第141回直木賞(平成21年/2009年上半期)候補のことをもっと知るために、本人たちの声に耳を傾ける。
今度、第141回(平成21年/2009年・上半期)には6人の方々が候補に挙がりました。その名前をみて、「なあんだ。また、みんな知ってる人ばかりだ。つまんないの」と、最近の直木賞の“有名作家主義”にげんなりした方もいるでしょう。そんな方には、すみません、今日のエントリーはお役に立てません。
「がーん。ほとんど読んだことのない作家ばかりだ」とか、「だ~れも知りません」とか、つぶやいている方。さあ、顔をあげてください。あなたのような人のために、直木賞はあるのですから。
かくいうワタクシも、こんなブログや、親サイトをやっていますけどね、新しい作品・新しい作家にはトンとうといわけでして、新しい候補作家たちについて知っていることなど、ほとんどありません。選考会の7月15日(水)までまだあと2週間弱あります。その日を楽しく迎えられるように、ちょっとずつ知識を深めていきたいところです。
それで今日は、候補作家ご本人たちの声に耳を傾けたいと思います。
だって選考会の日がくれば、先輩作家たちが、ああだこうだと、6つの候補作を丁寧に切り刻んで、それぞれ独自の評価をくだしちゃいます。たぶん、ワタクシのように、その作品を直木賞を通して知った人間にとっては、いやがおうにも、それらの選考委員の言葉に振り回されてしまいます。が、待ってください。それじゃあまりにも不公平です。一方的すぎます。
「でもさ。作者本人の声を聞こうだなんて邪道だよ。作品は、発表された瞬間に作者の手を離れるんだから、あとは読み手が判断すればいい」。ってこれ、まっとうな考え方です。
でもね、直木賞(とか文学賞)を、まっとうな尺度ではかってどうするんですか。まさかあなたは直木賞をまっとうなものだと信じているのですか。この世に読者は何十万人も何百万人もいるのに、そのなかのたった数人が、たった数時間の会議でくだす判断を、特別に価値あるものとして囃し立てて、その結果にワーワーと騒ぐ。ね。全然まっとうじゃないですよね。くだらないですよね。馬鹿馬鹿しいですよね。……ワタクシはこの、くだらない感じが大好きです。むちゃくちゃ楽しいと感じます。
やばい。ハナシがズレてきた。
要は、構図として候補作家は自分の作品を選考委員にどう切り刻まれようと耐えるしかありません。なので今のうちに、候補の方々の言い分も聞いておきたいな、ってことです。この6人の作家たちは、今回の作品をどんな思いで、どんな気持ちをこめて書いたのかを知っておこう、ってことです。
『鷺と雪』……北村薫さんいわく
「とにかく平和があり、明日の命を心配する生活ではない、という点では日本は世界でも恵まれた状況でしょう。この現状と、格差社会どころか信じられないような貧富の差があった昭和初期において、富裕階級という安定した社会に居る主人公たちとが重なるのではないかと」(『別冊文藝春秋』平成21年/2009年5月号「book Trek」より)
『きのうの神さま』……西川美和さんいわく
「死にたがっている長寿の人の話を聞くと、ざわざわするんです。毎日が退屈で『(生きることに)もう飽きちゃった』とあっけらかんと言ったり。そのタフさや俗っぽさも含めて、人間は面白い。生と死のグロテスクさ、えぐみを書きたかったのかなと思います」(『静岡新聞』平成21年/2009年6月29日「映画監督・西川美和さん―生と死のえぐみ書きたい」より)
『乱反射』……貫井徳郎さんいわく
「大事なのは、自分の些細な行動が他人に大きな影響を与えているかもしれないという想像力。この本を多くの人に読んでもらって、頭の片隅で『もしかしたら』と考えてほしいんです。小説が世の中に対して影響をもつなんて考えはおこがましいですが、可能性がゼロじゃないなら書く意味があると信じて、祈るような気持ちで原稿に向かっていました」(『オール讀物』平成21年/2009年5月号「ブックトーク」より)
『秋月記』……葉室麟さんいわく
「勝てないとわかっていても、戦わねばならない時があります。秋月藩の男たちも負けを覚悟して戦い、最後は敗れます。しかし、負けて終わりなのではなく、その先に何かがあった。負けてもなお心が折れない男たちを書くには、架空の小説より、史実に基づくほうがリアリティーが出ると考えました」(『毎日新聞』平成21年/2009年2月22日「今週の本棚・本と人」より)
『プリンセス・トヨトミ』……万城目学さんいわく
「『鹿男あをによし』(幻冬舎)の中で鹿に「人間は文字で書かないとなんでもかんでも忘れてしまう」ということを言わせていますが、鹿は人間が文字に残さないがため忘れてしまったことを代々伝える生き物として登場させているんです。今度の作品では逆に、人間自身が文字にするのを自ら禁止して、人と人の間で口承で伝え続けていたらどうだろうと思いました。」(『本の話』平成21年/2009年3月号「著者インタビュー もう一つの大阪が明らかに」より)
『鬼の跫音』……道尾秀介さんいわく
「昔、都筑(引用者注:都筑道夫)さんの『怪奇小説という題名の怪奇小説』を読んだときに『ここに混沌がいた!』と思ったんですね。エッセイだか小説だかわからない、SFでもないし、何だかわけがわからないけど一生忘れない、すごくインパクトのある本で、こういう混沌的なというか、目鼻をつけたら死んでしまうような話を書くのが夢だったんです。今回の短編集で、少しはそれが出来たかなという気がしています」(『ダ・ヴィンチ』平成21年/2009年3月号「こんげつのブックマークEX」より)
この6人のうち5人の方は、すでに直木賞候補を経験ずみです。選考委員から何だかんだと難癖つけられたことがあります。直木賞オタクとしては、やはりそういった過去の「一方的通告」と対比させながら、候補の方々の発言を読んで(深読みして)、どうにも胸がわくわくしてきちゃいます。
ほら、こんなふうに。
○
北村薫さんの場合は、どうしたって2年前の、『玻璃の天』(第137回 平成19年/2007年上半期 候補)のときのことを、思い起こさずにはいられません。
阿刀田高さんは言いました。
「なぜいま昭和の初めの上流社会を描いて、古典的なトリックをあしらうのか、それでなにを訴えるのだろうか、小説観のちがいを感じ、良質の作品とは思いながらもポジティブに評価できなかった。」(『オール讀物』平成19年/2007年9月号選評「小説の豊饒さ」より)
げげ。「小説観のちがい」とか言われちゃったらなあ。何も言えません。
たぶん選考委員の方も、シリーズ途中の1冊だけ読まされて、どう読み取っていいのかよくわからなかったんでしょう。北村さんは「昭和の初め」という設定について、こんなことも語っています。
「登場人物たちは、これから十年後に世界がどうなってゆくかわからないわけです。一方、われわれは「歴史」を知っている。描かれた時代が過去であるからこそ、作中の登場人物の運命を知りつつ読むことによって、作者は語っていないんだけれど伝えられる部分があるということです。」(『本の話』平成21年/2009年4月号「著者インタビュー ベッキーさんが、われわれに託すもの」より)
読み手側の力量が試されているんだろうな。
本来『鷺と雪』だけじゃなくて、シリーズ通して読まれるべき物語なんでしょう。文春の人もあせって、単発ごとに候補にせず、3冊まとまったところで3冊全部を候補作にすればよかったのに。
○
『愚行録』(第135回 平成18年/2006年・上半期 候補)が、選考会でさんざんけなされたことは、うちの親サイトの「第141回候補の詳細」の、貫井徳郎さんのところでもちょっと触れました。
ほんの一例。
「なんら新味のない構成であるが、内容に、あるいは文体に斬新さがあれば、よしとしたいとおもっていたものの、そこにも作者の意識は不在で、けっきょく新しい人間像を造形することに成功したわけではなく、社会現象を汎論するにとどまった、と感じられた。」(宮城谷昌光 『オール讀物』平成18年/2006年9月号選評「さまざまな課題」より)
さらには、渡辺淳一さんをして「この作品がなぜ候補になったのか、不思議」とかいう、昔なつかしい「直木賞における酷評の常套句」を書かせてしまったほどです。
対して、貫井さんはごく最近、こんなふうに書いています。
「(引用者注:『愚行録』の文庫化にあたり)ゲラで読み返して、この作品のテーマである「格差社会の醜さ」は、三年前よりも今の方がもっとリアルに感じられるのではと思いました。三年前はまったくテーマを読み取ってもらえませんでしたが、この文庫版で理解してもらえたらいいなと思っています。」(貫井徳郎オフィシャル・サイト「He Wailed」内「RECENT TOPICS」より)
で、今度の『乱反射』にも、先の引用どおりに作者の祈りが込められているそうです。
「僕だって〈些細な自分勝手〉は日常的にしていて、誰もが例外ではありえませんから。その愚かな人の世を、人は嫌でも生きていくしかないと諦めつつ、例えば明石市の歩道橋事故(01年)のような悲劇を、小説が未然に防ぐ可能性が0でないなら書く価値はあると。そんな祈りをこめたもう一つの『愚行録』(06年の代表作)です」(『週刊ポスト』平成21年/2009年4月3日号「ポスト・ブック・レビュー」より)
今度は、さすがにね。テーマぐらいは、選考委員の方々も読み取ってくださるでしょう。きっと。
○
葉室麟さんには、前回『いのちなりけり』(第140回 平成20年/2008年・下半期 候補)が、バシバシ叩かれた痛い経験があります。
「始まりから固有名詞群と脇筋群が一気に出しゃばってくるので、主筋がたえず横滑りを起こし、時の前後さえ判別しがたくなる。とても読みにくい。」(井上ひさし 『オール讀物』平成21年/2009年3月号選評「意中の三作」より)
「中盤から書き急ぎの感がありました」と宮部みゆきさんが指摘していましたが、今度の『秋月記』が、5月の山本周五郎賞選考会で議論されたときにも、やっぱりそんな感じの評価があったようです。
さて直木賞の選考会ではどうなるか。またまた、「途中から書き急ぎすぎ」とか言われて窮地に立たされるのでしょうか。むしろこの物語の運び方こそが、葉室作品の特色といえば特色なんでしょうけど。
それでも葉室作品には、愛してくれる無数の読者たちがいます。彼らの、次のような思いが、果たして選考委員の方々に理解されますか。
「私たち(引用者注:『西日本新聞』内門博記者)は、本藩と支藩の関係を親会社と子会社、引いては大企業と孫請け中小企業の関係のように重ねて読んでしまう。主人公の間は、いわばそうした子会社や孫請け会社などで奔走する幹部だ。「不況の昨今、間のように懸命に戦いつつも結局は競争に敗れるサラリーマンは多いでしょう。きっと無数の間小四郎が今もなお戦っているんです」
「秋月記」は日本経済新聞の書評で紹介され、売り上げが伸びたという。間小四郎に自分を重ねる中小企業の幹部たちが手に取っているのかもしれない。」(『西日本新聞』平成21年/2009年4月11日「あなたに会いたい=作家 葉室麟さん 歴史の中で人は孤立していない」より)
○
万城目学さんと『プリンセス・トヨトミ』は、直木賞的にみて今年上半期に、とある事件に遭遇しています。それは、『週刊朝日』誌上で万城目×林真理子(直木賞選考委員)の対談がおこなわれたことです。万城目さんが対談した作家は、森見登美彦さんに続いて、林ねえさんが二人目なんだとか。
ちなみに前作の『鹿男あをによし』は第137回(平成19年/2007年・上半期)の候補になりました。このとき、林ねえさんは、万城目&森見を「最近の若い作家」としてくくって、ガツンと懲らしめる内容の選評を書いたわけです。
「今若い人に人気の万城目学さんの「鹿男あをによし」、森見登美彦さんの「夜は短し歩けよ乙女」は面白いことは面白いのであるが、途中からいっきにだれていく。(引用者中略)読み手よりもまず書き手が楽しんでいるのは、最近の若い作家によく見られる傾向である。自分が真先に面白がり楽しんで、この輪の中に入ってくる読者だけを迎え入れる。(引用者中略)ありきたりな言い方であるが、二人ともあまりご自分の才に溺れないでほしい。」(『オール讀物』平成19年/2007年9月号選評「まさにプロの技」より)
それが今年になって、林ねえさんははじめて実際の万城目さんに逢うわけですが、そこでは、いかにも優しげで穏やかじゃないですか。
「林 (引用者中略)いよいよドーンときた感じですよね。(引用者中略)あり得なさそうな話だけど、どんどん引きこまれて、つい最後まで読んじゃいましたよ。(引用者中略)
ただの荒唐無稽の小説にしてないところがすごい。発想が奇想天外で、話の外堀を埋めていくための文章力や構成力もきちんとしていて。」(『週刊朝日』平成21年/2009年6月13日号「マリコのゲストコレクション」より)
これが社交辞令だったのかどうかは、今度の選評のときに判明します。楽しみに待っていようっと。
それはそうと。林ねえさん。たまには直木三十五の墓参りにも行ってあげてくださいよね。
○
道尾秀介さんの場合は、半年前の第140回(平成20年/2008年・下半期)候補の『カラスの親指』とは、がらりと趣向も風合いもちがう短篇集『鬼の跫音』が候補です。昨日の敵が今日の味方となるか、昨日の味方までも敵となっちゃうのか、これが選考委員の面々にどう受け取られるかは、ほんとわかりません。
たとえば、五木寛之さんの、
「軽やかなタッチは、ほっと一息つけるところがあって好ましかったが、残念ながら読む側の意表をつく意外性に欠けるような読後感をおぼえた。」(『オール讀物』平成21年/2009年3月号選評「作家と作品と」より)
なんつう感想は、とうてい今度の『鬼の跫音』に当てはまるわけもありませんし。
ただ、今度の短篇集を書き終えて、道尾さんご自身の「やりきった感」はかなり高かったみたいです。
「この本には、今僕のできることの全てがつまっています。もし僕自身が『鬼の跫音』を未読の状態で読めるなら、五十万くらい出しても買う(笑)。誰にでも好かれる本じゃないだろうけど、僕と同じ好みの人なら、これは世の中にあるどの本よりも面白いと思いますよ」(『別冊文藝春秋』平成21年/2009年3月号「book Trek」より)
ワタクシは定価1,470円で買わせてもらいました。ワタクシの好きな範疇の小説であってくれて、幸せなことでした。……さあて、選考委員の方々はこれを逆に100万円もらって読みます。どんな感想が聞けますことやら。
○
ただひとりの初候補は、西川美和さんです。
初候補の受賞は、さかのぼること丸5年前、第131回(平成16年/2004年・上半期)の熊谷達也さん以来ずっと出ていません。となればそろそろ出てもおかしくない星のめぐりです。
なんにせよ、映画の原案だろうがポプラ社だろうが、この作品集を他のあまたの小説たちと同列において審査し、候補作にのこした日本文学振興会=文春の社員の方々の努力がうれしいですよね。
ただし、これで直木賞を受賞されたからといって、西川さんを映画界が放っておくわけはなく、彼女がバリバリと小説に専心して、小説界の隆盛の一翼をになってくださるようになるとはとうてい考えにくいんですけど。まあ、直木賞のほうは自分の生い立ちなぞすっかり忘れて、パッと光ってパッと散る、一夜の花火になろうなろうとしていますから、それはそれでいいですか。
映画監督と小説家の両立、ってことでいえば、『エコノミスト』誌で、ライターのりんたいこさんが、西川さんにこんなことを聞いてくれています。
「――あるとき急に、作家に方向転換することもあるのでしょうか。」
それに答える西川さん。
「西川 体力がなくなったら、そうするでしょうね。映画監督は本当に、精神力と体力とが必要な仕事ですから。その意味で、自分が向いているとは思えないし、いまでも、もっとやれることがあるだろうにと思いますが、なかなかうまくいきません。だから、そのへんが事切れたときが、(監督から身を引く)潮時なのかもしれません。私みたいに不器用な、映画のこともよく勉強したことのない人間は、映画監督を職業としてやっていくとダメになっちゃう。不器用な人間は不器用なりに自分のできることを磨いていけばいいのかな、と思っています。」(『エコノミスト』平成21年/2009年6月16日「ワイドインタビュー問答有用」より)
お疲れ様です。まあ、映画撮るのに疲れて気分転換したくなったら、小説で息抜きして、ワタクシたちを楽しませてください。
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