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2009年11月22日 (日)

直木賞とは……「候補作家」の肩書は、政治家をめざす者には、アクセサリーとしてはちょうどいい。――豊田行二「太陽への挑戦者――小説・糸山英太郎」

091122s4910 豊田行二「太陽への挑戦者――小説・糸山英太郎」(『オール讀物』昭和49年/1974年10月号)

 直木賞と芥川賞のちがいを表現するとき、俗にこんな言葉があります。

「受賞してからエロ小説を書くのが芥川賞、エロ小説を書いてから受賞するのが直木賞」。

 と言うのは、ウソです。ワタクシがいま勝手に考えついた言葉です。

 ともかくも、胡桃沢耕史さんや阿部牧郎さんのように、豊田行二さんだってタイミングさえ合えば、昭和50年代~60年代にいたって直木賞をとったかもしれません。奇遇にもこの3人は、エロ小説を多発する以前の、デビュー当時から、「直木賞」の世界をことさら意識させられる環境にいた、って点でも共通しているわけですし。

 山口県下関で、周東英雄代議士の私設秘書だった豊田さん。いや、あえて本名で言いましょう、渡辺修造さん。「豊田行二」になる前、すでに「山口昌高」なるペンネームで、クラブ雑誌にユーモア小説を発表していました。しかし、渡辺さんはいろんな小説を書いていきたいと思っていたのに、注文はユーモア物ばかりだったそうで、飽き足らなくなり、別のペンネームでさまざまな新人賞に応募しだしたのだとか。

 そのうちのひとつが「示談書」。めでたく昭和43年/1968年、第32回のオール讀物新人賞を受賞します。

 そのときの受賞のことばです。すでに豊田さんが遠く「直木賞」あたりから吹き降ろす風を感じていたことがわかります。

「もう、こうなれば、次の目標を直木賞に置いて、ひたすら突っ走るだけである。一生かかっても直木賞はいただけないかも知れないし、そんな大それたことを、新人賞をいただいたばかりの者が口走ると、「頭を冷やせ」とお叱りを蒙るかもしれない。しかし、無縁と思っていた新人賞をいただいたことで、破れかぶれの欲が、猛然と湧いてきたのである。」(『オール讀物』昭和43年/1948年1968年6月号「破れかぶれの弁」より)

 そりゃあもう、豊田さんの回想によれば、そもそも作家になろうと思ったきっかけが、身近に「直木賞候補」の先輩がいたからなのだそうで。東京から遠く離れた下関の地で、新聞記者を勤めながら同人誌に書いた短篇がいきなり直木賞候補になり、俄然注目を浴びた先輩……。古川薫さんです。

「私が作家になったのも、古川さんの影響に負うところが大きい。

 古川さんの『走狗』が単行本になり、料亭で出版記念会が行なわれたとき、私も招かれて末席に連なった。そして、そこから、メインテーブルを見て驚いた。

 古川さんを中心に、下関在住で芥川賞の候補に何度かなった長谷川修さん、北九州在住の作家、劉寒吉さん、岩下俊作さんらの作家がずらりと並び、東京から来た出版社の編集長や雑誌社の編集者が賑やかに顔を揃えている。彼等がかわるがわる立って喋るスピーチも、聞くものを圧倒するような迫力があった。小説を書いて認められるということは、かくも素晴らしいものか、と古川さんの出版記念会の雰囲気に感動した私は、家に帰ると机に向かい、半月ほどかかって、『示談書』を書きあげ、オール読物新人賞に応募した。」(昭和57年/1982年1月・大陸書房刊『作家前後』所収「男の誓いを交した古川薫さん」より ―初出『トップ小説』昭和55年/1980年8月号)

 ……といった頃の実状などがストーリーの間に差し挟まれるのが、新人賞受賞から6年後に書かれた「太陽への挑戦者」って小説です。むろんかなり虚構を交えているんでしょうけども。

 郷里で代議士の地元秘書をしていた牧月晃一。やがては自分も政治家になりたいと夢を持っています。慢性中耳炎で入院しちゃうんですが、そのとき何げなく書いた小説が、入院患者たちに褒められたのが運のツキ。それに気をよくして、退院後、小説を書き上げて「当時、日本で最も権威があると言われていたB社の新人賞の懸賞」に応募します。

「もちろん、入選の期待など、爪の垢ほども持ってはいなかった。

 ところが、この作品は新人賞を受賞し、あまつさえも、直木賞の候補になったのである。」(「太陽への挑戦者」より)

 それで、豊田さんの本心だったのか、小説上のウソなのか不明ですけど、「直木賞候補」になったことは、牧月晃一にとってはさほどの重みはなかった、っぽく描かれています。なぜなら牧月は政治家になりたいからです。

「作品が一級品だと認められたのだ、という嬉しさは、筆歴が浅すぎるせいか、まったくなかった。

 新人賞を受賞してからも、まだ、牧月は依然として政治家になる夢を追っていた。直木賞候補の肩書はそのためのアクセサリーに使えるからありがたい。そういった感覚しかなかった。もちろん文筆で生計を立てようなどという考えは毛頭なかった。」(同「太陽への挑戦者」より)

 文筆で生計を立てる気がなかった、のはどうやらそのとおりのようで、『作家前後』におさめられた「これから先が……」(初出『午後』昭和48年/1973年7月)にも、同じような場面で、同じような表現が出てきます。ただし、

「『示談書』がオール読物新人賞を受け、直木賞候補になったときも、私は将来物書きになろうとは思わなかった。あくまでも政治家になるつもりだった。しかし、それは以前のように確固たる信念ではなく、ややぐらついたものに変わってはきていた。」(前掲『作家前後』所収「これから先が……」より)

 と、作家の世界への「欲」も、けっこう膨らんでいたみたいですけど。

 それにしても、「直木賞候補の肩書は、政治家になるためのアクセサリーに使える」だなんて一文が、どうして小説「太陽への挑戦者」には、付け加えられているのか。なある。これはこの小説で明らかにされる、もう一人の主人公「糸山英太郎」と政界進出劇についての物語を補強する伏線だったんですね。

 そう。その物語とは。……青年実業家の糸山が選挙に打って出るための、一つの道具として、別のだれかに本を書かせた、っていういきさつのことです。

          ○

 「別のだれか」。ふつうこれはゴーストライターとか呼ばれます。

 新人賞をとって直木賞候補にもなって、政治家になる夢を捨てて上京した牧月が、生活費捻出のために、糸山英太郎のゴーストライターを引き受けたと。

 でまあ、糸山英太郎、って名前が実在の人物そのまんまであるだけでなく、牧月が彼のために代わりに書いた本の名前も『怪物商法』、それから『太陽への挑戦』。これらもそのまんま。こうなってくると、本作に登場する「BS出版」とか、砂川社長とか、若芽社とか、容易になにをモデルにしたのかがわかってしまう、って按配。

 単に、糸山英太郎の『怪物商法』(昭和48年/1973年1月・KKベストセラーズ/ベストセラーシリーズ)と『太陽への挑戦』(昭和48年/1973年12月・双葉社刊)っていう大ベストセラーが、じつはゴーストライターの手によるものだった、とその代作者自身が告白しているだけでも衝撃なのに、「糸山英太郎」の俗物性あるいは非常識さを、そうとう手厳しく書いている、っていうんですから、真偽はともかく、まあ豊田さんの思い切りのよさが伝わってきます。

「ディスクジョッキーをやって、呼び屋をやって、テレビのレギュラーになって、他人に本を書かせておいて著述業と名乗り、それで政界へ出るなんて、ふざけている、と牧月は思った。世間の心ある人々の大多数は、参議院選挙のたびに名乗りを上げるタレント候補を苦々しく思っているのだ。ところが、今、眼の前にいる糸山英太郎は、金を使って自らをタレントにまで身を落とし、そして政界へ打って出ようとしている。

 そんなばかげたことをする奴に、協力なんかできない。

 牧月はそう決心した。」(「太陽への挑戦者」より)

 牧月の目からみた糸山は、終始、こんな感じです。糸山なる人物を知るにつれて、その中身のなさに(あくまでこの小説内でのハナシですよ)あきれ果てています。

「『太陽への挑戦』の出版までで、こっけいだったのは深夜の糸山事務所で行なわれた、校正大会とでもいうべき校正のつき合わせ会議だった。

 ゲラ刷りは牧月と糸山のところばかりでなく、糸山の実父の佐々木真太郎、笹川良一、糸山の妻の実父の笹川了平、糸山の恩師のところまで一部ずつ届けられていた。そのゲラ刷りを回収して、一ページずつ、つき合わせるのだ。」(同「太陽への挑戦者」より)

 この会議の馬鹿ばかしさの象徴として、豊田さんはこんなエピソードを書き込んでいます。

「全体の調子から見て、たとえ笹川良一の意見でも採用できないものは当然出てくる。糸山は、それをひどく気にしたが、全部のつき合わせが済んだとき、命令口調で全員に言った。

「笹川先生の注文で、今夜採用されなかった分については、出版社の若芽社が校正の手落ちで落としてしまったことにする。俺の責任じゃない。分ったな」

 牧月はそんな糸山を眺めながら、いたずらをした子供が仲間の口封じをしているような気がして、ばかばかしくなってしまった。」(同「太陽への挑戦者」より)

 いくら作品の副題に「小説」と付けようとも、この調子で一篇、えんえんと糸山英太郎(当時、参議院議員。選挙違反が摘発され、マスコミから袋叩きに遭っていた)本人とその周辺を描いているんですもん。もう、そりゃあ、問題視されないはずはないのでして。

          ○

 豊田さん亡き後、佐高信さんは『葬送譜 おくるうた』(平成12年/2000年3月・岩波書店刊)で、この頃のことにもちょこっと触れてくれています。

「新人賞をもらったからといって、すぐに依頼が殺到するわけではない。豊田は週刊誌のアンカーやゴースト・ライターなどで食いつないだ。その中でやったのが、糸山英太郎の『太陽への挑戦』の代筆である。豊田の口からそう言ったのではないのだが、とても糸山には書けないとなって、ベストセラーにした豊田の筆力がクローズアップされた。のちに豊田は、

「あのゴーストに手抜きをしていたら、いまの私はなかったでしょう」

 と述懐している。」(『葬送譜』「豊田行二」より)

 ゴーストライターが後になって名乗り出る、ってハナシになれば、もちろん津田信さん=小野田寛郎手記のゴースト、の一件が思い浮かぶわけです。これを津田信さんが『幻想の英雄』のかたちで発表したのが昭和52年/1977年(7月・図書出版社刊)。豊田さんの暴露と、ほぼ同時代でした。

 ああ、津田さんも芥川賞・直木賞の候補にまでなってゴースト、豊田さんも直木賞候補のあとにゴースト。そうかあ、「候補」なんてものになっても、つらい文筆生活が待っているんですねえ。……などと、のんきな感想を洩らしている場合じゃありません。

091122  豊田さん、その当時に我が身に振りかかった、同業作家や出版界からの攻撃に、怒っています。

「私は売れない時代、ゴーストライターという仕事に手を出して糊口をしのいだことがある。

 六年ほど前(引用者注:昭和49年/1974年)に、私はある小説で、その内幕を暴露して袋叩きにあった。(引用者中略)私を袋叩きにした連中は、ほとんどが、大手出版社に尻尾を振る輩だった。」(前掲『作家前後』所収「言いたいことを言う」より)

 おだやかでないことに、豊田さん、その「大手出版社に尻尾を振る」連中のなかでも、とくに一人の作家が書いたエッセイに憤慨し、このやろ、暴力に訴えちゃる、と宣言しているんです。

「私は、文壇のパーティなどには、必ず出席することをモットーとしている。何度かその男とはパーティでそれまで顔を合わせたことがあるが、人をうしろから切りつけるような卑劣漢だとは思わなかった。

 私は次に、パーティでその男に会ったら、殴りつけてやる、と親しい編集者に誓った。

 文壇では、ことと次第では、暴力に訴えることが許されている。(引用者中略)

 先方は億万長者、こっちは貧乏文士だ。貧乏人が金持を殴るのに遠慮が要るものかと思った。」(同「言いたいことを言う」より)

 さすがに豊田さんは、その男の名前や、エッセイをおさめた本の名前を具体的に書くことまではしていないわけですが、でもなあ。「社会派を標榜し、文壇の稼ぎ頭日本一になった男」らしいし、「何人かの編集者が、彼がそのことを書いた随筆をおさめた本を私に見せに来て」っていうのを、昭和55年/1980年に書いているしなあ。

091122_2  もしかして、このエッセイ?

「小野田さんの英雄伝説が剥がされたことがあった。小野田さんのかわりに自伝を書いたゴーストライターが、その内幕を暴露してしまったのである。(引用者中略)ゴーストライターは、覆面をぬがないという約束で金をもらい、代筆あるいは代作をしたのである。本人に契約違反がないかぎり(原稿料を支払わない)、ゴーストライター側から覆面をぬぐことは許されない。(引用者中略)最近ゴーストライターがそのルールを破り暴露した真相によって作家としての足がかりをつかみ、マスコミのお座敷に顔を出すようになった例があるが、これは売るために裸になった芸能人となんら変わるところはない。」(昭和53年/1978年7月・角川書店刊 森村誠一・著『ロマンの切子細工』所収「ゴーストライターのルール違反」より)

 でまた、豊田さんの怒りの文章を読んで、なお面白い(……失礼。なお興味深い)のは、怒れる豊田さんをなだめようと、編集者がこんなこと言っちゃっているからです。

「そんな私を真顔で慰めてくれたのが、面白いことに彼の小説を多数手がけている大手の出版社の編集者だった。

「あんな奴、殴ってもしようがありませんよ。殴るだけの価値もない男です。それよりも、しっかり書いて下さい。」」(前掲「言いたいことを言う」より)

 いくらその場かぎりの八方美人の性格がもとめられる編集者だからといって。「殴るだけの価値もない男」ですと? 売れっ子作家に対して、蔭ではひでえこと言ってるもんなんですね。

 そう、それで「貧乏文士」だった豊田さん、怒りをかき立てられ、くそう、こういう思い上がった奴を叩きのめすには、こっちも売れなきゃしょうがない、とエンジンをウンウンうならせて小説を量産するようになったんだ。と、上記の文章はつづきます。

 たしかに。その後、豊田さんは自分の道を発見して爆走しました。そのぶん直木賞路線に戻ってくることはなかったんですけども。ただ、それからしばらくたって、ご自身も長者番付に名をつらねるまで、書きに書きまくり、「貧乏文士」が「億万長者」(?)の座についたんですから、ほんと偉いものです。少しは豊田さん、溜飲が下がったでしょうか。

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コメント

(『オール讀物』昭和43年/1948年6月号「破れかぶれの弁」より)とありますが、1968年の間違いですね。

投稿: 通りすがり | 2015年3月20日 (金) 17時30分

通りすがりさんへ

誤記のご指摘、ありがとうございます。

投稿: P.L.B. | 2015年3月22日 (日) 20時04分

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