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2009年8月16日 (日)

直木賞とは……芥川賞をあげるには通俗すぎる、でも惜しい。そんな小説の格好の受け皿。――富澤有為男『東洋』

090816 富澤有為男『東洋』(昭和14年/1939年11月・にっぽん書房刊)

 一気に時代がさかのぼります。昭和14年/1939年と言いますから、直木賞ではまだほんの第8回第9回のころです。

 昭和10年/1935年に始まった直木賞、それから70年、こやつのことを描いた小説は、膨大な数、書かれてきました。そのなかでも、もっとも最初に、もっとも古く書かれたものは何でしょうか。……第一候補に挙げてもよさそうなものがあります。富澤有為男さんの『東洋』です。

 初出は、当時注目度ナンバーワンを争っていた総合誌『中央公論』の昭和14年/1939年5月号。長篇として一挙掲載されました。

 まもなく60枚ほどを書き加えて、11月に、全三部作の「第一部」として刊行されます。版元は、坂本虎夫のにっぽん書房でした。だけど富澤さん、あとを書き継ぐ気は満々だったみたいですけど、第二部も第三部も完成されなかったっぽいです。

 その「第一部」にして未完の作、「東洋」。こいつが『中央公論』に発表されて巻き起こった反響……っていうか反感は、きっと凄まじかっただろうな。

 70年後に生きるワタクシらにも、その凄まじさの一端を、にっぽん書房版『東洋』が伝えてくれています。というのも、ありがたいことに、この本は小説本文が259ページあるんですけど、それに続いて「『東洋』評論抄 批評する者百氏を超えその論争半歳に渉る、茲にその鋭鋒最なるものを採輯したり。」っていうオマケが60ページ(!)付いているからです。

 こいつを読めば、半年間にどの紙誌にどんな人がどんな批評を書いたかがサクッと読めてしまう、ってなシロモノ。下手すりゃ本文読むより面白いぞ。多くの同時代人の反感っぷりが伝わってきて。いやあ、採輯を担当した牧野吉晴さん、サンクス。

 そうは言っても、「東洋」とか「地中海」とかを読んでいない人にゃ、大して興味がわかないかもしれません。でもね、たとえばこんなこと言われたんじゃ、お、どれどれ、と読んでみたくなりませんか。

(引用者前略)前半はとにかく変化に富んだ構想と、ある程度快い調子に一気に読んだが、そこから、俄に貧乏美術雑誌「東洋」の編輯内内輪話が中心になり、殊に君川賞(無論芥川賞)の詮衡内幕の暴露みたいなものが長長とはじまるに至って私は全く当惑してしまった。」(『東洋』所収「『東洋』評論抄」より 昭和14年/1939年4月29日『東京日日新聞』文芸欄 中野好夫「貧血的気魄題名の意味が判らぬ東洋」からの引用文)

 有為男さんが第4回(昭和11年/1936年・下半期)芥川賞をとったのは昭和12年/1937年2月です。それから2年ほどして、選考内幕の暴露みたいなものを、延々と描いちゃったわけです。小説のかたちで。

 たしかに、これに先立って芥川賞内幕小説を書いた人はいます。太宰治だの、佐藤春夫だの。でも彼らと違って、「東洋」の富澤有為男さんには一つの偉さがあります。芥川賞だけじゃなく、直木賞のこともちゃんと、小説のなかに登場させているからです。

 作品のなかでは、芥川賞は「君川賞」。死んだ君川馬之介の名前を記念するための新人文学賞っていう設定です。そして、直木賞は「植木賞」。作中には死んだ大衆作家として植木三十三の名前も出てきます。

 全篇、モジり、モジり、またモジり。「直木賞を描いた小説」の王道ともいえるこのかたちは、すでに昭和14年/1939年の段階で表れていたんですなあ。モジり方にもあまりヒネりを効かさず、モデルが何であるか読者が理解できるように、人の名前や雑誌名や事象のことを書いてくれています。有為男のお遊び精神が感じられて、つい嬉しくなろうってもんです。

 「君川賞」の選考委員の顔ぶれは、有為男さんの筆にかかると、こうなります。

 藤堂、大溝、川井、飛騨、大多喜、山寺、桜田、久野、雨崎、気賀、木島。計11名。

 ちなみに、現実の第4回芥川賞選考委員は、佐藤春夫横光利一川端康成瀧井孝作佐佐木茂索室生犀星菊池寛久米正雄谷崎潤一郎山本有三小島政二郎。計11名。

 名前だけでも、誰が誰だか、だいたいわかります。さらに、君川賞選考会での、ひとりひとりの発言を、『文藝春秋』昭和12年/1937年3月号の第4回経緯(要は選評)と照らし合わせていけば、迷わず、一対一の線でつなげることができてしまいます。くくく、有為男さん、楽しんどるなあ。

 せっかくなんで、有為男さんの遊びに乗らせてもらいましょう。以下、作中に出てくる人物や作品名のうちで、モデルが歴然としているものは、【 】でその実名も併記してみます。

          ○

 問題の箇所は、「第二篇 雑誌「東洋」」の「4」から始まる部分です。

 それは君川賞【芥川賞】選考会の夜、主人公の鹿島【富澤有為男】が、師匠格であり選考委員のひとりでもある藤堂【佐藤春夫】の家を訪れたところです。瀧野【牧野吉晴】と、小鶴【大鹿卓】も同行していました。

 鹿島の「南仏蘭西」【「地中海」】が、君川賞の候補に挙がっていて、その結果を聞きにきたわけです。三人の客に向かって、藤堂が当夜の様子を語る、って形式で選考会の模様が長々と書かれていきます。

「藤堂【佐藤】が、料亭山海寮に出席したのは定刻よりすこし遅れていたが、まだ、委員の数が揃わず、若手の大溝【横光】、川井【川端】、飛騨【瀧井】、大多喜【佐佐木】、山寺【室生】、以上の顔ぶれで、桜田【菊池】、久野【久米】、雨崎【谷崎】、気賀【山本】、木島【小島】等はまだ姿をみせていなかった。(死んだ君川馬之介【芥川龍之介】のために、文藝日本社【文藝春秋社】が中心となり、その名前を記念するため、旧友達が委員となり、毎年、無名作家中から新人を浮び上らせる君川賞なるものを設けて、多少これが今日では、新作家の登龍門というような習慣をつくってきた。)年年、それほど優れた作品があるわけではないが却って優れた作品が無いために審査が面倒になり、相当の激論が沸くこともあった。」(引用中【 】は引用者のもの)

 この回の有力な候補は、鹿島の「南仏蘭西」のほかに、小港潤「菩薩」【石川淳「普賢」】、中藤雨之介「みみづく」【伊藤永之介「梟」】。それと、川井がただひとり頑強に推奨する神川糸子「生活の河」【川上喜久子「滅亡の門」】がありました。

 票のうえでは「菩薩」が圧倒的に優位。しかしながら「南仏蘭西」も捨てがたいなあ、と言う委員もチラホラいます。

 「南仏蘭西」に票を投じたのは、木島。それと藤堂。あとから遅れてやってきた久野。川井は「生活の河」一本を主張して粘っていましたが、遅れて登場の桜田が、親分格づらして、「菩薩」か「南仏蘭西」かの二択をせまるもんですから、しぶしぶ「南仏蘭西」に票を入れます。

 「菩薩」と「南仏蘭西」。どうにも受賞作を一本に決めきれない雰囲気。さあ、そこで出てくるのです。例のヤツが。

「「じゃ、いっそこうしたらどうだい、『南仏蘭西』の作者には『流れゆく花』【「漂う草花」】と云う、仲仲面白い一部に評判な通俗小説もあるんだ」――大溝は太くドッシリと出る声で左肩を上げながら口を切った。

「僕はその作品なぞ考えると、この作者寧ろ植木賞【直木賞】の方へ廻したらいいだろうと思うね、植木賞に持って行ってそれで通る作家だと僕は思うんだ」

「じゃあ、その事一寸向うへ相談してみて貰おうか」

 すぐ桜田が言った。植木賞というのは、君川賞が純文学の登龍門だとすると、こっちは大衆文学の新人賞だが、(引用者後略)

 ここで、いったん引用を区切りましょう。

 大溝よ。いや横光利一よ。もし、じっさいの選考会でそんな動議を発したのが本当だとしたら、直木賞&芥川賞の歴史を修正しないといけません。「芥川賞の候補を、委員の権限で直木賞にまわす」その嚆矢は、第10回(昭和14年/1939年・下半期)のときの瀧井孝作岩下俊作「富島松五郎伝」を直木賞にまわした張本人)だとばかり思ってましたが、そうですか、第4回のあなたでしたか。

 この動議が未遂で終わったのは残念(?)です。でもですよ。たとえ窮余の策にせよ、追い詰められたときに横光さんの頭に、「そうだ、通俗味があるから、直木賞の価値あり」って発想がひらめたことが重要ですよ。

 井伏鱒二に直木賞を受賞させちゃった超変化球(第6回)を待つまでもなく、直木賞&芥川賞の土壌のなかでは、ずいぶん最初から“純文学”は容易に“大衆文学”にシフト可能だったわけですから。

          ○

 有為男さんの「地中海」、になぞらえて設定された、鹿島の「南仏蘭西」は、かくして通俗臭がつよいからと、いったんは植木賞の選考に持っていかれます。引用のつづきです。

(引用者注:先に引用したつづき)たまたま大溝によって言い出された相談は、同じく別室で会議をひらいていた植木賞の委員達につたえられ、植木賞の委員達は憤然として、そんな差し出口を君川賞の方から言われるのなら、われわれにも君川賞の方に発言権を持たして呉れるかという返事に、

「成る程、それもそうだな」――誰言うとなく、みな植木賞員の申分を今更正当だと認めないわけにもゆかなくなり、ようやく自分達が容易ならぬ迷路へおち込んで来たのをさとり出した。」

 引用ストップ。

 有為男さんがこの場面を、佐藤春夫師匠からの伝聞をもとに書いたのか、一から想像して書いたのかはわかりません。でも、じっさいにあり得そうな展開ではあります。

 横光さんに限らず、文学のことを真剣に考える人たちが、芥川賞と直木賞をどう位置づけしていたかが、よく伝わってきます。つまり、芥川賞と直木賞は、しょせん主従の関係なのよ。芥川賞から洩れたような“キズもの”だとしても、直木賞にとっちゃ十分すぎるだろ、ぐらいにしか思っていない感じ。

 くーっ、それが芥川賞側の常識ですか。ウザったいよなあ。でも、そのウザい感覚を、毅然とはねのける心が、直木賞側にあったかどうだか。第4回のとき、第二次審査に挑んでいた選考委員は、芥川賞兼任をのぞけば吉川英治大佛次郎の2人だけでしょ。彼らが芥川賞からの申し出をハネつけたところからは、虐げられる者特有の反抗的な強がりばかりが、感じられてしかたありません。「うっせえな、お前らに言われずとも、うちはうちだけで決めるよ」って感じの。

 直木賞の連中に、思わぬ反撃をくらって、芥川賞委員がどう反応したか。「われわれにも君川賞の方に発言権を持たして呉れるか」と言われて、どう返したか。

 別にそれを真剣に検討することもなく、軽ーくいなしちゃっています。

 たかが従属的存在でしかない連中ですからね。大佛次郎はいいとしても、吉川英治みたいな通俗作家に、ずかずか自分の領域に入り込んでこられることを許すはずがありませんもんね。直木賞からの拒否をあっさりいなす辺りに、芥川賞の連中のゆるぎない優越感が、にじんでいます。

          ○

 有為男さんは「地中海」を発表するまで、ほとんど短篇を世に問うたことがありませんでした。かといってまったくの素人、新人だったわけじゃなく、すでにいくつかの長篇作品を書いていたそうです。

 たとえば、単行本『地中海・法廷』(昭和12年/1937年5月・新潮社刊)の「編者」さんも言っています。

「作者の短篇としては「地中海」が最初の作ということになるが、作者はすでに長篇作家として十何年の閲歴を有して来た人である。」(『地中海・法廷』所収「解題」より)

 たとえば、盟友・牧野吉晴さんも、『東洋』の「編輯後記」で言っています。

「彼は既に十六年前、十八歳の折新愛知新聞記者となり十九歳里見弴氏の紹介によって長篇『黒子をいるる』を発表し、翌二十歳の秋には帝展洋画部に『白昼夢林』を出品し、文画両道にその才能の萌芽を見せたのである。爾来文学の発表はしばらく見合わせ、(引用者中略)最近欧洲より帰るに及んでその文学中、『ロンバルディア』を都新聞に『漂う草花』を福日に連載して久し振りにその鬱然たる姿を示したのである。」(『東洋』昭和11年/1936年8月号「編輯後記」[署名:牧野吉晴]より)

 ははあ、都だもんなあ。はたまた福日だもんなあ。こういう人を「新人の通俗作家」と見なしても何の遜色もないよなあ。平成10年/1998年ごろの花村萬月さんにも似て。

 そうです。そういうことです。4回目にして早くも、直木賞・芥川賞のなかでの、大衆文学と純文学の境目は不分明だったってことです。

 不分明なだけなら、どうってことはありませんね。しかし面白いことに、『東洋』によれば、この不分明さが「ある現象」を引き起こした模様が描かれています。そして、この現象は、のちの両賞のかたちを大きく変えることになるのです。

 そもそも、直木賞・芥川賞は、それぞれ一回につき一人の授賞が原則でした。それが第4回芥川賞で、簡単になし崩しにされちゃったのです。

 直木賞をとらせてもよさそうな作品が、でも直木賞からは拒否られて、どうにも捨てがたくて、「じゃあ、二作授賞でもいいか」と、シレっと最初の約束事を破棄しちゃっています。

 『東洋』ではこんな感じに描かれています。

「もうもうとした煙草の煙の中にいずれも変な沈黙におち、座長格になる桜田【菊池】もすこし方途を見失った様子に見えたが、これ以上の発展は先ず無いものと見越し、今迄の一座の模様をのみ込むと

「二篇とも入れてしまうことにするかね、どうだろう」

「いやそいつは困る」――大多喜【佐佐木】が云った「――そんな規約はない」

「規約なんぞなくたって、みんながどうでも捨てられないと云う作品なら二篇ぐらいあったって却っていい位のものだよ」

「だってそれじゃ社の方が困るじゃないか」

「困る筈はないよ、君、賞金の問題だろう」――桜田は先ず大多喜の言論を封じた形で、――「それなら別に心配ないぜ、何とか俺が考えるよ」」

 社長にこんなこと言われちゃったらなあ。会社の経営全般と、両賞の運営をまかされているリーダー佐佐木茂索さんとはいえ、何も言えないわな。

09081619373_2  ずぼら社長の勝手なやり口にカチンと来たのか、茂索さんは選評でこんなことを書きました。

「芥川賞にしろ直木賞にしろ、もう少し基準をはっきりさせ、最後の決定の方法も確立する必要がある。」(『文藝春秋』昭和12年/1937年3月号「芥川賞経緯」より)

 菊池寛。ゆるさの権化、だらしなさの結晶。VS. 佐佐木茂索。計算と才覚のかたまりで、文春を成功企業にみちびいた一流ビジネスマン。

 うん、やっぱりそうなんだな。いまに引き継がれる直木賞・芥川賞の基本的な性格は、このうちの一人が欠けても、ぜったいに形作られていなかったんだろうな。原則にとらわれないゆるーい感じと、一つの社業を商売として成功させる企みと。

 まさに寛&茂索の、いいトコどり。その過程を、自覚的にか無自覚的にか有為男さんは『東洋』でしっかり描いているのでした。グッジョブ。

          ○

 ここ最近は「直木賞を描いた小説」をテーマにブログを書いています。それらの小説が直木賞をどういう姿として描いているのかを、各エントリーのタイトルにつけてきました。でも、タイトルとしてちょっとわかりづらいかなと思い直し、今週からタイトルを統一して「直木賞とは……」の接頭語から始めることにしました。

 なので、これまで書いたエントリーも、いっせいにタイトルだけ変えました。ご了承ください。

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