直木賞とは……眼で追ふに先手々々と蚤逃ぐる――徳川夢声『夢諦軒 句日誌二十年』
徳川夢声『夢諦軒 句日誌二十年』(昭和27年/1952年8月・オリオン社刊)
今日はぜったいに徳川夢声さんのことを取り上げたい! と強く決意したのはいいんですけど、夢声さんが小説のなかで直木賞を描いたことがあるのかどうか、寡聞にして(不勉強にして)知らず。
だったら、小説よりも、字数の少ない分だけ読み手がもっといろいろ勝手に想像してもいい俳句(……え、ちがいましたっけ)のなかから、完全に読み手主観でえらんでみました。「直木賞オタク主観」と言い換えてもいいです。
夢声さんが、頭の片隅に「直木賞」のことを思い浮かべながら、この句を詠んだのだったら、さぞ面白いだろうな、と思いまして。
「眼で追ふに先手々々と蚤逃ぐる」
昭和25年/1950年5月24日、山王台「山の茶屋」にて開かれた文壇俳句会で、夢諦軒(夢声さんの俳号)詠める句。この日の参加者は、玉川一郎、井上友一郎、北条誠、上林暁、檀一雄、真杉静枝、久米正雄、永井龍男の諸氏だそうです。
じつにこのとき、夢声さんが直木賞の有力候補でありながら惜しくも選外となった第21回(昭和24年/1949年・上半期)の選考会から、1年弱。けっして口に出して「直木賞がほしい」などとは言わない夢声老、でも目ではしっかり追っていて、その視線を感じてか感じずにか、蚤なる直木賞は、ひょいひょい逃げていってしまう図。……だなんて解釈は、ええ、確実にワタクシの妄想です。
そんなふうにフザけた妄想を抱いてまで、なぜ「徳川夢声を取り上げたい!」と思ったかといえば、これです。ついこのあいだ、『徳川夢声の小説と漫談これ一冊で』(平成21年/2009年11月・清流出版刊)なる大変な本が出版されたからなんです。
だって奥さん。まさか我々が生きているあいだに(いや、地球が回っているあいだに)夢声さんの「九字を切る」&「幽霊大歓迎」を収めた小説集が本になっちゃうだなんて、だれが想像できました?
ひとえに、この本の収録作の採択を担当した夢声研究家・濱田研吾さん(姓の「濱」は正確には「濵」)のおかげです。
もちろん、「解題」にて「幽霊大歓迎」と「九字を切る」両作の運命を翻弄してきた第21回直木賞候補作のハナシに関して、うちの親サイトのページに触れてくれているのも感激なんですけど。いやいや、なんたって単行本未収録らしい「九字を切る」を、今の今、新刊のなかに収めちゃおうっていう濱田さんの心意気たるや。すばらしすぎる。
夢声と直木賞。この両者は、もう縁が深いあいだがらにあった、ってことはごぞんじのとおりでありまして、なんつったって第1回(昭和10年/1935年・上半期)の直木賞。これの贈呈式は、いちおう大々的に、多くの観客のまえで行われたらしいんですが、そこに夢声さんも顔を出しているんですから、悪縁(?)です。
「28日、東京愛讀者大會を日比谷公會堂に開く。講演・穂積重遠、兼常清佐、久米正雄、小島政二郎。「芥川賞直木賞贈呈式」菊池寛より石川達三、川口松太郎に賞品授與。餘興出演者・二三吉、松原操、大辻司郎、古川緑波、徳川夢聲。」(昭和34年/1959年4月・文藝春秋新社刊『文藝春秋三十五年史稿』「年誌 昭和10年10月」の項より)
ん? これは「夢声と直木賞」、じゃなくて「夢声と文藝春秋」の悪縁かもしれませんけど。
でも、戦前の直木賞のうち、どこら辺の作家に焦点をおくか迷いに迷っていた頃には、たしかに、夢声さんは有力候補のひとりでした。
○
第7回(昭和13年/1938年・上半期)。
病中により「ミスター欠席」の汚名をひっかぶることになってしまった三上於菟吉さんのひと言。
「このほか(引用者注:受賞した橘外男のほか)にも、随分沢山なものを書いている人や、また、徳川夢声君のものらが選に入りそうにも見えた。その数氏は、また何日でもはいるだろう。」(『文藝春秋』昭和13年/1938年9月号「直木三十五賞経緯」より)
それから一年後。第9回。夢声さんと親しかった文人のひとり、小島政二郎さんの報告。
「河童忌(引用者注:7月24日)の席上、久保田万太郎から徳川夢声の近作の著しい進境をさして推薦された。しかし、直木賞授賞資格の第一に、無名作家たることと云う条件が前回から規定されたので、徳川夢声では余りに有名過ぎてその資格がないのである。」(『文藝春秋』昭和14年/1939年9月号 「直木三十五賞経緯」より)
むかしむかし、夢声さんは漫談家だったころ(大正末期~昭和初期ぐらいでしょうか)、政二郎さんの批評眼がそうとう気になっていたらしいです。あ、それと直木三十五さんの目も。
「始めて徳川夢声に逢った時、
「一度僕の漫談を聞いて下さい。僕はあなたと、直木君の思はくが一番恐い。だから、一度聞いて批評を聞かせて戴きたいのだ。」
さう云はれた。」(『句日誌二十年』所収 小島政二郎「初対面の頃」より)
もちろん政二郎さんは夢声さんの才能を買っていた理解者のひとりです。ただ、直木賞において、とくに戦前から戦後すぐぐらいの選考会では、政二郎さんの存在はかなり大きく て(逆に「長谷川幸延推し」で惨敗した、っていう苦い経験もあるんですが)、この人が夢声を強く推したら、ひょっとしたらどこかで、 夢声さんが直木賞を受賞したかもしれませんよ。冗談ぬきで。
政二郎さん、昭和14年/1939年の段階で「夢声は有名すぎる」としてしりぞけ、その10年後、昭和24年/1949年に再び夢声を推す声がでたときも、ほぼ同じ理由でしりぞけました。
ああ。まさに、昭和14年/1939年8月7日、第68回いとう句会での、夢声の句。
「雲の峰再び見ればなかりけり」
……ですね。
○
夢声の落選から1年して、第23回(昭和25年/1950年・上半期)には、直木賞の運営権がめでたく元のサヤの文春に戻ります。そっから徐々に直木賞も、「戦後の文春らしい色」に染められていきますので、夢声さんが「おいらは直木賞がほしい」と周囲に洩らしていれば、もしかして、とらしてもらえたかもしれません。
いやまあ少なくとも、賞が授けられるというなら、夢声さんよろこんで受けたことでしょう。選評で親友・獅子文六さんがおっしゃっているとおり。
ちなみに以下は、夢声さん自身の「賞観」です。
「とにかく“賞”をもらうということは、結構なことである。いかなる“賞”といえども、もらう身になれば嬉しいだろう。(引用者中略)
――あんな賞を受けるのは侮辱だ。
などという人々もある。侮辱を感ずるのは、その人の自由であるが、こと“賞”に限ったことではない。真に公正ということは、何事にも有り得ない。とにかく“賞”をくれるというなら、私は喜んで受けるのである。」(『オール讀物』昭和39年/1964年10月号「賞は結構」より)
ただ、そうおっしゃる夢声さんも、現実かなりのテレ屋さんだったみたいですからねえ。自分から「ほしい」とは言わないでしょう。
っていうか、夢声研究家のお二人によれば、ちょうど昭和20年代後半からは、夢声さんはめっきり小説を書かなくなってしまったんだそうで。
三國一朗さんは、こう推察されています。
「もし夢声が昭和二十六年以降の民間放送出演にあれほど忙殺されることがなかったら、あるいは文学もしくは文筆の世界にもっと深入りしていったのではないかと、私は考えることがある。「文学者」としての業績が、より大きく彼の晩年を飾ったのではないかと思うのである。」(昭和54年/1979年10月・青蛙房刊 三國一朗・著『徳川夢聲の世界』より)
さらに濱田研吾さんは、こう見ています。
「直木賞落選を機に、夢声の文章にも勢いと輝きが失われていく。(引用者中略)なによりもぼくが残念なのは、魅力的な「夢声流私小説風自虐的モダニズム漫談小説」が、戦後になって、「夢声流小言幸兵衛風独断的風俗お小言エッセイ」へと変わってしまったことである。」
「昭和三十年代を迎えて、夢声の物書きとしての評価は一気に下がっていく。夢声にかぎらず、渡辺紳一郎、山本嘉次郎、宮田重雄、石黒敬七、福田蘭童、菅原通済ら、紙面の彩りとして重宝された、戦後の雑文作家たちも同じ運命を辿った。」(平成15年/2003年12月・晶文社刊 濱田研吾・著『徳川夢声と出会った』より)
そうですか。直木賞候補に挙げられるだけの創作活動を、しなくなっちゃったんですか。
のちに昭和32年/1957年にいたって、ときの直木賞受賞者・今東光さん(第36回 昭和31年/1956年・下半期)と「問答有用」で対談しています。もしも6~7年前に自分が同じ「直木賞受賞者」の立場にたたされていたら、やっぱり、こんなこと思ったのかな。
「夢声 なかなかおもしろいですよ。いまごろ、あなたが直木賞ってのはね。」
「夢声 今東光なんていう名は、文藝春秋の創刊時代を知ってる人たちは、よく知ってるけども、ずいぶん長いあいだ、文壇からすがたを消しておられたから、いまの読書階級は知らない。「石原慎太郎よりは年上だろう」という程度です。(笑)しかしね、「いまさら、なんの直木賞ぞ」という感じもある一方、「新人のようにみられるのも、なかなかいいではないか」といってる人もありますね。」(昭和32年/1957年2月24日対談 平成6年/1994年8月・深夜叢書社刊『徳川夢聲の世界 対談『問答有用』文学者篇II』より)
「すでに有名すぎる」と言われて10年もたった昭和24年/1949年の段階で、そんな自分が受賞したら、そりゃあ「なかなかおもしろい」ですよね。……ただ残念ながら、夢声さんはそう思っただろうな、っていうのは、またまたワタクシの妄想なわけでして。
昭和10年代~昭和20年代前半、夢声さんは「直木賞」のことをどう思っていたんでしょう。
濱田研吾さん、さらなる研究と掘り起こし、ぜひぜひ期待しております(と、つい他人を当てにする悪いクセ)。
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