直木賞とは……ちょっとした主婦でも知ってるよ。「一夜で有名になる」代表的な出来事だってことをね。――丹羽文雄『樹海』
丹羽文雄『樹海』上・下(昭和57年/1982年5月・新潮社刊 -> 昭和63年/1988年2月・新潮社/新潮文庫)
おいらみたいな素人には、とうてい理解できないけど、戦後の流行作家三羽ガラス、丹羽文雄・舟橋聖一・石川達三は、「大衆小説」じゃないのだそうで。いいじゃん、大衆小説で。何が悪いのさ。……と言ってみたところで、少なくともご本人たちのなかには、歴然たる区別意識があったそうで。
舟橋さんが戦前、菊池寛親分から直木賞選考委員になってもらえないか、と打診を受けたのに、断ったとか。それで、芥川賞委員ならば、ひょいひょい引き受けちゃうとか。
戦後に両賞が復活するとき、石川さんははじめ直木賞選考委員を務める予定で、昭和23年/1948年の段階では、直木賞の選考会に出席していたくせに、昭和24年/1949年になったら、なぜか澄ました顔して芥川賞の選考委員の座におさまっていたとか。
永井龍男さんも、井伏鱒二さんも、水上勉さんも、何年にもわたって直木賞委員を務めていたはずが、何の未練もなく急に芥川賞委員に鞍替えしちゃったりして。何なんだ、あなたたちは。そんなに直木賞がイヤか。
丹羽文雄さんが、そんな方たちと同類かどうかは異論あるところでしょうけど、それにしても直木賞オタクとしては、丹羽さんの動向は、舟橋聖一・石川達三とともに、研究欲をかき立ててくれます。たぶんワタクシは生きているあいだに、それに手を付けるところまで到達できないでしょうけど。なにせ丹羽山脈は標高もたかく、面積も広大すぎます。
……と言いつつ、丹羽さんが昭和50年/1975年にもなって、まだ、とある一つの信念を貫いていたかと見ると、まあ彼が直木賞について何かを語るなんて、あるわきゃないな、と納得してしまいます。
とある一つの信念とは、「通俗雑誌にのった小説は、絶対に純文学ではない」ってものです。
昭和50年/1975年の第11回谷崎潤一郎賞にて。丹羽さんは候補作品に、ある作品を推薦します。ところが、ふたをあけてみると……。
「私(引用者注:丹羽自身)がその作品を推したのである。しかし、その小説をよんでいなかった。作者の名をみて、書下ろしの長篇ではないかと思い、その作者なら必ずよみごたえのあるものを書いているだろうと思ったからである。選考会で、私が推したのが通った。が、一読して、私がまちがっていたことを知った。候補作品にはなりかねないものであった。筆がひどく荒れていた。作者がその雑誌の特色に多分に迎合して書いているようであった。そのため今後は、掲載誌を厳重に調査することになった。」(昭和51年/1976年11月・講談社刊『創作の秘密』「作者の持味」より)
すげえぜ、丹羽親分。作品を読まずして、作者の名と「書下ろしだろう」との当て推量で、推薦するたあ。候補作の作者名と作品名、掲載誌(または出版社名)だけ見て賞のなりゆきを予想する、我らみたいな素人とほとんど同じレベルじゃないかよ、すげえぜ。
いやいや丹羽親分は、自分自身や他の作家たちのこれまでの長ーい経験に裏打ちされた理論を持っていたのですから、おいらたちと一緒にしちゃあいけません。たぶん。
「が、私がかんじんの内容を知らずに、その名前だけで推薦したというのも、かねてからその作者の持味に期待をかけていたからである。その持味は、文学的にもかなり高いものであった。が、いつも発表する雑誌が大衆的なものが多く、持味が十分に生かされていなかった。これも一種の作者の不幸というべきであろう。」(同「作者の持味」より)
このエッセイでは、谷崎賞5つの候補作のうち、水上勉『一休』、安岡章太郎『私設聊斎志異』、中村真一郎『四季』の3つについて実名を挙げて詳細に論じていて、すると残るは2作品。まさか丹羽親分が「いつも発表する雑誌が大衆的なものが多く」と評したのが、古井由吉さんであるわきゃないもんね。……ってことで、その作家とは容易に野坂昭如さんのことだとわかるわけです。
しかしまあ、丹羽親分いわく、この一件はご自身の責任っていうより運営者側の「谷崎賞候補を選ぶときの手落ち」だそうですし、野坂昭如は、通俗的な雑誌に書くと手加減をくわえる(あるいは手を抜く)から、とうてい推せないんだ、でも俺はちがう、「私はいろんな雑誌、新聞に作品を発表しているが、かつて手加減を加えたということは一度もなかった」んだそうです。
おお、偉大なるかな、キング・オブ・ブンダン。かわゆすぎます。
……でもまあ、これが丹羽さんのお人柄なのだとしたら、そりゃあ周りに敵が多そうだな。
○
そうでした、「小説に描かれた直木賞」のことに触れなきゃいけませんね。
『樹海』が発表されたのは、昭和55年/1980年~昭和56年/1981年。初出は『読売新聞』の昭和55年/1980年9月25日~昭和56年/1981年11月6日です。
まだ丹羽さんがお元気に芥川賞委員を務めていた時代。作品内容も、丹羽長篇のお約束どおり、会社社長のご家族やら、裁判沙汰やらが出てくる女と男のものがたりです。
文壇や作家や、そういったものは何も出てこないんですが、一か所だけ「直木賞」が出てきます。
主人公である主婦の市岡染子は、音大の学生だったころ、ピアノを弾いていた経験から、エレクトーン教室の先生となります。その後、すったもんだあって、夫と離婚して、いっそうエレクトーンに身を入れるようになりまして、その美貌のおかげで、「渋谷の放送局」に呼ばれて、テストで演奏したところ、それがつなぎの音楽としてテレビ放映されます。
で、予定の番組でもなく新聞にも何にも予告されていなかったにもかかわらず、なぜか染子の周囲の人びとはこぞって、その放送を目にとめていて、会う人会う人に「あれはよかった」と褒められたりします。「つなぎの音楽」のはずが、なぜかテレビ局にも大きな反響があったらしくて、それ以後、染子は何度もテレビで演奏するようになり、ホテルの結婚披露宴とかにも演奏者として、がんがん呼ばれるようになります。
そう。ご都合主義なのか、自然な展開なのか、ようわからんこの「美貌の染子、テレビの力でもって有名になっていく図」のところで、「直木賞」の単語が出てくるわけです。
偶然、染子がエレクトーンを弾いた結婚披露宴に、客として来ていた知人の川喜田秀俊。彼と、染子との会話です。
「「思いがけなかった。メニューに、染子さんの名が出ていた」
「あら、私、知らなかったわ。エレクトーンの演奏者としてですか」
「染子さんも、有名になった。有名でなかったら、印刷されなかったろう」
川喜田が笑っていった。
「何がいったい有名になったのかしら。一夜が明けたら、有名になっていたということがよくいわれるけど、芥川賞や直木賞をもらって、一夜で有名になったというのとはちがうでしょう」
「たびたびテレビに登場するからだ。いっぺんに有名になるのではなくて、じりじりと顔がおぼえられていく」
「技術のせいじゃないんですね」
「それもあるだろうが、染子さんの印象だ。若々しくて、上品で、つやのある演奏の仕方だ。ぼくはビディオに、もう何回も染子さんを撮っている」」(『樹海』下巻「春来る」より)
おっと、染子さん。そりゃあ勘違いってもんだ。「芥川賞や直木賞をもらって、一夜で有名になった」っつうのは、たぶんに比喩めいた表現であって、あなたがテレビに出たのを契機に、「知っている人が知っている」範囲内で有名になったのと、大して違いはないんじゃないかな。
染子さんが必ずしも演奏技術じゃない部分で有名になったのと同様、芥川賞・直木賞受賞者が「有名になる」のは、別に、彼らの書いた作品の内容によって、ではないように。
まあ、仮に昭和50年代ごろの芥川賞・直木賞が、ほんとに「一夜で有名」を引き起こしていたのだとしても、いずれにしても、やっぱりアイツの力のおかげです。……テレビの力です。
一か月前に、小林信彦さんの『悪魔の下回り』を取り上げましたけど、この作品も、ほら、ほぼ同時代に書かれたものだもんなあ。この当時の直木賞(プラス芥川賞も?)は、ほぼその性質の大半は、「テレビ」とつながっていたんだろうな。
○
ええと、テレビのことは、まあ措いときましょう。
問題は『樹海』です。この小説において丹羽さんが、主人公の口から自分が有名になってきたのは「芥川賞や直木賞みたいな有名のなりかた」とは違う、と言わせているのが、どうもワタクシには気になります。
丹羽さん自身はきっと無自覚でしょう。無自覚でしょうけど、なんだかこの作品全体から、「私は芥川賞・直木賞の類いのものじゃありません。内容で勝負する、もっと高尚な文学作品です」って匂いがプンプンしてきちゃうんです。
なんでだろう。丹羽文雄は、絶対に通俗雑誌とか大衆作家とかを自分と同じ領域のものとは考えない人、っていう思い込みを、こっちが持っているからなのかな。
でもなあ。戦前から戦後、時の情報局ににらまれて発禁処分を喰らい続けた自分の経験を描いた『告白』(昭和24年/1949年3月・六興出版社刊)って小説があって、ここには何人もの作家が出てきます。ちょっと引用しますと、
「同じ小説を書く川崎長太郎」
「作家の一人の柴田賢次郎」
「同年輩の、同じ作家の新田潤」
「大衆作家の湊邦三」
「大衆作家の山岡荘八」
「大衆作家の浜本浩」
湊邦三、山岡荘八、浜本浩は、なぜ単なる「作家」じゃ駄目なんだい?
今日の最初のほうで紹介した丹羽親分の『創作の秘密』でも、そうです。
これは『丹羽文雄文学全集』(昭和49年/1974年1月~昭和51年/1976年8月・講談社刊)に掲載したエッセイを集めたものですが、そのとき親分が選考委員をしていた野間文芸賞、吉川英治文学賞、芥川賞、読売文学賞、女流文学賞、平林たい子文学賞、谷崎潤一郎賞のなかから、選評で言い尽くせなかったことなどが書かれてあって、それはそれで、文学賞を見つめる者にとっては、必読の書です。
ですが、『告白』にあるような無意識ふうの叙述は、ちょこちょこあって、たとえば「老人文学」の章で、和田芳恵さんについて紹介しています。
「和田芳恵といえば、昔は新潮社の「日の出」の編集長であった。終戦後は、小説も書いていたが、樋口一葉の研究をはじめて、それによって芸術院賞をうけた。こつこつと小説を書いていた。私は「接木の台」という短篇をよんで、和田芳恵が小説家としてここまで成長していたのかと、わが目を疑うほどにおどろき、よろこんだものである。野間賞でも問題にされたが、読売文学賞をもらったのは当然のことであった。」(『創作の秘密』「老人文学」より)
たぶん、和田さんが芥川賞をとっていたら、そのこともこの紹介文には書かれていたことでしょう。
「破滅型」の章には、檀一雄さんの話が登場します。もちろん、檀さんがイヤイヤながら受けた例の賞のことは何にも出てきません。っていうか、芥川賞のことばかり気にしている檀さんのせいでもあるでしょうけど。
「「また新しい作家が誕生しましたね」
と、檀は芥川賞の作家のことをいった。
「新しい作家が生まれると、ぼくは恐怖を感じるのです」
「どうしてか」
と、私は訊いた。
「恐しいんです。ライバルがまだ一人増えたと思ってます」
(引用者中略)新しい芥川賞作家に脅威をおぼえたり、借金を忘却出来る人間は、所詮私にとっては異質の人間であった。世間にはさまざまな人間がいる。私とは関係のない人間も多いのだ」(同「破滅型」より)
むろん、丹羽親分が、通俗性を低く見ていたとか、そんな的外れな指摘をするつもりはありません。昭和10年代当時は、丹羽親分も、横光利一さんと同程度には、通俗小説の味を採り入れた小説を目指そうとされていたそうですし。
だったら、もうちょっと「直木賞」のことにも関心を持ってくれてもよかったんじゃありませんの? 少なくとも昭和20年代~40年代ぐらいの直木賞は、あなたみたいな作家をどんどん誕生させようと頑張っていたんですから。
って、言い掛かりを付けても、詮ないみたいですね。
後輩の小泉譲さんも、こうおっしゃっていますし。
「丹羽文雄という作家は小説以外の、たとえばエッセイや感想文などでは時々誤解を招くような短絡的な発言をする癖がある。しかし、よく読めば彼の言わんとする真意はそれなりに理解できるのだが、そのぞろっぺな表現の故に損をしている場合がある。しかし、丹羽にしてみればこと更に意識的ではないにしても実作者の自分は小説作品の上で真剣勝負をすればよいのだという考えが根底にあるせいか、評論家のように重箱の隅をほじるような神経質な方法はとらないし、いい方もしない。これは多分に性格的なものでもある。」(昭和52年/1977年12月・講談社刊『評伝 丹羽文雄』「6 華麗なる出発」より)
こっちに言わせれば「エッセイや感想文など」だけじゃなく、「小説」でも、多分にその傾向があると思いますけど。
まあ、その丹羽親分の無自覚な感じが、よけいに「なんだ、あいつは」と反感を買い、敵をつくっちゃったところなのかもしれないしなあ。
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