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2009年10月の4件の記事

2009年10月25日 (日)

直木賞とは……エンタメ小説に与えられる賞。と、言い切りたいけど言い切れない。――柴田よしき『Miss You』

091025missyou 柴田よしき『Miss You』(平成11年/1999年6月・文藝春秋刊)

(←左書影は平成14年/2002年5月・文藝春秋/文春文庫

 ふいに、こんな推薦文を見せられたとき、どんな対応をとるかによって、あなたの直木賞ハマり度が測れます。

「しかし何よりも読ませるのは、ここまで書くかという業界の内幕話だろう。具体的に読んでのお楽しみだが、この暴露度は筒井康隆「大いなる助走」以来と言ってもいい。出版界に興味のある読者には、たまらない一冊だと思う。」(『北海道新聞』平成11年/1999年8月22日「書評 Miss You 出版界の内幕徹底暴露」茶木則雄・著 より)

 直木賞オタクとしての正解は……ほお、評者は茶木則雄さんか、しかもその前段では「本書ほど徹底して“業界”を舞台にした作品は、ことミステリーに限って言えば、おそらくないのではあるまいか。」などと、あまりにも言いすぎ・暴論の勢いだもんな、こりゃとても信用できんな、としてスルーする。

 っていうのは冗談ですけど、もうちょっと信頼感のありそうな(こらこら)長谷部文親さんは、こう語ります。

「もちろん本書はミステリーの形式を踏んだフィクションには違いないが、あえて作家や文芸編集者の生態を掘り下げたところにドラマを構築した点で、含蓄に富んだ新機軸と呼べるのではないかと思う。」(『THE 21』178号[平成11年/1999年9月]「ミステリーから現代を読む」長谷部文親・著 より)

 ああ、柴田よしきさん。何にでも手を出す彼女の活躍ぶりは、ワタクシみたいな偏向読者にとっては、ただ指をくわえて遠くから眺めていることしかできません。なので、ワタクシは厚顔無恥を承知のうえで邪道を歩かせてもらいまして、村上緑子もリアルゼロも炎都もすっとばして、いきなり『Miss You』に手を出してしまうわけです。

 『Miss You』では、現実の出版界を想像させながらも、スレスレのところでモデルを特定させない配慮が、いたるところにまぶしてあります。

 主人公の江口有美の勤める会社が「文潮社」、担当雑誌が「小説フロンティア」。ここ一流出版社だそうで、東大卒の学生が就職先に選ぶ部類の会社だそうで、他にファッション誌とかも出しているらしくて、「小説フロンティア」は公募の新人賞も主催していて、そこには五人の選考委員がいて……。

 競合の出版社は、「講論社」と「丸川書房」。この作品にはいろいろと文学賞(っていうかミステリー賞)が出てくるんですけど、意識的にか無意識的にか、まず最初に出てくるのは、この競合二社のものです。

「講論社のコナン・ドイル賞は推理小説の新人賞としてはいちばん知名度があり、受賞者は新人のエリートコースに乗ることが出来る。」(『Miss You』「第一章 砂の城」より)

 はい、ここで講談社の江戸川乱歩賞以外の、現実の賞をパッと頭に思い浮かべた人がいたら、挙手をお願いします。

「丸川書房のミステリ新人賞でデビューしていきなりベストセラー作家になってしまった新田恒星、」(同「第一章」より)

 デビュー作『霧の迷路』は公称50万部突破、だそうじゃないですか。すごいですね。それにしても、この賞もまたミステリー対象なんだそうで、ははあ、平成の世の出版界を映しているような気がしたり、しなかったり。

 それで、直木賞っぽい文学賞がもうちょっと後にエピソードとして出てきます。「いや、それって別に直木賞をモデルにしたわけじゃないから」と、言い逃れできてしまいそうな記述が、ちょこちょこと差し挟まっているのが特徴です。

 このエピソードは、江口有美の先輩編集者、竹田沙恵にからめた話です。竹田沙恵と、作家・石田瑛との関係が語られています。

「竹田ってのは、ドライでバリバリのようでいて、妙なところで女っぽいというか、女性特有の面倒見のよさを発揮することもあったな。去年、立木賞とった石川瑛、あの人は丸川書房の新人賞で出たんだが、受賞作も大して当たらなくてその後もパッとしないまま三年沈んでたんだ。」(同作「第二章 予兆」より)

 なんだよ、石川瑛さんもやっぱりミステリー系かよ。

 竹田沙恵はその石川瑛の作品に惚れ込んで、女房のように尽くしてあげて、「自分が売ってみせる」との宣言どおり、石川瑛さん立木賞受賞。と、実はそこでは竹田沙恵の周到な(あるいは、必死の)戦略も、功を奏したらしいんです。こんなふうに。

「「(引用者前略)竹田の宣言通り、石川さんはいきなり立木賞をとって大復活、うちは受賞第一作を連載でもらえてほくほくもんだ。だが、あの立木賞をとったやつがなぜうちから出ないで他から出たのか」

「竹田さん、他社に売り込んだんですね」

「そういうことだな。そこに竹田の計算があったんだと思う。立木賞はあの前年と前々年、二年続きでうちの作品がとっていた。いくら何でも三年続けば裏があるんじゃないかと勘ぐられる。主催しているミステリ協会としても、痛くもない腹を探られるのはできたら避けたいと思うだろうさ。よほどぐうの音も出ない大傑作でもない限り、あの年、うちの作品が受賞する可能性は薄かった。竹田は会社を裏切ってでも、石川瑛を復活させようとしたんだ。」(同「第二章」より)

 おっと。立木賞の主催者は、ミステリ協会なんですか。ミステリーミステリー、って柴田さん、それで押しますね。

 さらに本作では、「立木賞をとること」は、「人気作家になること」とほぼ同義って感じで書いてあります。

 平成10年/1998年前後のエンターテインメント文芸界は、もうほとんどミステリー(って名を付けたもの)で埋め尽くされていた、っていう世界観は、まあある意味正しいかもしれません。でも、この賞の主催者を、あえて出版社ではなく「ミステリ協会」なる団体に設定しておきながら、なぜに「ミステリ大賞」とか、そういう毒にも薬にもならない名称にしなかったんでしょう。「立木賞」だなんて。まるで、現実のなにかを連想させるような賞名にしたりして。

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2009年10月18日 (日)

直木賞とは……受賞後に書きつづけることができないと、自嘲の対象になる。――岡田誠三『定年後』

091018 岡田誠三『定年後』(昭和50年/1975年3月・中央公論社刊)

 直木賞がまだ、佐佐木茂索&池島信平イズムにどっぷりと塗りつぶされる前のころ……。香西昇さんたちが、なけなしの奮闘ぶりを発揮するその礎にさせられる前のころ……。「原始直木賞」の終焉は、太平洋戦争が終わるころに訪れました。

 戦中最後の受賞者、第19回(昭和19年/1944年・上半期)の岡田誠三さんです。

 だいたい世の中には、「直木賞作家なんて、受賞後、あまり活躍できない人も結構いる」とかなんとか、やっかみ混じりの妙なイメージをもつ人がいるらしいです。それ、正しい見立てかもしれないけど、別の視点でみたら、間違いかもしれません。

 とくに、戦時下に受賞した作家たちと言ったら、あなた。その後のたくましい躍進ぶりは、なかなかエラいもんです。

 早くに亡くなった神崎武雄さんは、まあ措いときましょう。

 「没落受賞作家」の代名詞、河内仙介さんにしたって、戦争終結前はけっこう、ぶいぶい活躍してたんじゃないですか?

 堤千代さんは、家庭誌・女性誌をメインに、一時期は超流行作家。戦後に直木賞が復活するときには、選考委員に予定されているメンバーの一人として名が挙がっていたほどです。木村荘十さんは、戦後の出版復興期には、各誌からひっぱりダコ。森荘已池さんは、宮沢賢治のことならまずこの人に聞け、と言われるほどの賢治研究の大家にのぼりつめちゃったし。

 田岡典夫さんは、渋いながらも良心的な歴史小説で長らくご活躍。村上元三さんの、佐々木小次郎旋風と、それからの重鎮化にいたる道のりは、「直木賞作家」としてバツグンの優等生です。

 で、岡田誠三さん。いやあ、さすがにこの人は、戦争モノ中の戦争モノで唐突にポロッと受賞できただけの人だからな、早々と表舞台から名前が消えちゃったよな。……と戦後、30年間も、言われつづけました。おそらく。

 昭和50年/1975年に、『定年後』なる半自伝的な、爆弾小説が投下されるまでは。

 朝日新聞記者の岡田さん、受賞のころやその後のことを、あくまでサラッと、『定年後』のなかで触れてくれています。

 岡田さん流の、なかなかコネくられヒネくられた文章ですので、注意深く読んでみましょう。

「受賞してから私を見る周囲の目が微妙に変ってきたことを私は皮膚の上に感じる。廊下ですれ違うたびに故上野精一社長が「岡田はん、書いてるか」と、その丸く禿げた頭と同じソフトな大阪弁でいう。敗戦前後へかけての内面の振幅がまぎれるにつれ、それ以後の中年サラリーマンの惰性的ぬるま湯へまたしても私は徐々に首まで漬っていった。受賞の記憶はやがて虚称と化して空転しはじめる。」(『定年後』「1 定年葬」より)

 虚称。……ははあ。そうなんですか。コイツは、職業作家じゃない人間にとっての、正確な直木賞観でしょう。

 さらに、つづいてもう一段落、その「虚称」が具体的にどう空転していったかを述懐しています。

「戦後社会が深まる中でおおかたの人は私の作品の意味を問わずに受賞のことにふれる。虚栄心のくすぐられる限界効用が逓減して自身にむなしいコッケイさを感じながら、「イヤ、あれはもう、時効にかかりましたよ」と受け流す文句を編み出しながら私は、「直木賞をもらった男」という自嘲的短編の幻想の主人公の姿を自分の中に見ていた。」(同『定年後』より)

 「自嘲」と来ました。

 受賞当時のことをひるがえって見ますと、昭和19年/1944年には、新聞の従軍記者が戦地の状況を報告する文章なんか、山ほど発表されていて、『新青年』にだって、そんな散文はいろいろ出ていたはずです。そのなかで、作家として何の実績もない岡田誠三なる記者の、「讀切長篇 報道小説」と角書きを付した小説とも現地報告文ともとれる文章に、よくぞまあ、直木賞は賞を授けたものだな。……と思うわけですけど、岡田さんが単なる従軍記者、ジャーナリストであったなら、もしかして、こんな虚称になんか無関心を貫けたかもしれません。

 ところがです。岡田さんはどうやら、からだの奥底に「作家」の魂を持っていました。戦争だあ国策だあってことで鑑賞眼が曇りがちな戦時下に、そういう人の書いたものを、ビシッと探して出してきて、文学の賞を与えてしまった直木賞たるや。むむ。なかなかやるな。

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2009年10月11日 (日)

直木賞とは……人間の自尊心を侮辱し、愚弄する非人間的なシステム。――小林信彦『悪魔の下回り』

091011 小林信彦『悪魔の下回り』(昭和56年/1981年2月・文藝春秋刊)

(←左書影は昭和59年/1984年4月・新潮社/新潮文庫

 選考委員がぶっ殺される、二大“直木賞”本のうちのひとつを、そりゃあ素通りするわけにはいかないだろうな。拙ブログで、『大いなる助走』は何度も登場しているのに、本書にまで筆が及んでいなかったのは、ただワタクシが筒井康隆さんの本ほど、小林信彦さんのものを読んでこなかった個人的事情、以外には何もないわけでして。

 『悪魔の下回り』を語った文章は、おそらくたくさんあるはずです。たとえば藤脇邦夫さんは、

「この小説を読むと、誰しも筒井康隆の『大いなる助走』を連想することだろう。この二つの作品を並列して論じた評論もあったが、(引用者後略)(昭和61年/1986年12月・弓立社刊『定本小林信彦研究「仮面の道化師」』「第三章 道化師の回帰」より)

 と、さらりと述べています。

 そうだよな、筒井作品では選考委員を殺すのは同人誌作家で、小林作品では、雑誌編集者だもんな。お互いの発表時期や発表媒体をながめてみても、前者は『別冊文藝春秋』第141号[昭和52年/1977年9月]~第146号[昭和53年/1978年12月]、後者は『週刊文春』昭和55年/1980年1月3日号~10月23日号だもの、比較したくなる心をよけい熱くさせてくれるしな。両者の作品にくわしい人たちが、すでに、いろいろと評してくれているんだろうなあ。ぜひあなたも、そんな評論を探して読んでみてください。

091011_2  で、身近なところで、前出の藤脇邦夫さんの評論本と、それから文壇揶揄小説の解説者としておなじみ(?)大岡昇平さんの『悪魔の下回り』文庫解説を読んでみまして、やや違和感をおぼえた人間が、ここにひとりいる、ってことをまず宣言しておきたいと思います。

「大体、この出版社(引用者注:『悪魔の下回り』を連載した『週刊文春』の発行元、文藝春秋)が主催する芥介賞(原文ママ)の明らかなモジリである(いや直木賞のニュアンスもある)青田刈賞(このネーミングを考えついた著者はエライ!)がこの小説では徹底的に糾弾(いや、もっといじわるいコキおろしといった方がいい)されているのだから。何か故意に(下線部は原文傍点)連載中止になればいいような意図があって、書かれているようにも思える。」(藤脇邦夫―前出『定本小林信彦研究「仮面の道化師」』より)

「「青田刈賞」は芥川賞と直木賞をいっしょにしたようなものだが、私の芥川賞選考の経験では「根回し」はなかった。縁故や交友関係から有利になる程度である。」(大岡昇平―昭和59年/1984年4月・新潮社/新潮文庫『悪魔の下回り』「解説」より)

 ほお、本作の後半部のものがたりを支配する文学賞「青田刈賞」は、芥川賞と直木賞の混合とおっしゃる。

 そりゃあね、文壇、文学世界、の領域で、出版社が主催する薄汚れた賞(……おっと、失礼。)といえば、その世界にいる人も、あるいは普通の読者も、まずは「芥川賞」を思い浮かべるんでしょう。ネーミングも、あおたがり <-> あくたがわ、ってことですから、「青田刈賞」を構成する要素に「芥川賞」は外せない、って感触もわかります。

 でも、この「青田刈賞」って、意外に、現実の直木賞のほうと瓜二つじゃん。逆に芥川賞っぽい要素なんて、薄くないかい?

 悪魔(=挫折した文学中年・笹井に化けている)が、よろず評論家の首沢に、「どの賞がもっともショウ的要素が大きいでしょうか」と尋ねたところ。

「「それは、もう……」と首沢はにやにやして、「同朋社の青田刈賞だな。この賞は、純文学とか大衆小説とか区分けをしないので、数年まえまでは軽く見られていた。しかし、今の若者は、やれ文学だ、非文学だ、といった発想がない。〈面白ければいい〉〈面白い小説を読ませろ〉――これ一本だ。(引用者中略)この賞は、昭和十年代の代表作家、故青田刈甚輔の〈これからの純文学は、大衆小説の要素も持たなければならない〉という、当時としては破天荒な説にもとづいて設定されたものだ。あの説が、ようやく実を結んだというべきだろう」(『悪魔の下回り』「第八章 賞の周辺」より)

 常識としては、直木賞は「大衆文学の賞」ってことになっていますけど、実際は(少なくとも1980年代ごろまでは)全然そんなことなかった、っていうのは、ご存じのとおりです。

 かつては「直木賞=第二芥川賞」と揶揄されたとかされないとか、要は大衆文学の仮面をかぶって、机の下では純文学に手を差し出していて、さらにはノンフィクションからもエッセイ風散文からも自分の賞に取り込んでやろうと頑張っていて、ああ、まさしく「純文学とか大衆小説とか区分けをしない」姿。なんだ、青田刈賞って直木賞そのまんまじゃないですか。

 だいたい、『悪魔の下回り』では芥川賞のことは「芥川賞」として別に触れられていますしね。

 直木賞マニアの目から見れば、どう考えも本作は、直木賞っぽい賞を主たる攻撃目標として、そのまわりの事象を黒グロしい笑いで蹴っ飛ばしてやろう、としているとしか思えません。

 で、物語のなかでは選考会が近づくにつれて、もっともっと直木賞度は高まっていきます。

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2009年10月 4日 (日)

直木賞とは……当落はさして意味がない。多くの人に読まれるチャンスなのが重要なのだ。――吉村昭『一家の主』、津村節子『重い歳月』

091004091004_2 吉村昭『一家の主』(昭和49年/1974年3月・毎日新聞社刊)

(←左書影は平成1年/1989年3月・筑摩書房/ちくま文庫

津村節子『重い歳月』(昭和55年/1980年4月・新潮社刊)

(←左書影は平成8年/1996年5月・文藝春秋/文春文庫

 今週はお二人そろってお出でいただきました。昭和30年代、第40回ごろ~第50回台前半の直木賞・芥川賞を、作家の側から語るに最もふさわしい人たちです。

 なにしろ、何度も自分が落選させられっぱなし、の体験だけでも貴重なのに。さらに、ほかの人の落選劇をかなり身近なところで目撃し続けた、とくるんですからねえ。その経験で二人にかなう人はいません。

 妻・津村節子さんの「玩具」での芥川賞受賞は昭和40年/1965年。夫・吉村昭さんの『戦艦武蔵』での遅まきながらの大ブレークは、昭和41年/1966年。それから以後、それぞれが当時の状況を振り返りつつ、またネタにしつつ、小説とか自伝をいくつか書きました。

 たとえば昭さんには、『一家の主(あるじ)』なる小説があります。『毎日新聞』夕刊に昭和48年/1973年6月1日~12月27日まで連載されました。平成1年/1989年3月にちくま文庫に入るにあたって、昭さんが寄せた「あとがき」によりますと、こんな作品です。

「私は、自分の過去についてかなりの数の私小説を書いている。その背景となっている時期は、大別して二つ(引用者注:一つは少年時代~終戦後、病臥していた時期。二つ目は昭和50年代~平成)である、と言っていい。(引用者中略)

 その二つの時期の間には十数年という歳月があり、今でも気持に変りはないが、その期間の私について書くのをためらう気持はきわめて強い。理由は、一言にして言えば照れ臭いからで、書く気になれないのである。

 この「一家の主」は、その空白の時期を敢えて書いた小説で、それだけに書いておいてよかった、と今にして思うのである。」(平成1年/1989年3月・筑摩書房/ちくま文庫『一家の主』「あとがき」より)

 「照れ臭い」っていうのが、ミソです。

 いっぽう、節子さんには、自伝的小説三部作ってのがあります。「茜色の戦記」と「星祭りの町」と、それから直木賞・芥川賞の連続落選のころまでを描いた「瑠璃色の石」。ということで、昭『一家の主』に対するものとして、節子『瑠璃色の石』でもいいんでしょうが、今日は、より虚構味の強い“自伝的”な小説のほうを選んでみました。『重い歳月』です。

 『新潮』昭和53年/1978年3月号に「暗い季節」として掲載。それを加筆・訂正のうえ、改題したものです。

091004_3  こちらについては、『瑠璃色の石』の「あとがき」にある、節子さんの言葉をご紹介しておきます。

「「重い歳月」は、代る代る文学賞の候補に上りながら落選を繰返す夫婦の相剋を書いている」(平成19年/2007年3月・新潮社/新潮文庫『瑠璃色の石』「あとがき」より)

 さあて。それじゃあ、昭『一家の主』と節子『重い歳月』を読み比べてみようぜ。

 と躍起になれば、そりゃあいくらでも切り口はあるでしょう。でも、ここは直木賞専門ブログです。あっちこっちと手を出して怪我するのもみっともないので、あえて一つの事象だけに絞ります。

 ズバリ、作家夫婦のもとに、はじめて直木賞の存在が身近にせまったときのこと。

 第41回(昭和34年/1959年・上半期)に、津村節子さんの「鍵」が、はじめて直木賞候補になった前後のことです。

 付け加えるなら、同じ回の芥川賞では、吉村昭さん「貝殻」が、自身二度目の候補になりました。

 まずは昭『一家の主』。そのころ、圭一(夫)・春子(妻)の夫婦は、マイホームを建築する準備を進めていました。

「棟上げは六月初旬におこなわれたが、その夜アパートにもどると、郵便受に速達の封筒が二通入っていた。封を切ってみると、圭一宛のものには芥川賞候補推薦、妻宛のものには直木賞候補推薦の通知が入っていた。」(『一家の主』「巣作りのこと」より)

 節子『重い歳月』。こちらは、すでに桂策(夫)がA賞の候補に二度あがったことになっていて、そのときは章子(妻)だけに通知がくることになっています。

「ある日、郵便受の中に、白い長封筒がはいっていた。自分の名が記されている表書のペン字に見覚えがあり、胸をとどろかせて裏を返すと、かつて桂策が二度候補にあげられて落ちた文学賞の運営にあたっている機関の名が印刷されていた。

 章子は息を詰め、封筒を手にしたままその場に佇立していた。開けば、玉手箱のように、中に書かれている文字が消えてしまうような恐れで、容易に開く決心がつかなかった。

 部屋に戻り、机の前に坐って鋏で一気に封を切った。ガリ版の印刷文の中に、そこだけペン字で同人雑誌に発表した章子の作品の題名が記されていて、今年度上半期のN賞の候補作に推されている旨が記されていた。N賞は大衆文芸作品に与えられる賞で、自分の作品にその要素が強かったのか、と章子は一瞬意外の感を抱いたが、それはすぐに単純な興奮に打消された。いずれにしても権威ある新人文学賞には違いないのである。

 章子は詰めていた息を、ちぎるように少しずつ吐いた。何度読み返しても、夢の中の出来事のようで、実感がせまって来なかった。」(『重い歳月』「一章」より)

 いやあ、一通の通知を受け取る場面だけでも、『一家の主』『重い歳月』でそうとうの違いが出ているなあ(って当たり前か)。こりゃあ節子さん、“作家であり妻である”主人公・章子のこころの動きを、こうまで綿々と綴っていくワザなんぞは、A賞じゃなくてN賞寄りだ、と判断されたとしてもおかしかないわけでして。

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