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2009年9月の4件の記事

2009年9月27日 (日)

直木賞とは……批評家がおのれの生命を賭けてまで取り組む世界じゃない。――大岡昇平「盗作の証明」

090927 大岡昇平「盗作の証明」(昭和54年/1979年6月・集英社刊『最初の目撃者』所収)

 そろそろネタに困ってきました。ほんとは「小説に描かれた直木賞」のことをツツキ回さなきゃいけないんですけど、今週は、中村光夫「『わが性の白書』」の回と同じような手法をとらせてもらいます。

 直木賞は登場しない、だけど登場しないところに存在感を見出す、ってやつです。

 短篇集『最初の目撃者』には、推理小説好きの大岡昇平さんが、30年の間に発表した推理短篇7つが収められています。

 昭和25年/1950年に文春の編集者・上林吾郎さんに無理やり書かせられた「お艶殺し」(『オール讀物』12月号)からはじまり、驚きの日本推理作家協会賞受賞(昭和53年/1978年)をへて、昭和54年/1979年の「最初の目撃者」(『オール讀物』5月号)まで。そのうち、最後に発表された「最初の目撃者」と、同じころの「盗作の証明」(『小説新潮別冊』昭和54年/1979年春号)は、ともに推理仕立てであるだけでなく、文壇まわりのことを扱っている面でも、共通点があります。

 文壇まわり、言い換えますと……作家が評論家・批評家に対して抱く、殺人にまで発展しちゃう恨みつらみ、みたいなものです。

 ゴシップ好きにとっては、それぞれの作品が、現実のどの作家、どの事案をモデルにしているのかな、と興味がわきますよね。「盗作の証明」については、栗原裕一郎さんの『〈盗作〉の文学史』(平成20年/2008年6月・新曜社刊)に、「小説に描かれた盗作事件―小幡亮介「永遠に一日」」と一項が割かれて詳しく紹介されていますので、ぜひそちらをどうぞ。

 「最初の目撃者」のほうは、昇平さんがこんなことを言っています。

「この作品は二十数年以前(引用者注:と言いますから、昭和30年/1955年前後?)、ある物故作家と物故批評家に関する文壇ゴシップにヒントを得ました。第1章の冒頭がそれですが、事件全体はまったくのフィクションです。実在の人名その他との一致は、偶然のものです。」(『オール讀物』昭和54年/1979年5月号より ―引用は『大岡昇平全集13』平成8年/1996年1月・筑摩書房刊「解題」より また『最初の目撃者』昭和54年/1979年6月・集英社刊「あとがき」にも全く同文がある)

 だそうです。つまり、第1章の冒頭とは、30代そこそこの新進批評家・建部隆之介が、銀座のバーで、批評家仲間や編集者を前にして、おれが電話すれば10歳以上年上の流行作家・安城光春は絶対にやってくる、と威張りちらし、電話をしたらほんとうに安城がひょいひょいやってきた、って場面でしょうか。

 そんなゴシップから昇平さんは、「ううむ、そりゃ作家の側に何か批評家に対して後ろめたいことがあったに違いない、その後ろめたさが増幅していくと相手を殺したくなるぐらいの事情が」……と想像力をふくらませます。そこに探偵役として推理作家・垂水兼人を登場させて、純文壇と推理文壇のあいだがらを、ちょっとしたトリックに使ったりするサービス精神まで発揮したりして。

 でも、今回のハナシは「最初の目撃者」のほうじゃありません。「盗作の証明」です。

 盗作騒動がこの物語の軸ですから、そっちの面を文壇ゴシップと混ぜ合わせて見ると、そりゃあ面白い。プラス、これを文学賞にまつわるせつない話、として読めば、さらに面白いってシロモノです。

 作品冒頭、実在の賞が二つ、こっそり登場します。

 『新文学』新人賞に応募していた同人誌作家・青井浩のところに、『新文学』の編集者から電話がかかってきます。青井の応募作が受賞作に選ばれた、と知らされる場面です。

「「受けて下さいますか」

 と相手は言ったが、これはほんの形式で、谷崎賞や日本文学大賞とは違う。新人賞を断る人間はいない。貰うために応募したのだ。」(「盗作の証明」より)

 公募の新人賞でも受賞を辞退する例は、なくはないみたいですけど、それはいいとして。公募じゃない、新人賞じゃない、そして辞退されることのある文学賞の例として、あえて二つ、昇平さんは谷崎潤一郎賞(中央公論社が勧進元)と日本文学大賞(新潮社)を例示しました。

 この小説は『小説新潮』なんて読物雑誌に載っているけど、物語の舞台は、純文学方面のことなんですよ、と最初に昇平さんは読者にやさしく教えてくれているのです。

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2009年9月20日 (日)

直木賞とは……文壇に出るためにどうしても欲しい賞。芥川賞候補を辞退してでも。――柴田錬三郎「わが青春無頼帖」

090920 柴田錬三郎「わが青春無頼帖」(昭和42年/1967年3月・新潮社刊『わが青春無頼帖』所収)

(←左書影は平成17年/2005年3月・中央公論新社/中公文庫

 一か月前に野口冨士男「真暗な朝」を取り上げたところで、柴田錬三郎さんのことに触れました。くどいですけど、もう一回、シバレンで行きます。

 文学に取りつかれた作家の卵たちが、狂おしいぐらいに芥川賞を欲しがる。……っていう、かなりステレオタイプな見立ては、それでも説得力があります。でも果たして、「直木賞」のほうを欲しがる文学青年なんて、これまでいったいどれほどいたのだろうか。それを考えると、なかなかセツないものがあります。

 浅田次郎さん、胡桃沢耕史さん、青島幸男さん、あたりが自他ともに認める「直木賞を欲しがった作家」たちでしょうか。みなさん、かなり年輪を重ねてきた海千山千のつわものどもですねえ。純文学に対する幻想的なあこがれ、なんて時代を、きっと乗り越えてきた人たちです。

 それより時代はさかのぼって、昭和26年/1951年ごろの柴田錬三郎。御年34歳。「青年作家」と言うには、やや年を食っちゃっていますが、同時代に芥川賞を受賞した辻亮一さん(第25回受賞、35歳)とか石川利光さん(第26回受賞、37歳)と比べても、まだまだ芥川賞にかぶれててもおかしかない世代です。

 でも、当時からすでに、錬三郎さんは私小説嫌い、虚構好きでした。

「僕は小説らしい小説を書くことを念願として来た。今もそうである。所謂面白い小説、どんな短いものでも起承転結のある小説、それぞれ色彩の異った素材の小説、そういう小説を書こうと心がけて来た僕は、ストーリイテイラーになりかねないと警告され、鬼面人を驚かすと非難され乍ら、どうしても私小説は書けないでいる。」(昭和23年/1958年2月・新紀元社刊『敗徳の夜』所収「『敗徳の夜』後書」 ―引用は平成2年/1990年8月・集英社刊『柴田錬三郎選集 第十八巻』より)

 そんな錬三郎さんが、流行作家になったのち、私小説のていをなした小説として放ったのが「わが青春無頼帖」です。あるいは、同題の短篇集に収めた「北の果から」や「先生と女と自分」です。

 そこでは、錬三郎さんが『三田文学』に「デスマスク」を発表することになる経緯やら、その後、「イエスの裔」で直木賞をとるところなどが描かれています。いかにも、私小説っぽく。

 作者・錬三郎が、登場人物・錬三郎(あるいは須藤三郎、R・S)に与えた役割は、こういうものです。――文壇に出たくて出たくてしょうがない、カストリ作家が、とある未亡人と関係を持ち、それが縁で、当の未亡人に好意を寄せる文壇の大家とのパイプができて、未亡人との関係を踏み台にして、文学賞受賞をねらった男。

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2009年9月13日 (日)

直木賞とは……日本の文学の世界とは、まったく関係はない。――上坂高生「清書」「選評」

090913 上坂高生「清書」「選評」(平成16年/2004年9月・武蔵野書房刊『賞の通知』所収)

 消えていくものや、忘れ去られていくものに、なぜか逆に愛着を感じてしまいます。じっさい、うちの親サイトの表テーマは、直木賞のことですけど、裏テーマがありまして、「まず今じゃ絶対に見向きもされない過去の作家たちのことを調べて、なるべく先ざきまで残しておきたい」ってことなんです。

 そんな人間にとって、上坂高生さんの短篇集『賞の通知』は、こりゃあ宝石ですよ。

 「あとがき」で上坂さんは言っています。

「それにしても、賞がどんどん消えていくのには当該受賞者にとっては、嬉しくない。侘しいかぎりである。空しさに囚われてしまう。せめて書いて残さねば浮かばれない。」(『賞の通知』「あとがき」より)

 それでこの短篇集は、上坂さんが同人誌『碑』に発表した「文学賞もの」を中心に成り立っています。とくにそのうち、最初の二作「清書」と「選評」は、直木賞を愛する者にとっても、外せない短篇と言っていいでしょう。

 「清書」(初出『碑』79号[平成14年/2002年10月]「消えた賞」)は、上坂さんが昭和29年/1954年、第1回小説新潮賞に「みち潮」を応募して、当選した前後のことを描いています。

 上坂さんは丹羽文雄の『文学者』の集まりに属し、小学校の先生をしながら、こつこつ小説を書いていました。『新潮』『文學界』『群像』は毎月買い求めるけど、『小説新潮』『オール讀物』なんかの書店の棚には、まず近寄ったことがない、……っていう感じが、おお、生粋の通俗小説嫌いのかまえです。

 その『文学者』の集まりに、当時よく顔を出していた新田次郎さんのことを書いた箇所があるのですが、これを読んでワタクシは、ますます新田さんが好きになりました。

「当時、懸賞募集をしていたのは、「サンデー毎日大衆小説コンクール」というもの一つだけだった。南条範夫が時代小説、新田次郎が山岳・気象小説を書き、毎回二人が当選していた。新田さんは「文学者」によく顔を出していたが、通俗小説作家とみられ、軽視される傾向にあった。」(「清書」より)

 さて、ここで萎れたり、はてまたネジれた文学志向をもったりしないのが、新田さんの素晴らしいところです。

「しかし気象庁の技官である新田さんは、そんなことには意を介さない。ひたすら前進する逞しい男達を描く。それに共鳴する人は世間に多く、「サンデー毎日」に当選した作品を集めて『強力伝』として、単行本にする小出版社があって、直木賞を得た。気骨の新田さんは、庄野潤三小島信夫の作品を、あんなもので芥川賞か、とさんざんこきおろしていた。それに反論する者はいない。あるじ(引用者注:丹羽文雄、当時の芥川賞選考委員)は苦笑するばかりである。」(同「清書」より)

 そうだそうだ、芥川賞だから何だっつうんだ、そんなものばかり崇め奉る同人誌の小作家連中なんぞ、ぶっつぶしてしまえ。と、新田さんを応援したくもなります。

 つづく短篇「選評」(初出『碑』80号[平成15年/2003年4月])にも、前半部分で、『文学者』に集う者どもの逸話が出てきます。

 こちらの作は、上坂さんが名古屋の同人誌『作家』が主催する作家賞の候補に、何度も何度も挙げられ落とされる経緯がスジのハナシです。だいたい「作家賞」ってご大層なことぬかして全国の同人誌作品を候補にするくせに、けっきょく受賞作は、『作家』に掲載されたものばっかしじゃないのか、みたいな噂バナシのあとに、『文学者』のことが出てきます。

「丹羽文雄主宰の「文学者」では、「文学者賞」というのが作られていた。いつ始まり、いつ終わったかは定かではないが、三、四年は続いた、と思う。全くの内輪の賞で、私などにはぜんぜん関係がないといえた。あるじ(引用者注:丹羽)に近い年齢の先輩たちがごろごろしていて、その人たちが複数で編集委員となっており、委員の作品は優先して掲載された。三百人ほどが、「十五日会」で年一回投票するが、記名投票なので、その先輩たちに評(原文ママ)が集まってしまう。

「これ、インチキだよな」

 若手の同輩たちは、呟く。若い者が、そっぽを向いてしまうのは、当然といえた。」(「選評」より)

 そうだよなあ。この仕組みというか雰囲気を、黒岩重吾さんも唾棄しちゃったんだもんなあ。

 ええと、ちなみに威張りくさった先輩方を鞭打つつもりは毛頭ないんですけど、「インチキ」とまで言われた「文学者賞」の受賞者・受賞作品を、やっぱり知っておきたいですよね。中村八朗さん『文壇資料 十五日会と「文学者」』(昭和56年/1981年1月・講談社刊)からご紹介しますと、以下のとおり。

  • 第1回(昭和26年/1951年度) 武田繁太郎「風潮」、吉岡達夫「隠花植物」、浜野健三郎「非時香果」
  • 第2回(昭和27年/1952年度) 瓜生卓造「彷徨」、小田仁二郎「たん、たろう」、中村八朗「アチエの敗北者」
  • 第3回(昭和28年/1953年度) 十返肇「贋の季節」、近藤啓太郎「黒南風」、荒木太郎「湖のある風景」
  • 第4回(昭和29年/1954年度) 森啓祐「Xと物質」、見島正憲「低い土地」、村松定孝「日本文学の系譜」

「「文学者賞」は第四回までで終った。というのは、昭和三十年十二月号(通算六十四号)で「文学者」は休刊になるような情勢にあったので、その年の「文学者賞」は見送りになってしまった。第二次「文学者」が復刊になっても、「文学者賞」は復活しなかった。」(『文壇資料 十五日会と「文学者」』「第六章 リッツからモナミ時代へ」より)

 だそうです。

 そうそう、上坂さんの「選評」に戻りますと、引用した箇所の直後に、一人の先輩会員が登場します。その場面が、ワタクシがこの作品のなかでいちばん好きな部分です。声を上げて笑っちゃいました。

「先輩のひとりが、「十五日会」のある日、私のところに、まっすぐ寄ってきた。日頃、会話を交わしたこともない人なので、私はひどく緊張した。

「君は第一回の小説新潮賞で、ずいぶん騒がれたね」

「は?」と私は目を見張る。ずいぶん昔の話ではないか。先輩は、つけ加えた。

「君はもう芥川賞候補にも直木賞候補にもなることはないよ」

 冷たい目でそう言うと、上席の方にさっさと大股で行った。私は呆然とする。なんでそんなことをこの先輩から宣告されねばならないのか。」(「選評」より)

 この先輩(某大学の文学部教授)の、ただ単純に後輩をイジめるためだけの、究極にくっだらない一撃。ぐわははは。もう笑いゴトです。

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2009年9月 6日 (日)

直木賞とは……みんながよってたかって馬鹿にする標的。――司悠司『ぼくは小説家になった』

090906 司悠司『ぼくは小説家になった』(平成6年/1994年5月・イースト・プレス/イースト文庫)

 ああ、昔の文壇バナシを掘り返すのは、なんて楽しいんだろ。……と、ついつい2週も続けて、戦前やら戦争直後やらに引きこもってしまいました。

 古くせえ懐古趣味はもう飽き飽きだぜ、歴史的なことがらにはこれっぽちも興味アリマセン、ってふうなごく常識的感覚を大事にしまして。今回は平成の小説、平成の作家です。

 司悠司(つかさ・ゆうじ)さん。彼がはじめて刊行した小説であり、これまで膨大に書かれてきた文壇モジリ小説に、新たな一石を投じてやろうと渾身の力をこめて送り出した作品です。

 かなりデフォルメしたかたちながら、当時(まだ15年くらい前)の小説界、出版界、作家周辺のことを描いていて、当然、いろいろな名称が現実のものをモジっています。

 主人公は、「小説文中」新人賞受賞者の柘植祐一、受賞作は「相対的には愉快な終末」。これを推した一人が選考委員の鶴見昭介であり、柘植の憧れの作家、彼の受賞第一作が載ったのは、『小説文中』ではなくて、半同人誌で歴史の古い『法経文学』、作品名は「パパイヤ・ホースを待ち望んだ日」。などなど……。

 司悠司さんの作家デビューの周辺を調べてみると、上記に挙げた固有名詞に似たものがザックザック出てきます。『小説新潮』に始まり、「ぼくたちの優しい終末」、筒井康隆、『早稲田文学』、「ハニーを待ちながら」……。

 でも、司さんのこの作が並みのモジリ小説と一線を画すのは、あくまで似ている・連想させる程度の、薄いモジリ方なところです。

 きっと出版界にも、あらゆる小説にも造詣の深い司さんですから、もっと現実の世界に似せて描こうとすれば、キワモノすれすれまでモジれたと思うんです。でも、あえて、その手法をとっていません。

 主人公の柘植祐一は、受賞するまでは中小電器メーカー営業部に勤めるサラリーマンでした。出版界については「この世界のイロハも素人」、っていう役回りです。そのためか、この小説全体を覆う「文壇」(とカッコでくくってみる)絵巻も、一貫して素人目線であることにこだわっています。

 たとえば、直木賞のこともです。

「新人作家にとって、書く場所がないということは、ほとんど死に等しい。祐一が無為に過ごしているその間にも、月日はめぐり、また新たな「新人賞」の季節がやって来、初々しい新人たちが次々と脚光を浴びてデビューして行った。その中には、すぐさまその才能が認められ、一躍スターダムにのし上がる若い作家も出る。処女作で軽く芥木賞や直川賞の候補になって、そのまま受賞してしまう作家も出て来る。祐一に、「あせるな」と言っても、それは意味のない言葉であった。」(「女編集長・生島美由紀」より)

 芥木賞、直川賞と書いて、絶対に「芥川賞、直木賞」のことを読者に思い起こさせようという企み。それでいて、「おや。直木賞を処女作でとった人が、ここ最近いたっけな?」と、多少なりとも両賞のことを知っている方ならピンとくるわけです。

 そう、これはアレです。地の文も含めて、『ぼくは小説家になった』では、「ほとんど小説とか文壇とかそんなこと知らないけど、なんとなく、作家とか文学賞の名前は聞いたことがある」っていう、普通のひとの感覚で物語全体を覆いくるんでいる仕組みなんです。おそらく。

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