直木賞のもつ隠れた意義。それを実感できるのは50歳を過ぎてから、かも。 第64回候補 三樹青生「終曲」
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- 【歴史的重要度】… 3
- 【一般的無名度】… 4
- 【極私的推奨度】… 3
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第64回(昭和45年/1970年・下半期)候補作
三樹青生「終曲」(『外語文学』7号[昭和45年/1970年8月])
このあいだの井上武彦さんのエントリーとチトかぶりますが、今日もハナシのまくらは、漫画のことです。
先日、元・週刊少年マガジン編集長の宮原照夫さんが書いた『実録!少年マガジン名作漫画編集奮闘記』(平成17年/2005年12月・講談社刊)を読んでいたら、直木賞に関連する事項がでてきたので驚きました。
たとえば宮原さんが、漫画の原作が書ける作家を物色するなかで、白羽の矢をたてたのが、福本和也さんだったとか。
「福本は新しい産業スパイ小説を世に送り出していて、三期連続で直木賞にノミネートされていた作家だった。しかし、梶山季之が初めて書いた産業スパイ小説「黒の試走車」がベストセラーになり、このジャンルを捨てざるを得なくなっていた。
直木賞を目指すのであれば、新しいジャンルを開拓しなければならないだろう。だが、新ジャンルの開拓は、そう簡単にできるものではない。福本は、作家としていま転機に立っている。」(「第二章 偉大なる実験!―少年週刊誌創刊―」より)
ふうむ、福本さんの候補作「K7高地」や「泥炭地層」を「産業スパイ小説」とくくるのは、やや違和感がありますけど、福本さんが漫画原作のエリアに一歩ふみだしたときの裏話として、この「ちかいの魔球」に関するエピソード部分は、興味津々です。
ほかにも、「巨人の星」=大衆文学的、「あしたのジョー」=純文学的っていう漫画内でのジャンル分けとか。おそらく漫画研究においては常識なのかもしれませんけども。そうか、そうやって「あしたのジョー」は生まれてきたのだなと勉強になります。
それでもうひとつ、本書には直木賞につながるネタがこっそり登場しています。それは三樹創作さん。宮原さんの後を継いで『週刊少年マガジン』編集長になった方です。『週刊少年ジャンプ』の飛躍をわきめに、部数が落ち込むばかりの「『マガジン』冬の時代」の渦中でもがき苦しんだらしいです。
その三樹さん、お父さんは三樹精吉さんと言います。精吉さんのほうは毎日新聞などの記者勤めから日本新聞協会に入り、昭和43年/1968年から昭和46年/1971年まで第9期・第10期の国語審議会委員を務め(第10期途中で辞任)、それからTBSブリタニカ監修局で働き、帝京大学文学部に招かれた経歴をもつ、根っからの新聞畑の人でした。
そして精吉さんは文学に対する関心も高くて、「三樹青生」のペンネームで直木賞候補に挙がったことがあるのです。
「青生」とは、やや風変わりな名前ですが、「終曲」が単行本化された深夜叢書社版(昭和50年/1975年11月刊)の奥付では「(c) Seisei Miki, 1975」。でも3年前の『悪文・失言ものがたり』(昭和47年/1972年11月・アロー出版社刊)の著者紹介文では「ペンネーム三樹青生(みき・せいき)」で、ご本名に近い読み方を採用しています。
そもそも精吉さんが「終曲」を発表したのは、息子・創作さんが立派に成人したあとの昭和45年/1970年、っていうから精吉さん本人は55歳。頑張って出世(?)してきた結構いいオトナです。おじさんです。
その人生経験豊富な方が、若かりし頃に抱いていた文学への思いを、いま一度駆り立てられて書き始めました。そのなかの一篇が「終曲」でした。
○
「私」こと、音楽評論家の千原信吉は芸大音楽部の出身です。学生時代、ピアノ科の後輩に天才的な男がいました。田沢秀。彼の演奏を聴いて、とてもかなわないと思い、千原は演奏家になることをあきらめ、研究家として生きることを決めました。
30代なかばになった千原は、とある会議に出席するため、パリを訪れます。パリには20代からずっとそこに住み着いているかつての後輩、田沢がいるはずでした。
ちょうど田沢は旅行中とのことで、田沢と同居中の女性ルシールが、空港まで千原を迎えにきてくれました。千原はひと目で彼女の魅力にひかれてしまいます。
ルシールと話しているうち、田沢の生活にはどうにも不可解な点があることが明らかになっていきます。田沢の演奏は専門家筋では名が知られているものの、あまりパッとした評判は得られておらず、ルシールに行き先も告げずに長期間、家を空けることもしばしばだとか。
そんな田沢が近いうちに、独奏会を開くとの情報がありました。千原は知り合いの新聞記者・石原に逢い、田沢の評判を聞いてみます。しかし、日本人社会のあいだでは田沢の評判はあまりよくないとのこと。畑違いのニセ名画を扱っているとかで、悪いうわさばかりが広がっているようでした。
田沢の独奏会を後押ししているのは、マイエルという名の大学教授でした。独奏会のことをマスコミ向けに発表する場に田沢の姿はなく、マイエル教授が代理で説明する、という何やら謎めいたなりゆき。当日、田沢が演奏する曲のなかに、田沢自身が作曲した「ショパン風な即興曲」というのがありましたが、マイエル教授でさえ、まだ聴かせてもらったことがないようです。
田沢はいったい何をやらかそうとしているのか。そんな秘密の多いなかで、独奏会が開かれました。
そして翌日……パリの各紙、各雑誌がこぞってこの独奏会に触れるという事態がおとずれます。激賞、もしくは酷評……田沢の名が一躍、音楽界におどりでた瞬間でした。
ところが、まもなくある新聞に、田沢の独奏会について一通の投書が寄せられます。それがさらに、騒動を引き起こすことになり……。
○
「三樹青生」といって、ああ、あの小説家のことかと膝をうつ人は、おそらくほとんどいません。ただ、ああ、あのミステリー翻訳家のことかと昔をなつかしむ人なら、ちょっとはいそうです。E・S・ガードナーの訳書などが数冊のこされています。
青生=精吉さんがミステリーのファンだったことは、そんな翻訳活動からも知れますが、権田萬治さんも別の角度から紹介してくれています。権田さんは長く日本新聞協会に勤めていたことがあり、精吉さんの後輩社員にあたります。
「実はかくいう私も広い意味では新聞界の人間であって、三好徹氏が推理文壇に登場したころには職場の日本新聞協会に「Q」の会というミステリー・クラブを設立した人間である。(引用者中略)わが「Q」の会は、現在フリーの放送評論家として活躍している大森幸男氏が会長、のちに「終曲」で直木賞候補になった三樹青生、翻訳家の峯岸久なぞの各氏(いずれも当時はわが社の社員)も会員で、少なくとも十数名は会員がいたと思う。」(『現代推理小説論』昭和60年/1985年1月・第三文明社刊「処女作時代の作家群像」より)
「Q」の会の実態はわかりませんけど、権田さんによれば、最初は雑談したり、みなでスリラー映画を観に行ったりと、推理小説に心を寄せるファンたちの親睦会だったんでしょう。でも、そのうち満足できなくなって三好徹や中薗英助、中田耕治らをゲストにまねいて、現場の声をまじえていろいろ議論やら交流やらをやっていたみたいです。
当時40代~50代ごろだった精吉さんは、どんな思いで「Q」の会に参加されていたのでしょうか。
「わが社の会議室で、野間宏の文学観に対する共感を語り、推理小説の新しい可能性について熱っぽく語っていた処女作時代のハンサムな若々しい氏(引用者注:三好徹のこと)の横顔を私は今でも鮮かに思い出す。」
こんな空気に触れるうち、精吉さんのからだの中に、ふつふつと、よし、俺も小説書いてみるかと奮い立つものがあったかもしれません。……あくまで想像ですけど。
○
職場での仲間うちから大いに感化されるものもあったでしょう。でも何といっても精吉さんにとって、大学の同窓生たちからもらった「やる気」は、それ以上に大きかったはずです。
精吉=青生さんの主な創作の場は、『外語文学』です。直木賞候補作「終曲」もここに発表したものでした。ここでいう『外語文学』とは、昭和40年/1965年6月に大阪外国語大学の同窓生たちが中心となって復刊した同人誌のことです。
大阪外語には、戦前の大阪外国語学校と言っていた時代に、文芸部というのがありました。大正末期から校友会雑誌の『咲耶』が出され、昭和4年/1929年からは別に同人誌『世紀文学』があり、昭和7年/1932年から『文学ABC』、これが昭和9年/1934年に『外語文学』と改称されて太平洋戦争が起きた頃まで続いていたのだとか。
「(引用者注:復刊した『外語文学』の)東京在住の同人の大多数は旧『外語文学』の世代というか、満洲事変から太平洋戦争までの時期に学生時代を送ったものたちである。」(『外語文学』2号[昭和41年/1966年5月]M生「『外語文学』前史」より)
要は昭和10年代、青春時代をおくるなかで文学に情熱を燃やしていた若き外語学生たちがいた、しかし戦争に突入、やがて戦後という時代のながれのせいで不完全燃焼のまま異なる道を歩まざるをえなくなった、その仲間たちが時をへていっぱしの社会人となった頃、ふたたび同人誌をつくろうと声をあげて誕生したのが、第二次『外語文学』でした。
創刊号にのった「「外語文学」設立経過」によると、発起人は7人。秦正流(朝日新聞記者)、丸毛忍(農林省農業総合研究所)、稲田定雄、伊藤正弘、喜田説治、児玉啓吾、そして三樹精吉。
はじめて『外語文学』創刊にむけて議論されたのが昭和38年/1963年暮れ。と言いますから精吉さん53歳です。
そしてたぶん、彼らにやる気を起こさせる契機となったのは、「設立経過」のなかにも名が出てきますけど、戦後になって大阪外語から3人の芥川賞・直木賞作家が出ていたこともあるでしょう。庄野潤三、司馬遼太郎、陳舜臣の3人です。
ちなみに『外語文学』2号には、司馬さんの「もののはじめ」、陳さんの「滅びないことばを」というエッセイが載っています。
自分たちよりやや若い世代の同窓生が、きっちり文学の道をあゆんで世に認められている。このことも三樹さんたちの気持ちをより熱くした要因である、と見たいところです。
さて、そうやって50歳を過ぎたオトナたちは、再び文学への志を新たにして歩み始めました。いったい、どんな姿をめざしていたのでしょうか。
べつに「直木賞」だのそういった賞をとりたかったわけじゃないでしょう。でも、賞のことをまったく無視していたか、というと、そうじゃありません。
昭和46年/1971年、三樹さんが候補になって落選します。ここであくまで「文学」を気取って、賞の候補になったことなど無視してもよかったのですが、(S・K)なる同人が『外語文学』に「候補にたかった話」という一文を寄せました。
「文学で世に出る――つまりジャーナリズムの世界で作品が売れるようになることは、それなりに結構なことなので、そんないき方も一概にどうこう言えるものではなかろうが、「外語文学」同人の多くはジャーナリズムの酸いも甘いも噛み尽した連中が多く、どこかの出版会社の雑誌に印刷されるということだけで目の色を変えるようなのはいない。仲間褒めになるが、三樹の素質と造詣からしたら、候補になるのも当り前みたいなものなのだが、努力と才能が社会的に評価されたことは確かなので、そいつはうれしいことだ。
(引用者中略)
結果は候補にとどまったのだが、正直、ちょっとおしい気がした。仲間から一人ぐらい受賞者が出るのもわるくないのである。」(『外語文学』8号[昭和46年/1971年3月]より)
「直木賞? くだらない。俺たちゃ賞目的で書いてんじゃないんだ」とツッパった顔を見せないところなんぞが、さすがオトナです。達観しています。それでいて「おしい気がした」とつぶやく正直さも持ち合わせています。
50歳をすぎて小説を書き始めた人。ってことで、もちろんワタクシの頭の中には、先ごろ第140回で候補になった葉室麟さんとか北重人さんとかのイメージがあります。三樹さんのペンネーム「青生」は若い頃から使っていたようなんですが、『外語文学』復活以降のほうが、まさにこの名はぴったりきますよね。50を過ぎてもなお「青く生きる」とは。
年をかさねた人にとっても、どんな年齢で小説を書き始めようと思っても、ひとつの目標としてそこに屹立している、って意味では直木賞は昭和45年/1970年当時でも今でも、大きな役割を果たしているんですよね。そこに直木賞の新たな(いや、隠れた)意義が見出せそうです。何十年も一生懸命働いてきて、ふっとひと息、さあ今度は直木賞をめざそう、って生き方もいいじゃないですか。……じゃあ、もうひとつの賞のほうの意義は? さあ、それは……。
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