1970年代、NOWでHOTなフィーリングが、直木賞の扉をたたく。 第73回候補 楢山芙二夫「ニューヨークのサムライ」
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- 【歴史的重要度】… 4
- 【一般的無名度】… 4
- 【極私的推奨度】… 2
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第73回(昭和50年/1975年・上半期)候補作
楢山芙二夫「ニューヨークのサムライ」(『オール讀物』昭和50年/1975年6月号)
70数年におよぶ直木賞の歴史をひもとくにあたって、若さ・年齢・世代、そういったものを尺度に持ってくるやりかたも、きっとアリです。
たとえば、もうひとつの文学賞のほうでは、20歳を下まわる手垢のついていない女のコとか、ドロドロした実社会にさらされる前の、何か新しいものを持っていそうな学生サンたちを、ときどき候補に挙げる手法を使って、世間の気をひいたりします。それに比べて、こちらの文学賞は、そういう切れ味するどい武器を持っていません。それでも、作家の年齢をテーマに一ネタ、いや一冊の本になるぐらいのネタはたぶん詰まっています。
それでご登場願うのが、楢山芙二夫さんです。直木賞の世界では「ナラヤマ以前、ナラヤマ以後」っていう言葉がひんぱんに使われる……かどうかは知りませんけど、いや、そのくらい重要な作家なんですよ。
戦後世代にして初めて、直木賞候補になった方だからです。
昭和23年/1948年6月生まれ。候補になったのは第73回、昭和50年/1975年7月ですから27歳になったばっかのとき。
いわゆる団塊のアレなわけです。そりゃあ、この世代の作家やら作家志望者やらの数だって、カタマリをなすほど多かったはずでして、でもそういった人たちはたいてい、もうひとつの文学賞の領域に心奪われてしまって、直木賞のほうの世代交代はもう少し時間が必要でした。そして楢山さんにしても、一歩間違えば向こうの文学賞に持っていかれかねない素質の持ち主だったんですけど、おっとびっくり、なぜか直木賞候補。カタマリの群れを抜け出して、「直木賞史上初の戦後作家候補」なんちゅう、どえらい座を射止めてしまったのでした。
昭和50年代のときにまだ30歳前。いまの時代でもまだまだ現役。つうか作家としてはこれからが楽しみな世代。なはずなのに、すでに楢山さんが一仕事終えて、遠くに去ってしまったのは寂しいなあ。
楢山さんの直木賞劇場への登場は、たしかに刺激的でした。作者本人が「新しい世代」であった、という他にも、候補作の「ニューヨークのサムライ」がこれまた「いかにも」と膝を叩かせる体裁だったからです。つまり、楢山青年、岩手の片田舎から上京してきて学校で演劇を学ぶも、卒業後すぐさま単身アメリカに渡り、そのときの経験を生かしてニューヨークの若者文化を題材に小説を書いた、と。
……なんかこれだけ聞くと、それこそ団塊のアレにはゴロゴロいそうな、若さと無鉄砲さだけを売りにして、海の向こうを旅して、そのことを書いて、でもそれだけしかなくてすぐ消えていった根なし草野郎のひとりか、で終わりそうです。でも、楢山さんは詩人であり、それ以上に小説家でした。
そのことを「ニューヨークのサムライ」一篇から見抜いた、当時(第46回)のオール讀物新人賞の選考委員たち、その選評の一節とともに紹介させていただきます。
伊藤桂一さん。かなり推しています。
「「ニューヨークのサムライ」は、ときに逸脱をしながらも、若いエネルギーを全力的にぶっつけて、自身の可能性をどこまでも追求してゆこうとしていて、壮快な後味が残る。頭のよい、手ぎわのよい、タレント的感性も、ある。」(『オール讀物』昭和50年/1975年6月号選評「二篇をともに推す」より)
吉村昭さん。褒めた上に、心配までされています。
「「ニューヨークのサムライ」に、感心した。文章、構成すべてがのびやかで、このような才に恵まれた新人はめったに出るものではないと思った。二十六歳という若さは一般的な意味で貴重なのだろうが、そうとばかりは言えない気もする。ひとたび些細な個所でバランスをくずすと、たちまち全体が乱調におちいるような旋律に似た文体。そのようなあやうげな歌を若くして歌い、今後も長い歳月歌わねばならぬだろう作者は、果してしあわせなのか、などとそんなことまで考えさせられた作品であった。」(前掲選評「若さと才能」より)
駒田信二さん。やや、つくりすぎなところをたしなめています。
「「ニューヨークのサムライ」は、うまい、達者な小説である。アメリカ文明の一面をするどく突いている眼もあって、話もおもしろく、なかなかの力作だと思ったが、イタリーでの「カツオ」の話や、ニューヨークの婦人警官のプロスティチュートの話など、つくりすぎの感じられる点が気になった。」(前掲選評「さまざまなタイプ」より)
井上ひさしさん。少しの留保つきで、大きな才能をたたえています。
「(引用者前略)事柄をそのまま記すのではなく、いったんは自分の「個性」という坩堝をくぐらせ、なにかほかのものにたとえてゆくやり方、これが作家の「錬金術」というものだろうと考えるが、この作品にはそれがいたるところにあった。またニューヨークという大都会に作者が真正面からぶつかって、すこしも負けていないところにも大きな才能を感じさせられた。
もっとも心配もないではない。この作品はいってみればバラエティショーである。そしてドラマをこなせるかどうかはまた別の問題だからだ。」(前掲選評「坩堝の火度」より)
黒岩重吾さん。酔っています。「酔う」とは黒岩さんが選評でしばしば使う賛辞です。
「「ニューヨークのサムライ」を読み始めて直ぐ、私はこの作品に酔い始めた。(引用者中略)婦人警官と主人公との絡みの場面に来て、一瞬、私の酔いは醒めかけた。何故、こんな作り話を入れたのか、と残念だった。だがそれにも拘らず、読み終った後、私は矢張り酔っていた。
もう二十年若く、健康だったなら、世界を放浪してみたい、とさえ思った。それ程、素晴らしい作品であり、才能である。
もしこの作者が、若さと才能に溺れなかったなら、一時代を築く可能性を秘めているような気がする。」(前掲選評「衝撃的な「ニューヨーク」」より)
この回のオール讀物新人賞では、「やっとこ探偵」でデビューする前の下田忠男さん――のちの志茂田景樹さんが「大寄進」で最終候補にまで残っていて、伊藤桂一さんが「この人は長続きするだろう」と慧眼を発揮しちゃったりしているんですが、まあそれは措いときます。
楢山さんは受賞して、直木賞候補に二度なって、それからハードボイルド系に進みます。正直、黒岩重吾さんの言う「一時代を築く」ところまでは行かなかったと思いますが、逆に、少ないながらも「楢山芙二夫はオレだけの作家だ」と深ーく愛する読者たちを獲得しました。
○
「ニューヨークのサムライ」は、読者の期待を裏切らず、その名のとおりニューヨークが舞台です。
「私」ことジュンは、1年前にニューヨークにやってきました。それまではヨーロッパ中を自転車で旅していましたが、じつは日本の私立大学を休学中の学生です。学内紛争まっただ中ながら、「私」はそれより女のほうに興味があり、同級生の女にフラれ、なんとなく旅に出たのです。
ニューヨークの酒場で「私」は、かつて陸軍軍曹でタチカワにいたことのある青年、ジミーと知り合います。そしてジミーの家に寝泊りすることになり、他の同居者サムとシルビアとともに四人の生活を送ることになります。
サムは気のいい黒人、「私」とはよく連れで行動します。そのサムは、シルビアを本気で愛しているらしいのですが、シルビアのほうは「愛とセックスすることは何の関係もない」という考えの持ち主です。愛といったものを抜きにするならいつでもセックスするらしく、ジミーも「私」も、それでシルビアと寝たりしています。しかし、純情なサムは、シルビアからそう言われた途端に不能になってしまったんだとか。
「私」も、そして他の三人の同居人も、ニューヨークの片隅で生きていながら、気まぐれ・気晴らし程度でしか、生きることへの興味をもつことができません。まさに、ニューヨークという街は、すべてが〈簡単に〉行われ、〈簡単に〉済まされていきます。人が簡単に生まれ、簡単に殺され、簡単に生き、簡単に死ぬ。だれでも簡単に、被害者になってしまう街。そしてついに「私」の同居人のなかからも、被害者が出てしまいます……。
○
ふふん、多少行動的でアメリカを旅して、じっさいにニューヨークに行ったときのことを材料にすりゃ、このぐらいのハナシは書けるんじゃん? と甘く考えている若者たちにビンタを食らわせるようなことが、楢山さんのエッセイ集『愛してるとか愛してないとか』(平成4年/1992年1月・実業之日本社刊)に書いてあります。
ここに収められたエッセイのいくつかに、「ニューヨークのサムライ」誕生の頃のことが明かされているんですが、二、三挙げてみるとこんな感じです。
「二十二歳になったばかりの私は、なんの目的もなく、希望だけを懐いて太平洋を渡り、約半年ものあいだ生活を試みたのだ。が、その希望は、自分を、故郷を裁き切れない弱さから、腐りかけた感傷の中で無限に沈黙したまま古い写真のように黄ばんでしまうか、確実に風化してしまう程度の、それは希望でしかなかったようである。
したがって、当然のことのように私は無一文で帰国することになったが、それほど自分自身に期待をしていなかったかわりに、それほど失望もしなかった。ただ、試みがすべて失敗に終わり、望んだことがまっすぐ絶望に繋がったのである。」(同書所収「カリフォルニアの青い空」より 初出『いわて経済連通信』平成3年/1991年1月号)
昭和45年/1970年。楢山さんの初めてのアメリカ旅行は、半年で終わりました。
「「ジュン」という青年は、私が無一文で日本に帰ってきたのちに出来た最初の作品『ニューヨークのサムライ』の主人公である。つまり、私が、六年前に果たせずにアメリカに残してきた夢が、勝手にニューヨークを独り歩きはじめた姿を書いたものだ。」(同書所収「冬の旅」より 初出『銀座百点』昭和54年/1979年9月号)
半年間のアメリカ滞在中、楢山さんには「夢」があったらしいです。でも夢は果たせませんでした。
「初めてアメリカへ行って帰って来た翌年に、一度(引用者注:オール讀物新人賞に)応募したことはあります。といっても、これは持ち込み原稿ですが。それから、「オール讀物」の担当者に読んでいただいてたんですよ。添削などしてくれたものですから、この機会に育ててもらおうと思って。それから新人賞とは全然関係なく、二、三カ月に一編ぐらいずつ書いて、会社を休み持っていって読んでもらってたんですよ。そしたら「ニューヨークのサムライ」を新人賞に応募しないかっていわれて。でも枚数オーバーしてるから、カットされるんじゃないですかっていったら、一応あげてみようということになって、そしたらうまい具合に取れましてね。
(引用者中略)
ニューヨークへ行きたくて仕方がなかったんですよね。ぼくがロスにいたとき、イサム・ノグチさんがニューヨークで個展を開いていて、往復の飛行機代から宿泊費用を出すから来いっていわれたんです。分かりましたとはいっても、切符買う金が全然ないんですよ。ところが、金送ってくれとは、いえないですよね。それでとうとう行けなくて、無一文で日本に帰って来ちゃったんですよ。その悔しさっていうか、ニューヨークに対する自分のあこがれが、ものすごく強かったんですね。で、それをなんとか書きたいなと思って、その悔しい想いを追っ掛けて書いたのが「ニューヨークのサムライ」だったんです。行ったことのない舞台、ニューヨークを独り歩きしちゃって、それを自分が見ながら書いてるっていう感じで、案外気は楽に書けたんです。」(「日本語への飢渇感と文学への情熱」より 対談相手:池田満寿夫 初出『新刊ニュース』昭和52年/1977年8月号)
おお、「ニューヨークのサムライ」は、楢山さんのアメリカ滞在の経験をそっくりそのまま写し取ったものじゃなかったんですね。ここで描かれたニューヨークは、ほぼ楢山さんの取材と想像、それから願望でつくられていると。三好徹さんが『風塵地帯』を、インドネシアに一度も行かずに書いたように。
単行本化された短篇集『マンハッタンのバラード』(昭和52年/1977年5月・文藝春秋刊 第77回 昭和52年/1977年・上半期 直木賞候補)の「あとがき」では、たしかに楢山さん自身、
「この一連の作品は、決して私の体験に基づいてはいない。」
とは書かれていますが、なんとなく「あ、これって作者自身の体験談小説なのかな」と思わせてしまうのは、なぜなんでしょうかね。この単行本に巻かれたオビの、とても赤面なしでは直視できない惹句のせいなのかなあ。
「NOWでHOTな青春放浪
大型新人が尖鋭で強烈な愛と性のフィーリングを国際都市の裏面に叩きつけて衝撃を与える問題小説」
いやまあともかく、エピソードの一つ二つが創作だというならまだしも、全篇まるごと、まるで行って見てきたかのように書いちまう、まさに楢山さんの小説家としての力量が、早くもデビュー作にしてみなぎっていたんですね。ここらが他のバックパッカー作家とは一線を画したところなんでしょう、きっと。
○
直木賞はいつものんびり屋さんですので、団塊のアレが描くニューヨーク社会の物語、なんぞをいきなり突きつけられても、あわててすぐに賞を与えたりはしません。重い腰をあげてようやく戦後世代に賞をさずけたのは、それから6年のち、第86回(昭和56年/1981年・下半期)のつかこうへいさんのときです。
それでも、楢山さんのこの一篇に、むむ、こいつは新鮮だな、将来有望だなと感じるくらいの敏感さは、選考委員の多くが持っていました。
柴田錬三郎さんは「今回、救われたのは、「ニューヨークのサムライ」の新鮮さと、才能の片鱗を看たことだけであった」といい、同じように松本清張さんも「「ニューヨークのサムライ」の楢山芙二夫氏に才能の萌芽を見たのは、今期の唯一の明るい救いだった」といい、源氏鶏太さんは「「ニューヨークのサムライ」は、何んとしても一作だけではという声に負けた。しかし、その才能については誰も疑ぐっていないようであった」といい、待ったをかけたと思われる村上元三さんは「久しぶりに二十代の新人が出てきて、うれしかった」といっています。(引用元はすべて『オール讀物』昭和50年/1975年10月号)
たぶん、既存作家のみなさんが全員一致で、うん、よしと太鼓判を押したとしたら、逆にその作品は「NOWでHOT」でなくなる危険性が高くなりそうなんですよね。「新鮮だ」と認めてもらっただけで、じゅうぶんに「ニューヨークのサムライ」は評価されたと見たいところです。
直木賞は究極のところ、べつに「時代がたっても古びない、そんな文学性を見極める」場ではありません。だからこそ、「新鮮であること」が一つの評価であっても、いいのです。選考委員の方がたはたぶん、そういう視点で選ぶのは、なんだか泡沫っぽくて、イヤなんでしょうけど。これまでの世代では描けなかった世界や、描き方があれば、それだけで立派なものです。
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