小説すぎたので候補に挙げられ、小説すぎたので落とされた稀有な作品。 第62回候補 田中穣『藤田嗣治』
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- 【歴史的重要度】…
5
- 【一般的無名度】…
4
- 【極私的推奨度】…
3
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第62回(昭和44年/1969年・下半期)候補作
田中穣『藤田嗣治』(昭和44年/1969年10月・新潮社刊)
ひとつの場所にじっとしていられない直木賞は、ときどき「大衆文学」なる領域から、外に手を出そうと試みます。そのため時に、よそから煙たがられたり、人の人生を迷わせたりとよけいな迷惑をかけます。
このハナシで代表的な例を挙げるとすると、たいてい「純文学」に対するチョッカイです。檀一雄さんや梅崎春生さんなんて、ねえ。直木賞のせいで、いったいどれだけイヤな思いをさせられたことか。ほんと、すみません。
読売新聞の美術記者、田中穣さんも、もしかしたら直木賞のお節介のおかげで、要らぬ障害と戦わなきゃならなかった人かもしれません。
穣さんは、芸術家の伝記っていう世界に大いなる足跡を残したと思います。でも、あまりに読みやすく、エピソードとストーリー性に富んで、そのおかげでワタクシみたいな無知な一般読者に受け入れられる反面、「評伝としては軽すぎて、資料的には見るに値しない」とか言われていたとしたら、穣さんには心外なのかもしれないな。
「フジタの生いたちから死までの“人と作品”の全容を、フジタと直接かかわりあった人たちの記録や談話を通じて浮き彫りしようとした私の最初の『藤田嗣治』は、まず総合雑誌「自由」に連載された。昭和四十三年(一九六八)十月号から翌年四月号まで(引用者注:実際は昭和43年/1968年11月号から翌年5月号まで)の七回、巻末の小説的な読物の扱いを受けた。連載がはじまって二回目が店頭に並んだとき、新潮社の出版部から本にしたいという申し入れがあり、連載後に加筆したものが昭和四十四年(一九六九)十月に出版されたのである。」(昭和63年/1988年2月・芸術新聞社刊『評伝藤田嗣治』所収「あとがき」より)
「巻末の小説的な読物の扱いを受けた」なる表現に、穣さんの口惜しさが滲んでいる気がします。
扱いを受けたも何も、事実、『自由』誌に連載したときは、題名が「小説 藤田嗣治」でした。題名にどれほど穣さんの意思が反映されていたか事情は知りませんけど、これが新潮社から本になるときには「小説」の言葉を外して、『藤田嗣治』となります。
でも、それでも世間は、これを小説的な扱いでもって裁こうとします。直木賞のなかでも、とくに領域拡大の先頭にあった大佛次郎さんが、こいつをわざわざ、小説しか議論しないはずの直木賞の場に引きずり込みます。
せっかく「小説」の文字を消したのに、お節介な直木賞ったら、またも『藤田嗣治』に小説っていう色眼鏡を当てちゃったのね。そこで議論ふんぷん、直木賞史上に残るせめぎ合いの選考があって、結局受賞はのがすのですが、穣さんはやっぱり「小説」のレッテルを剥がしたいと思ったのでしょうか。
「こうして(引用者注:直木賞の審査で最後まで問題にされて)私の『藤田嗣治』は、一応の話題を呼んだことで、よく売れた。初版の部数は、そうながい期間を経ないうちに一冊も残さずに売り切れ、以来、私がいうのもおかしいが、伝記上の藤田を知るには欠かせない必読書の一つのように美術界では見られてきている。これを文庫でとか、あるいは単行本で復刻再版したいとかいった希望が、二、三の出版社から寄せられてきてはいたが、私はいつか機会を見てこれに大きく手を加えたい気持を持っていた。(引用者中略)
一九八六年(昭和六十一年)は、フジタの生誕百年に当たる。このときに当たって、まずフジタを語る本格的な連載を、「アート・トップ」でやり、それを一冊の本にして出さないか、という話が芸術新聞社から私に寄せられてきた。この本を決定的なフジタ評伝とし、美術界といわず広く世界の読書界に送りこもうではないか、という気宇壮大な申し入れに、私は喜んで共鳴した。」(前掲書『評伝藤田嗣治』所収「第一章 数々のフジタ伝説をめぐって」より)
『アート・トップ』での連載のときは「星がまたたいていた――ピエロ愛し レオナルド・フジタの立像(ルビ:スタチュー)――」なる題だったんですが、本にするときに題名を変えて、バシッと『評伝藤田嗣治』。「評伝」の二文字に、小説じゃないんだよ、あんなものと一緒にするな、っていう穣さんの長年の苦しみが籠もっているようでもあり。
『評伝藤田嗣治』は、新潮社版『藤田嗣治』での基本的な解釈や筋のながれを踏襲しつつも、大幅に加筆されています。その新たな筆の部分にも、やっぱり穣さん、小説として見られたのはイヤだったんだな、と思わせる箇所があります。
「(引用者前略)私は、フジタの実像に迫るのに、フジタならびにその周囲の調査取材を可能な限り徹底してきた。取材を密にして、すでに他界したフジタの内面を探ってきたわけである。が、今回は、これまで主として外から攻めてきたフジタの内部に、あえて評者の私がはいりこんでみることにした。フジタの内側から、フジタのなまの声を聞きとろうとする試みである。これまでの取材調査で、外にあらわれたフジタのおよその言動は押えてあるので、これからの私の試みはまちがっても読むにたえぬ“三文小説”や、見るにたえぬ“三文オペラ”式のものにはならないと思う。」(前掲書『評伝藤田嗣治』所収「第十章 さようなら、日本」より)
ただ残念ながら、評伝として読めと言うけど、穣さんの想像を、それと断りもなく入れすぎじゃない? って読まれかねない危険はあるんでしょう。芸術家の評伝を専門とされているらしい湯原かの子さんは、平成18年/2006年の段階で、
「そこ(引用者注:パリ滞在中のフジタが最初の妻とみに宛てた書簡)には、たとえば田中穣の評伝『藤田嗣治』(一九六九)――これは美術記者ならではの裏話にも富み、ケレン味のきいた面白い読み物なのだが――に描かれた軽薄で冷酷な藤田とは異なって、真剣に芸術に取り組み精励刻苦する無名時代の藤田の意外に真面目で真摯な一面が読み取れて、きわめて興味深いのである。」(平成18年/2006年3月・新潮社刊『藤田嗣治 パリからの恋文』
より)
などと、あっさり「読み物」扱いしちゃったりして。
ああ、小説にしては評伝すぎ、評伝にしては小説すぎる穣さんの『藤田嗣治』。たしかに境界線上の好きな大佛次郎さんが、賞賛するのもわかります。ワタクシまでも面白がって、直木賞の名候補作として取り上げちゃって、穣さん、心からすみません。あとに生まれた人間が、好き勝手なことぬかすのは、後出しジャンケンしている特権なのでして。許してください。
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