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2009年5月17日 (日)

「くるくる」に凝縮された、地方の作家志望者がかかえるモヤモヤと、あきらめきれない夢。 第98回候補 長尾宇迦「幽霊記」

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  • 【歴史的重要度】… 1
  • 【一般的無名度】… 4
  • 【極私的推奨度】… 4

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第98回(昭和62年/1987年・下半期)候補作

長尾宇迦「幽霊記」(『別冊文藝春秋』180号[昭和62年/1987年7月])

 世間の潮流にまどわされず、あえて自分の信じる道を進もうとする姿は、いつの時代も美しいもんです。文学を志すぞ、よし、俺もいつかは芥川賞を、とか言っている連中とは一線を画して、昭和30年代にわざわざ「大衆文学同人誌」と銘打ったものを、なけなしの費用をはたいて出す、っていうのは、偉いもんだよなあ。

 以下は、当時『文學界』の「同人雑誌評」で、林富士馬さんが語った一節。

「チェーホフも、先ず何より短く書く練習といったことを、文学的才能のために、説いていたと思う。ショート・ショートの流行というのは、はじめから、読物としての技術の話であって、文学とは又別な噺である。又尤も、人生は何も文学万能の筈もなく、文学であろうが無かろうが、そんなことには拘りなく、自分には娯楽読物だけが必要だという人だっているし、現に、大衆娯楽専門の同人雑誌だって、幾つか存在している。「東北文脉」(盛岡市、二集)などもその一例。」(『文學界』昭和37年/1962年7月号「同人雑誌評」より)

 頼もしいじゃないですか、『東北文脈』。これの編集兼発行人こそが、若かりし頃(つっても30代なかば)の長尾宇迦さん。同誌は顧問に先輩作家の鈴木彦次郎さんと、岩手放送社長の太田俊穂さんを担ぎ上げているものの、同人はキッパリ三人きりです。発行所の名前も「三人の会」。

「第一号では、多くの人たちから好意をいただいた。改めて感謝しておく。

 また、会に加わりたいという方もあったがまづ、当分は、我儘を許してもらいたいと思う。(引用者中略)

 文字(原文ママ)の道は、きびしいものとは、心得ているつもりだが、ふと無駄なことをしているような、さみしさにおそわれることもある。

 ただ、出来ることなら、偉大なる無駄にしたいものである。」(『東北文脈』2号[昭和37年/1962年4月] 長尾宇迦「編集後記」より)

 高校教員として勤めながら、長尾さんは『北の文学』誌などに投稿、地元ではちょっと名の知れた作家になって、この『東北文脈』を経て、昭和39年/1964年には第2回の小説現代新人賞を受賞します。

 しばらく「小説現代専門作家」みたいな道を歩んだのち、昭和46年/1971年にいたって、つまり45歳ごろにとうとう教員を辞め、作家一本でいくことを決めたのだそうです。

「かつて岩手にあった「北の文学」の流れをくむ「文芸岩手」(水沢市)が今年(引用者注:昭和46年/1971年)八月、丸二年ぶりに第八号を発行、注目を集めた。創刊以来陰の力となってきた長尾宇迦氏が、教員と作家の二足わらじに別れを告げ、この春一本立ちの作家として東京に移住したことに刺激されての発行だった。」(昭和47年/1972年3月・五月書房刊『同人誌年鑑 一九七二年度版』所収 岩手日報学芸部・及川和哉「概観 岩手」より)

 そこからさらに、長尾さんの情熱と執念の生活が(おそらく)深まっていったことでしょう。10数年たって長尾さんはエッセイ「妻への詫び状」にて、

「最初に私は、決して入婿の身の上ではないことを断っておきたい。が、ツマの前では、ともすると、「申しわけネ」といってしまうのだ。私の住んでいる岩手あたりでは、(申しわけない)とは、感謝、ありがたい、という意味がつよく、とくに「ネ」の発音に、いわくいいがたい微妙な加減がある。(引用者中略)

 とかくするうち、教員稼業にもやや情熱を失ないかけて、チョンにした。「申しわけネ」と、ツマにいったが、相手は福々しく笑っていた。」(『小説現代』昭和58年/1983年2月号「妻への詫び状 ヒョーショージョもの」より)

 上京したはずの長尾さんが、どうやらまた故郷に舞い戻ったらしいのを見て、事情は存じませんけど、作家稼業の大変さがにじんでいるようでもあり。

 50代を超して還暦をすぎ、やあ、よくぞ大衆文学の道を投げ出すことなく、邁進していただきました。昭和62年/1987年、『別冊文藝春秋』にご登場。よっ、待ってました。

          ○

 明治43年/1910年夏、人気作家、水野葉舟の家に4人の客がおとずれていました。

 三木露風、北原白秋、前田夕暮、佐々木鏡石(喜善)。みな、葉舟より文名の低い文学者です。

 話題はいつしか、最近評判の書、柳田国男の『遠野物語』のことになります。白秋ら三人はみな、あれは立派な文学だと評します。とくに、幽霊の老女の着物の裾が、炭籠に触れる、炭籠がくるくるとまわった、と書いてあるあの部分こそ、『遠野物語』を文学たらしめている代表例だというのです。

 それを聞いていた佐々木喜善、にわかにどもりながら、主張します。喜善こそ、柳田国男に遠野の伝説や伝承を教えた張本人でした。あの「くるくるまわった」という部分は、柳田が考えて創ったのではない、喜善が語ったとおりに書いただけのものだ、と。

 喜善は作家を志す青年でした。すでに『芸苑』に「長靴」を発表、一躍文壇から注目された実績もあります。

 その後、故郷の岩手・土淵村に戻ったものの、小説を書く道をあきらめたわけではありませんでした。柳田との共同作業というかたちで、ザシキワラシの伝説収集を手がけているのですが、それをまとめた原稿を柳田に送り、柳田から文章についての指示が入ると喜善は烈火のごとく怒ります。

 「お、俺は、小説家だ。この俺に、文章を指図するとは、な、なにごとだ。お、俺は、こうした趣味学にかかずらっておっては、だ、駄目になる」

 妻のマツノは、喜善にとっては文学の理解のない妻に映ります。虚栄心もない、素直なだけの、なんの取り得もない女。そのマツノに冷淡に当たりながら、喜善は中央文壇にどうにか通用する権威を得たいと願います。

 そんなとき、北原白秋から手紙が届きます。新雑誌『ARS』発刊にあたり、喜善の得意とする幻想的な創作を載せたいと言っています。喜善はよろこび勇みます。このチャンスを逃してはいけない。喜善は、自分の文学の才能を信じて、一篇の戯曲を書き、白秋に送ります。

 戯曲「春の憂鬱」。『ARS』の創刊号に載りました。やがて白秋から、待ち望んだ書状が送られてきます。「春の憂鬱」がいったい、中央の文壇でどのように受け入れられたかを知らせる手紙です。

 そこに書かれた文字を見て、喜善は茫然とします。「遺憾ながら、定石通りといふ評」……。

          ○

 佐々木喜善を、岩手の「名もなき人」とか言っちゃったら、今では語弊満点でしょう。でも、柳田國男なんちゅう、日本人の常識レベルなほど有名な人とくらべたら、たぶん長らく、あまり知られていない人物だったのかもしれません。

 「幽霊記」(副題は小説・佐々木喜善)が発表された昭和62年/1987年ごろは、岩手の辺りから、どんどんと佐々木喜善再評価の熱が上昇していたときでもありました(たぶん)。

 昭和55年/1980年に遠野市立博物館が開館。昭和61年/1986年には、佐々木喜善生誕100年を迎えるにあたって、同館で記念展がもよおされ、さらには『佐々木喜善全集』なる大壮挙の刊行開始(昭和61年/1986年~平成15年/2003年、全4巻)。

 もちろん、岩手の先人を掘り起こすのに積極的なわれらが長尾宇迦さんが、小説化。それとほぼ時を同じくして、またひとり岩手の作家が佐々木喜善を主人公に、小説を書き下ろしました。

 三好京三さんの『遠野夢詩人』(昭和62年/1987年11月・実業之日本社刊)です。

 こちらは「幽霊記」とちがって長篇。喜善の日記や、婚約者にあてた手紙の下書きなど、関係各位の協力のもと、豊富な資料を下敷きにエピソードを入れ込んであるのが、おそらくウリです。「幽霊記」の喜善ほどヒステリックな感じはないものの、それでも、作家として中央で認められたい、と死ぬまで創作に執着した姿が描かれています。

 民話収集の大家、先駆者という称号を、甘んじて受け入れることができなかった佐々木喜善。『遠野夢詩人』では触れられていないようですけど、「幽霊記」では、喜善の創作家への執着の象徴として、ある言葉が一篇をつらぬいています。

 上のあらすじでも挙げました。「くるくる」ってやつです。

 柳田國男の『遠野物語』二二話に出てくる、炭取がくるくるとまわる場面。三島由紀夫さんが『小説とは何か』(昭和47年/1972年3月・新潮社刊)で触れたことで、一層有名になったんでしょうが、要は亡くなった老女(曾祖母)が、喪中の祖母と母、二人の女の前にあらわれて、「二人の女の坐れる炉の脇を通り行くとて、裾にて炭取にさはりしに、丸き炭取なればくるくるとまはりたり」。ここで、炭取がくるくるとまわったと書いてあるところが、まさに小説だ、文学だ、ってハナシです。

 で、当時、佐々木喜善から同じハナシを聞いて、それをネタにして、『遠野物語』より前に、水野葉舟が『怪談』を書きます。じつは、そこでも「わきに置いてあった炭取がクルッと廻った」と書いてあると。どう見ても、語り手である喜善が「くるくる」(またはクルッと)まわった、と表現したんでしょう。

 じゃあ、喜善はだれから「くるくる」のハナシを聞いたか、っていうのが「幽霊記」の最後の場面です。この幽霊譚を喜善に話してくれたのは義母のイチです。はたしてイチが、くるくるまわったと語ったかどうか。もし、そうではなく、そのハナシを聞いた喜善が、人に語り伝えるときに、自然に自分でくるくるまわったと付け加えたのだとしたら、まさしく喜善自身に、文学の才があることになるではないか、と思い詰めます。

 ……この「くるくる」のハナシを、悲しいまでの創作にたいする執念に置き換えたところが、まさに「幽霊記」をおもしろい小説たらしめていると、ワタクシは見るのですが、どうでしょうか。

          ○

 それはそうと、文壇に認められることに一生を燃やした佐々木喜善のことを、おなじ時期に、長尾宇迦さんと三好京三さんが、それぞれ小説に書いているのが、奇遇な感じで楽しいわけです。

 長尾さん編集の同人誌『東北水脈』には、同人が三人いたとご紹介しました。

 直木賞の関係するなかで、三人グループ、と切り口を持ってくれば、おそらく無数に組み合わせがあることとは思います。そりゃ有名どころでは、旧制三高の「三人」で、野間宏、竹之内静雄(当時は桑原姓)といっしょだった富士正晴さんとか。ううむ、そんな有名人じゃあ食欲がわかないよ、というツウな方なら、同じく京都の「三人」ながら、中康弘通、坂井薫(当時の筆名は大寺佑昌)といっしょだった加藤葵さんはいかがでしょう。

 いや、京都だけじゃないぜ、岩手の三人もなかなか捨てたもんじゃありません。小説現代新人賞から直木賞候補につなげた長尾宇迦さん、ほかの二人はこんな人たちです。

「その日は盛岡市郊外にある大正さんの自宅で二次会をやり、大衆文学同人誌に「東北文脈」と名づけること、その同人は大正十三造・長尾宇迦・原耿之介の三人だけだから、グループ名を「三人の会」とすること、などを決めた。

 そして三人の役割は、大正十三造が歴史小説、長尾宇迦が民俗小説、原耿之介が恋愛小説である。」(平成15年/2003年9月・洋々社刊 三好京三・著『なにがなんでも作家になりたい!』より)

 大正十三造、本名は大友幸男、当時は岩手日報の学芸部長。昭和35年/1960年、「槍」で第14回講談倶楽部賞を受賞済み。

 原耿之介、本名は佐々木久雄、当時は小学校教諭。三人のなかでは最も若く、まだ中央雑誌への掲載経験なし。しかしそれから10数年後、二人の先輩とちがって文藝春秋の雑誌にひっかかり、昭和50年/1975年に第41回文學界新人賞を受賞。その受賞作をおさめた中編集『子育てごっこ』で、あれよあれよの第76回直木賞(昭和51年/1976年・下半期)まで受賞。そのときから筆名は三好京三。

 ってことで、『東北文脈』からは一人の直木賞受賞者、一人の直木賞候補者を生み出しているんですもの、うちのブログで敬意を表して取り上げるのは当然です。

 長尾さんが同人誌時代を振り返って、自身の「作家になりたい」熱を語っている文献があるかどうか、勉強不足なもので今のところワタクシは知りません。でも、三好さんは前掲の『なにがなんでも作家になりたい!』で、思いっきり佐々木喜善ふうの中央文壇に進出することへの思い入れを書き遺しておいてくれました。

「大正・長尾の両先輩に続くつもりで、目指す雑誌は主として「小説現代」であった。昭和四十六年から昭和四十八年までに書いた作品は、神楽小説の「演義神楽縁起」「飢饉神楽」、歴史小説の「北国の風の姫君」「白い蝦夷」などである。

 それらの小説は、一次予選は通過するがすべて二次予選止まりで、受賞には程遠い。二次まで行ったから次は受賞、の自信を持った長尾さんは、やはりわたしなどから見れば雲の上の人であった。

 ――よし、こうなったら四十五歳までに、どこの何でもいいから新人賞――

 と最後の目標をたてたが、どうやらそれも覚束ないようである。」(前掲書より)

 「どこの何でもいいから」、っていう一言に込められた、悲哀感すら覚える執念。ああ、佐々木喜善の妄執に、通ずるものがあるような。

 長尾宇迦さんはどうでしょう。そりゃあ定収入の高校教師をやめて、作家一本のイバラの道を選んだほどの方だもの。やっぱり、喜善が一生かかえつづけた悩みに共感する口なんでしょうねえ。

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