名手の、人間味にふれた心地がした。」(『大阪迷走記』「旅立ち」より)
思いっきし両手で行っちゃうのね安岡さん。……とか、あるいは、毎日新聞に載った平野謙の文芸時評に主人公・阿部青年がムカッとするところとか。
「「倉橋(引用者注:倉橋由美子)には文学的エネルギーが感じられる。阿部のほうは中間小説の才能であろう」
平野謙はそう書いていた。
私は大いに不本意だった。けなされたと思った。こっちだって純文学、本格小説のつもりで書いている。中間小説の才能だなどと安直にきめつけてもらいたくない。だいたい文学的エネルギーとはなんのことだ。石油や石炭じゃあるまいし、文章に熱量の差があってたまるもんか。
倉橋由美子の作品を読んでみた。おもしろくない。最後まで読みとおすのが苦痛だった。第一よくわからない。文学的エネルギーとは、難解な文章を書く能力のことかもしれない。」(『大阪迷走記』「五分の魂」より)
ははは。「最後まで読みとおすのが苦痛」ですか。正直なことです。
はてまた、直木賞の関係でいいますと、時の選考委員・海音寺潮五郎の鑑賞眼を、ためらいなく軽蔑するところとか。
「海音寺潮五郎が選評で私のことを、「だんだん下手になっている」と書いた。功成り名とげた人にしては心ない評をするものだと思った。逆に海音寺の鑑賞眼を軽蔑するようになった。
(引用者中略)技術はあきらかに向上していた。だが、自分の体験を材料にしたので、できばえは地味だった。老人の選者の目をひく素材をとりあげなかったというだけのことだ。向上の実感は、じゅうぶんにあった。だんだん下手になるどころではなかった。笑わせるな、と私は思った。心ない選評によって、かえって体にエネルギーがみちあふれた。」(『大阪迷走記』「新しい街」より)
おお。若手作家が大御所に対して抱く、健全なる怨念の誕生が、こんなところにもありましたか。
○
阿部牧郎さんは、長ーい直木賞落選生活を送りました。そのなかで、やっぱり第59回(昭和43年/1968年・下半期)のときの、思い出ぶかきエピソードを書き落とすわけにはいかんでしょう。
今日のエントリーの最初でも触れた、阿部さん初候補のときです。
そのまえに予備知識をひとつ。阿部さんはデビューする前、大阪で同人誌に参加していました。『雑踏』という名の雑誌です。中心人物は、「右京の僧」で芥川賞候補になった吉田克。ほかに佐和晋治、服部一民、藤井綏子などがいました。
それで、場面は、第59回直木賞。けっきょく「受賞作は無し」と決まってしまい、阿部さんは編集者や作家がたまり場にしていた、四谷のスナックバー「マロード」に行こうとします。しかし、先輩の野坂昭如さんは、それを止めようとするのです。なぜか。
「「立原正秋があんたを撲るといって待っているんだ。へたに顔をだすと、剣道対野球の喧嘩ということになるぞ」」
むむ。どうして立原正秋なんちゅう流行作家が、阿部ごときのペエペエを憎んでいるのか。阿部さん自身には、覚えがありません。すると、野坂さんが教えてくれます。
「「あんたは〈雑踏〉の同人だろう。その雑誌の編集後記に、立原の雑誌の悪口が書いてあったらしい。立原は怒り狂って、阿部は〈雑踏〉のメンバーだから撲るといっている」
立原正秋は最近まで同人誌〈犀〉を主宰していた。その〈犀〉の休刊について〈雑踏〉の主宰者が批判的な文章を書いたらしい。それを知って立原は激怒した。根拠のない批判だということだった。」(『大阪迷走記』「新しい街」より)
なにをこのヤロと阿部さんは逆に腹を立てて、その晩「マロード」に駆けつけるのですが、立原は現れず。なにごともありませんでした。
が、阿部さんは、なんだか薄ら寒い思いを抱くのです。
「〈雑踏〉の人々と私は会わないようにしていた。彼らの何人かが私のことを、
「阿部は一、二作原稿が売れただけで、有頂天になって会社をやめた」
と評したのを知ったからだ。
なんというまずしい解釈か。そんな貧困な魂で、ろくなものが書けるわけがない。(引用者中略)
その同人雑誌の文章のせいで、私は流行作家の憎しみを買った。こんなばかばかしい話はない。文壇も日本の社会の一部だった。人と人との関係が、予想以上に複雑である。」(『大阪迷走記』「新しい街」より)
出ました。しばしば耳にしますよね、昭和40年代の、同人誌まわりの嫉妬バナシ。まったくこれって『大いなる助走』が書かれる土壌そのものですよね。
おっと。筒井康隆さんのことにハナシが及んじゃいました。となれば、もちろんこのとき阿部さんの近くに、筒井さんがいたことも触れざるを得ません。同じ直木賞の候補仲間として。
選考会前日のこと、若手の作家や編集者の集まりである「酔狂連」の例会がありました。出席者は、野坂昭如を代表格として、後藤明生、田中小実昌、筒井康隆、佐木隆三、石堂淑朗、小中陽太郎などと、そして阿部牧郎。
「そのときは後藤明生が芥川賞の、筒井、佐木、私の三人が直木賞の候補になっていた。候補になった者は、選考をあすに控えておちつかない気分でいる。候補者の気をまぎらわせがてら、さかなにする魂胆の会だった。」(『大阪迷走記』「新しい街」より)
演歌や猥歌をうたうのが会の定番。なのに、佐木さんは「無法松の一生」を歌い、筒井さんはギターの弾き語りで「ブルーシャトー」をうたったそうな。
「両者とも演歌、猥歌の枠からはずれていた。佐木はほかに持歌がなかった。筒井のほうは、万事、枠からはずれることを生甲斐にしていた。」(『大阪迷走記』「新しい街」より)
翌日、結果はみんな落選ということになるわけですが、落選組のひとり、佐木隆三さんは、かねてから約束していたのか、みごと丸坊主にされちゃいます。ハサミを入れたのは、華道家の安達瞳子さん(「瞳」の字は正確には日+童)。こんな感じだったそうです。
「床屋に行くと風邪をひくという父の白髪を悪戯半分刈ったことはあっても、文学賞に落ちたという折檻に、大の男を勝手に丸坊主にしたのは始めてだ。(引用者中略)
頭皮すれすれグイッと鋏を入れて真ん真ん中から刈り出したのだから、それを隠すように、或は、強調するように、心優しい悪童達が次々に鋏を入れて行くうちに、前髪だけが庇のように残り、後の九十パーセントはクルリ二分丸坊主だ。」(『オール讀物』昭和43年/1968年11月号「あいつの私事権」 安達瞳子「バリカン」より)
しかし、その効果てき面(……でもないか?)、佐木さんは第74回(昭和50年/1975年・下半期)にいたって、めでたく直木賞受賞。パチパチパチ。
いっぽう筒井康隆さんは、阿部さんが第98回(昭和62年/1987年・下半期)に8度目の候補でようやく受賞したとき、当時を振り返りつつ、こう書きました。
「二十年前のことだ。阿部牧郎、佐木隆三、筒井康隆の三人はある遊びのグループのメンバーであり、三人一緒に直木賞候補となって三人一緒に落選した。それから苦節十年、佐木隆三が受賞した。さらに苦節十年、阿部牧郎が受賞した。おれはこれからさらに苦節十年をやらなければ貰えないらしい。そのことを陳さん(引用者注:第98回当時の選考委員でもあった陳舜臣)に話すと、陳大人さすがに、いつまでこだわっているのかというあきれた眼でおれを見たが、しかしおれの名前や笹沢佐保 (原文ママ)の名前は選考会の席上、やはり出たらしい。阿部牧郎に受賞させるなら彼らはどうなるのかという話になったそうだ。」(平成3年/1991年9月・中央公論社刊『幾たびもDIARY』「一九八八年二月十二日(金)」より)
ほんと、そうだ。
佐々木譲さんにまだ資格が残っているのなら、以前ブログで触れた夢枕獏さんだって、あるいは志水辰夫さんだって、当然、まだまだ直木賞の射的距離内ってことになりますね。ええい、このさい、北方謙三さんももう一回ぐらい候補にして、「円地文子の踏み絵」を再現しちゃえい。
○
阿部牧郎さんのことに戻ります。
彼を含め、昭和50年/1975年ごろまでの、直木賞(芥川賞も)候補者たちには、ちょくちょく、とある方面から悪魔のささやきが押し寄せてきたようです。
おわかりですよね?
ほら、何度も直木賞候補に挙がりながら、全然とれなかったころの難波利三さんも、やっぱりそう。
「恥ずかしい話ですが、その頃、世の中に「ポルノ」という言葉が出はじめていて、「難波さん、もう直木賞なんていいやないですか。ポルノやりましょう。ポルノ」という雑誌編集者のささやきに誘われ、本心とは裏腹ですが、しかし今よりも熱心にスポーツ新聞や週刊誌などにポルノ小説を書いていました。
直木賞をもらった時に一番先に思ったのが、新書版で二〇作品ほど書店に並んでいる私のポルノ小説を、全国の本屋を回って、あれを回収してまわろうかということでした。」(前掲「文学から見た大阪、大阪人」より)
いやあ、阿部さんなんか、難波利三の比じゃないでしょう。もう阿部牧郎を直木賞作家として認識している人より、ポルノ作家と思っている人のほうが、まだ多いんじゃないか、ってくらいで。
「郷里の同好者の雑誌に、私の原稿を載せようという話があったとき、あれはたんなるポルノ作家だから止そうと主催者が反対したという話もきいた。ポルノ小説を書いていると、業界以外の人間には軽蔑されるのである。いや、ほんとうは業界内でも軽視される。ひがみでなくて、思い当たることがいくつもある。性に関係のないテーマで書いた作品にもう一つ成功作のなかったのが、私としては誤算だった。」(平成2年/1990年7月・文藝春秋刊『毎日が〆切日』所収「流行作家」より)
地道に中間小説誌で活躍していたころの阿部さんが、7度目の直木賞候補になったのは、第71回(昭和49年/1974年・上半期)のとき。それからポルノ路線をドカドカ書いて、10何年もたってから、昭和62年/1987年・下半期に、まさかの8度目の候補になりました。
まさか、でしたでしょう。ベテランの域であり、またポルノ系で名を馳せたあとの、阿部さんが候補になるんですから。
で、このとき、スポーツ新聞がよくやっている受賞予想では、完全に阿部さんは不利、または無視されていたそうです。
……つうか、阿部さんったら、筆一本で立派に何十年もやってきたベテランにも関わらず、達観したりクールな風を装わずに、直木賞ごときのことを、むちゃくちゃ気にしているふうなんですもの。正直者め。
「報知新聞が競馬に見立てて両賞の選考結果の予想をやった。私は心臓に斧をぶちこまれたようなショックをうけた。私の評価は無印であった。文化部と評論家の山本容朗氏の双方が私を無視しにかかっている。鼻で私は笑おうとしたが、できなかった。それでなくても神経質になっている。こんな評価もあるのかと思うと打撃は大きい。
(引用者中略)
スポーツニッポンもレース仕立ての予想をやった。私はこちらでは黒三角だった。阿部はポルノを書きまくったから、受賞の資格なしと武蔵野次郎氏がコメントしていた。時代錯誤の感はあるが、これはこれで一つの見識であろう。」(『大阪迷走記』「霧の彼方」より)
んもう。山本容朗さん、ダメねえ。かつて直木賞・芥川賞についてのエピソードの書き手がいなかった時代には、文藝春秋の出版物に、やたら両賞の事情通っぽく原稿を載せてた容朗さんらしくもない。予想マル外れじゃないですか。……いや、逆に容朗さんらしいのかな。
そうそう、この新聞の予想記事に対して、阿部さんはまた別の意味で、ちょいキレかかっているんです。
昭和60年/1985年ごろの流行作家の弁ですので、今の候補作家の気持ちとはまた違うかもしれませんけど、何かまっとうな心理のような気もします。
「はたからみればコンテストの一種なのだから、個人が賭けをやるのは勝手だろう。だが、紙面でこれをやる。おとしめられた書き手にどんな傷をあたえるか、想像もできないのだから、非文化的な「文化部」である。しかも、ふだんコメント取材などで人を利用しておきながらである。尻馬に乗って○×をつける「文芸」評論家の存在にはあきれはてた。書き手がどんな気持でこの賞に臨むか、まるでわからずに解説やら評論やらができるのだから、文壇とは案外あったかいところである。」(『大阪迷走記』「霧の彼方」より)
20数年たっても、競馬に見立てた予想、新聞記者たちはまだやっています。受賞する白石一文『ほかならぬ人へ』が、完全に無印なあたり、的中率は相変わらずハテナマークですけど。
ったく、こんなことで楽しんでるから、文学賞ってやつは良識ある人たちから煙たがられるんだよな。しゅん。
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コメント
このエントリー書いてから、いつも来るエロエロ系のトラックバックが、
やっぱり送信されてきました(すぐ削除しましたが)。
「阿部牧郎さんのこと書いたんだから、無関係とは言えないし、そのまま残してもいいかな」と
一瞬、迷ってしまった自分の理性を疑います。
もう。阿部さん。罪つくりな人だ。
投稿: P.L.B. | 2010年2月 1日 (月) 01時57分