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2009年8月 2日 (日)

直木賞とは……同人誌を出しつづけるのはお金がかかる。でも受賞者が生まれればそれもチャラになる。――松本清張『渡された場面』

090802 松本清張『渡された場面』(昭和51年/1976年11月・新潮社刊)

(←左書影は昭和56年/1981年1月・新潮社/新潮文庫)

 そうでした。今年でした。この方のことを語る絶好の機会です。

 なんといっても松本清張さんは懐が深い。深すぎる。清張作品といって、切り口は無数にあることでしょう。うちのブログでも以前、「或る『小倉日記』伝」をある権力闘争とからめて紹介させてもらいましたけど、これも懐の深さの一例です。

 今回は、テーマが「小説に描かれた直木賞」ってことなんで、清張作品のなかでも、作家あるいは文壇を描いたものをネタにして、大いに楽しんでみたいと思います。

 『渡された場面』は、清張後期の長篇です。『週刊新潮』に昭和51年/1976年1日1日号~7月15日号まで連載されました。

 ここに二人の「作家」が登場します。

 一人は小寺康司。小説のはじめのほうで、不幸にも死んでしまいます。享年39。その死亡記事は朝刊の社会面に顔写真つきで載ったそうですので、その一端をご紹介することで、小寺氏の若すぎる死を悼みましょう。

「氏は昭和三十二年ごろから小説を発表、清新な作風の新進作家として注目を浴びたが、三十六年に××文学賞を受賞、以来堅実な歩みで中堅作家の中心的存在の一人となった。現代人の不安を私小説ふうに展開し、軽妙ななかに暗鬱をこめた表現と文章は高く評価され、後進の作家群にも影響を与えている。」(『渡された場面』「4」より)

 なかなか順調な作家人生だったみたいなのに、惜しい方を亡くしました。

 と、実在しない作家のことなど悼むのはどうかと思いますけど、ここで注目したいのは「三十六年に××文学賞を受賞」の一文です。

 小寺康司がデビュー4年くらいで文学賞を受賞したのが重要なのではありません。中堅作家の経歴を紹介する文に、わざわざ文学賞受賞のことを、昭和51年/1976年の清張さんが書き込んだ、ってことが問題なんです。

 『渡された場面』にはもう一人、作家が登場します。下坂一夫です。

 唐津市でも有名な陶器店の次男坊です。「作家」と言ったって、自分が代表者格の同人誌『海峡文学』に小説を発表しているだけの、同人誌作家です。

 ははあ。下坂一夫の生態は、こりゃほとんど、筒井康隆さんの『大いなる助走』の世界だなあ。『渡された場面』からほんの1年~2年後に、『大いなる助走』が書かれた(初出『別冊文藝春秋』第141号[昭和52年/1977年9月]~第146号[昭和53年/1978年12月])、っていう同時代性が、余計に偶然以上・必然未満のものを感じさせたりして。

 下坂一夫は、あれです、『大いなる助走』で言うところの、市谷京二、っていうより保叉一雄みたいな役回りです。偶然にも、同じ“カズオ”名が付けられているところなんざ、思わずニヤリとさせられます。

 『焼畑文芸』主宰の保叉一雄は、地方に棲息する俗物まるだしで描かれました。同じように、やっぱり下坂一夫も、中央文壇にたいする憧れを心の内にくすぶらせています。こんなふうに。

「「海峡文学」は中央の文壇から注目されとる。いまに同人のなかから文壇に出る者があらわれる。そのために、贈呈本の百部のうち六十部は東京の作家や評論家や雑誌、新聞社に郵送しとる。その郵送料にしても、ばかにならんけんな。まあ、それでもええ。「海峡文学」から文学賞をもらう奴が出てきたら、それだけでも「海峡文学」ば出したかいがある」(『渡された場面』「3」より)

 同人誌を出すために、実家から金をくすねるのも限度があって、恋人から金を借りてまで、下坂一夫は『海峡文学』に打ち込んでいます。その思考のなかに、ドーンと「文学賞」のハナシが出てくるとこが、カンペキに、『大いなる助走』風です。

 そして、下坂一夫は、「だれか仲間が認められればいい」なんて思っちゃいません。「才能のあるのは自分だ」と信じていることが、次の文章で明確にされています。

「将来、「海峡文学」から文学賞の受賞者が出たり、または他の方法で文壇に登場する者があるとしたら、そのいちばんの可能性は自分だと下坂一夫は信子(引用者注:下坂の恋人の真野信子)に云っていた。」(同書「3」より)

 ここに下坂一夫の悲劇のタネがあるんですけど、やっぱりここにも、「文学賞」の存在が出てきます。

          ○

 まず直木賞ファンとしては大変残念なことですが、『渡された場面』の「文学賞」は、直木賞そのものずばりを指し示してはいません。たぶん、かなりの割合で芥川賞っぽいものが想定されています。

 なにしろ下坂一夫が、周囲の仲間から一躍「作家」扱いされるきっかけになったのが、東京の大手出版社の文芸雑誌『文芸界』の「同人雑誌評」で、自作を取り上げられたっていう設定ですからね。現実の世界において、『文學界』同人雑誌評→推薦作として転載→芥川賞候補(または受賞)、っていうのは、かなり自然な出来事でした。下坂一夫は通俗小説をけちょんけちょんに馬鹿にしているようですし。

 彼の視線の先にある「文学賞」が、芥川賞であることはあっても、直木賞であることは、そうとう確率は低いでしょう。

 低いんですが、当時の地方同人誌に集う連中が、ほんとに芥川賞とか直木賞とかを厳密に区別していたか、と考えると、それへの答えは『渡された場面』には描かれていません。ちなみに、同じ時代に書かれた『大いなる助走』のほうでは、同人誌連中は、仲間うちから直木賞(ふうの賞)の候補が出ただけで大騒ぎしています。

 『渡された場面』の世界でも、きっと同じ土壌があるのだろう、と想像するのは、不自然じゃないですよね。威力があるのは「文学賞」っていう言葉だと。それが芥川賞だろうが直木賞だろうが、あまり違いはないと。

 下坂一夫の作品(のなかの一部の文章)が『文芸界』同人雑誌評で激賞された、ってことで、仲間うちで語らって、お祝いを兼ねてバス旅行が計画されるのですが(そんなことで“お祝い”ですよ。すげえ世界だ)、これに反対意見を挙げた仲間もいました。

「もっとも、これには他の同人雑誌仲間から批判もあり、不服の声もあった。一文芸雑誌の「同人雑誌評」にとりあげられたからといって、まるで著名な文学賞でももらったように騒ぐのはおかしいというのである。」(『渡された場面』「7」より)

 うん、ワタクシもそう思う。でも彼らは、仮に下坂一夫が「著名な文学賞」をもらったとしたら、何の疑問ももたずに騒ぐわけでしょう。著名ならば。

 ってことで、あれです。『渡された場面』に出てくる「文学賞」は、おおよそは芥川賞がモデルだとしても、これが直木賞だったとしても、とくに遺漏なく置き換えが可能なシロモノだと言えると思われます。

          ○

 ワタクシらはすでに『大いなる助走』を知ってしまったがゆえに、それより前に発表された『渡された場面』で「文学賞」について触れられていても、とくに違和感なく読み過ごしてしまうかもしれません。

 でも、もっと前の、松本清張さんが描いてきた「作家・文壇モノ」と比べてみると、この「文学賞」が、なかなか興味ぶかい小道具であることに気づかされます。

090802_2  たとえば、同じく長篇の『蒼い描点』(昭和34年/1959年9月・光文社刊)。初出は『週刊明星』昭和33年/1958年7月27日号~昭和34年/1959年8月30日号です。『渡された場面』よりさかのぼること18年前。直木賞史では第40回(昭和33年/1958年・下半期)ごろです。

 32歳の女流作家、村谷阿沙子が出てきます。売れっ子作家です。こんな方です。

「三年前、ある出版社の公募した懸賞小説に佳作で入選すると、急にジャーナリズムの注目を浴びた。その作品は、文学性はそれほど高くないが、題材が変っていて、筋がおもしろいのである。(引用者中略)

 はたして、第二作を発表すると、たいそう好評であった。作品がおもしろい上に、作者が女であり、しかも随筆をよくして有名だった宍戸寛爾の娘なので、やはり血は争われぬものだということになった。それが彼女の人気のようなものを形成した。」(『蒼い描点』「女流作家」の「1」より)

 ジャーナリズムにちやほやされる作家像……このなかに、「文学賞受賞」という肉付けはありません。

 また、短篇に出てくる作家の面々も、2人ほど、おさらいしてみます。

090802_3  「影」(昭和38年/1963年10月・新潮社刊『眼の気流』所収)。初出は『文芸朝日』昭和38年/1963年1月号。

 ここで回想される時代は、「今から二十四、五年前」。というと、昭和10年代かそれ以前です。

「宇田道夫は当時、作家志望だった。大学を出て七、八年経つ。同人雑誌にも属して、かなり仲間うちでは評判をとった作品も書いていたが、その同人の中から文壇に出て行く者をいつまでも寂しく見送る立場に置かれていた。

 そのうちに何かのきっかけで文壇の誰かに認められるだろうと頑張っていたが、容易にそんな幸運も向いてきそうになかった。」(「影」の「2」より)

 さすが、昭和初期ですな。同人誌でこつこつ小説を書く作家志望者、その人のこころにあるのは、「何かのきっかけ」だったのだと清張さんは書きました。「文学賞」の存在など片鱗ほども出てきません。

090802_4  「古本」(昭和42年/1967年12月・新潮社刊『死の枝』所収)。初出は『小説新潮』昭和42年/1967年7月号です。

 50台半ばすぎの作家、長府敦治。若いころは婦人雑誌に家庭小説・恋愛小説をバリバリ書いて、名が売れていたんですが、彼の時代も「20年前」(つまり終戦後ぐらい)に終わったんだそうです。

 そもそも何をきっかけに長府敦治が文壇(婦人雑誌界)に出てきたかのはわかりません。ただ、久しぶりに週刊誌に連載しはじめた「栄華女人図」が、連載8か月ぐらいで大評判となったことを書く段になって、清張さんはこんなふうに表現します。

「長府敦治は見事に現役にカムバックした。彼はこの一作で往年の絶頂時代を完全に取り戻したかにみえた。事実、そういった批評が見え、早くも文学賞の話も聞こえてきた。また、R誌も彼の評判作で部数が急激に伸び、わざわざやってきた社長から大いに感謝された。」(「古本」の「2」より)

 出ました、「文学賞」。

 作家がいかに、一般的に知られているか、または対外的に評価を受けているか、それを示す小道具の一つとして、清張さんは「文学賞」なるものを持ってきたわけです。

 清張作品にはもっともっとたくさん、作家・文壇を描いたものがあるでしょう。そのなかで、「文学賞」ってキーワードが出てくる作品は他にあるかもしれません。なにしろ、清張作品は懐が深いからなあ。とても、直木賞オタクにゃあ、太刀打ちできそうもありません。

 ええと、ともかく。『渡された場面』の小寺康司のところにも出てきましたよね。作家業績としての「文学賞」。ジャーナリズムがひとりの作家のことを紹介する、っていう文脈のなかで登場する「文学賞」の文字。

 誰それが「文学賞」をとった、と言っただけで、文学のことなぞ何にも知らないし、その作家の小説なんか一個も読んだことのない多くの人にまで、ああ、この人は何か立派なんだな、と通用してしまうという。そして、「文学的なことや、小説の内容じゃなくて、ともかく立派であることが一般レベルで知られる」ことに、どうしようもなく憧れを抱いてしまうチッチャい男、下坂一夫。チッチャいけど、でも、無数の地方同人誌作家たちよ、きみたちもそうだよね、と清張さんはエグってみせました。

 そう。『渡された場面』の行間からは、清張さんのこんな思いがひしひしと伝わってきます。

 「文学賞」なんてものは、外ヅラは立派に見えるかもしれんが、それが何かを語っていることにはならんのだぞ。重要なのは小説で何を描くか。どう文章化するかだ。だって、そうでしょう。大して才能のない下坂一夫が、才能のある小寺康司の遺した文章をパクッたところ、見る人が見りゃあ、その部分だけ素晴らしいってことを見抜くことができたんだから。ねえ、そうでしょ? と松本清張さんが、「文学賞」にばかり価値を見出そうとする若き作家志望者たちに訴えかけたのが、この『渡された場面』っていうおハナシです。

 ……え? ぜんぜん違うって?

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