人間が描けていない? 描けている? それを超えたところにある独自の魅力。 第96回候補 山崎光夫「ジェンナーの遺言」
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- 【歴史的重要度】… 3
- 【一般的無名度】… 2
- 【極私的推奨度】… 4
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第96回(昭和61年/1986年・下半期)候補作
山崎光夫「ジェンナーの遺言」(昭和61年/1986年11月・文藝春秋刊『ジェンナーの遺言』より)
直木賞史のなかには、絶対とりあげなきゃならないんだけど、不思議にとりあげづらい作家がかなりたくさんいます。
とりあげづらさには、たぶん、いろいろな要因があります。文芸誌の評論欄で定期的に触れられるわけでもなし、あるいは、ミステリーやSFのように「ジャンル愛」に満ち満ちた読者群・研究者群がいるわけでもなし。いちおう大衆文芸(とか中間小説)などと大ざっぱにくくられながら、着実に作品をものにしていて、それでも強烈なスポットライトを浴びることのない作家たち。……とりあげづらいんですけどね、ワタクシには、とても放っておけません。
ワタクシの手元には、いつかみっちりと評価の光を当ててみたい作家リスト、ってものがあります。林青梧、中村光至、斎藤芳樹、黒部亨、栗山良八郎、丸元淑生、篠田達明、ほか多数。そのおひとり、とか言うとご本人に怒られるかもしれないので、こっそり告白しますと、山崎光夫さんも「とりあげづらい直木賞候補作家グループ」に名を連ねているんじゃないか、とワタクシは踏んでいます。
山崎さんの作品に、特徴がないわけじゃありません。いや、逆です。誰もが認めるはっきりとした特徴があります。「医」です。
貝原益軒とか北里柴三郎といった有名人のこと、「健康大国」日本を陰でつくりあげてきた人々のこと、芥川龍之介の死の謎、戦国武将の養生訓、薬のこと、病気のこと、医師のこと……。
いまも「医」の作家として堂々と第一線を張っているこの方が、作家として登場したのは、昭和60年/1985年でした。これから海のものになるか山のものになるか、まるでわからないその時期に、彼をたてつづけに3度、第94回、第95回、第96回と候補に挙げたのが直木賞です。もちろん3作品とも「医」もの。しかも同じく「医」を扱いながら、その据え方は三作三様、メインありサイドあり……いやあ、ここらが山崎さんのその後の幅広さをほうふつとさせますよねえ。
直木賞は時として、思い出したかのように、こういう抜群の「新人発掘」機能を発揮してくれます。みごとです。
あ、でも、山崎作品の特徴が「医」ものである、と言い切るのは正確じゃありませんよね。言い直します。医者が小説を書く(書き続ける)例はたくさんありますけど、山崎さんは医者ではありません。あえて医療の専門家でない人間が、外から「医」を追求していくその立場こそが、山崎さんの「医」ものの特徴であり礎でしょう。そして、それがまた、強み(あるいは弱み)を生み出しているとも言えそうです。
そういや、20年前、『日本アレルギー倶楽部』(昭和63年・講談社刊)を上梓したとき、山崎さんご本人もおっしゃっていましたっけ。
「著者の山崎光夫氏は、現役の医者でもなければ、医学部出身者でもない。かつて「週刊現代」の記者だったころ、「日本の名医」「日本の専門病院」という連載コラムを担当した経験が、ベースになっているという。(引用者中略)
「前々から、いずれは小説を書きたいと思っていたんです。医学ものを取材していると、小説のヒントになる話がいっぱいある。医者出身の作家は、何人もいらっしゃる。ぼくは専門の医者ではないけれども、ぼくみたいな医学ジャーナリストが書くのも、意味があるんじゃないか、ちがった視点から書けるんじゃないか、と思ったんです」」(『宝石』昭和63年/1988年7月号「宝石図書館 著者インタビュー 書かれざるもう一章」より)
そして山崎さんは直木賞の舞台に「名候補作」を繰り出します。その名は「ジェンナーの遺言」。「医」ものに果敢に取り組み、深刻なテーマを取り扱っていたはずが、物語作家としての筆が思わず伸びに伸びちゃって、ストーリーは急展開、導入部分の謎も大きけりゃ後半に明かされる真相もかなりの大ゴトすぎて、ひんしゅくを買った(?)というあの作品です。
○
都立荏原病院の感染症科医、柚木貴英は、信じがたい事態に直面していました。
その日、佐田道子という女性がハワイから成田空港に降り立ちました。彼女は成田で発病し、医師の診察を受け、すぐさま荏原病院に搬送されてきました。
彼女の症状と診察結果は、あまりに意外なものでした。天然痘。……人類史上、悪名高き感染病、もはや地球上から根絶されたはずのあの天然痘の疑いがあるというのです。
もしそれが本当ならば、日本のみならず世界中に衝撃を与えるでしょう。そして厳密な診察の結果、やはり患者は天然痘に感染していました。
柚木は急いで、その感染ルートを調査することになります。もちろん極秘裡にです。カギは、佐田道子といっしょにハワイに行っていた彼女の恋人、酒井俊男という医師が握っていると思われます。
調べはじめると、次第にこの酒井なる医師に疑わしい点が出てきます。酒井はA病院の麻酔科の勤務医なのですが、周囲に溶け込もうとしない男らしいぞとか。麻酔が専門なのかと思いきや、実はS大で微生物学をまなんでいた過去があるらしいぞとか。そしてS大で、酒井が出入りしていた研究室の教授が、丹波重治なる男らしいぞとか……。
いったい丹波は、そしてそのもとにいた酒井は、何を企んでいるのでしょうか。
○
これは山崎光夫さん30代後半の頃の作品です。若気のいたり、と言いますか、でも読者に楽しみを与えようとするストーリー展開は、ワタクシは好きです。
直木賞選考会での評判は、あまり芳しくありませんでした。うちの親サイトにも、選評の抜粋を載っけてありますが、代表どころをかいつまんで引用してみます。
「背景が際立って、その前にあらわれる人間の存在感が薄くかんじられた。作者はテーマに惚れこみすぎたのではあるまいか。」(陳舜臣「新しい小説を」より)
「私は一気に読んだ。面白かったが主人公も、部長、看護婦も同じような人物に見える。」(黒岩重吾「感銘度と面白さ」より 上記陳舜臣の選評とともに『オール讀物』昭和62年/1987年4月号)
この種のマイナス評価は他のひとも言っています。たとえば『朝日新聞』の(ぼ)なる書評子。山崎さんの『日本アレルギー倶楽部』を紹介するときに、似たようなことをポロッとこぼしました。
「そう言えば、山崎光夫のこれまでの二冊、『安楽処方箋』『ジェンナーの遺言』はどちらも短編集だが、ほとんどの作品が医学サスペンス物だった。だが例えば後者の表題中編で、異常性格の青年医師と婚約して天然痘に感染までさせられた女性は、どういう性格だったのか、ひとことも説明されない。そういう人物像の薄さがこの作者の弱点で、(引用者後略)」(『朝日新聞』昭和63年/1988年6月20日読書欄「話題のほん 少しかゆいが楽しく笑える」より)
ううむ。エンタメ小説に対しては「人物が描けていない」と評しておけばまず間違いはない、という黄金の法則をしっかりと守った文章です。
で、この作品は平成10年/1998年1月に、版元をぽーんと飛んで祥伝社から文庫化されました。解説を寄せたのは、山崎さんが医療ジャーナリストだった頃からのお知り合い(だと思われる)脳外科医・作家の三輪和雄さん。まさか文庫の解説で、「人物が描けていない」なんて書くわきゃないよな、さて三輪さんはどんなふうにして褒めているかと思えば、おっと、「描けていない派」に真っ向から対立する姿勢です。
「この小説集も主人公は医者だが、登場人物も含めて、大学病院や大病院の職員で、いわゆる医学研究者が多い。人物描写も適切で、いかにも大病院にいそうな人達ばかりである。特殊病棟から実験室にいたるまで、リアルに描かれ、人物が生きている。」
「ここでは結末を書くことを避けたいが、山崎さんの小説は、単なる推理小説ではなく、そこに人間が描かれていることが分かるのである。私はこの小説を読んで、一世を風靡したフランスのアンチ・ロマン(反小説)の手法を感じたほどである。」(『ジェンナーの遺言―絶滅病原体を追え』平成10年/1998年1月・祥伝社/ノン・ポシェット所収「解説―何のために生きるのか、まで問いかける医学ミステリー」より)
いやあ、ものは言いようだ。と思わないでもないんですが、三輪さんにとっては「人間・人物が描かれている」作品だと。
ええと、つまり、これら二つの相反する評価を合成すると、こういうことですか。大学病院や大病院にいそうな人たちっていうのは、そもそも実際に人物像が薄いと。……いや、もちろん冗談です。
○
もうひとつ、小説家駆け出しのころ、山崎さんには突きつけられた課題がありました。「医学という重いテーマ」と、「面白いストーリー」との融合についてです。
「ジェンナーの遺言」の選評にも、ややその点に触れたものがありました。山崎さんの良き理解者、三輪和雄さんが言うところの「山崎さんだけが持つ独特な推理小説的手法」(前出の解説より)ってやつです。
まさに。単なる「医」ものを地味につむぐのではなく、そこに一波乱も二波乱もかぶせようって心意気が、作家・山崎光夫の本領でしょう。
きっとデビュー作の「安楽処方箋」が、第44回小説現代新人賞をとったときから、すでにこの本領は、山崎さんの強みでもあり弱みでもあったようです。
じっさい、この賞の選考委員は4人とも、だいたいこの点に目を向けています。
「欲をいえば、記者が方々の病院を探索しながら、主題を突きとめていくくだりに力がかかりすぎて、老人たちの生態がやや駈け足になっているのが惜しいけれど、新人賞のレベルに充分達していると思う。」(色川武大「新ジャンルの医学小説」より)
「不満がないわけではない。前半を、推理仕立てにしたために、後半、別の小説を読まされているような感じになってしまっていることである。」(西村京太郎「納得できる知識」より)
「前半は謎を追いかけていくミステリイ小説のようなタッチで進んだ。ところが後半に入って急に深刻なテーマを真正面から扱う小説に変貌し、未消化のまま終ってしまった。これだけの問題を扱ったわりには余韻が残らない。」(阿刀田高「八十パーセントの満足」より)
「謎解きの経過にはぐらかされたような、期待はずれの感はなくもなかったが、好意的に解釈して読んでしまった。」(津本陽「当選作におす所以」より 以上4選評とも『小説現代』昭和60年/1985年6月号)
誰が何を言おうと、ちぐはぐだろうと未消化だろうと、そうです、それこそ山崎さんの小説です。ワタクシはあえて「魅力」と呼ばせてもらいましょう。
大学に在学中には「ゲバゲバ90分」などのテレビ番組構成に携わり、その後、ジャーナリストの道に進んで講談社系の雑誌などでルポライターをしていた山崎青年。最初の仕事がたまたま(?)医学もので、先輩からは「きみは医学ものに向いている」と言われたそうです。そして働き盛りの30代にまかされた大きなお仕事。全国の名医をさがしてめぐる記事。
「「いざという時かかる専門医の情報が少ない。全国の名医捜しをやってみては……」
と伊藤寿男第一編集局長・取締役(当時、週刊現代編集長)にいわれたのは、昭和五十六年五月であった。以来、二年半、私は毎週毎週全国へ飛び百余名の名医に会うことになった。」(『日本の名医661人』昭和59年/1984年2月・講談社/オレンジバックス「あとがき」より)
そんな雑誌記者が、記事を書くことに飽き足らずに、小説という表現手段に手を出し、先輩作家たちからは何だかんだと欠点を突っつかれながら、それでも20年以上、その道を歩んできました。
思い起こせば前出の小説現代新人賞の選評で、色川武大さんは、こんなふうなことを言っていたのです。
「いつかは死ぬのである以上、医学、乃至は病人を材にした小説がもっとたくさん現われてもいいと思う。医学小説というジャンルができてもいいくらいだ。この作者は、実際に医学界の周辺に居るらしいので、この方向の小説をどんどん書けるのではないか。そういう期待を含めて私も授賞に賛成した。」
おお、色川さん、ひょっとして今の山崎さんの活躍を見通していたんですか。まったく、山崎さんは十分にその期待にこたえてきているように思います。そして若かりし頃の「魅力」も徐々に熟成、ってところでしょうか。うん、「とりあげづらい作家」であっても、やっぱり放ってはおけません。
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