共有しづらい論理。ミステリーと言うより異常。人は彼を「鬼」と呼ぶ。 第43回候補 碧川浩一『美の盗賊』
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- 【歴史的重要度】… 3
- 【一般的無名度】… 4
- 【極私的推奨度】… 3
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第43回(昭和35年/1960年・上半期)候補作
碧川浩一『美の盗賊』(昭和35年/1960年5月・桃源社刊)
日本の探偵小説=推理小説=ミステリー史をみる上では、まず欠かすことのできない人です。戦後の「文学派」と「本格派」の熱いバトルが語られるときには、本名・白石潔として、しばしば登場します。あるいは、戦争をはさんでほとんど創作意欲をうしなったアノ乱歩さんに、戦後はじめて小説を書かせた敏腕(?)編集者、それは報知新聞編集局長・白石潔だ、ってことで有名だったりもします。
その白石さんの実作として知られているのが(というか、ワタクシの知っているのが)、『別冊宝石』に載った「借金鬼」と、中編集『美の盗賊』所収の3つ「美の盗賊」「明日への饗宴」「チカ昇天」。
なんつったって急進的本格派の牙城『鬼』誌の中心人物、あの白石さんの作品だからね、きっと本格趣味バリバリの推理小説っぽい推理小説なんだろうな、などと期待して読むと、大ヤケドします。
4作とも、はっきり言ってワケがわかりません。ついてゆくだけで至難のわざです。
「謎宮会」のヘレン・ケラ一さんは、「明日への饗宴」のことを「地上最強の美食ミステリ、ストロンゲストな美食ミステリ、言わば美食ミステリの核弾頭」とおっしゃっています。まさしく。納得です。もう常人が「楽しい」と認識できる許容感度を、はるかに超えちゃっています。
で、きっとそういう状態を(そういう状態を日常のものと感じる人のことを)、「鬼」と呼ぶのでしょう。
まったく「鬼」の称号は、白石潔=碧川浩一さんにぴったりハマります。「鬼」とは、もっと平板な表現をすれば、マニアとか、狂信的ファンとか、そうなるんでしょう。探偵小説を愛しすぎて、本格派擁護の座についたかと思いきや、それすら突き抜けて「文学派」を通りすぎてこんな境地に達してしまうとは。相当の「鬼」です。
とくれば、取り上げる候補作はそのものズバリ「借金鬼」(第38回 昭和32年/1957年・下半期 候補)でもいいんですけど、せっかくご著書があるので今日はそちらにします。
ですが、「借金鬼」のときには、木々高太郎さんによる紹介文がいっしょに付いていました。木々さんは直木賞の選評では一言もこの作品に触れていません。ですので代わりに、木々さんがどんなふうに碧川小説を見ていたか、ざっと引用しておきます。
「推理小説では、これが処女作。さてこの作がまた問題である。人間にこのようなスリルのある心理が存在するであろうか。ドストイェフスキィの「賭博者」よりも更に一層近代的な深淵、そして書き方はツワィグの如く、この一種の異常な作品を更に第二第三と、この作家に書かせてみたい。」
「一種の異常な」? ははは、カドの立たない表現をよくぞ探してきましたな。「一種の」の語をはぶけば、この作品をもっとよく表すと思います。
さて、『美の盗賊』です。「明日への饗宴」はヘレン・ケラ一さんが、「チカ昇天」は中島河太郎さん(『日本推理小説辞典』昭和60年/1985年9月・東京堂出版)が紹介してくれていますので、ここでは残る標題作「美の盗賊」をご案内しましょう。といってもワタクシ、理解力は常人並みかそれ以下なもので、この異常作のあらすじをまとめる自信など、ほとんどありませんが。
○
「私」こと大杉健三は、新劇の演出家です。二人の愛人がいます。一人はデザイナーの高木沙河、もう一人は歌舞伎の女形の中村菊次郎です。
たまたま「私」は、新橋駅のトイレで、菊次郎の姿を見かけます。菊次郎は立ち小便をしていました。それを見て「私」はある計画を思いつきます。
女形といえども永遠に男性であることから離れられない。ならば菊次郎を完全に男にしてしまえないものだろうか。ついでに男まさりの沙河を完全な女にしてしまい、二人を愛し合わせることはできないものか。いや、愛し合わなければならない。「私」は演出家だ。これ以上の演出はない。
演出家たる「私」は、この性の転換を医学的にではなく、心理戦を使って行おうと考えます。登場人物は、「私」の妻の妙子、その妹の陽子、「私」の弟子の渡瀬、以上。
彼らをみんな集めて、夏だというのに水たきを囲んで「座談会」を催してみたり、「私」の昔の著作を沙河に贈って、どんな反応をしめすか試してみたところ、逆にある女形の俳優のグラビアが載っている安い週刊雑誌が送られてきて、「これは明らかに私に対する沙河の、挑戦状」だと考えたり。
菊次郎は菊次郎で、突然「私」の家を訪ねてきては、帰らずに「私」の部屋でいっしょに寝ると言い出します。「私」はそんな菊次郎に負けじと、彼を完全無視することに決めるのですが、菊次郎の訪問の真意を汲み取れなかったことが、「私」の勝利となっていることに、あとで気づくのでした。
「私」は二人の愛人の感情の仕上げのために、一つの計画を立てます。それは二人を東京から門司行きの鈍行列車に乗せることでした。汽車の振動が乗客の肉体の秘密をゆり動かすことを「私」は知っているのです。
二人は結局、同乗した「私」を残して、C市駅で降りていきました。「私」は静岡まで引き続き乗車しつつ、少なからず自信を得ます。しかし、まだです。二人のラスト・シーンを見たいと思った「私」は、すべての者を集めて決戦を行うことにします……。
○
昔むかし、昭和25年/1950年ごろから探偵小説界には「文学派」と「本格派」の対立があったらしいです。その対立の図式を直木賞の土俵に持ってくると、なにせ「文学派」の総帥の木々高太郎が選考委員に加わっていたものだから、娯楽としての探偵小説は全然直木賞に選ばれないじゃんか、選ばれるのは「探偵小説(推理小説、ミステリー)」という母屋に庇を借りた「もどきっぽいもの」ばかりで、おお、その積年のうらみをようやく東野圭吾が『容疑者Xの献身』で晴らしてくれたわい、いや、なに寝ぼけたことぬかす、あんなもの本格でも何でもない、あれで本格派のうらみが晴れたと思われちゃ困る、ところで戸板康二の「團十郎切腹事件」ってあれ本格モノじゃないの? ばかいえ、あれこそ傍流中の傍流だ、なんだかんだと、議論は果てるところを知りません。
で、ツワモノたちによるそういった議論の上では、白石潔=碧川浩一さんの存在は、またおかしな光を放っています。
だって白石さんといえば、「抜打座談会」の「文学派」連中に憤慨して、『鬼』を立ち上げたわけでしょ。そんな白石さんにとって木々高太郎なんてのは悪の総帥、もっともニックキ敵だったはず。それがなんで、『別冊宝石』の「木々高太郎読本」(!)なんかに小説を発表して、木々の紹介文を甘んじて併載させたりしてるんだ。
そうだそうだ、『美の盗賊』の「あとがき」だって不思議じゃないか。「この本は、推理小説も純文学に迫ることができるといった野心から生れたものではない。」とか書いて、うん、推理小説はあくまで娯楽に徹してよいのだ、といった姿勢を示すかと思いきや、
「強いてサスペンス・トリックというものをあげるとすれば、すべての人物の会話とそれにからまる心理描写といえよう。そうした意味で読んでいただければ、この本は推理小説のジャンルを少しばかり抜け出して、純文学とも握手できるのではないかと思うのである。」
だなんてさ。どっぷり「文学派」が打ち出しそうな宣言じゃないか。
昭和38年/1963年にいたっては、城夏子や藤井千鶴子(この人も『別冊宝石』「木々高太郎読本」に木々の紹介文つきで小説「火傷」を寄せている)や森田雄蔵などの同人誌計画に、木々高太郎が支援するかたちで『小説と詩と評論』がスタートするんですが、そこに碧川浩一の名で同人のひとりとして名を連ねているのは、いったいどうしたことだ。え。「抜打座談会」の出席者のひとり、氷川瓏(渡辺祐一)と、同じ同人名簿に入るだなんて。
こりゃ裏切りだ。白石潔め、鬼であることをやめて、ただの人間になり下がりやがったか。
といった一連の変貌ぶりに対する反応は、なにもワタクシの創作じゃなくて、やっぱり当時、一部ではささやかれていたらしいです。
椿八郎さんの証言です。『推理文学』昭和48年/1973年12月[4巻1号]の「いまは亡き人々 白石潔さん(4)」から。
「ここで省くことの出来ぬのは所謂「抜討ち座談会」である。あの時白石さんはえらい権幕で木々高太郎さんを憎み、木々なんかぶち殺してやるとまで言いふらした白石さんであった。」
尋常じゃありません。でも、これでこそ「鬼」です。
「そんな白石さんが突然変身して木々高太郎さんと急に親密の度をあきれるばかり深め、人々の眼に不思議な現象もあるものだと映った。」「白石さんが碧川浩一というペンネームで「宝石」別冊72号「木々高太郎読本」に「借金鬼」なる一作をものし、それが直木賞候補作品にあげられていた時点で、変な噂を耳にした。白石さんは直木賞をとって世俗の名声を拍そうとした野心だけで、乱歩さん一辺倒の節を曲げて、直木賞の選者であった木々さんの下へ走ったというのであった。ぼくはこの白石さんの変身について全く知るところがないが、或は白石さんの奇矯な振舞いの一つであったかも知れない。」
「直木賞をとりたい一心で、かつての信念を曲げて木々と親しくなろうとした」ですと? この抜群に面白い見かたの真偽はさておくとして、「噂」が生じるってことはそれだけ、そのコミュニティ内の結びつきが太くて熱かった証拠なのかなあ、と思わされるわけです。
たとえば、山に囲まれた小さな農村でささやかれる噂のように。会社のオフィスでOLたちがピーチクパーチク披露しあう噂のように。文壇のなかで作家・編集者たちだけのあいだで通用する噂のように。推理文壇内であたかも真実のごとく言い交わされる噂。……だいたいコミュニティ外の人間にとっては、どーでもいい話なんでしょうけど。でも、そういった噂が出てくる構造を見るのは、妙におもしろいものです。
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「白石潔」の名は、中島河太郎の『日本推理小説辞典』のほかにも、もっと最近の『日本ミステリー事典』(権田萬治・新保博久・監修、平成12年/2000年2月・新潮社/新潮選書)でも一項目を割かれています。あれれ、権田さんも『小説と詩と評論』の創刊時の同人だったんですよねえ、といったことは特に関係ありません。
どちらの書でも、白石潔さんの紹介文は、どうにもしんみりする終わり方をしています。
「晩年の二、三年はまったく狂気の人であった。」(『日本推理小説辞典』より)
「「報知新聞」編集局長、「読売新聞」論説委員などを務めたが、定年退職後は不遇であった。」(『日本ミステリー事典』より 執筆担当:新保博久)
それで、どんなふうに「狂気」だったのか。先ほど引用した椿八郎さんの文章に、ひとつ具体例が出てきます。
「未亡人のお話では白石さんの最後の二・三年は全くの狂気の人と化し、己れの糞便を掌で畳へ塗たくりあるくという愚行を敢えてしていたそうである。素質もあったかも知れないが矢張り酒毒の結果ではなかったろうか。」
ううむ。たしかに「鬼」の持っている素質と、「狂」で表される特質とは、似ている気がします。たとえば「直木賞の鬼」って言われるような人と、「直木賞狂」とは、たぶん区別がつきません。いやあ、「鬼」にもあこがれるけど、「狂」も捨てがたいなあ、などと思ってしまう自分っていったい……。
それはそれとして、白石潔さんが木々さんに接近したのは、そりゃあ直木賞目的ってこともあったかもしれません。でも案外、木々さんに自分と似たものを感じたせいだったかもしれないな。
山村正夫さんに言わせると、木々高太郎とは「偉大なる理想主義者で夢想家なのではないか」と思わせる人物だったそうですし。
「理論だけが先回りして、実際がそれに伴わなくてもかまわないのである。例えば慶大教授林髞の名で書いて、ベストセラーとなった著書に「頭のよくなる本」というのがある。そのなかで氏は、パン食を大いに奨励しておられるが、実生活における氏は、大の米好きなのだから唖然とせずにはいられない。」(『わが懐旧的探偵作家論』昭和51年/1976年9月・幻影城/幻影城評論研究叢書「芭蕉に挑んだ文学派の総帥=木々高太郎論」より)
鬼が鬼を呼んだと言いますか。狂が狂に引き寄せられたと言いますか。二人とも、常人の理解を飛び越えたところに生きておられたのでしょう。
白石潔=碧川浩一さんはきっと最後まで、鬼として生きたのに違いありません。
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