新しさや斬新さが何もないのだとしても、それが小説として劣っていることにはなりません。 第140回候補 北重人『汐のなごり』
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- 【歴史的重要度】… 3
- 【一般的無名度】… 3
- 【極私的推奨度】… 4
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第140回(平成20年/2008年・下半期)候補作
北重人『汐のなごり』(平成20年/2008年9月・徳間書店刊)
「これぞ名候補作」のエントリーは、これで56本目、ほぼ1年間書いてきたことになります。とりあえずの一区切りです。
最後ぐらいは「今」につながる最新の候補作を取り上げたいなと思って、第140回(平成20年/2008年・下半期)の候補作のなかから選びました。受賞しなかった4つの候補のうちの一つです。
こないだの直木賞――半年前の第140回は、いろいろな注目点があったと思います。いつもと同様に。そのなかで一部のマスコミの取り上げた視点がありました。「50代以降の作家が3人(も?)候補になった。そのうち2人は50歳をすぎてからの割りと遅いデビューだった」っていうものです。
おっと、もうこれだけで、団塊のアレがどうしたこうした、と続くお決まりのハナシを想像させて、ややうんざり。と、眉をひそめる40代以下の小説愛好者が続出したとかしないとか。さらに言えば、オーバー50歳のお三方とも、その候補作は時代小説なんだとさ、ふん、じじいは時代小説ばっかだな、とせせら笑うミステリー愛好者がわんさかいたとかいないとか。
50歳というラインに、なんか意味があるとは思えません。また、時代小説がおじさん・おじいさんたちだけのものではない、と固く信じます。けれど、「時代小説がいま若い女性に人気」とか、ことさら書き立てる文章に出会うと、ふむ、世の中には時代小説はじじいのものと信じている一派があるんだなと勉強になります。
関川夏央さんに、その題もずばり『おじさんはなぜ時代小説が好きか』(平成18年/2006年2月・岩波書店刊)っていう著書があります。最後のほうにこんな一節があります。
「これまで時代小説というものがあることは知っていたけれども、なんの興味もなかった。自分には関係ないと思っていた人が多いでしょう。では時代小説は誰に関係があるかというと、おじさんに関係があると思っていたわけですね。で、おじさんというのは得体の知れない暗黒大陸の住人のようなもので、彼らがなにを好んでなにを読もうと関係ない、それが素直な気持だったと思います。」(『おじさんはなぜ時代小説が好きか』より)
ほう、そうですか。時代小説=おじさん、っていう構図はそんなに一般的ですか。
それと関川さんは、こんなことも指摘しています。
「おじさんと時代小説の相性のよさは、たしかに「保守化」と関係があるでしょう。」
いいでしょう。受け入れましょう。時代小説は、保守的な世界を味わわせてくれるものだと。いつもそこに、そのかたちであることの安心感。なごみ。しみじみ。地道。そして地味。
……と、ここまで書いて、ワタクシはこう続けたいわけです。『汐のなごり』や『いのちなりけり』がいかに、『きのうの世界』や『カラスの親指』に比べて、地味であるか。人の目をひかないか。注目度が低かったか。と。
でもね、そんな暴論はとても吐けません。6人の候補作家のなかでは恩田陸さんだけズバ抜けて著作数も多いし固定読者も多いと思いますけどね、あの人は別格です。
ちなみに、うちのちっぽけな親サイトのアクセス数を見てみますか。第140回の候補が発表された平成21年/2009年1月5日から、選考日前日の1月14日までの総数で、各作家のページのアクセス比率は、以下のとおりでした(恩田陸さんを100として計算しました)。
って、うちのサイト程度のデータじゃ何の参考にもなりませんか。そうですよね。どうもすみません。
ワタクシもおそらく、おやじの一人にカウントされても、とくに文句の持って行き場のない人間です。仮に、おじさんの好きな小説、ってことだけで興味を失うような愚かな読者がいるとは思えませんので、堂々と胸をはって言いましょう。
ワタクシは『汐のなごり』が好きです。時代小説として好き、っていうより、単純に小説として好きです。それだけです。
○
奥州の湊町、水潟。ここを舞台として、6つの短篇からなるのが『汐のなごり』です。
一篇、直木賞選考会でもっとも評価の高かった「海羽山」のあらすじだけ、ご紹介しておきます。
天保のころ。大飢饉に見舞われ、多くの人が飢えに苦しむなか、身銭を切って困窮者に粥をほどこすひとりの男。木津屋喜三郎。古手扱いの問屋の主です。
彼が他人の飢渇を黙って見過ごせないのには、わけがありました。彼自身、50年前、ひとに救われた経験があったからです。
喜三郎は元の名を辰吉といいました。水潟の人間ではありません。北津軽の生まれです。
辰吉が11歳のとき。北津軽が飢饉に襲われます。辰吉一家も食う者がなくなり、とうとう土地を捨てて、羽州に逃れます。
しかし、羽州を目指す道程も容易なものではありませんでした。食い物を求め、乞食のようになってさまよいます。その半ばで父、母、兄とはぐれ、辰吉だけが水潟にたどりついたのです。
そこで浮浪者の仮小屋に入れられ、粥を食わせてもらい命を救われます。その施粥を統括していた人こそ、先代の喜三郎でした。
それから50年。懸命に働き、先代に目をかけられ、ついに二代目として跡を継がせてもらい、裕福で幸せな生活を送るまでになった彼。しかしこのごろ、どうしても貧乏で苦しかった50年前のこと、家族と別れることになった道程のことが、思い出されてなりません。
そんな折り、知り合いから手紙が届きます。どうやら、彼が別れて久しい兄、と思われる男が海羽山中で修験者として住んでいるらしい、というのです。兄と会えるかもしれない……。彼の心はにわかに騒ぎはじめます。
○
地味かどうかはわからないんですが、時代小説は、たしかに「地道」であることの尊さを教えてくれることがあります。
直木賞においての時代小説を見ていくと、なぜかそんな思いにとらわれます。
ごぞんじのとおり、直木賞は、ある程度実績を積んだ人を(も)顕彰する性格があります。そのなかでもとくに、「地道さ」に着眼して授賞することがあ ります。そのために直木賞は、新人賞でありながら一筋縄ではいかない性質を内包することになるのですが、直木賞が目をつける「地道さ」は、なぜか時代小説 と結びついています。
コツコツとおのれが信じた道ひと筋を励みつづける姿、といって思い出されるのが、何度も何度も候補になって、そのたびに変わり映えがしないだの、前のほうがよかっただの言われた候補者たちです。宇江佐真理さん、6度の候補。東郷隆さん、6度の候補。滝口康彦さん、6度の候補。なかでも滝口さんの第68回(昭和47年/1972年・下半期)の『仲秋十五日』が、受賞できなかったときの不運さたるや、ハンパありません。
それでもみなさん、受賞者と呼ばれても何の違和感もないほど、淡々と職業作家として活躍してこられて。ああ、滝口さんが駆け出しだったころに、もし吉川英治文学新人賞があったなら、ぜひ差し上げて、無冠のかなしさから救ってあげたかった。
ええと、直木賞の場での「地道さ」は、なにも落とされ続けたところにのみ、湧き出る味じゃありません。じっさい、受賞者のなかにこそ、この賞独特の「地道さ」が表れています。
「地道さ」が理由で受賞した三大作家といえば。……村上元三、池波正太郎、藤沢周平です。
この方たちの受賞の、何が特徴的だったかといえば、コンスタントに作品を発表し、次々に候補に挙がった。とそのうえに、何度目かの候補のときに、候補作品はそれほど評価されなかったけども、これまでの実績で(実績だけで、と言ってもいいかも)受賞した、ってことです。
「作者村上元三氏は既に著名で、努力型であるが中々角度の広い人だ。審査会の席上、この使い分けがいけないと云う説も出たが、私はそれを好意に解釈 する方針を執った。(引用者中略)作も作だが、村上氏の作家経歴が物を言って今回の栄冠を頂くことになったと云えよう。」(『文藝春秋』昭和16年 /1941年3月号「直木三十五賞経緯」 白井喬二 より)
「(引用者注:池波正太郎の「錯乱」は)整理が足りなかったし、真田信之という人物を主人公に書くべきだったと思うが、これまで五回も直木賞候補になった実力は、受賞に値する。」(『オール讀物』昭和35年/1960年10月号選評 村上元三「推理小説への疑問」より)
「(引用者注:藤沢周平の「暗殺の年輪」は)作品のねらいも古いし、こういうテーマの小説は、時代物畑の作家なら、たいていは書いている。」「この作者の実力と、これまでの実績を買って推した。これを契機に、自分のスタイルを確立してほしい。」(『オール讀物』昭和48年/1973年10月号選評 村上元三「二つの形」より)
それでみなさん、受賞したあとにせっせと仕事に励むうちに、受賞の頃にはなかった新たな自分の型を生み出し、人気作家となっていくわけでして。た ぶん賞を与えた選考委員たちの想像を超えるぐらいに。いま振り返ってみると、ああ、「地道さ」に目をつけることを馬鹿にしちゃいかんよなあ、と思わされた りして。
とくにあなた、藤沢周平さんの魅力が、一部の玄人だけじゃなくて、こんなにも広く一般的に受け入れられる日がこようとは。
「氏の作品にはこれまで のところ惜しいことにかくべつ新しい発想も視野もみられない」(前掲選評にて松本清張の評言より)
とまで言われた、平凡で今後の時代小説に何ら新しいもの を生み出さないと思われていた藤沢さんが。
たとえば、半年前の第140回で、宮城谷昌光さんはこんな選評を書きました。
「藤沢周平を想わせる筆致で、全体に明るい落ち着きがある。時代小説に新しい試みをもちこんだとはいえないが、読後感はかなり良い。」(『オール讀物』平成21年/2009年3月号選評「ひとつの非凡」より)
『汐のなごり』に対する言葉です。こう言われてしまった北重人さんには、あれ、もしかして藤沢さんばりの大飛躍が、将来あり得るのかもしれませんぞ。
○
「これぞ名候補作」を紹介するエントリーは、ひとまず今回で終わります。直木賞の候補作(受賞しなかった作品)は800作以上あるんですが、ほんの56作品しかご紹介できませんでした。毎週、この駄文に目を通していただいている方が、もしおられるのだとしたら、ほんとすみません。と、とりあえず謝っておきます。
第1期のときに直木賞の関連書籍を1年間とりあげて、ちょっと大変だったものですから、第2期に入るときに考えました。自分の好きな候補作品を紹介するのであれば、割りと楽に書けるんじゃないかなと、そう踏んだのが誤算でした。分け入る森の深さに、呆然とするばかり。おのれの勉強不足ぶりに気づかされました。
来週からは、また視点を変えて、書いていきたいと思います。今後ともお付き合いのほどを。
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