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2009年3月22日 (日)

西なら福岡、東は岩手。そんな「文学」のメッカにもいました、文学の小鬼が。 第20回候補 佐藤善一「とりつばさ」

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  • 【歴史的重要度】… 4
  • 【一般的無名度】… 4
  • 【極私的推奨度】… 2

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第20回(昭和19年/1944年・下半期)候補作

佐藤善一「とりつばさ」(『早稲田文學』昭和19年/1944年8月号)

 直木賞もずいぶん年をとりました。いろいろな社会の波に揉まれて白髪も生えたしシワも増えて、今じゃ誕生の頃の原型は、ほとんど残っていません。

 残っているのは賞名と、半年に1回授賞を決めること。それから、「大衆作家を見定めるには、一作だけじゃなくて、ある程度それまでの実績も見なければわからない」とかいう、大して根拠のない考えが、なぜか血のなか骨のなかに受け継がれていること、ぐらいです。

 あ、それともうひとつ、今まで一貫して直木賞が堅持してきたもの。受賞作は「文学」でなければならない、っていう基準がありましたね。

 でも、どうして、直木賞なんぞに「文学」が必要なんでしょう。それじゃあ芥川賞の対象とどこが違うんですか。今もって不明のままです。それでも「この作は文学ではない」が、候補作を落選させる理由として、今でも立派に罷り通っています。

 そんな直木賞の「文学」癖をたどりたどりますと。やっぱり根っこは戦前に行き着きます。昭和10年代です。

 井伏鱒二がその格調高い文章を評価されて受賞したのが、第6回(昭和12年/1937年・下半期)。ここで直木賞の舳先がグイと「文学性」のほうに曲げられます。そして、この方向の行く先で直木賞関係者の生み出した手法が、同人誌からも候補作を見つけてくる、ってことでした。

 と、ここまでは岩下俊作「富島松五郎伝」のエントリーで触れました。

 そこから戦況の悪化で第20回にて中断するまで5年間。直木賞が候補にしていった同人誌作家を挙げますとこうなります。古澤元(『麦』誌)、劉寒吉原田種夫我孫子毅(『九州文学』誌)、中井正文(『日本文学者』誌)。それと、今回の主役、佐藤善一さんです。

 劉さんは、候補になったのは『文藝讀物』に寄せた小説ですけど、九州在住だし、ホームグラウンドは何つったって『九州文学』ですからね、このリストに入れさせてもらいました。

 いやあ、奇妙だな、不思議だなと思わせる顔ぶれじゃありませんか。

 中井正文さんの戦前の文学行動にはあまり詳しくないんですけど、他の人たちは、ほら。岩下俊作さんを含めた『九州文学』の愉快な仲間たち、は言わずもがな、古澤さんと善一さんは武田麟太郎門下のお仲間で同郷人。そういやこの時期、岩手からは天才詩人・森荘已池さんも直木賞の畑に駆り出されていたっけ。直木賞が「文学性」を求めてさまよい始めたときに、『文學界』とか『文藝首都』とかの東京の同人誌じゃなくて、西なら福岡、東なら岩手、と両極端の方角に目を向けた、っていうのが、なんか意味ありげだなあ。

 文学に情熱を燃やしていた福岡の人たちも、まじめに文学に打ち込んでいた岩手の人たちも、きっと、格下感たっぷりの直木賞なんかに目をつけられちゃって、正直、迷惑だったでしょうが。

          ○

 昭和20年/1945年、軍国主義跋扈の小説界において、「とりつばさ」はそういう状況をほとんど感じさせないつくりになっていて、さすが善一さん、肝が据わっています。

 東北本線と支線を乗り継いだ先の郷里に、ひさしぶりに隆平が帰ってきました。9年ぶりの帰郷です。

 9年前、隆平は8か月ほど郷里に住みました。そのころ、世の中は不景気、それをのり越えようとして、かえって失敗して、ひと旗あげるつもりで郷里に住んだのでした。しかし、事態はなかなか隆平の思い通りにならなかったのです。

 そのころ、隆平は小樽で知り合った浜田なる保険外交員から、ある儲け話を相談されていました。上原式貨車計量器という新発明品を販売するにあたり、一千円の出資金さえ出してもらえれば、一台売れるごとに五十円の配当を出す、一年間に30台を責任をもって販売するから、数年ですぐに元はとれるどころか、そうとうの儲けができる、というハナシでした。

 隆平はこの話を、郷里の親戚である、町役場助役の景一に持ちかけます。景一はだいぶ警戒して対応しますが、妻と三人の子がありながら、職もうしなって帰ってきた隆平を助ける気持ちもあって、その話に乗ってやります。

 景一のおかげで郷里に家も見つけてもらい、お情けのような仕事も与えてもらって、隆平は家族5人で暮らし始めます。しかし、威勢のいいことを言っていた浜田からは、胡散くさい経過報告がくるばかりで、お金はまるで入ってこず、さらなる出資を要求する手紙が届けられる始末。これには景一も怒ってしまって、隆平はさらに居づらい立場となります。

 それでも生きていかなければいけない、お金を稼がなければいけない。隆平は、元手のかからなくてよいことに手を出していきます。魚釣りをして思いのほか魚がとれることがわかって喜ぶも、個人で釣るのは漁業組合で禁止されていると後でわかったり。近くの山で、立派な鉱石を発見して喜ぶも、分析を依頼した結果、別に何ということもない無価値の石だとわかったり。そんなことの繰り返しなのでした……。

          ○

 佐藤善一さんは、敬慕した武田麟太郎がタケリンと呼ばれているのにならって、親しみをこめて「サトゼン」と呼ばれたり……するかどうかは知りませんけど、サトゼンといえば、武田麟太郎です。

 昭和初期の流行児、麟太郎さんは昭和11年/1936年に『人民文庫』を創刊しました。その頃、田舎の文学青年・戸田玄が、麟太郎を訪ねて東京に出てきたときのことから筆を起こし、太平洋戦争の始まる昭和16年/1941年ぐらいまでのことを中心に描いたのが、サトゼンの『濁流の季節に―武田麟太郎とその周辺―』(昭和47年/1972年5月・三笠書房刊)です。

 主人公の戸田玄というのは、じっさいは作者・佐藤善一の化身。そのほかは、多数の人物が実名で登場します。

 で、脇役のなかでも、戸田玄と多くの接点をもって出てくるのは、麟太郎さんというより、『人民文庫』に参加した若手(?)作家ふたりです。ひとりは病弱で痩せ細って、ひとの好さそうな本庄陸男。いまひとりは、対照的に至って健康体、活力にあふれ、あけすけで真っ正直な古澤元。本庄は北海道出身、古澤は岩手、ってことで同じく岩手から出てきた戸田玄は、この二人と数多く関わります。

 戸田玄からの目……つまり作者サトゼンのとらえ方によれば、麟太郎も含めていずれの作家も、時代の流れに翻弄されたことになりますが、まあそれでも麟太郎は発表の舞台に事欠かず、本庄は大作「石狩川」の完成と命を引き換えにし、戸田玄=サトゼンは独力で発表の場を見つけ出してきて『早稲田文学』に「龍の鬚」が採用され、いきなり芥川賞の予選候補となる、……とそれぞれ文学の道を歩みます。それに比較して古澤さんの行く末は、どうにも残酷でした。

 『人民文庫』廃刊からしばらくしての、戸田玄と武田麟太郎との会話です。

「「古沢さんは近頃どうしているのですか? 相変らず元気ですか?」

「元気といえば確かに元気に相違ないが、作家にとって元気というのはどういうことなのかね。彼も『人民文庫』の廃刊で一時はかなり参ったようだが、しかし、流石に彼は人々にその参ったところを見せまいとしてね、前にもまして堂々としていましたよ。人間としての誇りがある以上、そうでなくてはね――」

「それで、作品も発表しているのですか?」

「本庄君たちの『槐』とか、その他、発表機関には事欠かないようだが、あんなものだけではね、つまり、野球でも打つだけでは駄目なので、安打をね、それも二塁打ぐらいでなくては駄目ですよ。」」

 麟太郎さんの発言の主旨はわかりませんけども、たとえば『麦』なる同人誌に発表した「紀文抄」がたとえ直木賞候補(第12回 昭和15年/1940年・下半期)になったところで、なにせ直木賞だもの、「文学」の観点からすりゃ安打どころかボテボテの内野ゴロ程度だ。とか言われても、全然おかしくないでしょうね、当時の文学者たちの直木賞観からすれば。

 サトゼンの『濁流の季節に』は最後に、古澤の友人・大沢真雄から戸田玄のもとに届いた一通のハガキの文面にて終わっています。終戦後、古澤元がシベリアの地で亡くなったことを報せるハガキでした。

「鬼無里生れの彼は新しい共和国に入っていながら、われわれの先祖がきびしい封建制の下で苦しんだ飢えというものから遂に脱しきれなかったようです。彼自身の持って生れた星と、時代悪とに依り、次々と裏切られ、あえぎ悶えた古沢元の人生でした。」

 「時代が悪かった」と言ってしまえば、簡単に済むハナシなのか知らないけど、小説大好き読者にとっては、やっぱり戦争のやらかしたことは大きな痛手だったよなあ。古澤元さんとか神崎武雄さんとか、まだまだこれから新作を発表できる年齢だったのに。本人たちにも、きっとその気は十分にあったろうに。そういう新進作家たちの「新作」を、永久に生まれなくしちゃったのだから。一読者としても不幸なことです。

          ○

 サトゼンといえば、どうひっくり返しても、武田麟太郎以上に、宇野浩二でしょう。「直木賞の鬼」こと碧川浩一ならぬ、「文学の鬼」宇野浩二です。

 図書館に行って『芥川賞全集』をパラパラと見てみてください。宇野浩二さんの、他を圧倒する長文の、たかが予選候補ひとつをも無視したりしない綿々たる選評が載っています。これを読むだけでも、ははあ、「鬼」と呼ばれるだけのことはあるなと納得できます。

 サトゼンと宇野さんとの縁も、この芥川賞の選評にありました。第10回(昭和14年/1939年・下半期)の予選候補「龍の鬚」を、選考委員のなかでただひとり、宇野浩二だけ触れてくれたことに嬉しくなり、サトゼンにわかに宇野浩二に関心をもつようになって、勇気を出して手紙を出します。以来20年、主に文通によって交遊を続け、宇野の没後には『宇野浩二』(昭和43年/1968年3月・河出書房刊)、『わたしの宇野浩二』(昭和53年/1978年12月・毎日新聞社刊)といった本まで出してしまいました。

 『わたしの宇野浩二』は、昭和15年/1940年から昭和35年/1960年までの宇野から届いた書簡をふんだんに取り入れた交遊録。その途中、昭和20年/1945年、サトゼンはなぜか直木賞候補に挙げられます。

 戦時下も戦時下、第20回の頃の直木賞の選考ってやつは、その模様を知らせる資料も少なくて、実態がよくわかりません。なにせ6人いた選考委員のうち、出席したのが中野実濱本浩の二人だけだった、っていうんですから、おそらく選考会の態をなしていません。

 文藝春秋社も、それどころじゃなかったんでしょう。『オール讀物』(誌名変更して『文藝讀物』)は、昭和19年/1944年前半にとっくのとうに休刊していたことだし。それを考えると、本書に出てくる宇野浩二の語る「第20回直木賞」は、非常に貴重です。

「◎さて、一週間ほど前に、(東京から送られたのが、二三日前についたのですが、)「文藝春秋」の三月号(今は(引用者注:昭和20年/1945年)七月二十七日です)がつきました。その中に、第二十回芥川、直木賞の決定発表が出てゐますが、おどろきましたのは、その中に「直木賞は今期該当者なし」とありまして、かう出てをります。直木賞委員会は、昭和二十年二月六日開催『寒菊抄』(中井正夫(原文ママ))『新田誌』(我孫子毅)『とりつばさ』(佐藤善一)につき検討を加へたるも、今期は該当者なしと決定。

◎これはまだ仕方がないとして、(しかし、『とりつばさ』は、僕がためしに回答ハガキに芥川賞候補として出したのですが、それをカッテに直木賞の候補にまはしてゐます=こんな事も僕が芥川賞(引用者注:の委員)を辞退した理由の一つです)次ぎのやうな事が出てゐます。」

 出ました、鬼・浩二の直截的もの言い。宇野さんが、運営者の文藝春秋編集者たちの選考委員を無視した勝手な行動に、不信感と不快感をいだいていたことは、戦後の芥川賞選評を読めば、すぐさまわかります。それどころか、この文の二節あとには、こうハッキリ書いてあります。

「今度の芥川賞でも、横光(引用者注:横光利一君の弟子で、滝井(引用者注:瀧井孝作君が知ってゐる人で、川端康成ごのみである上に、委員たちの選評を見ますと、あまりサンセイしてゐないのに、(内幕を知ってゐます僕がみますと)「文藝春秋」の記者にたのまれて、賞にしたやうなところがあります。(僕が委員のときもこんなことが二三度あって、ハンタイしたことがあります。これも僕が委員を止めた理由の一つです。)」

 鬼だなあ。この箇所を、「絶対公正」を選考態度の第一に挙げた菊池寛親分が読んだら、そして今でもそれが守られているのだと胸を張る文藝春秋の社員の方々が読んだら、ちょっと涙ぐみますよ。

 それにしても、そうか、「とりつばさ」が直木賞史で唯一『早稲田文学』からの候補となった裏には、宇野さんが出した推薦の意をねじ曲げた運営者の存在があったのですか。「ねじ曲げた」っていうより「苦肉の策」だったのかもしれませんけども。

 それで、宇野さんの文章は続きます。「次ぎのやうな事」とは、どういったことなのかと言いますと……。

「▲(直木賞)中野実、浜本浩の二氏。(吉川英治大佛次郎井伏鱒二獅子文六の四氏は何れも所用及び病気のため欠席、電報並に文章にて意見具申あり)

 とあります。これは、前に、僕が何回か芥川賞(一時直木賞も兼ねた)をしてゐましたとき、吉川君、白井(引用者注:白井喬二君などがいつも出て来ないで、たまに出て来ても、僕なんか、「大衆文学としてはあるアタラシサがあってよいぢゃないか」と云っても、吉川(原文は白傍点つき)君や白井(原文は白三角傍点つき)君は若い人の出世をのぞまない、といふやうな、イヤなところがありますので、直木賞の委員を僕は辞退したことがあります。」(下線は原文ママ)

 ひひ、吉川さんも白井さんも、散々の言われようだこと。それって岩下俊作の「富島松五郎伝」のことですか。それとも古澤元「紀文抄」のことですか。

 宇野さんは、他にも「もう権威のなくなりました(誰もいふやうに)芥川賞」と言っていたりして(これ、昭和20年/1945年の手紙です、念のため。芥川賞ってやつは、ひょっとして創設された当時から、みんなから権威がないと言われ続ける「いじめられっ子」体質なんじゃないですか)、批判につぐ批判です。でも、少なくとも芥川賞は、清水基吉さんを受賞と決めるにあたって8人の選考委員のうち6人はきちんと出席しているようで、選考会のかたちはなしています。

 サトゼンさんにとって、芥川賞候補のときに胸はずんだのに比べれば、たぶん、直木賞候補はそれほどでもなかったでしょう。当時の直木賞は、「文学」性をめざしたことで自然と芥川賞の後塵を拝せざるをえなかったわけですから。しかも、選考委員たちのあまりの出席率の悪さで、よけいに格が下がる結果になってしまっていて、直木賞ファンとしては悲しい限りです。

 あれから60年以上たって、冥土のサトゼンさんに、直木賞候補に挙がったのもまんざらでもなかったな、と思ってもらえるくらいに、直木賞は成長したのでしょうか。ううむ、まだかな。すくなくとも、直木賞候補なんて恥、っていう考えを払拭してもらえるくらいの姿にはなろうじゃないか、なあ、直木賞君よ。

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