直木賞とは……純文学と差別する気はないけれど。“区別”されちゃうのは、こりゃ如何ともしがたい。――田辺聖子『ゆめはるか吉屋信子』
田辺聖子『ゆめはるか吉屋信子―秋灯机の上の幾山河』上・下(平成11年/1999年9月・朝日新聞社刊)
今日の主役は、吉屋信子さんです。先週は野口冨士男さんだったので、はからずも徳田秋声つながりになっちゃいました。
大正の投稿少女、吉屋信子、最後の懸賞応募作品にして、大衆文学作家への糸口となったのが「地の果まで」です。大正8年/1919年の大阪朝日新聞懸賞長篇で、ビシッと一等当選しました。
このとき選者は三人いて、幸田露伴、徳田秋声、内田魯庵といったお歴々。そのうちでも、とくに秋声が吉屋作品をベタ褒めして、そこから秋声―信子の親交がはじまった、てえなれそめ。
……と語りはじめるのはいいけれどさ、大衆文学の歴史を語るなら、うん、吉屋信子、わかるよ。でも直木賞オタクでしかない手前がなぜに、吉屋信子についてこねくり回そうというのか。
田辺聖子さんが書いた長ーい長ーい伝記小説『ゆめはるか吉屋信子』は、上巻が582ページ、下巻が555ページ。そのなかで直木賞のことに触れた箇所など皆無に等しいっていうのに。
そもそも吉屋さんは明治29年/1896年生まれですので、直木三十五よりわずか5歳しか年が離れていません。直木賞が創設された昭和10年/1935年ごろにはすでに、流行作家の一員でした。文春文士の連中とも仲がいい。とくれば、もしも生前の直木とも親交が厚かったら、スタート時の選考委員のひとりになっていても、おかしかない人なのでして。
でも、天は、信子と直木賞のあいだに、それほど関係をつくってはくれませんでした。
文学賞のハナシならば、この作の後半も後半に、チロチロッと出てくるんですけどね。
たとえば女流文学賞(中央公論社主催のやつ)。
「このころ(引用者注:昭和42年/1967年はじめごろ)女流文学賞の候補に『徳川の夫人たち』が入ると伝聞された、と〈千代年譜〉にある。信子は千子に散髪してもらいながらそれを話題にしたかもしれない。(引用者中略)〈千代年譜〉には、
〈くれやしないさ〉
と信子が言い捨てたことになっている。受賞には縁遠い信子だった。当時の文壇の、硬直した文学観では、滋味ゆたかな物語を尊重し、民族文化の資産として嘉する、などという包容力はなかったろう。信子はいまはもうそんなものをアテにしない。」(『ゆめはるか吉屋信子』下巻「面影つかのま」の章より)
賞だの何だので箔を付けてもらわなきゃ誰も読んでくれない、ってレベルをはるかに超えたところで、おのれの力だけで人気を獲得し、何十年も作家人生を歩んできた方ならではの、「くれやしないさ」の一言。重いぜ。
そんな吉屋さんでも、いつかは欲しいと願っていた賞がありました。菊池寛賞です。
吉武輝子さんの『女人吉屋信子』(昭和57年/1982年12月・文藝春秋刊)に、そんな場面が描かれています。
ちなみに、菊池寛のことを、「直木賞・芥川賞みたいなものつくって、こぞって若手を自分の陣営にとりいれようとした文壇ボスにすぎぬ」と切り捨てる輩がいるとします。そんな連中(つまりワタクシ)に反省と再勉強をうながすようなことが、そこには書かれていますので、注意深く読んでみましょう。
「「菊池寛賞」が設けられたのは、昭和十四年。序列ぎらいの菊池寛らしく、この賞は、他の賞のように上から下へ与えられるものではなく、「銓衡委員は四十五歳以下の作家評論家たるを要し、その先輩に対する敬意を表する意味にて審議す」の内規が示すように、いわば、先輩へのねぎらい賞の態をなしていたのである。
「賞っていうのは、下されおきって感じが強くてあまり好きではないけれど、菊池寛賞には、ねぎらいっていうやさしさがあるから、とても魅力的。いつかは欲しいって思える賞ができたおかげで、がんばって書いていけそうですわ」
と、言った時の信子は、まだ四十二歳であった。それから二十八年(引用者注:昭和42年/1967年)、その賞を手にした信子の脳裡に、在りし日の菊池寛の面影が泛かんでは消え、消えては泛かんでいたにちがいない。」(『女人吉屋信子』「第五章 花盛り」より)
こりゃ失礼。親分は、序列ぎらいでしたか。知らんかった。
あれ。いつものくせで、このまま、ずるずる脱線しそうだな。ハナシを田辺聖子さんの『ゆめはるか吉屋信子』に戻します。
そうですよ。この作品に出てくる「直木賞」とは、じゃあ何なのかってハナシです。
時代は昭和30年代、40年代。
ああ、何とも怪しげで、ジャーナリズム臭のぷんぷんする言葉「才女の時代」、ってやつがお見えした昭和30年/1955年ごろです。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
最近のコメント