直木賞とは……選ばれるのは「みんなが楽しめる小説」ではなくて、結局「読み手を選ぶ小説」。……って当たり前か。――石田衣良『チッチと子』
石田衣良『チッチと子』(平成21年/2009年10月・毎日新聞社刊)
(←左書影は上がカバー部、下がカバー無し本体部)
だらだら書いているうちに、ふと気がつけば、平成21年/2009年最後のエントリーじゃないですか。
となれば、微妙に一年を回顧しようかな、と。今年も「直木賞を描いた小説」が何作かうまれました。うちのブログでは新刊を紹介することは少ないんですが、最もアレなやつを一冊、いきましょう。
『チッチと子』です。不思議な小説ですねえ。爽やかそうななりをして、なんですか、このモヤモヤが残る感じは。おそらく、これは、作者・石田衣良さんの不思議な個性と不可分のものかもしれませんよねえ。
おハナシの中心は、主人公である作家・青田耕平の男やもめの日常生活です。息子のカケルをはじめ、自殺した妻・久栄だの、文壇バーの美人ホステス椿だの、美人書店員の横瀬香織だの、中学校の美人(?)国語教師の坪内奈緒だのとの、関わり合い、からみ合いが物語られます。
ところが、です。こちとら、そういう現代ふう恋愛小説チックなハナシを楽しみたいっつうのに。耕平の作品が「直本賞」の候補に挙がっただの、それが候補に選ばれるまでの内情だの、「直本賞」に対して各出版社の連中がどういう反応を示すだの、作家仲間たちにどう受け入れられるだの、まあ、本流の筋にとって邪魔っけなだけの業界ネタが、延々と差し挟まれます。うんざりするほど延々です。
「英俊館の岡本は『空っぽの椅子』の担当である。編集者によろこんでもらえるのは、作家としてこれ以上ないほどうれしい。だが、どうして決まったばかりの候補を岡本が知っているのだろうか。
「やっ、どうして岡本さん、わかったの。ぼくもさっききいたばかりなのに」
「ああ、青田さん、初めてでしたね。直本賞の候補作は決まった瞬間から、公然の秘密なんです。新聞なんかで一般に発表されるのは、選考会の一週間ほどまえですけど、実際にはひと月まえに決定されるので」
プロとして十年も書いているのに、出版界にはわからないことがあるものだ。
「ですから、これからが長いんですよ。候補にあがったかたはみな、そのあいだがしんどいっておっしゃいます」」(『チッチと子』「第2章 11」より)
ただ逆に、こういった出版界のウラ話が好きな、のぞき見趣味的な読者にとっては、そっくりそのまま、感想が逆転します。
つまり、耕平がやたらモテまくるところとか、小学生カケルのけなげな言動に世の親御さんたちが胸をジュンっとされられるところとかは、はっきり言ってつまらないの極みなわけです。しかも全体に漂うライトな感じ、いや、スーパーライトな感じが、また思わず歯ぎしりを催させてくれます。
ある視点から見ればすっごく面白そうな話だなと思えるのに、でも、別の視点から見ても、やっぱり何か消化不良を感じてしまうような、かゆいところに手の届かない構造。
これって衣良さんの天然なの? 狙いなの? なるほどなあ、近年の衣良作品を読んだ人たちのなかから、「衣良衣良する」「衣良っとする」といった新語が生み出されるのも、うなずけたりして。
……と、こんな書き方してたら、あたかも『チッチと子』をケナしているように思われちまうぞ。
違う、違うんです。ワタクシは、ただちっぽけな直木賞オタクの一人として、猛烈に悔しいだけなんです。
『チッチと子』は、一歩まちがえば近年まれに見る「傑作直木賞本」になりえました。『毎日新聞』日曜くらぶで、少しずつ連載が進んでいるときには、こりゃあ、ついに衣良さんは次のステージにのぼりましたか、世間一般に流布する「軽薄な出たがり直木賞作家」っていう自分のイメージを逆手に利用して、読み手を仰天させるすごい世界を構築してくれるか、と期待に胸がふくらんでいったのに。
青田耕平が、直本賞の候補にあがり、でも落とされた、そんなあたりはまさに。
「耕平は直本賞発表号の小説誌が届いたその日に繰り返し選評を読んだが、それからは書棚にしまい封印してしまった。あんな評ばかり読んでいたら、のぼせて日々の仕事ができなくなる。ほめ殺しとはよくいったもので、直本賞の候補になっただけで、とたんに立派な文章を書かなければいけないと肩に力がはいってしまうのだ。
「ふーん、そうなんだ。でも、初めての候補作の評判がすごくよくても、そのあとで何回も落選することって多いよね。前回の作品の鮮烈さにおよばなかった、なんていわれて。あれは気の毒だよなあ」
華々しいデビュー作で候補にあげられた何人かの作家の名前がすぐ頭に浮かんだ。新鮮さを求められたら、デビュー作にかなうはずがない。かなり残酷な仕打ちだが、自分も同じ罠にはまる可能性はすくなくなかった。」(『チッチと子』「第4章 3」より)
物語中盤からの興味は、衣良さんが、この耕平にどんな役回りを演じさせていくのか……つまり、候補作家のまま描き切るのか、ポロッと受賞させちゃうのか、って点になっていきます。
ですよね。もしも、あの衣良さんが、ですよ。そう、直木賞を受賞して、そのおかげで活躍の場を広げ、お茶の間にすらおなじみになった一人の作家が、いまここで、あえて「候補どまりの落選作家のあれこれを描く」ことに終始してみせたなら。
受賞作家が、受賞したことを描く小説なんて、いくらでもあるわけですし。あえてその道を選ばずに完結してくれたら。きっと強烈な小説世界になったはずなのに。そんな領域に到達するまで、あと少しだったのに。みすみす、「後世にまで残る名作」の座を手放してしまうなんて。うおう、残念至極。慟哭。
○
ときどき、京極夏彦さんとか伊坂幸太郎さんとか恩田陸さんとかが直木賞候補になると、一部の選考委員は、こういうことを言って落とします。「この作家の作品は、読み手を選ぶ」だとか何とか。
んなこと言い始めたら、十割の読み手に支持される小説なんてこの世に存在するのか? といつもツッコみたくなるんですけど、まあそれはそれとして。その意味じゃ石田衣良さんの作品こそ、じつに「読み手を選ぶ」小説じゃないですか、と再認識させられました。
衣良さんは、読者の背中をそっと押して勇気を与えてくれるような物語を、提供してくれます。じめーっと暗くてマニアックな底の深いものではなく、あえて軽く、あえてサックリとした、あえて底の浅いものを綴ることで、読書への敷居を低くしようという姿勢。えらいぜ、衣良アニキ。
「僕はね、重くて暗い純文学みたいなものより、エンターテインメントのほうが強いんだと思ってるんです。軽い読み物、面白い読み物の方が圧倒的に力が強い。ある人の深い部分に入っていくエネルギーが強いんですよ。そして、そういうものの方が人生を決めてしまうって気がします」(『ダ・ヴィンチ』平成15年/2003年12月号「今もっともスタイリッシュな作家 石田衣良解体全書」より 取材・文:瀧晴巳)
きっぱり自分の道を見定めているところが、感嘆ものじゃないですか。当然、上の発言のウラには、「軽い読み物、面白い読み物の方が圧倒的に力が強いこともある。そうじゃないこともある」って前提があるはずで、なぜか衣良さんはそこを省略しちゃっていますが、まあ、読み物系をバカにすんなよ、って姿勢は、ワタクシ断然共感いたします。
ただ、衣良さんにしろ、彼の敬愛する先輩・渡辺淳一さんにしろ、なぜこれほどまでに、一部の(大部分の?)人たちから評判が悪いのか。それは、彼らの言うことはブレがなくて立派なのに、じっさいにご自身たちの書く作品が、全然そういう質を保っていないように見えるからです。
いや、衣良作品に究極の面白さを見出す人もいるでしょう。だけど、断固、衣良さんの世界を受け入れられない人だっています。たぶん、けっこうな人数。
衣良と直木賞、てなテーマで絶対に読み落としてはいけない文献に、『文学賞メッタ斬り!2008年版 たいへんよくできました編』(平成20年/2008年5月・パルコ刊)がありますよね。ここに収録された、大森望・豊崎由美両人とのトークショーでは、ゲスト衣良と、迎え撃つ大森・豊崎コンビは、完全に対戦・対立しています。
「大森 直木賞作家がみんな石田さんのようなキャラだということもないのでは。
石田 いや、だいたいはみんなちょっとイカれてて面白いですよ。
大森 でも、芥川賞作家だって、イカれてて面白い人は結構いるでしょう。
石田 でも、直木賞のほうが明るいでしょう? ネガとポジの関係なので。
豊崎・大森 芥川賞はネガ!?
石田 うん。イカれてて暗い。
豊崎・大森 イカれてて暗い!!
石田 ん? じゃないんですか?」(『文学賞メッタ斬り!2008年版 たいへんよくできました編』「ROUND 2 [メッタ斬り!トークショー]受賞作家の逆襲 下」より)
一人ボケ、二人ツッコミのかたちです。
「豊崎 (引用者注:たとえば10年後の直木賞で、衣良が選考委員になっていて)「伊坂(引用者注:伊坂幸太郎)氏といえばもうベテランの作家じゃないか」と他の選考委員がスルーしようとするとき、石田さんが言うわけですよ。「いや、とらせてあげようよ」と。同期のよしみで。
石田 ああ、なるほど。でも、ほんとにそんなのでいいと思いますよ。
大森・豊崎 そんなのでいい!?
石田 直木賞の場合は、純粋に作品だけで選ぶものではないなと思うんです。
大森 人柄が大事? 友だちが多いとか?
石田 人柄は大きいですよ。あとは年齢とかその人のポジションとか。
豊崎 どういう人柄がいいんですかね?
石田 ふつうの人。
大森・豊崎 ……。」(同「受賞作家の逆襲 下」より)
対石田衣良のふたりは、言葉も出ません。
そのあとにつづく、衣良さんがかの有名な書斎の本棚に、なぜか帽子を置いている、ってくだりでは、もう両者の価値観が交差することすら困難になっていきます。
そんな衣良さんの感じに、憧れたり心を寄せる読者は多くいます。でも、「山本周五郎賞をとるのなんてちょろい」と口走る感性を「ふつうの人」などとする衣良側の岸には、とうてい渡れないな、っていう一派だって結構いるわけです。事実、ワタクシは後者の一派ですし。
『チッチの子』で言いますと、
「わかっているのは、年に二冊だすのがせいぜいの耕平の年収は、同世代の会社員とさして変わらないということだった。大学時代の同級生で、給料の高い金融やマスコミにいった者よりは、明らかに低いといってもいい。
むこうは手厚い福利厚生のついた大企業の正社員、対して作家のこちらはいつ明日の仕事がなくなるかわからない究極の自由業だ。ふつう自由業では会社員の二倍から三倍稼いで、ようやく会社員と同じ生活ができるという。そういう意味では、耕平は明らかな負け組だった。」(『チッチと子』「第1章 3」より)
こういう説明が随所にさらっと差し挟まれます。ここで「へえ、そうなんだ、作家って大変なんだね」と真正直に受け止められる人でなきゃ、まず衣良作品をたのしむことはできません。
「え? 何が負け組なものか、講演したりとかスクール講師とかの副業をもたずに小説を書くだけの生活で、破綻なく暮らしている青田耕平みたいな人間が、いったい全作家の何割いると思っているんだ」と、つい常識を思い浮かべてしまったら、もう、その読者にとって衣良作品はエンタメではなくなります。なんかピントのずれたことを延々と語っているなあ、と見えるだけです。
ね。衣良作品は、ほんと、読み手を選びますよね。
○
そういえば、「池袋ウエストゲートパーク」の主人公マコトのことにからめて、衣良さんがこんな的確な告白をしてくれていました。
「――そうした(引用者注:飄々としているようで案外インテリな一面を持っている)マコトのキャラ特性というのは、長いシリーズの中で自然と育まれたものでしょうか?
石田 そうなのかもしれませんが、どちらかと言えば僕の感覚そのままなんですよ。難しい事をあまり捻ってとらえたりせず、何があっても自分の立ち位置や考え方がぶれることなく、ニュートラルに接することができるという……。
(引用者中略)
石田 そうですね、キャパシティーの広さ、受け入れ能力みたいなものが、キャラクターとしての強さになっているのは事実だと思います。今の時代に求められているのは、案外そういう資質なのかもしれませんね。やはりこういう厳しい時代ですから、その中で自分の核を揺らさず真っすぐに立っていられること。何があっても誰かを憎んだり、諦めたりしないこと。」(『文蔵』平成21年/2009年10月号「インタビュー 時代に怯えながら傍観するよりプレイヤーとして観察する」より ―「特集 創刊4周年記念 石田衣良作品で「時代」を読む」の企画・構成・文:友清哲)
ああ、そうだったのか。衣良さんは「今の時代」に常にニュートラルなのか。ってことは、時に衣良作品を面白く感じることはありながら、時にその作風や筋の運びに衣良衣良っとくるのは、ワタクシが、「今の時代」そのものに寄り添えていないからだったのか。うすうす感じてましたけど。
『チッチの子』でも、主人公はかなり「直本賞」に対してニュートラルです。
しかし、この作品の終盤で、その中立さというか無抵抗さが、もうちょっとで軌道を外れそうな場面が出てきます。直本賞候補になった耕平にからめて、インターネット上での数々の批評を取り上げるところです。
耕平は、外出先から帰宅するやいなや、なぜか、おもむろにパソコンの前にすわり「7ステーション」なる巨大掲示板を見にいきます。わざわざ、です。わざわざ、自分が候補に挙げられた「第百五十回直本賞」についてのスレッドを開くのです。
「名無しの編集人 どうせ、みえみえの出来レース。一番受賞濃厚なのは、『チッチ』だろ。なにせ前回選考委員に大好評だし、版元は文秋だし、青田はこれまで四冊もあそこからだしてる。単行本と文庫がガバガバ増刷されて、ウハウハ!
赤ペン うへー、あのぬるい青田か。妻の死とか、息子とのふたり暮らしばかり書いてるキモイ私小説作家だよな。そんなもんに直本賞やるから、いつまでたっても日本の小説はダメなんだ。
文芸業者 文秋ではすでに受賞オビを手配中。チッチの増刷十万部決定。苦節十年の私小説作家、ついににわか成金に。まあ、どうでもいいけどな。
無署名の書き手の放言が砂漠のように続いていた。読みすすめるたびに耕平の心は凍っていくのだが、それでもぼんやりと光るディスプレイから目をそらすことができなかった。耕平は自分自身のことが書かれた掲示板を果てしなくめぐった。」(『チッチと子』「第4章 11」より)
ここは、ほんと、読んでいて引き込まれます。淡々と自分の作品を書きつづけていけばいい、という姿勢で「直本賞」騒動に無抵抗に身をまかせているはずの耕平が、心を凍らせながら、怒りなのか寂しさなのか、わからないけど、そういう感情を抱えながら、それでも何がどう書かれているのか気になって、隅々まで見続けてしまう。
ワタクシなんかは、ここら辺をもっと深く突っついて、読み手にガツンと重いものを突きつけてほしかったんです。まあ衣良さんはサラリと次の場面に行っちゃうんですけど。
しかも、です。「無署名の書き手の放言」だったはずの予想が、まったくそのままその通りになるんですよ。最後まで読むと「あれ? 案外、ネットの連中の見方は的確なんじゃないか」と知れちゃったりして。でも、そのことについて、もはや主人公の耕平は何も語ってはくれません。
無関係で無責任な姿なきネット住人たちは、デキレースだの、直本賞も地に堕ちただの、言いたい放題。まったく不愉快きわまりないな、と思っていたら、じつは悪意まじりのネット放言のほうが正しかったっぽい、ってなりゆき。
そう考えると、なんで、衣良さんは、「耕平が最終的に直本賞をとる」って筋書きにしたんだろう。「直本賞をとれずじまいだった」とするのに比べて、小説としての面白さは半減、いや台無しスレスレになっちゃうのに。……などと感じるワタクシのほうが、「今の時代」からズレているのでしたか、いやあ、つらい時代だなあ、と急激にわびしくなってしまったり。
たぶん、この小説ってハッピーエンドの物語だとは思うんですけど。なのに、この読後感。まったく、不思議な小説です。
| 固定リンク
« 直木賞とは……候補になることは文学的な業績でも何でもない。芥川賞候補と違って。――坂上弘『近くて遠い旅』 | トップページ | 直木賞とは……そんなもんに興味をもって熱を上げてるの? ほんと、キモーい。――真下五一『芥川賞の亡者たち』 »
「小説に描かれた直木賞」カテゴリの記事
- 直木賞とは……候補作をろくに読まずに、のうのうと選考委員やってるようなやつらは、消えうせろ。――筒井康隆『大いなる助走』(2010.06.20)
- 直木賞とは……なにしろ全部一人でやって、しかも新しい仕事もあって。辞退されたときのことなんか、すっかり忘れちゃいましたよ。――永井龍男「文藝春秋の頃」(2010.06.13)
- 直木賞とは……有名人が候補になると、みんな、ギャーギャー文句言うけどね。いい作品を書けば、酒場のマダムだろうと人殺しだろうと、いいんじゃないの。――山口洋子「階段」(2010.06.06)
- 直木賞とは……こんなに一生懸命、「文学」のために選考してきたのに。落ち目になったら選考委員を解任させられちゃうのかよ。――小島政二郎「佐々木茂索」(2010.05.30)
- 直木賞とは……いつだって芥川賞といっしょ。芥川賞が受ける恩恵も祟りも、いっしょに受けざるを得ません。――小谷野敦「純文学の祭り」(2010.05.23)
コメント
今回の記事、殊更愉しく読みました。
いつにもなく、管理人さんの『負の想い』が文中に姿を見せるので、少し可笑しくなりましたが、
それは私も、この作者の作風が肌に合わないなと感じているからかもしれません。
以前、イラさんがNHKかなにかのドキュメント番組出演されていた時、テレビ撮影の合間を縫って、
「ちょっと仕事するから」とデスクに座わり、サラサラと文を書かれていた場面を思い浮かべました。
それを視て、さすが売れてる作家だと思うか、なんとキザな物書きかと受け取るのは人にもよりますが、
私は断然後者でした。
そして池袋~を読んでみて、さらにグギャーとなった次第です。
イラさんだけではなく、また直木賞でも芥川賞でもそうですが、
最近は、読者にとって読みやすくてわかりやすくて、さほど登場人物が悩まないという作品が、
ひどく持て囃される傾向が強まり、
苦しい時代なのに、深い悩みを持たない人物ばかりが跋扈する小説が売れているような気がします。
そんなことを考える30代な自分は、
すでに時代から離れていってるんでしょうね……。
それよりなにより、銓衡を人柄などで決めるのは論外ですが、
作者の性別や職業や年齢や係累などは一切隠し、作品だけで評価されないのかと思う、今日この頃です。
投稿: TK | 2009年12月29日 (火) 18時35分
あ。うっかり「負の想い」出ちゃってましたか。バレないようにしてたんですけど……。
衣良さんの小説を無条件でたのしめる領域に到達できたら、
世のなかもっと楽しく生きていけるんでしょうねえ。おそらく。
でも、ワタクシはまだまだ修業(?)が足りなくて、このテイタラクです、はい。
投稿: P.L.B. | 2009年12月29日 (火) 23時17分