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2009年8月の5件の記事

2009年8月30日 (日)

直木賞とは……純文学と差別する気はないけれど。“区別”されちゃうのは、こりゃ如何ともしがたい。――田辺聖子『ゆめはるか吉屋信子』

090830 田辺聖子『ゆめはるか吉屋信子―秋灯机の上の幾山河』上・下(平成11年/1999年9月・朝日新聞社刊)

 今日の主役は、吉屋信子さんです。先週野口冨士男さんだったので、はからずも徳田秋声つながりになっちゃいました。

 大正の投稿少女、吉屋信子、最後の懸賞応募作品にして、大衆文学作家への糸口となったのが「地の果まで」です。大正8年/1919年の大阪朝日新聞懸賞長篇で、ビシッと一等当選しました。

 このとき選者は三人いて、幸田露伴、徳田秋声、内田魯庵といったお歴々。そのうちでも、とくに秋声が吉屋作品をベタ褒めして、そこから秋声―信子の親交がはじまった、てえなれそめ。

 ……と語りはじめるのはいいけれどさ、大衆文学の歴史を語るなら、うん、吉屋信子、わかるよ。でも直木賞オタクでしかない手前がなぜに、吉屋信子についてこねくり回そうというのか。

 田辺聖子さんが書いた長ーい長ーい伝記小説『ゆめはるか吉屋信子』は、上巻が582ページ、下巻が555ページ。そのなかで直木賞のことに触れた箇所など皆無に等しいっていうのに。

 そもそも吉屋さんは明治29年/1896年生まれですので、直木三十五よりわずか5歳しか年が離れていません。直木賞が創設された昭和10年/1935年ごろにはすでに、流行作家の一員でした。文春文士の連中とも仲がいい。とくれば、もしも生前の直木とも親交が厚かったら、スタート時の選考委員のひとりになっていても、おかしかない人なのでして。

 でも、天は、信子と直木賞のあいだに、それほど関係をつくってはくれませんでした。

 文学賞のハナシならば、この作の後半も後半に、チロチロッと出てくるんですけどね。

 たとえば女流文学賞(中央公論社主催のやつ)。

「このころ(引用者注:昭和42年/1967年はじめごろ)女流文学賞の候補に『徳川の夫人たち』が入ると伝聞された、と〈千代年譜〉にある。信子は千子に散髪してもらいながらそれを話題にしたかもしれない。(引用者中略)〈千代年譜〉には、

〈くれやしないさ〉

 と信子が言い捨てたことになっている。受賞には縁遠い信子だった。当時の文壇の、硬直した文学観では、滋味ゆたかな物語を尊重し、民族文化の資産として嘉する、などという包容力はなかったろう。信子はいまはもうそんなものをアテにしない。」(『ゆめはるか吉屋信子』下巻「面影つかのま」の章より)

 賞だの何だので箔を付けてもらわなきゃ誰も読んでくれない、ってレベルをはるかに超えたところで、おのれの力だけで人気を獲得し、何十年も作家人生を歩んできた方ならではの、「くれやしないさ」の一言。重いぜ。

 そんな吉屋さんでも、いつかは欲しいと願っていた賞がありました。菊池寛賞です。

 吉武輝子さんの『女人吉屋信子』(昭和57年/1982年12月・文藝春秋刊)に、そんな場面が描かれています。

 ちなみに、菊池寛のことを、「直木賞・芥川賞みたいなものつくって、こぞって若手を自分の陣営にとりいれようとした文壇ボスにすぎぬ」と切り捨てる輩がいるとします。そんな連中(つまりワタクシ)に反省と再勉強をうながすようなことが、そこには書かれていますので、注意深く読んでみましょう。

「「菊池寛賞」が設けられたのは、昭和十四年。序列ぎらいの菊池寛らしく、この賞は、他の賞のように上から下へ与えられるものではなく、「銓衡委員は四十五歳以下の作家評論家たるを要し、その先輩に対する敬意を表する意味にて審議す」の内規が示すように、いわば、先輩へのねぎらい賞の態をなしていたのである。

「賞っていうのは、下されおきって感じが強くてあまり好きではないけれど、菊池寛賞には、ねぎらいっていうやさしさがあるから、とても魅力的。いつかは欲しいって思える賞ができたおかげで、がんばって書いていけそうですわ」

 と、言った時の信子は、まだ四十二歳であった。それから二十八年(引用者注:昭和42年/1967年)、その賞を手にした信子の脳裡に、在りし日の菊池寛の面影が泛かんでは消え、消えては泛かんでいたにちがいない。」(『女人吉屋信子』「第五章 花盛り」より)

 こりゃ失礼。親分は、序列ぎらいでしたか。知らんかった。

 あれ。いつものくせで、このまま、ずるずる脱線しそうだな。ハナシを田辺聖子さんの『ゆめはるか吉屋信子』に戻します。

 そうですよ。この作品に出てくる「直木賞」とは、じゃあ何なのかってハナシです。

 時代は昭和30年代、40年代。

 ああ、何とも怪しげで、ジャーナリズム臭のぷんぷんする言葉「才女の時代」、ってやつがお見えした昭和30年/1955年ごろです。

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2009年8月23日 (日)

直木賞とは……受賞したところで、それだけで自動的に作家が売れっ子になるものじゃない。――野口冨士男「真暗な朝」

090823 野口冨士男「真暗な朝」(昭和44年/1969年12月・講談社刊『暗い夜の私』所収)

 おいおい、野口冨士男のこういう作品を「小説」と呼んでいいのかい。と気にかかりながらも、いちおう、冨士男さん流の文壇史に取材したものは、「小説」と呼んでもいいらしいので、「直木賞を描いた小説」のひとつに選んでみました。

 冨士男さん自身、直木賞にはとても縁があります。

 戦前には芥川賞サイドからお声がかかるほどの純文学畑でスタート、それが時を経て昭和30年代中盤に、長篇の単行本『二つの虹』で、唐突に直木賞候補。こんなもの純文学作家にとっては迷惑以外のなにものでもなく、あやうく受賞させられなくて、冨士男さんよかったですね、っていうなりゆきは、木山捷平とか田宮虎彦八匠衆一とか野村尚吾などなど、お仲間がたくさんいて、昭和30年代の直木賞ではよくあることでした。

 と言いつつ、冨士男さんの『二つの虹』が「受賞」の危機からまぬがれたのは、まさに幸運の一言に尽きます。何となれば、第40回(昭和33年/1968年・下半期)の選考会は、そうとうの混戦で、選考会の流れが少し変わっていれば、冨士男さんの『二つの虹』、深田祐介さん「あざやかなひとびと」、津田信さん『日本工作人』あたりは、受賞作(城山三郎「総会屋錦城」と多岐川恭『落ちる』)のどちらかと、スルリと入れ替わっていたかもしれないからです。

 まあ、かりに『二つの虹』が直木賞をとっていたとしても、冨士男さんが動じたとは思えませんけど。文壇のウラもオモテも知り尽くしている人ですからねえ。たとえ、そんなもん授けられたって、ジャーナリズムの大量消費攻撃をまともに受けることなく、地道におのれの仕事を続けられたことでしょう。

 その地道な仕事のひとつに、文壇史を中核に据えた短篇群があります。短篇集『暗い夜の私』もそれに属する一冊で、こんな作品が収められています。

  • 「浮きつつ遠く」…昭和10年/1935年前後。河出書房の文芸誌『行動』のことなど。
  • 「その日私は」…昭和11年/1936年、二・二六事件のとき。また昭和16年/1941年、太平洋戦争開戦のとき。
  • 「ほとりの私」…昭和12年/1937年前後。岡田三郎、大森義太郎、島木健作のことなど。
  • 「暗い夜の私」…昭和12年/1937年~昭和18年/1943年前後。冨士男、最初の長篇小説を発表したころ。
  • 「深い海の底で」…昭和16年/1941年~昭和19年/1944年前後。青年芸術派、『現代文学』、『新文学』のことなど。
  • 「真暗な朝」…昭和20年/1945年~昭和24年/1949年前後。
  • 「彼と」…十返肇のこと。

 それで、今回取り上げるのは、戦後まもなくの雑誌界とか、日本文芸家協会とかのことが描かれている「真暗な朝」です。

 直木賞のことが出てくる、って言っても、純文学の王道(裏街道?)を歩く冨士男さんの筆ですから、こそっと触れる程度に書かれているだけです。残念。

 当時、よく行き来していた、あるいはよく逢った作家のことが、連続して描かれています。吉田精一、豊田三郎、徳田一穂、水上勉、田宮虎彦、十返肇、牧屋善三青山光二。と来て、次が柴田錬三郎です。

「宝文館(引用者注:「若草」を出していた出版社)では、柴田錬三郎君にも遭った。私もそうであったが、彼等も原稿を売り歩いては稿料を取りたてるためにそういう社へ姿を現わしていた。そして、外へ出ると、

「今や何を書くかよりも、如何に原稿料を取り立てるかが至難の時代だな」

と笑いあった。」

 これに続く冨士男さんの回想によれば、当時のシバレンは、夫人が入院中で、少年向きに海外名作のリライトを書きまくっていたのだとか。

 純文学作家が日銭をかせぐために、とりあえず少年少女向けの原稿で生活をしのぐ、の図です。

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2009年8月16日 (日)

直木賞とは……芥川賞をあげるには通俗すぎる、でも惜しい。そんな小説の格好の受け皿。――富澤有為男『東洋』

090816 富澤有為男『東洋』(昭和14年/1939年11月・にっぽん書房刊)

 一気に時代がさかのぼります。昭和14年/1939年と言いますから、直木賞ではまだほんの第8回第9回のころです。

 昭和10年/1935年に始まった直木賞、それから70年、こやつのことを描いた小説は、膨大な数、書かれてきました。そのなかでも、もっとも最初に、もっとも古く書かれたものは何でしょうか。……第一候補に挙げてもよさそうなものがあります。富澤有為男さんの『東洋』です。

 初出は、当時注目度ナンバーワンを争っていた総合誌『中央公論』の昭和14年/1939年5月号。長篇として一挙掲載されました。

 まもなく60枚ほどを書き加えて、11月に、全三部作の「第一部」として刊行されます。版元は、坂本虎夫のにっぽん書房でした。だけど富澤さん、あとを書き継ぐ気は満々だったみたいですけど、第二部も第三部も完成されなかったっぽいです。

 その「第一部」にして未完の作、「東洋」。こいつが『中央公論』に発表されて巻き起こった反響……っていうか反感は、きっと凄まじかっただろうな。

 70年後に生きるワタクシらにも、その凄まじさの一端を、にっぽん書房版『東洋』が伝えてくれています。というのも、ありがたいことに、この本は小説本文が259ページあるんですけど、それに続いて「『東洋』評論抄 批評する者百氏を超えその論争半歳に渉る、茲にその鋭鋒最なるものを採輯したり。」っていうオマケが60ページ(!)付いているからです。

 こいつを読めば、半年間にどの紙誌にどんな人がどんな批評を書いたかがサクッと読めてしまう、ってなシロモノ。下手すりゃ本文読むより面白いぞ。多くの同時代人の反感っぷりが伝わってきて。いやあ、採輯を担当した牧野吉晴さん、サンクス。

 そうは言っても、「東洋」とか「地中海」とかを読んでいない人にゃ、大して興味がわかないかもしれません。でもね、たとえばこんなこと言われたんじゃ、お、どれどれ、と読んでみたくなりませんか。

(引用者前略)前半はとにかく変化に富んだ構想と、ある程度快い調子に一気に読んだが、そこから、俄に貧乏美術雑誌「東洋」の編輯内内輪話が中心になり、殊に君川賞(無論芥川賞)の詮衡内幕の暴露みたいなものが長長とはじまるに至って私は全く当惑してしまった。」(『東洋』所収「『東洋』評論抄」より 昭和14年/1939年4月29日『東京日日新聞』文芸欄 中野好夫「貧血的気魄題名の意味が判らぬ東洋」からの引用文)

 有為男さんが第4回(昭和11年/1936年・下半期)芥川賞をとったのは昭和12年/1937年2月です。それから2年ほどして、選考内幕の暴露みたいなものを、延々と描いちゃったわけです。小説のかたちで。

 たしかに、これに先立って芥川賞内幕小説を書いた人はいます。太宰治だの、佐藤春夫だの。でも彼らと違って、「東洋」の富澤有為男さんには一つの偉さがあります。芥川賞だけじゃなく、直木賞のこともちゃんと、小説のなかに登場させているからです。

 作品のなかでは、芥川賞は「君川賞」。死んだ君川馬之介の名前を記念するための新人文学賞っていう設定です。そして、直木賞は「植木賞」。作中には死んだ大衆作家として植木三十三の名前も出てきます。

 全篇、モジり、モジり、またモジり。「直木賞を描いた小説」の王道ともいえるこのかたちは、すでに昭和14年/1939年の段階で表れていたんですなあ。モジり方にもあまりヒネりを効かさず、モデルが何であるか読者が理解できるように、人の名前や雑誌名や事象のことを書いてくれています。有為男のお遊び精神が感じられて、つい嬉しくなろうってもんです。

 「君川賞」の選考委員の顔ぶれは、有為男さんの筆にかかると、こうなります。

 藤堂、大溝、川井、飛騨、大多喜、山寺、桜田、久野、雨崎、気賀、木島。計11名。

 ちなみに、現実の第4回芥川賞選考委員は、佐藤春夫横光利一川端康成瀧井孝作佐佐木茂索室生犀星菊池寛久米正雄谷崎潤一郎山本有三小島政二郎。計11名。

 名前だけでも、誰が誰だか、だいたいわかります。さらに、君川賞選考会での、ひとりひとりの発言を、『文藝春秋』昭和12年/1937年3月号の第4回経緯(要は選評)と照らし合わせていけば、迷わず、一対一の線でつなげることができてしまいます。くくく、有為男さん、楽しんどるなあ。

 せっかくなんで、有為男さんの遊びに乗らせてもらいましょう。以下、作中に出てくる人物や作品名のうちで、モデルが歴然としているものは、【 】でその実名も併記してみます。

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2009年8月 9日 (日)

直木賞とは……殺人事件の容疑者になることと、ほぼ同格。――森村誠一『捜査線上のアリア』

090809 森村誠一『捜査線上のアリア』(昭和56年/1981年8月・講談社刊)

(←左書影は平成18年/2006年3月・徳間書店/徳間文庫)

 ミステリー系のハナシが続きます。

 前週は清張さんでした。松本清張の膨大な作品世界に分け入るのも、そうとう大変です。でも、それを上回るほど、森村誠一大陸も巨大です。

 昭和44年/1969年に『高層の死角』で乱歩賞とって、以来40年。ときに「清張ミステリーの劣化コピー」とか揶揄されながらも、流行作家のド太い道を悠々と歩きつづける持続力は、立派と賞するしかありません。

 それで、最近では『小説道場』(平成19年/2007年10月・小学館刊)というエッセイふう指南書を出されています。しかも、これを2年もたたないうちに、さっそく再編集・再構成・加筆して、『作家とは何か―小説道場・総論』『小説の書き方―小説道場・実践編』(ともに平成21年/2009年4月・角川書店/角川oneテーマ21)と、わざわざ2冊に分けて発売しちゃうとこなんかが、360度“大量作家”のやり口です。

090809_2  ここでは文学賞について、森村さんが淡々と解説してくれています。たとえば、直木賞。

「登竜門としての文学賞で最も知名度が高いのは、直木賞と芥川賞であり、すでにコマーシャルイベント化している。この両賞いずれかを受賞すれば、無名の新人でも一躍脚光を浴びて、受賞作はベストセラーとなる。(引用者中略)受賞者の生き残り率は必ずしも賞の知名度に比例しない。華々しく登場はしたものの、一作か数作で消えてしまう人も少なくない。

 その点、直木賞の場合は、すでに名前を確立している既成作家も候補に入るので、歩留りはよいといえよう。」(『作家とは何か―小説道場・総論』所収「第一章 作家の条件」より)

 正直です。そして、従来(いまも?)両賞を紹介する人間は、ほとんどの割合で、つい「芥川賞と直木賞」っていう順番で列挙するものなのに、森村さんはさらっと「直木賞と芥川賞」と、その順を並べ替えていたりして。この正直者め。

 今にして、こういう本を書いてしまう森村さんなんですが、過去の著作のなかには、何十年も前から、その片鱗をうかがわせるものが散りばめられていました。

 そう、小説家の登場する小説が、いくつもあるわけです。

 そのなかで、デビュー後10数年で書かれた『捜査線上のアリア』を、まずご紹介します。なぜかって? もちろん、直木賞が出てくるからです。

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2009年8月 2日 (日)

直木賞とは……同人誌を出しつづけるのはお金がかかる。でも受賞者が生まれればそれもチャラになる。――松本清張『渡された場面』

090802 松本清張『渡された場面』(昭和51年/1976年11月・新潮社刊)

(←左書影は昭和56年/1981年1月・新潮社/新潮文庫)

 そうでした。今年でした。この方のことを語る絶好の機会です。

 なんといっても松本清張さんは懐が深い。深すぎる。清張作品といって、切り口は無数にあることでしょう。うちのブログでも以前、「或る『小倉日記』伝」をある権力闘争とからめて紹介させてもらいましたけど、これも懐の深さの一例です。

 今回は、テーマが「小説に描かれた直木賞」ってことなんで、清張作品のなかでも、作家あるいは文壇を描いたものをネタにして、大いに楽しんでみたいと思います。

 『渡された場面』は、清張後期の長篇です。『週刊新潮』に昭和51年/1976年1日1日号~7月15日号まで連載されました。

 ここに二人の「作家」が登場します。

 一人は小寺康司。小説のはじめのほうで、不幸にも死んでしまいます。享年39。その死亡記事は朝刊の社会面に顔写真つきで載ったそうですので、その一端をご紹介することで、小寺氏の若すぎる死を悼みましょう。

「氏は昭和三十二年ごろから小説を発表、清新な作風の新進作家として注目を浴びたが、三十六年に××文学賞を受賞、以来堅実な歩みで中堅作家の中心的存在の一人となった。現代人の不安を私小説ふうに展開し、軽妙ななかに暗鬱をこめた表現と文章は高く評価され、後進の作家群にも影響を与えている。」(『渡された場面』「4」より)

 なかなか順調な作家人生だったみたいなのに、惜しい方を亡くしました。

 と、実在しない作家のことなど悼むのはどうかと思いますけど、ここで注目したいのは「三十六年に××文学賞を受賞」の一文です。

 小寺康司がデビュー4年くらいで文学賞を受賞したのが重要なのではありません。中堅作家の経歴を紹介する文に、わざわざ文学賞受賞のことを、昭和51年/1976年の清張さんが書き込んだ、ってことが問題なんです。

 『渡された場面』にはもう一人、作家が登場します。下坂一夫です。

 唐津市でも有名な陶器店の次男坊です。「作家」と言ったって、自分が代表者格の同人誌『海峡文学』に小説を発表しているだけの、同人誌作家です。

 ははあ。下坂一夫の生態は、こりゃほとんど、筒井康隆さんの『大いなる助走』の世界だなあ。『渡された場面』からほんの1年~2年後に、『大いなる助走』が書かれた(初出『別冊文藝春秋』第141号[昭和52年/1977年9月]~第146号[昭和53年/1978年12月])、っていう同時代性が、余計に偶然以上・必然未満のものを感じさせたりして。

 下坂一夫は、あれです、『大いなる助走』で言うところの、市谷京二、っていうより保叉一雄みたいな役回りです。偶然にも、同じ“カズオ”名が付けられているところなんざ、思わずニヤリとさせられます。

 『焼畑文芸』主宰の保叉一雄は、地方に棲息する俗物まるだしで描かれました。同じように、やっぱり下坂一夫も、中央文壇にたいする憧れを心の内にくすぶらせています。こんなふうに。

「「海峡文学」は中央の文壇から注目されとる。いまに同人のなかから文壇に出る者があらわれる。そのために、贈呈本の百部のうち六十部は東京の作家や評論家や雑誌、新聞社に郵送しとる。その郵送料にしても、ばかにならんけんな。まあ、それでもええ。「海峡文学」から文学賞をもらう奴が出てきたら、それだけでも「海峡文学」ば出したかいがある」(『渡された場面』「3」より)

 同人誌を出すために、実家から金をくすねるのも限度があって、恋人から金を借りてまで、下坂一夫は『海峡文学』に打ち込んでいます。その思考のなかに、ドーンと「文学賞」のハナシが出てくるとこが、カンペキに、『大いなる助走』風です。

 そして、下坂一夫は、「だれか仲間が認められればいい」なんて思っちゃいません。「才能のあるのは自分だ」と信じていることが、次の文章で明確にされています。

「将来、「海峡文学」から文学賞の受賞者が出たり、または他の方法で文壇に登場する者があるとしたら、そのいちばんの可能性は自分だと下坂一夫は信子(引用者注:下坂の恋人の真野信子)に云っていた。」(同書「3」より)

 ここに下坂一夫の悲劇のタネがあるんですけど、やっぱりここにも、「文学賞」の存在が出てきます。

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