史上唯一の70代候補。年下の連中から酷評されて、受賞の望みも断たれて、ややムッとする。 第112回候補 池宮彰一郎『高杉晋作』
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第110回(平成5年/1993年・下半期)候補作
小嵐九八郎『おらホの選挙』(平成5年/1993年10月・講談社刊)
山口洋子女史が阪神タイガースの大ファンで有名だとするならば、この方だって相当なもんです。
本名、工藤永人さんはペンネームをつけるときに、タイガースの応援歌「六甲おろし」からの連想で、「小嵐」としたのだとか。しかも、小説デビューとなった作品は題名が「嗚呼、虎が吼えずば」。作品中に昭和60年/1985年の阪神快進撃と優勝のことが織り込まれていて、さすが虎キチ、念が入っています。
もっとも、「嗚呼、虎が吼えずば」辺りのハナシは、それほど小嵐さんのプロフィールに書かれることがなくて、あれ、あんまり言っちゃいけなかったんですか? ううむ、たとえば胡桃沢耕史ぐらいになるともはや、「性豪」とか言われて伝説にまでなるんでしょうけど、有名になる前にポルノチックなもの(あるいはポルノそのもの)を書いていたって履歴は、ふつうは筆歴にかぞえないんだろうなあ。姫野カオルコさんを例に出すまでもなく。
小嵐さんの前歴といえや、そりゃあ、新左翼、社青同解放派の活動家だったことが知られています。そこから離れて、金を稼ぐために物書きになった、その入り口がポルノ分野だった、とはご自身の弁。たとえばこんなインタビュー記事があります。
「作家になったのは金のためと言う。
「刑務所から出てきたら、組織が割れてた。組織の専従者って、労働者のカンパで食ってるんだけど、労働者はみんな右のほうにいっちゃってた。でも、ぼくは左が好きだから」
しょうがないからポルノを書いて売り込みに行った。(引用者中略)
もっとも、小嵐九八郎のポルノを探しても無駄である。すべて別のペンネームで書かれている。(引用者中略)
ポルノの原稿は安い。これではたまらないと、書いた小説が『小説クラブ』で佳作になった。そこで小嵐九八郎の誕生となる。」(『噂の真相』平成8年/1996年1月号「メディア異人列伝」 インタビュー・構成/永江朗 より)
いやいや、桃園書房の『小説CLUB』だってバリバリのポルノ系小説誌じゃないの? とかいうツッコミは、そうですよね、大人げないですよね。
それで昭和61年/1986年の第9回小説CLUB新人賞の佳作に入ったのが「嗚呼、虎が吼えずば」(掲載は同年7月号)でした。ちなみにこのときの受賞は、千代延紫さんの「ピンキードリーム」。とかいって、小説CLUB新人賞については、ワタクシもよく知らないんですが、同賞受賞作家でもある冴島学さんが、ご自分のホームページでまとめられています。
小説の原稿料のことは詳しくありませんけど、そうですか、ポルノは安いんですか。だとすると、『小説CLUB』に「小嵐九八郎」名義で発表するようになってからも、そんなに稼げるようになったわけじゃないのかもしれません。まもなく小嵐さんはちがう分野に進出していきます。
「十三年ほど前か、ある小説誌の佳作に入選した時に、編集者が我が家に遊びに来た。
編集者は、居間に大きなびくがあり、釣り用のどでかいマグロ鉤も視野に入れ、竿があるのも見て、
「君は魚を釣るのかね」
と尋ねた。
「まあ、想像に任せますよ」
「どんなもの釣るの」
「まあ、あのびくを見ればわかるでしょう」
おれはいい加減に答えておいた。
が、後日、その編集者は勝手に、「君は釣り名人だ。小説家としての売りのコピーが決まった」といいだし、おれの処女長編『巨魚伝説』(祥伝社刊)を出したのであった。」(平成12年/2000年4月・青樹社刊 小嵐九八郎・工藤紘子・著『川崎山王町 小嵐家の台所 都会でできる田舎暮らし』より)
それでも小嵐さんは「釣り作家」として一家を成すような道には進みませんでした。編集者の狙いは失敗したわけですが、頼もしいことに小嵐さんは別の方向で、しっかりとおのれの小説世界を切りひらいていきます。元・新左翼の活動家、大学生の頃から40歳ごろまでずっと「現役」で、その間に刑務所ぐらしも経験、といったところから、特異な小説を次々と生んでいくことになるのでした。
特異、と言っていいんでしょうねえ。それまで主にノベルスや文庫を出しつづけてきた小嵐さんが、自身の遍歴を想像させる、左翼運動にのめり込んでいく青年とその家族のことを小説にしてハードカバーで刊行、そしたら、版元が実業之日本社だっつうのに、いきなり直木賞の候補に挙げられて、小嵐九八郎ここにあり、の姿を見せてくれたんですもの。
……と、ここまで来て、今週とりあげる名候補作は、まさにその『鉄塔の泣く街』(第106回 平成3年/1991年・下半期 候補)です、あらすじは……と続けたいところなんですが、ストップ。
ご紹介するのは、第110回候補の『おらホの選挙』です。なぜか。『鉄塔の泣く街』より、『清十郎』(第108回 平成4年/1992年・下半期 候補)より、「風が呼んでる」(第112回 平成6年/1994年・下半期 候補)より、ワタクシが好きな小説だからです。ただそれだけです。
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第98回(昭和62年/1987年・下半期)候補作
長尾宇迦「幽霊記」(『別冊文藝春秋』180号[昭和62年/1987年7月])
世間の潮流にまどわされず、あえて自分の信じる道を進もうとする姿は、いつの時代も美しいもんです。文学を志すぞ、よし、俺もいつかは芥川賞を、とか言っている連中とは一線を画して、昭和30年代にわざわざ「大衆文学同人誌」と銘打ったものを、なけなしの費用をはたいて出す、っていうのは、偉いもんだよなあ。
以下は、当時『文學界』の「同人雑誌評」で、林富士馬さんが語った一節。
「チェーホフも、先ず何より短く書く練習といったことを、文学的才能のために、説いていたと思う。ショート・ショートの流行というのは、はじめから、読物としての技術の話であって、文学とは又別な噺である。又尤も、人生は何も文学万能の筈もなく、文学であろうが無かろうが、そんなことには拘りなく、自分には娯楽読物だけが必要だという人だっているし、現に、大衆娯楽専門の同人雑誌だって、幾つか存在している。「東北文脉」(盛岡市、二集)などもその一例。」(『文學界』昭和37年/1962年7月号「同人雑誌評」より)
頼もしいじゃないですか、『東北文脈』。これの編集兼発行人こそが、若かりし頃(つっても30代なかば)の長尾宇迦さん。同誌は顧問に先輩作家の鈴木彦次郎さんと、岩手放送社長の太田俊穂さんを担ぎ上げているものの、同人はキッパリ三人きりです。発行所の名前も「三人の会」。
「第一号では、多くの人たちから好意をいただいた。改めて感謝しておく。
また、会に加わりたいという方もあったがまづ、当分は、我儘を許してもらいたいと思う。(引用者中略)
文字(原文ママ)の道は、きびしいものとは、心得ているつもりだが、ふと無駄なことをしているような、さみしさにおそわれることもある。
ただ、出来ることなら、偉大なる無駄にしたいものである。」(『東北文脈』2号[昭和37年/1962年4月] 長尾宇迦「編集後記」より)
高校教員として勤めながら、長尾さんは『北の文学』誌などに投稿、地元ではちょっと名の知れた作家になって、この『東北文脈』を経て、昭和39年/1964年には第2回の小説現代新人賞を受賞します。
しばらく「小説現代専門作家」みたいな道を歩んだのち、昭和46年/1971年にいたって、つまり45歳ごろにとうとう教員を辞め、作家一本でいくことを決めたのだそうです。
「かつて岩手にあった「北の文学」の流れをくむ「文芸岩手」(水沢市)が今年(引用者注:昭和46年/1971年)八月、丸二年ぶりに第八号を発行、注目を集めた。創刊以来陰の力となってきた長尾宇迦氏が、教員と作家の二足わらじに別れを告げ、この春一本立ちの作家として東京に移住したことに刺激されての発行だった。」(昭和47年/1972年3月・五月書房刊『同人誌年鑑 一九七二年度版』所収 岩手日報学芸部・及川和哉「概観 岩手」より)
そこからさらに、長尾さんの情熱と執念の生活が(おそらく)深まっていったことでしょう。10数年たって長尾さんはエッセイ「妻への詫び状」にて、
「最初に私は、決して入婿の身の上ではないことを断っておきたい。が、ツマの前では、ともすると、「申しわけネ」といってしまうのだ。私の住んでいる岩手あたりでは、(申しわけない)とは、感謝、ありがたい、という意味がつよく、とくに「ネ」の発音に、いわくいいがたい微妙な加減がある。(引用者中略)
とかくするうち、教員稼業にもやや情熱を失ないかけて、チョンにした。「申しわけネ」と、ツマにいったが、相手は福々しく笑っていた。」(『小説現代』昭和58年/1983年2月号「妻への詫び状 ヒョーショージョもの」より)
上京したはずの長尾さんが、どうやらまた故郷に舞い戻ったらしいのを見て、事情は存じませんけど、作家稼業の大変さがにじんでいるようでもあり。
50代を超して還暦をすぎ、やあ、よくぞ大衆文学の道を投げ出すことなく、邁進していただきました。昭和62年/1987年、『別冊文藝春秋』にご登場。よっ、待ってました。
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第87回(昭和57年/1982年・上半期)候補作
飯尾憲士「自決」(『すばる』昭和57年/1982年6月号)
2週前に第62回(昭和44年/1969年・下半期)候補、田中穣『藤田嗣治』をとりあげました。このあと、直木賞ではプチブームが起こります。伝記もの(とくに近現代に生きた著名人の伝記)がさかんに候補に挙げられたのです。
福岡徹さんの『軍神』(第63回)と『華燭』(第66回)、梅本育子さんの『時雨のあと』(第64回)、藤本義一さんの「生きいそぎの記」(第65回)などなど。ただ、推理小説やSFがそうであったように、伝記ものもやはり、直木賞の本流とはなりませんでした。
もうひとつ、『藤田嗣治』からこっち、直木賞のなかを吹き荒れた風があります。ノンフィクションです。
今の直木賞は、小説小説したものしか眼中に入らなくなってしまったようで、よほど予選選考している文春社員が気張らないと、ノンフィクションなど候補に挙がらないでしょう。でも、平成の声を聞くまでの十数年間、確実にノンフィクションが直木賞の骨格をささえていた時代がありました。
その代表選手といって思い浮かぶのは、これでしょう。飯尾憲士さんの「自決」。副題は「森近衛師団長斬殺事件」。
初出は『すばる』誌の昭和57年/1982年6月号です。どどっと520枚一挙掲載。これの単行本化を待たずして、昭和57年/1982年の上半期の候補としてすくい上げた、当時の日本文学振興会の目配りの広さに、ワタクシは拍手を送りたい。
この作品は、田中穣『藤田嗣治』とちがって、はじめっから自分がノンフィクションであることを宣言していました。
『すばる』誌の表紙と目次に、編集者がこう書いています。
「日本終戦史の謎に挑む長篇ノンフィクション」
ははあ。ノンフィクション。あの飯尾憲士さんがねえ。熊本の同人誌『詩と真実』にのっけた「炎」に始まり、中央文壇に足がかりを得たのちの「ソウルの位牌」「隻眼の人」と3度も芥川賞候補になったことのある、あの飯尾さんが。520枚のノンフィクション。
さすがにこの作品を、芥川賞候補にはできないもんなあ。長さといい、体裁といい。ほとんど枠組みをもたない直木賞なんてものがあったおかげで、ほんと幸いでした。作品の性質上、もしかして直木賞の候補になどならずとも、単行本『自決』は売上げを伸ばしたとは思いますが、直木賞候補作の名は多少なりとも後押ししたことでしょう。それで、筆一本で生きていた飯尾さんの懐がちょっとでも潤ったのなら、ほんとよかった。
「この七、八年間で、いっぺんだけ大いに収入があった。『自決』という本が集英社から出版されたとき、アレヨアレヨで、半年間で七〇〇万円以上ザクザクと手にした。友人と一〇〇万円程飲んで、あとは全部細君にやった。私は、背広一着も作らなかった。一つだけ買った。下駄である。いい下駄であった。」(平成5年/1993年11月・蝸牛社刊『怨望―日本人の忘れもの』所収「ユダよ、あなたの誠実を謳う」より)
おせっかい焼きの直木賞も、時には、人助けをすることもあるみたいです。
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第73回(昭和50年/1975年・上半期)候補作
楢山芙二夫「ニューヨークのサムライ」(『オール讀物』昭和50年/1975年6月号)
70数年におよぶ直木賞の歴史をひもとくにあたって、若さ・年齢・世代、そういったものを尺度に持ってくるやりかたも、きっとアリです。
たとえば、もうひとつの文学賞のほうでは、20歳を下まわる手垢のついていない女のコとか、ドロドロした実社会にさらされる前の、何か新しいものを持っていそうな学生サンたちを、ときどき候補に挙げる手法を使って、世間の気をひいたりします。それに比べて、こちらの文学賞は、そういう切れ味するどい武器を持っていません。それでも、作家の年齢をテーマに一ネタ、いや一冊の本になるぐらいのネタはたぶん詰まっています。
それでご登場願うのが、楢山芙二夫さんです。直木賞の世界では「ナラヤマ以前、ナラヤマ以後」っていう言葉がひんぱんに使われる……かどうかは知りませんけど、いや、そのくらい重要な作家なんですよ。
戦後世代にして初めて、直木賞候補になった方だからです。
昭和23年/1948年6月生まれ。候補になったのは第73回、昭和50年/1975年7月ですから27歳になったばっかのとき。
いわゆる団塊のアレなわけです。そりゃあ、この世代の作家やら作家志望者やらの数だって、カタマリをなすほど多かったはずでして、でもそういった人たちはたいてい、もうひとつの文学賞の領域に心奪われてしまって、直木賞のほうの世代交代はもう少し時間が必要でした。そして楢山さんにしても、一歩間違えば向こうの文学賞に持っていかれかねない素質の持ち主だったんですけど、おっとびっくり、なぜか直木賞候補。カタマリの群れを抜け出して、「直木賞史上初の戦後作家候補」なんちゅう、どえらい座を射止めてしまったのでした。
昭和50年代のときにまだ30歳前。いまの時代でもまだまだ現役。つうか作家としてはこれからが楽しみな世代。なはずなのに、すでに楢山さんが一仕事終えて、遠くに去ってしまったのは寂しいなあ。
楢山さんの直木賞劇場への登場は、たしかに刺激的でした。作者本人が「新しい世代」であった、という他にも、候補作の「ニューヨークのサムライ」がこれまた「いかにも」と膝を叩かせる体裁だったからです。つまり、楢山青年、岩手の片田舎から上京してきて学校で演劇を学ぶも、卒業後すぐさま単身アメリカに渡り、そのときの経験を生かしてニューヨークの若者文化を題材に小説を書いた、と。
……なんかこれだけ聞くと、それこそ団塊のアレにはゴロゴロいそうな、若さと無鉄砲さだけを売りにして、海の向こうを旅して、そのことを書いて、でもそれだけしかなくてすぐ消えていった根なし草野郎のひとりか、で終わりそうです。でも、楢山さんは詩人であり、それ以上に小説家でした。
そのことを「ニューヨークのサムライ」一篇から見抜いた、当時(第46回)のオール讀物新人賞の選考委員たち、その選評の一節とともに紹介させていただきます。
伊藤桂一さん。かなり推しています。
「「ニューヨークのサムライ」は、ときに逸脱をしながらも、若いエネルギーを全力的にぶっつけて、自身の可能性をどこまでも追求してゆこうとしていて、壮快な後味が残る。頭のよい、手ぎわのよい、タレント的感性も、ある。」(『オール讀物』昭和50年/1975年6月号選評「二篇をともに推す」より)
吉村昭さん。褒めた上に、心配までされています。
「「ニューヨークのサムライ」に、感心した。文章、構成すべてがのびやかで、このような才に恵まれた新人はめったに出るものではないと思った。二十六歳という若さは一般的な意味で貴重なのだろうが、そうとばかりは言えない気もする。ひとたび些細な個所でバランスをくずすと、たちまち全体が乱調におちいるような旋律に似た文体。そのようなあやうげな歌を若くして歌い、今後も長い歳月歌わねばならぬだろう作者は、果してしあわせなのか、などとそんなことまで考えさせられた作品であった。」(前掲選評「若さと才能」より)
駒田信二さん。やや、つくりすぎなところをたしなめています。
「「ニューヨークのサムライ」は、うまい、達者な小説である。アメリカ文明の一面をするどく突いている眼もあって、話もおもしろく、なかなかの力作だと思ったが、イタリーでの「カツオ」の話や、ニューヨークの婦人警官のプロスティチュートの話など、つくりすぎの感じられる点が気になった。」(前掲選評「さまざまなタイプ」より)
井上ひさしさん。少しの留保つきで、大きな才能をたたえています。
「(引用者前略)事柄をそのまま記すのではなく、いったんは自分の「個性」という坩堝をくぐらせ、なにかほかのものにたとえてゆくやり方、これが作家の「錬金術」というものだろうと考えるが、この作品にはそれがいたるところにあった。またニューヨークという大都会に作者が真正面からぶつかって、すこしも負けていないところにも大きな才能を感じさせられた。
もっとも心配もないではない。この作品はいってみればバラエティショーである。そしてドラマをこなせるかどうかはまた別の問題だからだ。」(前掲選評「坩堝の火度」より)
黒岩重吾さん。酔っています。「酔う」とは黒岩さんが選評でしばしば使う賛辞です。
「「ニューヨークのサムライ」を読み始めて直ぐ、私はこの作品に酔い始めた。(引用者中略)婦人警官と主人公との絡みの場面に来て、一瞬、私の酔いは醒めかけた。何故、こんな作り話を入れたのか、と残念だった。だがそれにも拘らず、読み終った後、私は矢張り酔っていた。
もう二十年若く、健康だったなら、世界を放浪してみたい、とさえ思った。それ程、素晴らしい作品であり、才能である。
もしこの作者が、若さと才能に溺れなかったなら、一時代を築く可能性を秘めているような気がする。」(前掲選評「衝撃的な「ニューヨーク」」より)
この回のオール讀物新人賞では、「やっとこ探偵」でデビューする前の下田忠男さん――のちの志茂田景樹さんが「大寄進」で最終候補にまで残っていて、伊藤桂一さんが「この人は長続きするだろう」と慧眼を発揮しちゃったりしているんですが、まあそれは措いときます。
楢山さんは受賞して、直木賞候補に二度なって、それからハードボイルド系に進みます。正直、黒岩重吾さんの言う「一時代を築く」ところまでは行かなかったと思いますが、逆に、少ないながらも「楢山芙二夫はオレだけの作家だ」と深ーく愛する読者たちを獲得しました。
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