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2009年11月の5件の記事

2009年11月29日 (日)

直木賞とは……眼で追ふに先手々々と蚤逃ぐる――徳川夢声『夢諦軒 句日誌二十年』

091129 徳川夢声『夢諦軒 句日誌二十年』(昭和27年/1952年8月・オリオン社刊)

 今日はぜったいに徳川夢声さんのことを取り上げたい! と強く決意したのはいいんですけど、夢声さんが小説のなかで直木賞を描いたことがあるのかどうか、寡聞にして(不勉強にして)知らず。

 だったら、小説よりも、字数の少ない分だけ読み手がもっといろいろ勝手に想像してもいい俳句(……え、ちがいましたっけ)のなかから、完全に読み手主観でえらんでみました。「直木賞オタク主観」と言い換えてもいいです。

 夢声さんが、頭の片隅に「直木賞」のことを思い浮かべながら、この句を詠んだのだったら、さぞ面白いだろうな、と思いまして。

「眼で追ふに先手々々と蚤逃ぐる」

 昭和25年/1950年5月24日、山王台「山の茶屋」にて開かれた文壇俳句会で、夢諦軒(夢声さんの俳号)詠める句。この日の参加者は、玉川一郎井上友一郎北条誠上林暁檀一雄、真杉静枝、久米正雄永井龍男の諸氏だそうです。

 じつにこのとき、夢声さんが直木賞の有力候補でありながら惜しくも選外となった第21回(昭和24年/1949年・上半期)の選考会から、1年弱。けっして口に出して「直木賞がほしい」などとは言わない夢声老、でも目ではしっかり追っていて、その視線を感じてか感じずにか、蚤なる直木賞は、ひょいひょい逃げていってしまう図。……だなんて解釈は、ええ、確実にワタクシの妄想です。

091129_2  そんなふうにフザけた妄想を抱いてまで、なぜ「徳川夢声を取り上げたい!」と思ったかといえば、これです。ついこのあいだ、『徳川夢声の小説と漫談これ一冊で』(平成21年/2009年11月・清流出版刊)なる大変な本が出版されたからなんです。

 だって奥さん。まさか我々が生きているあいだに(いや、地球が回っているあいだに)夢声さんの「九字を切る」&「幽霊大歓迎」を収めた小説集が本になっちゃうだなんて、だれが想像できました?

 ひとえに、この本の収録作の採択を担当した夢声研究家・濱田研吾さん(姓の「濱」は正確には「濵」)のおかげです。

 もちろん、「解題」にて「幽霊大歓迎」と「九字を切る」両作の運命を翻弄してきた第21回直木賞候補作のハナシに関して、うちの親サイトのページに触れてくれているのも感激なんですけど。いやいや、なんたって単行本未収録らしい「九字を切る」を、今の今、新刊のなかに収めちゃおうっていう濱田さんの心意気たるや。すばらしすぎる。

 夢声と直木賞。この両者は、もう縁が深いあいだがらにあった、ってことはごぞんじのとおりでありまして、なんつったって第1回(昭和10年/1935年・上半期)の直木賞。これの贈呈式は、いちおう大々的に、多くの観客のまえで行われたらしいんですが、そこに夢声さんも顔を出しているんですから、悪縁(?)です。

「28日、東京愛讀者大會を日比谷公會堂に開く。講演・穂積重遠、兼常清佐、久米正雄、小島政二郎。「芥川賞直木賞贈呈式」菊池寛より石川達三川口松太郎に賞品授與。餘興出演者・二三吉、松原操、大辻司郎、古川緑波、徳川夢聲。」(昭和34年/1959年4月・文藝春秋新社刊『文藝春秋三十五年史稿』「年誌 昭和10年10月」の項より)

 ん? これは「夢声と直木賞」、じゃなくて「夢声と文藝春秋」の悪縁かもしれませんけど。

 でも、戦前の直木賞のうち、どこら辺の作家に焦点をおくか迷いに迷っていた頃には、たしかに、夢声さんは有力候補のひとりでした。

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2009年11月22日 (日)

直木賞とは……「候補作家」の肩書は、政治家をめざす者には、アクセサリーとしてはちょうどいい。――豊田行二「太陽への挑戦者――小説・糸山英太郎」

091122s4910 豊田行二「太陽への挑戦者――小説・糸山英太郎」(『オール讀物』昭和49年/1974年10月号)

 直木賞と芥川賞のちがいを表現するとき、俗にこんな言葉があります。

「受賞してからエロ小説を書くのが芥川賞、エロ小説を書いてから受賞するのが直木賞」。

 と言うのは、ウソです。ワタクシがいま勝手に考えついた言葉です。

 ともかくも、胡桃沢耕史さんや阿部牧郎さんのように、豊田行二さんだってタイミングさえ合えば、昭和50年代~60年代にいたって直木賞をとったかもしれません。奇遇にもこの3人は、エロ小説を多発する以前の、デビュー当時から、「直木賞」の世界をことさら意識させられる環境にいた、って点でも共通しているわけですし。

 山口県下関で、周東英雄代議士の私設秘書だった豊田さん。いや、あえて本名で言いましょう、渡辺修造さん。「豊田行二」になる前、すでに「山口昌高」なるペンネームで、クラブ雑誌にユーモア小説を発表していました。しかし、渡辺さんはいろんな小説を書いていきたいと思っていたのに、注文はユーモア物ばかりだったそうで、飽き足らなくなり、別のペンネームでさまざまな新人賞に応募しだしたのだとか。

 そのうちのひとつが「示談書」。めでたく昭和43年/1968年、第32回のオール讀物新人賞を受賞します。

 そのときの受賞のことばです。すでに豊田さんが遠く「直木賞」あたりから吹き降ろす風を感じていたことがわかります。

「もう、こうなれば、次の目標を直木賞に置いて、ひたすら突っ走るだけである。一生かかっても直木賞はいただけないかも知れないし、そんな大それたことを、新人賞をいただいたばかりの者が口走ると、「頭を冷やせ」とお叱りを蒙るかもしれない。しかし、無縁と思っていた新人賞をいただいたことで、破れかぶれの欲が、猛然と湧いてきたのである。」(『オール讀物』昭和43年/1948年1968年6月号「破れかぶれの弁」より)

 そりゃあもう、豊田さんの回想によれば、そもそも作家になろうと思ったきっかけが、身近に「直木賞候補」の先輩がいたからなのだそうで。東京から遠く離れた下関の地で、新聞記者を勤めながら同人誌に書いた短篇がいきなり直木賞候補になり、俄然注目を浴びた先輩……。古川薫さんです。

「私が作家になったのも、古川さんの影響に負うところが大きい。

 古川さんの『走狗』が単行本になり、料亭で出版記念会が行なわれたとき、私も招かれて末席に連なった。そして、そこから、メインテーブルを見て驚いた。

 古川さんを中心に、下関在住で芥川賞の候補に何度かなった長谷川修さん、北九州在住の作家、劉寒吉さん、岩下俊作さんらの作家がずらりと並び、東京から来た出版社の編集長や雑誌社の編集者が賑やかに顔を揃えている。彼等がかわるがわる立って喋るスピーチも、聞くものを圧倒するような迫力があった。小説を書いて認められるということは、かくも素晴らしいものか、と古川さんの出版記念会の雰囲気に感動した私は、家に帰ると机に向かい、半月ほどかかって、『示談書』を書きあげ、オール読物新人賞に応募した。」(昭和57年/1982年1月・大陸書房刊『作家前後』所収「男の誓いを交した古川薫さん」より ―初出『トップ小説』昭和55年/1980年8月号)

 ……といった頃の実状などがストーリーの間に差し挟まれるのが、新人賞受賞から6年後に書かれた「太陽への挑戦者」って小説です。むろんかなり虚構を交えているんでしょうけども。

 郷里で代議士の地元秘書をしていた牧月晃一。やがては自分も政治家になりたいと夢を持っています。慢性中耳炎で入院しちゃうんですが、そのとき何げなく書いた小説が、入院患者たちに褒められたのが運のツキ。それに気をよくして、退院後、小説を書き上げて「当時、日本で最も権威があると言われていたB社の新人賞の懸賞」に応募します。

「もちろん、入選の期待など、爪の垢ほども持ってはいなかった。

 ところが、この作品は新人賞を受賞し、あまつさえも、直木賞の候補になったのである。」(「太陽への挑戦者」より)

 それで、豊田さんの本心だったのか、小説上のウソなのか不明ですけど、「直木賞候補」になったことは、牧月晃一にとってはさほどの重みはなかった、っぽく描かれています。なぜなら牧月は政治家になりたいからです。

「作品が一級品だと認められたのだ、という嬉しさは、筆歴が浅すぎるせいか、まったくなかった。

 新人賞を受賞してからも、まだ、牧月は依然として政治家になる夢を追っていた。直木賞候補の肩書はそのためのアクセサリーに使えるからありがたい。そういった感覚しかなかった。もちろん文筆で生計を立てようなどという考えは毛頭なかった。」(同「太陽への挑戦者」より)

 文筆で生計を立てる気がなかった、のはどうやらそのとおりのようで、『作家前後』におさめられた「これから先が……」(初出『午後』昭和48年/1973年7月)にも、同じような場面で、同じような表現が出てきます。ただし、

「『示談書』がオール読物新人賞を受け、直木賞候補になったときも、私は将来物書きになろうとは思わなかった。あくまでも政治家になるつもりだった。しかし、それは以前のように確固たる信念ではなく、ややぐらついたものに変わってはきていた。」(前掲『作家前後』所収「これから先が……」より)

 と、作家の世界への「欲」も、けっこう膨らんでいたみたいですけど。

 それにしても、「直木賞候補の肩書は、政治家になるためのアクセサリーに使える」だなんて一文が、どうして小説「太陽への挑戦者」には、付け加えられているのか。なある。これはこの小説で明らかにされる、もう一人の主人公「糸山英太郎」と政界進出劇についての物語を補強する伏線だったんですね。

 そう。その物語とは。……青年実業家の糸山が選挙に打って出るための、一つの道具として、別のだれかに本を書かせた、っていういきさつのことです。

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2009年11月15日 (日)

直木賞とは……ちょっとした主婦でも知ってるよ。「一夜で有名になる」代表的な出来事だってことをね。――丹羽文雄『樹海』

091115 丹羽文雄『樹海』上・下(昭和57年/1982年5月・新潮社刊 -> 昭和63年/1988年2月・新潮社/新潮文庫

 おいらみたいな素人には、とうてい理解できないけど、戦後の流行作家三羽ガラス、丹羽文雄舟橋聖一石川達三は、「大衆小説」じゃないのだそうで。いいじゃん、大衆小説で。何が悪いのさ。……と言ってみたところで、少なくともご本人たちのなかには、歴然たる区別意識があったそうで。

 舟橋さんが戦前、菊池寛親分から直木賞選考委員になってもらえないか、と打診を受けたのに、断ったとか。それで、芥川賞委員ならば、ひょいひょい引き受けちゃうとか。

 戦後に両賞が復活するとき、石川さんははじめ直木賞選考委員を務める予定で、昭和23年/1948年の段階では、直木賞の選考会に出席していたくせに、昭和24年/1949年になったら、なぜか澄ました顔して芥川賞の選考委員の座におさまっていたとか。

 永井龍男さんも、井伏鱒二さんも、水上勉さんも、何年にもわたって直木賞委員を務めていたはずが、何の未練もなく急に芥川賞委員に鞍替えしちゃったりして。何なんだ、あなたたちは。そんなに直木賞がイヤか。

 丹羽文雄さんが、そんな方たちと同類かどうかは異論あるところでしょうけど、それにしても直木賞オタクとしては、丹羽さんの動向は、舟橋聖一・石川達三とともに、研究欲をかき立ててくれます。たぶんワタクシは生きているあいだに、それに手を付けるところまで到達できないでしょうけど。なにせ丹羽山脈は標高もたかく、面積も広大すぎます。

 ……と言いつつ、丹羽さんが昭和50年/1975年にもなって、まだ、とある一つの信念を貫いていたかと見ると、まあ彼が直木賞について何かを語るなんて、あるわきゃないな、と納得してしまいます。

 とある一つの信念とは、「通俗雑誌にのった小説は、絶対に純文学ではない」ってものです。

091115_4  昭和50年/1975年の第11回谷崎潤一郎賞にて。丹羽さんは候補作品に、ある作品を推薦します。ところが、ふたをあけてみると……。

「私(引用者注:丹羽自身)がその作品を推したのである。しかし、その小説をよんでいなかった。作者の名をみて、書下ろしの長篇ではないかと思い、その作者なら必ずよみごたえのあるものを書いているだろうと思ったからである。選考会で、私が推したのが通った。が、一読して、私がまちがっていたことを知った。候補作品にはなりかねないものであった。筆がひどく荒れていた。作者がその雑誌の特色に多分に迎合して書いているようであった。そのため今後は、掲載誌を厳重に調査することになった。」(昭和51年/1976年11月・講談社刊『創作の秘密』「作者の持味」より)

 すげえぜ、丹羽親分。作品を読まずして、作者の名と「書下ろしだろう」との当て推量で、推薦するたあ。候補作の作者名と作品名、掲載誌(または出版社名)だけ見て賞のなりゆきを予想する、我らみたいな素人とほとんど同じレベルじゃないかよ、すげえぜ。

 いやいや丹羽親分は、自分自身や他の作家たちのこれまでの長ーい経験に裏打ちされた理論を持っていたのですから、おいらたちと一緒にしちゃあいけません。たぶん。

「が、私がかんじんの内容を知らずに、その名前だけで推薦したというのも、かねてからその作者の持味に期待をかけていたからである。その持味は、文学的にもかなり高いものであった。が、いつも発表する雑誌が大衆的なものが多く、持味が十分に生かされていなかった。これも一種の作者の不幸というべきであろう。」(同「作者の持味」より)

 このエッセイでは、谷崎賞5つの候補作のうち、水上勉『一休』、安岡章太郎『私設聊斎志異』、中村真一郎『四季』の3つについて実名を挙げて詳細に論じていて、すると残るは2作品。まさか丹羽親分が「いつも発表する雑誌が大衆的なものが多く」と評したのが、古井由吉さんであるわきゃないもんね。……ってことで、その作家とは容易に野坂昭如さんのことだとわかるわけです。

 しかしまあ、丹羽親分いわく、この一件はご自身の責任っていうより運営者側の「谷崎賞候補を選ぶときの手落ち」だそうですし、野坂昭如は、通俗的な雑誌に書くと手加減をくわえる(あるいは手を抜く)から、とうてい推せないんだ、でも俺はちがう、「私はいろんな雑誌、新聞に作品を発表しているが、かつて手加減を加えたということは一度もなかった」んだそうです。

 おお、偉大なるかな、キング・オブ・ブンダン。かわゆすぎます。

 ……でもまあ、これが丹羽さんのお人柄なのだとしたら、そりゃあ周りに敵が多そうだな。

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2009年11月 8日 (日)

直木賞とは……噂をするなら匿名で。だって悪口いってるのがバレたら、とれなくなっちゃうもん。――夢枕獏『仰天・文壇和歌集』

091108 夢枕獏『仰天・文壇和歌集』(平成4年/1992年5月・集英社刊 -> 平成14年/2002年6月・集英社/集英社文庫

 小説でもエッセイでも、「文学賞をネタにする」っていうのは、飛び道具みたいなところがありますよね。あ、飛び道具というか、低俗、ゴシップ、卑しい、下品、文学の本筋とは関係のない傍流。

 それでたいていの良識人は、あえて文学賞について深く語ったりしないものらしいですけど、性格上、ついついネタにしちゃう人もいます。たぶん、夢枕獏さんもそのひとりです。

 キマイラ、サイコダイバー、餓狼伝。昭和50年代後半(1980年代)に、一気にノベルス・文庫界隈で売れっ子になり、『上弦の月を喰べる獅子』で無冠の座から脱却(第10回日本SF大賞)。これが平成1年ごろのことで、ちょうど獏さんにとって一回目のお仕事自重期のころなんですが、このあたりから獏さんからは文壇ネタ、文学賞ネタが一気に噴き出していきます。

 そのなかの一作である『仰天・文壇和歌集』(初出『小説すばる』平成2年/1990年11月号、平成3年/1991年3月号、8月号、10月号~平成4年/1992年4月号)より。まずは一首。

「勝手に候補にしておきながらこの賞が欲しければもっと勉強しろと言って落選させた審査員がいたようないないような」(『仰天・文壇和歌集』「一、仰天・文壇和歌集の一人百首」より)

 終わりかたに、やや腰の引けた感じが残っています。

 いかんいかん、これじゃ面白がってもらえんぞ、と切り替えたのかどうなのか、そのあとは賞を欲しがる作家の心情とか生態とかを、次々にネタにしていきます。

 なにせ、ちょうど昭和の末から平成のはじめごろっていえや、あれです、「推理小説では直木賞はとれない」(昭和30年代~昭和40年代)、「SF小説では直木賞はとれない」(昭和40年代~昭和50年代)などと、各グループで怨みまじりの気炎が上がったのと同様、夢枕獏さんの周辺の冒険小説グループが、直木賞から迎え入れたり拒否られていたりした時代ですもん。獏さんも、文学賞ネタには事欠かなかったようで。

「あの賞を取ったあいつの作品より取らぬおれの本の方が売れている

と言う君の酒は五杯目である」(同「一、仰天・文壇和歌集の一人百首」より)

 ははあ。たくさん本が売れること……人気作家っていう座を何年も持続できること。それも作家の価値のひとつと認めて、直木賞を与える理由として採り入れたっていいじゃないか、とのちに北方謙三さんが提示する土壌が、このあたりに垣間見えたりもします。

 それから獏さんは、賞に対して作家たちが裏で悪口を叩き合っている図、なんてのも描きます。

「欲しい賞の悪口けして言わないあなたは世渡り上手」

「もらってしまった賞の悪口しか言わないあんたが大将」

「あの賞の悪口急に言いはじめた同業者(ルビ:きみ)を見て きみがエロスとバイオレンスでやってゆく決心をしたことを知る」(以上三首「三、仰天・文壇和歌集の懲りない逆襲」より)

 悪口を言い出すと、それが噂となってどこかの出版社あたりに流れて、もうその賞から声がかからなくなる、っていう原理。くーっ、まったくこの世は生きづらいもんなんですね。たとえば文学賞が「発表された小説のなかで、最高のものを選び出す」っていう理念があったとしても、なかなかその理念どおりに事が運ばんのも、わかります。

「「ぼくは一度あの賞の候補になりました」「おれは三度なった」とらぬどうしで哀しくはないか」(同「三、仰天・文壇和歌集の懲りない逆襲」より)

 なあんてことを、あまり「文学賞の候補者」ってかたちで表沙汰になったことのない獏さんがつぶやくから、クククッと黒い想像の広がる一首です。

 ……と、あまり引用ばかりしていくと、面白くなって止まらなくなりそうなので、ここらでやめときます。もっと出てくる文学賞ネタについては、同書をチェックしてみてください。

 それにしても、あの賞あの賞、としか言わず、いちいち固有名詞を出さないところが、獏さんも自嘲ぎみに「世渡り上手」と詠っちゃうところなんですけど。ただ、本書のなかではっきりと「欲しい」とネタにされて具体的に賞名の挙がっているものが、二つだけあります。

 芥川賞と直木賞です。

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2009年11月 1日 (日)

直木賞とは……「とれば周囲の目が変わる」。と思われていることそのものが、ユーモアのネタになる。――奥田英朗「妻と玄米御飯」その他

091101 奥田英朗「妻と玄米御飯」(平成19年/2007年4月・集英社刊『家日和』所収)その他

 精神科医・伊良部一郎のもとに訪れたのは、すでに著作数200冊を超える人気大衆作家、彼はここ最近悩んでいて、数年前からN木賞の選考委員を務めているのですが、かつては自分の物差しで「推す」小説と「推さない」小説をきっぱり決断できていたのに、急にどの小説を読んでも良し悪しが判断できなくなってしまって、選考会に出ては胸をはって発言することができず、冷や汗のかきどおし……。

 とかいう伊良部シリーズがあってもよさそうなんですけど、そんな小説ありません。残念。

 奥田英朗さんに、文学賞(とくに直木賞ふうのもの)が出てくる小説が、まったくないわけじゃありません。ただし、それぞれがズバリ直木賞、って書かれ方はしていないし、文学賞をネタにしているっていうより、登場人物である作家を肉付けするような小道具程度のものですけど。

 ってことで、今日のお題は、「妻と玄米御飯」その他。たぶん「その他」のほうに多くの文量を割くことになりそうです。

 「その他」その1。『ララピポ』(平成17年/2005年9月・幻冬舎刊)から行きますか。

091101_2  『ララピポ』第5話の「I SHALL BE RELEASED」の主人公は、作家の西郷寺敬次郎です。いや、官能作家の、と言い換えておきましょう。桃園書院の書き下ろしシリーズとか、月刊誌『小説エロス』『桃色ノベル』、週刊誌『実話パンチ』、夕刊紙『夕刊トップ』の締め切りを控える、人気者です。

 でも西郷寺先生、むかしは純文学を志していました。文壇デビューは20年前、日本を代表する老舗出版社の「世界文藝社」(わざわざ「藝」と書いてあるところがミソ)が主催する世界文藝新人賞を受賞したことにあります。しかし、文学に賭ける志は途中でどっかに行ってしまい、今じゃ官能小説専門。そんな西郷寺先生ですが、もう一度、純文学をどこかに発表できないかと、短篇を何本か書き溜めています。

 それで、西郷寺先生と、三流出版社(利益の大半は官能小説で上げている)の桃園書院編集者、石井との会話。

「「ところで、近頃はどんな小説が売れてるわけ?」(引用者中略)

「文芸ですか。うちの本ではあまり……」

「別に桃園書院のことを聞いてるわけじゃないの。世間一般のことだよ」

「さあ。宮部あけみ先生とか、浅田一郎先生とか、そういった方なんじゃないでしょうか」

「この前、賞を獲った翠川輝夫はぼくの同人誌時代の後輩だけどね」(引用者中略)「小説のイロハを教えてやったのはぼくだよ。あいつも長かったね、地味な私小説ばかり書いてて。食えるようになったのは最近だろう」」(『ララピポ』「I SHALL BE RELEASED」より)

 へえ、翠川輝夫が獲った賞って、どんな賞なんだろ。同人誌出身というから純文学系の可能性もあるけれど、長い作家歴、それから小説で食えるようになった、ってぐらいですからねえ。直木賞・山周賞・吉川新人賞、その辺の系列ですかね。

 もう一場面、引用します。西郷寺先生が、銀座で艶聞社ってところの接待を受けている最中に、たまたま同じ文壇バーに高橋なるミステリー作家が、編集者を引き連れてやってきたところです。

「「高橋先生」ママが華やいだ声をあげ、駆け寄った。ほかのホステスたちも一斉に立ち上がる。

 テレビや雑誌でよく見かけるミステリー作家だった。大半の作品がドラマや映画になっていて、賞の選考委員もいくつか兼任している文壇の大御所だ。」

 その高橋を接待しているのが、先にご紹介した世界文藝社なんでした。

「向こうのテーブルは端から賑やかだった。ミステリー作家は両脇にホステスを抱え、大物ぶっている。

 ふん。たかが三文推理小説だろう。何を大きな顔をしているのか。こっちは純文学作品を書いていたことだってあるのだ。」(同「I SHALL BE RELEASED」より)

 ふふふ。小物感・俗物感たっぷりの中年作家の、ドロドロした心理をあぶり出すために、文学賞が使われているんですね。

 自分は、先ごろ賞をとった後輩作家とは、知らぬ仲じゃないってことで、優越をひけらかす。対して、賞の選考委員をしているのみならず、それを「いくつか兼任する」ほどの流行作家には、バーのママやホステスの態度――つまり世間の目の違いを見せつけられ、めらめら怨念を燃やす。

 ちなみに、この『ララピポ』第5話が発表されたのは、幻冬舎の『ポンツーン』誌、平成16年/2004年4月号だそうで。とりあえず、奥田さんが直木賞を受賞(平成16年/2004年7月)する前のことです。

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