直木賞とは……受賞後に書きつづけることができないと、自嘲の対象になる。――岡田誠三『定年後』
岡田誠三『定年後』(昭和50年/1975年3月・中央公論社刊)
直木賞がまだ、佐佐木茂索&池島信平イズムにどっぷりと塗りつぶされる前のころ……。香西昇さんたちが、なけなしの奮闘ぶりを発揮するその礎にさせられる前のころ……。「原始直木賞」の終焉は、太平洋戦争が終わるころに訪れました。
戦中最後の受賞者、第19回(昭和19年/1944年・上半期)の岡田誠三さんです。
だいたい世の中には、「直木賞作家なんて、受賞後、あまり活躍できない人も結構いる」とかなんとか、やっかみ混じりの妙なイメージをもつ人がいるらしいです。それ、正しい見立てかもしれないけど、別の視点でみたら、間違いかもしれません。
とくに、戦時下に受賞した作家たちと言ったら、あなた。その後のたくましい躍進ぶりは、なかなかエラいもんです。
早くに亡くなった神崎武雄さんは、まあ措いときましょう。
「没落受賞作家」の代名詞、河内仙介さんにしたって、戦争終結前はけっこう、ぶいぶい活躍してたんじゃないですか?
堤千代さんは、家庭誌・女性誌をメインに、一時期は超流行作家。戦後に直木賞が復活するときには、選考委員に予定されているメンバーの一人として名が挙がっていたほどです。木村荘十さんは、戦後の出版復興期には、各誌からひっぱりダコ。森荘已池さんは、宮沢賢治のことならまずこの人に聞け、と言われるほどの賢治研究の大家にのぼりつめちゃったし。
田岡典夫さんは、渋いながらも良心的な歴史小説で長らくご活躍。村上元三さんの、佐々木小次郎旋風と、それからの重鎮化にいたる道のりは、「直木賞作家」としてバツグンの優等生です。
で、岡田誠三さん。いやあ、さすがにこの人は、戦争モノ中の戦争モノで唐突にポロッと受賞できただけの人だからな、早々と表舞台から名前が消えちゃったよな。……と戦後、30年間も、言われつづけました。おそらく。
昭和50年/1975年に、『定年後』なる半自伝的な、爆弾小説が投下されるまでは。
朝日新聞記者の岡田さん、受賞のころやその後のことを、あくまでサラッと、『定年後』のなかで触れてくれています。
岡田さん流の、なかなかコネくられヒネくられた文章ですので、注意深く読んでみましょう。
「受賞してから私を見る周囲の目が微妙に変ってきたことを私は皮膚の上に感じる。廊下ですれ違うたびに故上野精一社長が「岡田はん、書いてるか」と、その丸く禿げた頭と同じソフトな大阪弁でいう。敗戦前後へかけての内面の振幅がまぎれるにつれ、それ以後の中年サラリーマンの惰性的ぬるま湯へまたしても私は徐々に首まで漬っていった。受賞の記憶はやがて虚称と化して空転しはじめる。」(『定年後』「1 定年葬」より)
虚称。……ははあ。そうなんですか。コイツは、職業作家じゃない人間にとっての、正確な直木賞観でしょう。
さらに、つづいてもう一段落、その「虚称」が具体的にどう空転していったかを述懐しています。
「戦後社会が深まる中でおおかたの人は私の作品の意味を問わずに受賞のことにふれる。虚栄心のくすぐられる限界効用が逓減して自身にむなしいコッケイさを感じながら、「イヤ、あれはもう、時効にかかりましたよ」と受け流す文句を編み出しながら私は、「直木賞をもらった男」という自嘲的短編の幻想の主人公の姿を自分の中に見ていた。」(同『定年後』より)
「自嘲」と来ました。
受賞当時のことをひるがえって見ますと、昭和19年/1944年には、新聞の従軍記者が戦地の状況を報告する文章なんか、山ほど発表されていて、『新青年』にだって、そんな散文はいろいろ出ていたはずです。そのなかで、作家として何の実績もない岡田誠三なる記者の、「讀切長篇 報道小説」と角書きを付した小説とも現地報告文ともとれる文章に、よくぞまあ、直木賞は賞を授けたものだな。……と思うわけですけど、岡田さんが単なる従軍記者、ジャーナリストであったなら、もしかして、こんな虚称になんか無関心を貫けたかもしれません。
ところがです。岡田さんはどうやら、からだの奥底に「作家」の魂を持っていました。戦争だあ国策だあってことで鑑賞眼が曇りがちな戦時下に、そういう人の書いたものを、ビシッと探して出してきて、文学の賞を与えてしまった直木賞たるや。むむ。なかなかやるな。
○
さっき、「作家」の魂、と言いましたけど。「作家志望」と言い換えちゃってもいいかもしれません。
岡田誠三さんが、記者として従軍する前、何か作家修業めいたことをしていたのか、作家を志していたのかは、ワタクシは知りません。なにせ子供のころから、身近に強烈なインパクトをもつ父親がいて、もちろん本に対する馴染みはあったでしょうが、自分で小説を書いてみたいと思ったことが、あったかどうだか。
「私のおやじは奇異な風采が人目を引いた。肩までさがる多毛質な長髪の上に、家の中でも釜底型のこげ茶色のソフト帽子を載せ、白羽二重の反物を長い首にぐるぐると巻きつけている。(引用者中略)
道ですれちがって、人がふり向かないような、もっと普通で平凡な父親をなぜ私だけが持たなかったのかと、子供ごころに悲しんだ思いが残っている。」(昭和56年/1981年11月・中央公論社刊『字余り人生』所収「私のおやじ・おやじになった私」より)
でも、『定年後』の続編みたいな小説『定年後以後』(昭和63年/1988年8月・中央公論社刊)のなかには、こんな記述があります。
「退職後、若いときからの念願どおり小説を書こうとして数年間、あがいたすえ、『定年とその後に来るもの』と題する私の単行本がやっとの思いで世に出た。」(『定年後以後』「1 古猛妻、腰をぬかす」より)
若いときからの念願、だったらしいです。
そういえば、小説じゃないですけど、岡田さんには戦前にも著作があります。
単著『ニューギニヤ血戦記』(昭和18年/1943年9月・朝日新聞社刊)は、全16章。題名が示すとおり、『新青年』の「ニューギニア山岳戦」と同じく、舞台はニューギニヤです。しかも第3章の名称が「山岳戦」。両者、扱っている内容はカブっているところもあります。でもこれ、『ニューギニヤ血戦記』は特派員が伝える態をとっていて、現地住民との交流とかそんな記述もあります。小説と見るには無理がありますよね。
さらに、これについては、大阪市史料調査会調査員の村上大輔さんによる、こんな調査報告があったりします。
「岡田誠三は『朝日新聞』に「ニユーギニヤ血戦記」と題した連載を開始した。連載は、(引用者注:昭和18年/1943年)2月26日付夕刊から始まり、4月23日付夕刊から「ソロモン血戦記」と連載名を変えて、5月2日付夕刊まで48回続いた。(引用者中略)
岡田誠三は「ニユーギニヤ血戦記」の連載が終了した後、『ニユーギニヤ山岳戦』の執筆に取り掛かった。」(平成13年/2001年3月『大阪国際平和研究所紀要 戦争と平和'01 10号』所収「ポートモレスビー攻略戦の戦況報道―従軍記者・直木賞作家としての岡田誠三を通して」より)
もうひとつ、共著『わが血戦記』(昭和19年/1944年10月・朝日新聞社刊)なんて本もあります。
これは朝日新聞の四人の特派員による「手記」です。つまり、天藤明「珊瑚海海戦」、宍倉恒孝「印度テンスキア爆撃行」、長谷川直美「軍神加藤と或る少年飛行兵の生涯」、それから岡田誠三「ニューギニヤ山岳戦」。
おや、『新青年』の直木賞受賞作と同じ題名だぞ、……って思って読んでみたんですが、こちらも、描く内容は同じでも、受賞作とは章立てや文章量が異なっています。まあ、小説とは別ものととらえるべきでしょう。
○
戦後になりまして、岡田さんは、ほんの一時期だけ「作家」としても活動しました。このあたりから、なるほど岡田さんには確かに作家を志す気持ちがあったんだな、とうかがえる程度ですけど。
ひとつは、直木賞作品「ニューギニア山岳戦」からの続きで、『文藝春秋 別冊1号』(昭和21年/1946年2月 今の『別冊文藝春秋』とは別)に「失はれた部隊」を発表したこと。
前出の村上大輔さんの調査によれば、その後、加筆して昭和21年/1946年11月に人民会議社から『失はれた部隊』を出版しているんだとか。ワタクシは未見・未読です。
二つ目には、SF小説を書いています。昭和22年/1947年8月に誠光社から出版された『火星の夢』。表紙には堂々と「科学諷刺小説」と印刷されています。
この本の「作者略歴」には、ほかの作家活動のこともチョロッと書いてありますので、引用しておきますね。
「終戦後『失はれた部隊』『日本降伏す』などを文藝春秋其他に発表
昭和二十一年十一月より翌二十二年三月にわたり長編小説『死と倦怠』を國際新聞紙上に連載す」(『火星の夢』「作者略歴」より)
三つ目。同人誌『文学雑誌』に参加していたことだって、見逃せませんぞ。
そう、なにわの硬骨漢・吉井栄治を生んだ同人誌でおなじみ。……っていうのは言い過ぎですか。ええと、藤沢桓夫のもとに集まった関西の文学熱中者たちの同人誌でおなじみ、の『文学雑誌』です。
第52号(昭和49年/1974年9月)の「総目次」によれば、第17号(昭和25年/1950年10月)に小説「血の色に燃えるもの」を発表。当時の同人名簿にも、きっちり、岡田誠三さんの名が印刷されています。
そうか、そういう縁で、岡田さんが『文藝讀物』昭和25年/1950年6月号に書いた「日映演労組文楽座分会」の筆者紹介を、藤沢桓夫さんが書いているのか。
そこでは、岡田さんの作品として、「ニューギニア山岳戦」「失われた部隊」「死と倦怠」「火星の夢」のほかに、「枕」七十枚、なんてのも紹介されています。
それより、藤沢さんが「作家」岡田誠三に対して、どんな推薦の辞を述べているのかを、見てみましょう。
「前作(引用者注:「ニューギニア山岳戦」)は当時大本営が太平洋戦線での日本軍の最初の退却であったニューギニアの部隊の運命を日本陸軍戦史から抹殺しようとする意図に出たのに抗して作者が制約されて筆をとったために非常にゆがめられた形にはなったが、作品の中に示された描写力など作家として伸びる素地を認められて授賞されたものである。(引用者中略)
精力的な若い作家であるだけに、そのジャーナリストとしての社会的な視野の広さが、今後の精進に期待させるところ大である。」(『文藝讀物』昭和25年/1950年6月号より)
当時、岡田さんはまだ30代半ば。「直木賞作家」の肩書きが虚称とはいえども、その前後にいくつかの小説を書き、また同人誌に参加したりなどして、多少なりとも小説への情熱を抱いていたことだろうと推測します。
しかし、その後、岡田さんは「記者」生活のほうに歩いていきます。「サラリーマンの惰性的ぬるま湯」っていうのは、さっき引用させてもらった、岡田さんご自身の表現です。
ほんとは、うまくいけば終戦直後のころから、小説家として生活していきたかったのかな。でも、なんだかんだでうまく行かなかったのかな。それゆえの「直木賞作家と呼ばれること」=「自嘲」なのかな。……と想像してみたりして。
いやまあ、それにしてもですよ。受賞から30年、「消えた直木賞作家」の一人に数えられていたところから、一からのスタートで、定年後に、もう一花も二花も咲かせたんですからねえ。岡田誠三さん、やっぱり並の「作家」じゃなかったんでしょうなあ。
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