直木賞とは……一人前の作家と認められる証だ。受賞すりゃ好きな女と一緒に寝られるし。――川口松太郎「文学賞」
川口松太郎「文学賞」(『オール讀物』昭和45年/1970年10月号)
せっかくの直木賞ウィーク明けです。「ところで直木賞って始まったときはどんなだったんだ?」ってことを、ちょいと考えてみるのも乙なものかと。
川口松太郎さんは、生前は「ミスター・直木賞」クラスな人でしたので、直木賞を語ったエッセイ・対談の類いは、きっと無数にあります。直木賞を描いた小説も、もしかしたら数多くあるに違いないのですが。ワタクシは、たぶんみなさんと同じく、川口作品をほとんど読んだことがありません。
そのなかで今回取り上げるのは、『オール讀物』創刊450号記念号(昭和45年/1970年10月号)に載った、この小説です。「文学賞」。川口さんがバンバン書いていた「信吉もの」の一つです。
信吉ものとは。過去の自分自身を「信吉」なる人物に見立てて、自伝っぽいエピソードに一ひねり二ふねり加えた短篇のことです。小説「文学賞」では、「信吉」が、とある文学賞をとる前後のことが描かれます。
ハナシの筋そのものは、文学賞のあれこれではなくて、「青年が世に作家として認められるまでの苦渋」がメインです。永井荷風とのエピソードが綿々と綴られます。
「信吉」は大阪の雑誌編集者だったころ、何度か偏奇館に永井荷風の原稿をとりに行ったことがあって、そこでは相当好意的に面会できた。後年、仲間の無名作家たちといっしょにいるとき、銀座の喫茶店で偶然、荷風の姿を見かける。そこで、ちょっと得意げに荷風に声をかけたら、「どなたでしたか」と完全に忘れられていた。カッとなって荷風に手をかけた。うんぬん。
それで、当時「信吉」が狙っていた洋食屋の女主人・早苗に「荷風を超えるような作家になればいい」とか何とか励まされる。よおし、小説をまじめに勉強しちゃろうと決意して、小説を書く。そのうちの一篇が、先輩作家の目に止まり、大衆文学賞の候補になった、ってストーリーです。
「候補作に上げられたと判ると、今度は急に落着かなくなった。文学賞を与えられることは流行作家になれる意味を持ち、賞を得て四、五年経てば一流の大家扱いされる。作家の運命を決定するような大きな賞だ。候補作になった事が、一般にも知れ渡るといよいよ落着けず、部屋にじっとしている事が出来ずに銀座へ出て青い鳥(引用者注:早苗の洋食屋)へ行った。」(「文学賞」より)
ただし、「信吉」にとって賞が欲しい理由のひとつは、以前、早苗と「一人前の作家として売り出す日が来たら一緒に寝る」という約束がしてあったから、なのだそうで。
「「もしも賞に入ったら約束があるぞ、まさか忘れないだろうな」
早苗はうなずいた。忘れるものかといいたそうに
「何とか賞を貰いたいね」
「その上で早苗を抱いて寝たいな」
「馬鹿ね、そんなことは末の末よ」
「いや俺には大問題だ。作家になれた上に長年の恋が叶うのだ」」(同「文学賞」より)
さすが、当時の選評で、作品評だけじゃなく生活態度まで議論のネタにされた川口さんのことだけはある。……小説「文学賞」は、事実どおりじゃないんでしょうけど。
あと、念のため注意すべき点を挙げておきます。
川口さんが実際に直木賞をとったのは、まだ直木賞が海のものとも山のものとも知れぬ、第1回(昭和10年/1935年・上半期)のこと。候補作が事前に新聞に出る、なんて、もちろんない時代です。芥川賞なら、ひょっとしてどこかのゴシップ欄に、有力候補のことが出てたかもしれませんが。
要は、小説「文学賞」の受賞前後のくだりは、70歳になった大衆文壇の大家・川口さんが、むかしの自分自身の体験を、昭和45年/1970年ごろの「直木賞」の枠組みにハメ込んでいるわけです。
昭和45年/1970年といえば、直木賞は第63回あたり。結城昌治・渡辺淳一の両氏が受賞したころです。
そのころと現代とで、「直木賞」の様相が全然ちがうのは、わかります。「作家の運命を決定する」、そんな側面もあったのかもな、と想像できなくありません。でも、「賞を得て四、五年経てば一流の大家扱い」ですと? 「直木賞」ごときに、そこまで威力のあった時代が、あったんですか。ワタクシは寡聞にして知りませんけど。
おっと、1970年代のことに目を奪われている場合じゃないのでした。今日は、もっともっと昔……、川口さんがじっさいに受賞した昭和10年/1935年にフォーカスしたいのです。
○
まずは、大衆文学史の語りべ、大村彦次郎さんの視点をお借りします。
昭和はじめ頃の川口松太郎のことについて。
「川口は早く小説を依頼されて書きたかったが、編集部(引用者注:『文藝春秋』『映画時代』『新青年』などの雑誌)の意図する注文はもっぱら映画読物の類で、一人前の作家として認められるにはまだ時期尚早だった。この間に直木(引用者注:大阪のプラトン社で川口と一緒の『苦楽』編集部にいた直木三十五)のほうは新聞連載の「南国太平記」などを書いて、いちやく流行作家の最前線に進出していた。川口の三十歳前後の数年間は作家として売り出す前の、雌伏する苦闘時代であった。」(平成19年/2007年7月・筑摩書房刊『万太郎 松太郎 正太郎 東京生まれの文人たち』「II 川口松太郎」より)
そんな川口さんが昭和10年/1935年にいたって直木賞をとるのは、ほとんど偶然の産物でした。菊池寛たちに注目された「鶴八鶴次郎」の発表は、昭和9年/1934年、それから一年後の昭和10年/1935年夏の選考会のころには、すでに、
「新人としてはすこし有名になり過ぎているのではないか、という意見がそれぞれの選者から出た。早くから編集者をしていた川口は選者の誰とも顔見知りであった。」(同『万太郎 松太郎 正太郎』より)
っつうぐらいですからね。もしも直木賞があと1年2年、遅くできていたら。川口さんがとれたかどうか、難しいところです。いかに、川口さんが直木賞を欲しがったとしても。
「川口は大阪の『苦楽』時代を通じて、直木の身辺にいたから、その人物の機微については誰よりも熟知していた。直木賞が創設されたと聞いたときは、真っ先に自分が貰いたい、と心底思った。」(同『万太郎 松太郎 正太郎』より)
心底思っちゃいましたか。松太郎さん。
文壇内外からの毀誉褒貶も激しかったボスが仕切っている、一ベンチャー雑誌の企画だっつうのにねえ。すでに直木賞は、特定の人種に対しては、魅力の光線を放っていたのですなあ。「賞の名前」の勝利なんでしょうか。太宰治さんのあのハナシだって、「芥川賞」って名前じゃなかったら、成立しなかったかもしれないわけですし。
○
ただ、まったくの私見ですけど、直木賞・芥川賞は、創設された段階で、ある種の「胡散くささ」を撒き散らしていた、と思います。それは、『文藝春秋』や『オール讀物』に載った創設の「宣言」と、その記事について、両誌が各新聞に広告を出したときの、でっかい見出しのせいなんです。
「芥川・直木賞制定
弐千円を新人に提供す!」(『文藝春秋』昭和10年/1935年1月号より)
つまり「小説を書こう! そしたら大金が手に入るよ!」ってことです。
もちろん、今となっては、何のこたあない売り文句かもしれないですけど、「懸賞小説出身のやつは何か格が低い」って思う人が、当時はたくさんいたと聞いております。そんなご時世に、「弐千円」と金額をうたう広告が、新聞にババッと出たんですから。感覚の問題として、さぞかし「胡散くせえ」と顔をしかめた人もいただろうな、と。
だいたい、受賞者に与えられる賞金は一人500円、だっていうのに、どう計算したら「弐千円」になるんだ? ……そんな疑問に、佐佐木茂索さんが答えてくれています。
「この賞金が制定されるまでには、色々な試案があった訳だが、其一つに、授賞を年一度にして、賞金を千円にしたらというのがあった。同じ金額を負担するにしても一度に二千円出した方が何となく派手であるが、一人に千円贈るよりは五百円ずつ四人に贈った方が、「文運隆昌」に余計資し得るように考えたから、発表されたが如く決定された訳である。」(同『文藝春秋』昭和10年/1935年1月号「委員として」より)
文春は一年に2,000円までなら出すことができる、っていう意味での「弐千円」なわけですね。広告でお決まりのフレーズ「総額○○万円(○○億円)!」そのじつ、一人ひとりに行き渡るのは、微々たる金額、というのと同じハナシです。……ここにもまた「胡散くささ」がひそんでいたり。
で、そもそも直木賞・芥川賞というのは、最初の菊池寛の案では、懸賞小説(公募型の文学賞)でした。これを、佐佐木茂索が、各新聞の学芸部・文化部の記者たちに相談してみたところ、「原案のままじゃ面白くないじゃないか、印刷されたものでも、新人であればいいじゃないか、文藝春秋へ生原稿で投書して来たものだけを対象にしないほうがいいんじゃないか」と意見が出たので、それを採用しました。茂索さんがそう回想しています(昭和57年/1982年7月・文藝春秋/文春文庫『回想の芥川・直木賞』所収 永井龍男・佐佐木茂索「芥川賞の生れるまで〈対談〉」より ―初出『文學界』昭和34年/1959年4月号)
だけど、いまみたいに、「発表済みのものだけを対象にする」とは、なぜか振り切れなくて、少なくとも第1回と第2回は、直木賞・芥川賞の候補になるかもしれないよって触れ込みで、一般から原稿を募集しました(第3回以降のことをご存じの方がいたら、ぜひ教えてください)。
そのとき、これを真に受けて応募した一人の作家志望者の、貴重なる弁。……のちにちゃんとデビューして直木賞も受賞する田岡典夫さんです。
「第一回の直木賞はその後と選考方法がちがって一般からも募集したのである。それで私は「土佐国漁師百次漂流聞書」という五十枚ほどのものを書いて投稿した。むろん、それは屑籠直行で、受賞作はすでに作家として幾つかの作品を発表していた川口松太郎さんの「鶴八鶴次郎」であった。それで私は「なあんだ、一般募集というのはほんのたてまえだけで、自分などの出る幕ではなかったのだ」と思ったものである。」(昭和56年/1981年2月・平凡社刊『ととまじり』「博浪沙」より)
そうだ、直木賞なんて、はじめっから「実績主義」であって、新人発掘と言いながら、名の知れた作家にしか受賞させないのだ……というのは極言すぎるので、金輪際いわないようにしなきゃなあ。現在の「実績主義」と、当時のそれでは、レベルが違いすぎますもの。川口松太郎さんだって、直木賞を受賞するまでは単著の一つもなかったんですし。
それはそれとしまして、田岡典夫さん以外にも、文春の告知を見て、勇んで原稿を送った人は数多くいました。いたはずです。応募総数は不明ですけど、第1回、第2回で予選を通過した人たちの名前と作品名は確認することができます。なぜか、こんなブログで一挙転載しちゃいます。
まずは、第1回特別創作原稿募集(投稿期間:昭和10年/1935年1月~4月25日)から。「創作」「戯曲」部門は芥川賞向け、「大衆文芸」部門は直木賞向けです。
「創作
春先の半纏 湯森 順吉
蔦子の第一章 宮津 照枝
女狐 村田 豊秋
寡婦 實井 義隆
個人 牧葉 好子
女の心 野田 春子
冬至 原 俊治
雅子 山田 徹也
戯曲
蟷螂の斧 三井 敏治
デカダン 石井 彰
大衆文芸
逐電流行記 石原 浩文
破兜 橘 昌雄
舞姫と女学生 高見 悳
清童前後 日夏 英太郎
主従三世 富貴 正治
箱詰砲兵 武川 哲郎
放屁春秋記 氏原 創作
侘妻 金塚 久雄
お台場築造 紺 玄一
山鹿素行 相良 悳
山のルンペン 小笠原 正太郎
斧の下の人生 小杉 謙石
赤い月 水度 三郎
論語先生と鼠 間々 久八
踊る葬列 京塚 承三
伊豆と正雪 神立 清一郎
木から落ちた猿 本田 正二
軍国悲談 田中 敏樹
何故斬るか 大山 登
長左の幸運 東山 京二
敵討まはり舞台 井能 俊夫
壺 文亭 几一」(『オール讀物』昭和10年/1935年11月号より)
つづいて、第2回特別創作原稿募集(投稿期間:昭和10年/1935年10月~12月25日)。
「(引用者注:大衆文芸の部のみ)
日満花嫁船 東京 小杉 謙后
放浪先生 大阪 田村 さぶろ
又五郎御意討 桐生 片柳 育三
鎌倉異変 東京 緒方 豊
幕末二人女 東京 千曲 畔次
前途 東京 原田 琴子」(『オール讀物』昭和11年/1936年4月号より)
ただ、いずれの回も、講評が書いてあるんですが、どの作品もとりあえず予選を通過した程度にすぎず、とても雑誌に掲載できるレベルの出来ではなかった、とのことです。もちろん、これらは直木賞・芥川賞の予選通過作ではなく、それより前の段階の、「予選候補をえらぶための雑誌に載せるかどうかをはかる予選」、でしかありません。
そりゃあ、このなかに、知っている作家なんか一人もいないはずなんですが、いや、待ってください。
「軍国悲談」の田中敏樹って、ありゃありゃ、あの、昭和33年/1958年にオール新人杯を受賞してそのまま第39回直木賞候補にもなった「切腹九人目」の田中敏樹さんですか、もしかして。
昭和10年/1935年から昭和33年/1958年。戦争をはさんで23年。よくぞ直木賞の舞台にカムバックされたものです。……おっと、23年だけじゃありません、その後も、田中さんは亡くなるまで直木賞に執念を燃やしていた、と奥様が語っております。
「死ぬ迄にかならず直木賞をとることを生甲斐の一つとして書き続けていらっしゃいましたのに、体力がともなわないばかりに、その望みが叶えられなかったこと、どんなにか残念だったことでしょう。「後代に残る筈なき小説にいかなればかく我のくるしみ」。でも「二人ねずみ小僧」(引用者注:原文ママ)は直木賞候補の最後迄残りましたし、その他次席になった小説や新人賞もとられたことがあるのですから諦めて下さいね。」(昭和52年/1977年9月・村松書館刊『田中敏樹遺歌集』所収「亡夫に捧ぐ」より)
無名作家の夢は芥川賞ばかりじゃないのだ、直木賞じゃなきゃ駄目と思う人だっていたのだと知って、なぜか勝手にホッと安心。
ええと、それともう一人、触れておかなきゃならない予選通過者がおりました。
「踊る葬列」を応募した京塚承三さんです。
「作家、井上靖(1907~91)が学生時代に書いたとみられる未発表原稿22編が見つかった。(引用者中略)
1931年12月以前から34年の間、ほぼ京都大学在学中に書かれたと推測される。ペンネームも今まで知られていた冬木荒之介、澤木信乃のほか岩嵯京丸、冬木荒夫、京塚承三などが使われていた。(引用者中略)
新たなペンネームの発見により、35年に文芸春秋社が一般から原稿募集をした際の入選作「踊る葬列 京塚承三」が、井上靖の作であることが確認された。」(『毎日新聞』平成12年/2000年4月7日「若き井上靖、習作の日々――未発表原稿22編を発見」より)
「入選作」なんかじゃないんだけど、まあ、それはそれとして。田中敏樹は知らずとも井上靖を知らないとは言わせないぞ(え? 知らないって? それはまあ……)。
こうなると、井上靖さんが芥川賞受賞直後、昭和25年/1950年5月号の『オール讀物』に発表したユーモアもの「踊る葬列」が、直木賞のために応募した「踊る葬列」と、どんな関係にあるのか知りたくなります。
たかが読み物であったはずの「踊る葬列」が、直木賞なんてとらなくて、ああよかった、と真剣に井上靖文学を研究する方々はきっと胸をなでおろしたでしょう。でも、井上さんが第1回直木賞をとっていたら、直木賞の歴史はどうなっていたのかなあ。と、こちらは勝手に妄想して楽しんだりして。
何だか、川口松太郎さんのハナシとはずいぶんかけ離れたとこに来ちゃいましたね。でも、「直木賞はずっと一貫してプロの作家しかもらえないものなんだ」と思っていた無名の作家志望者には、朗報じゃないですか。昭和10年/1935年には、応募原稿でも、いちおう直木賞をとる可能性はゼロではなかったのです。さあ、直木賞をとりたい諸氏は、ぜひ自慢の自作原稿をたずさえて、お近くのタイムマシンを利用して、昭和10年/1935年に戻り、文春に応募しよう!
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