「三田派」にとっては異端で傍流だとしても、直木賞のなかでは「三田派」の正統。 第27回候補 渡辺祐一「洞窟」
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- 【歴史的重要度】… 4
- 【一般的無名度】… 4
- 【極私的推奨度】… 3
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第27回(昭和27年/1952年・上半期)候補作
渡辺祐一「洞窟」(『三田文學』昭和27年/1952年1月号)
この時代に出現した数々の名候補作のなかから、何を取り上げようかと悩みました。
ここ何週かミステリー畑がご無沙汰ですから、氷川瓏こと渡辺祐一「洞窟」にしようかな、いや、ふしぎ小説で再評価の機運高まる三橋一夫の『天国は盃の中に』にしようかな。おっと、日本探偵作家クラブ賞を受けつつ直木賞の場では歯牙にもかけられなかったビリヤード屋のおやじ、永瀬三吾の「売国奴」もいいなあ。でもこれは第32回(昭和29年/1954年・下半期)の候補だから、順番からして今週取り上げるわけにはいかないか。
挙句に選んだのが「洞窟」なんですけど、あれ、この三人って偶然にも共通点があるじゃないですか。そしてその共通点は、明らかにこの時代の直木賞を語る上で、忘れちゃならない重要な意味を含んでいるじゃないですか。
それは「三田派」である、ってことです。
もとい、三人とも『三田文学』誌に作品を発表したことがあって、「やや三田派」である、ってことです。
永井荷風とか水上瀧太郎とかの『三田文学』を研究している人たちは、まず絶対に、直木賞にあらわれた『三田文学』のことになんぞ興味がないと思います。でも直木賞の側では、ほんの一時期、賞の新しい方向性をになうものとして、『三田文学』をターゲットにしたことがありました。直木賞と『三田文学』の関係、は十分にテーマになり得るんです。
前回この時代を扱ったエントリーでは、松本清張の「或る『小倉日記』伝」を持ってきましたが、これなんてまさしくそうです。それから、和田芳恵が昭和39年/1964年にとうとう直木賞をとるにいたったその礎は、昭和20年代の『三田文学』にあります。礎って意味では、藤井千鶴子だってそう、一色次郎こと大屋典一だってそう。のちに純文学大嫌い人間になる柴田錬三郎だって、直木賞受賞作「イエスの裔」は『三田文学』で地味に文学修業していた頃の作品だったりします(そしてこれが同誌から生まれた唯一の直木賞受賞作)。
この時期、なんで『三田文学』から直木賞の候補作が次々に選ばれているのか。もちろん、木々高太郎が選考委員をしていたからです。中でも渡辺祐一や藤井千鶴子は、木々が『三田文学』から離れた後も、木々のグループに属して『小説と詩と評論』に参加したりします。
「もともと純文学指向のあった著者(引用者注:氷川瓏)は、木々高太郎が編集に当っていた「三田文学」に本名で「天平商人と二匹の鬼」(五一年九月号)、「洞窟」(五二年一月号)の二篇を発表、後者は三橋一夫の長篇『天国は盃の中に』などとともに五二年度上半期の第二七回直木賞候補になっている。」
「江戸川乱歩賞の予選委員を長く務めるなど、ミステリ界とのつながりは保っていたものの、創作の分野では純文学の方向に大きくシフトし、六一年から同人誌「文学造型」を主宰。六三年からは木々高太郎が主宰した「詩と評論と小説」(原文ママ)にも参加している。」(平成15年/2003年8月・筑摩書房/ちくま文庫『怪奇探偵小説名作選9 氷川瓏集 睡蓮夫人』所収 日下三蔵「解説」より)
たぶん渡辺さんの『小説と詩と評論』への関わり方は、だんだん参加なんてレベルを超えていきまして、中心的同人になっていきます(はじめからそうだったかもしれません)。昭和45年/1970年~昭和46年/1971年に『木々高太郎全集』全6巻が編まれたとき、第6巻に収録する随筆をえらぶにあたって、その任にあたったのは、医学の面からは須田勇、文学の面からは渡辺祐一さんでした。よほど渡辺さんが木々さんと近い存在であったかを想像させます。
昭和20年代は、なにしろ今と違います。選考委員たちは、いずれも旧時代に育った人たちです。「旧時代」っていうのは、以前のエントリーで述べたように、「候補作は文春側・運営者側がえらぶのではなく、選考委員が決めるもの」という土壌のあった時代のことです。ですので、この時期、木々高太郎さんが自分が編集に参画していた『三田文学』から、数多く候補作をひっぱり上げてきているのは、当然の流れとも言えます。
ただ、他の『三田文学』関係者とのあいだに、多少なりとも確執を生んだようですけど。
「昭和二十八年の暮にわたし(引用者注:松本清張のこと)は朝日新聞東京本社業務局広告部勤務となって出京した。目黒区祐天寺の木々高太郎氏の宅をしばしば訪問するようになり、木々氏はどういうつもりか、わたしを「三田文学」の編集委員にされた。ほかに和田芳恵さんが「任命」された。和田さんも慶応とは縁もゆかりもない。そのころ「三田文学」を長くみてこられた佐藤春夫氏と木々氏とのあいだが険悪であった。原因はいまもってはっきりわからないが、どうやら「三田文学」の編集方針が木々先生の独断専行の傾向にあるというのを佐藤氏が憤られたらしい。」(平成8年/1996年2月・文藝春秋刊『松本清張全集65』所収「運不運 わが小説」より)
清張・芳恵のみならず、渡辺祐一さんも(おそらく藤井千鶴子さんも)慶應とは関係のないところから出てきていますからね。木々ナントカちゅう、医学部出の、くだらん大衆文学ばかり書いとるような奴に、なんで伝統ある『三田文学』をかき回されなきゃいかんのだ、と苦々しく思う人がいても、まあおかしくはないでしょう。
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