だれが候補作を決めるのか。その権力争いはすでに始まっていました。 第28回候補 松本清張「或る『小倉日記』伝」
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- 【極私的推奨度】… 3
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第28回(昭和27年/1952年・下半期)候補作
松本清張「或る『小倉日記』伝」(『三田文學』昭和27年/1952年9月号)
「今まで、ほかで何度か云っているので繰り返さないが、直木賞候補とばかり思っていた拙作は、芥川賞委員会の方へ廻付されていたのである。これは読んで下さった小島政二郎氏と永井龍男氏とが主張されてその結果になったとあとで承った。」(松本清張「作家殺しの賞」より 初出『文學界』昭和34年/1959年3月号 『松本清張全集34』昭和49年/1974年2月・文藝春秋刊 所収)
有名作家にして、芥川賞をとった有名作。そして、あまりにも有名な“芥川賞への横すべり事件”。ご本人も昭和34年/1959年の段階ですでに何度も語っているそうですし、現在にいたるまでさまざまな人が、くどいほど紹介しています。新資料が手に入ったわけでもなし、何を今さらワタクシが付け加えることがあるでしょう。
直木賞研究の視点から、この横すべり事件を今一度とらえ直してみたいと思います。
まずは、事件の概要を簡単におさらいしておきましょう。「そんなこたあ、誰だって知っとるわい」と芥川賞・直木賞に造詣の深い方も、ちょっとお付き合いください。
事の発端は、昭和26年/1951年はじめ。松本清張さんが、自分の働いていた新聞社の雑誌主催の小説募集に、みごと三等入選したことから始まります。「西郷札」です。
このとき、清張さんの上には特選があり、優賞2名があり、入選一等・二等がありました。なのに、その中で特選と、三等の「西郷札」が『週刊朝日』春季特別号に掲載されました。
これを読んだ大佛次郎、火野葦平、長谷川伸などからお褒めと激励の手紙が送られてきます。自信を得た清張さんは、その掲載号を木々高太郎にも送ってみました。するとまた、好意的な手紙が返ってきました。
木々高太郎が清張さんに寄せる期待は相当なものでした。その期(第25回)の直木賞の候補作に「西郷札」が選ばれるや、選考会において木々氏はかなり高い点を付けます。
こういった縁で木々とのパイプができた清張さん、どこかの雑誌に紹介してくれるだろうと思い、推理色の強い「記憶」という作品を書いて送ります。それがすぐさま、木々が編集に関わっていた『三田文學』に載ったものですから、清張さんやや戸惑います。そうか、『三田文學』に載せてくれるのなら、と
「同誌の性格に合う小説をと思い、つぎに提出したのが「或る小倉日記伝」である。」(『松本清張短編全集1 西郷札』昭和38年/1963年12月・光文社/カッパノベルス「あとがき」より)
この作品は予想どおり『三田文學』に載せてもらえ、ひきつづき第28回(昭和27年/1952年・下半期)の直木賞候補に挙がります。
選考会は昭和28年/1953年1月19日(月)でした。清張さん、わくわくしながら家でラジオを聴いていたんですが、受賞は立野信之『叛乱』との報が流れてきます。ああ、自分の作品は落選したんだな、と清張さんが思うのも当然です。
ところが、選考会の席上では予想外の事態が起こっていました。冒頭に永井龍男が「或る『小倉日記』伝」は芥川賞で選考するほうがふさわしいと発言、それが受入れられて3日後の1月22日(木)に開かれる芥川賞選考会に回されることが決まっていたのでした。
当のご本人の知らないうちに、日は流れ22日の芥川賞選考会が開かれます。佐藤春夫、川端康成、坂口安吾らが評価し、反対派の石川達三や舟橋聖一らの意見を押さえて、五味康祐の「喪神」とともに、受賞が決まります。
清張さんのところには、新聞記者が急行。なんだなんだ、こんな夜に。え? 芥川賞を受賞した? うそつけ。と、事情を知らない清張さん、面をくらいました。
以上、登場人物たちの著名度も申し分なし、芥川賞や直木賞の“権威”を傷つけるような文脈も見当たらず、エピソードとしてはなかなか面白い。ってことで、文藝春秋が紹介する「芥川賞エピソード史」みたいなものには、たいてい取り上げられて、そう、よく知られた事件になったわけです。
でも、この一連の事件を、その後の両賞の歩みと合わせて見返してみると、どうしても注目しなきゃならない事項がひそんでいます。「選考委員の立場」ってやつです。
○
「選考委員の立場」……これを「選考委員と、運営事務局との力関係」と言い換えてもいいかもしれません。
まず前提を確認しておきます。直木賞とは、10名前後の選考委員が半年間に発表された小説のなかから、賞を与えるにふさわしい小説・作家を選んで表彰するもの、ではありません。建て前はそうでしょうが、現実は違います。
たしかに、賞の創設当時は、建て前に近いかたちが保たれていました。選考委員たちがみずから有象無象の膨大な作品群のなかから候補作をピックアップして、それを選考会にはかり、最終的に選考委員たちの合議によって受賞を決めていたのです。
ところが、忙しい委員たちがあまねく日本中の小説を見渡すことなど無謀であることがわかってきます。すると、それを補佐するかたちで文藝春秋社内に、事前にふるいをかけて「第一次候補作」(のちに「予選通過作品」と呼ばれる)をよりわける役割のチームができていきます。第10回(昭和14年/1939年・下半期)ぐらいまでには、だいたい芥川賞も直木賞も、その体制になっていたようです。
しかし、それでも「候補選出の権利」は、あくまで選考委員たちの手にありました。主催者・運営者である日本文学振興会や、それが事務運営を委託した文藝春秋社は、“予選を行うことによって”正式な候補を選ぶ手助けをするだけです。いくら彼らが選んだものでも、選考委員たちは「候補として認めない」権利があったのです。
清張さんの「或る『小倉日記』伝」は、直木賞候補でありながら選考会での議論を経る前に、「これは直木賞じゃなくて芥川賞で判断すべきものだ」とされました(厳密にいえば、そのとき、この作品は直木賞候補から外されました)。それもこれも、永井龍男という直木賞選考委員に、「候補選出の権利」があったればこそです。
たしかにそのほかに、この権利が行使された例はほとんどありません。とはいえ、皆無ではありません。
たとえば第32回(昭和29年/1954年・下半期)。
「(引用者前略)戸川幸夫氏等十氏の作品を一応予選通過作として、一月二十二日、銓衡会議を開いた。(引用者中略)先ず、戸川幸夫「高安犬物語」(大衆文藝十二月号)梅崎春生「ボロ家の春秋」(新潮八月号)邱永漢「濁水渓」(現代社刊)飯澤匡「青春手帳」(オール讀物九~十二月号)原田種夫「竹槍騒動異聞」(九州文學十月号)石川桂郎「妻の温泉」(俳句研究社刊)中村八朗「マラッカの火」(北辰堂刊)の七篇を候補作として残した。」(『オール讀物』昭和30年/1955年4月号「銓衡経過」より)
つまり、うちの親サイトの受賞作・候補作一覧に載せている永瀬三吾「売国奴」と小田仁二郎「塔の沢」と南條範夫「畏れ多くも将軍家」の3つは、予選通過作品ではあっても、正式には候補作じゃないんですな。まずいまずい。いつか、うちの親サイトもきっちり直さないと。
たとえば第39回(昭和33年/1958年・上半期)。
「まず「日本工作人」は未完のため銓衡対象よりのぞき、他の作品を討議の結果、前記の如く、山崎豊子、榛葉英治両氏を直木賞に決定した。」(『オール讀物』昭和33年/1958年10月号「銓衡経過」より)
つまり、うちの親サイトの受賞作・候補作一覧に載せている津田信「日本工作人」は、候補作ではないと。まずいまずい。……って、調べれば調べるほど、ボロが出てくるなあ。反省しきり。
○
さて、気をとり直してつづけます。
「候補選出の権利」は、おそらく今でも選考委員にあるはずです。しかし、ほとんど形骸化しています。昭和30年代から時をへるうち、この権利は、以前は予選を行うだけだった運営者、日本文学振興会と文藝春秋が、実質的に握りました(もしくは奪いました)。
ちょっと昔ですが、平成になった頃の状況をご紹介してみます。語るのは、元・文藝春秋編集委員の印南寛さんです。
「予選通過作品が各選考委員の手もとに届いてから約一カ月後、いよいよ選考委員会が開かれます。その冒頭、司会者が、
「予選通過作品をもって、今回の候補作とさせていただいてよろしいでしょうか」
と発言し、選考委員全員の了承を得る。その瞬間、候補作が正式に誕生するのです。」(『芥川賞・直木賞100回記念展』平成1年/1989年3月・日本近代文学館・日本文学振興会刊「候補作はこうして誕生する」より)
さらに十数年たって、平成18年/2006年の『ダ・カーポ』「芥川賞・直木賞を徹底的に楽しむ」(平成18年/2006年7月19日号)にも、候補作決定のプロセスを紹介する文章があります。そこでは、「司会者=運営者側が、選考委員に対して予選通過作をすべて候補作とすることの了承を得る」ことすら触れられていません。何いってんの、候補作って当然、運営者が決めているんだよね、といった姿勢です。
たしかに「選考委員全員の了承を得る」といったって、果たして今、そこで疑義を持ち出す選考委員などいるのでしょうか。そして、これを形骸化と言わずして何と言いましょう。
もちろん、運営する側の立場でいえば、そんなところで予選結果をひっくり返されては、スムーズな進行の妨げになるだけです。できれば、シャンシャンと済ませたいところです。
もっと言うと、運営者側の事情で予選を通過させた作品なんてものが、仮にあったとしたら、選考委員の分際でその選考を拒否するなど、無礼千万、絶対に防ぎたいことでしょう。
ですので、「候補選出の権利」を選考委員たちに持たせずに、おのが手に握ることは、運営者としては理想のかたちと言えるわけです。そして彼らは、その実現に成功しました。
○
ええと、もう一度、「或る『小倉日記』伝」の横すべり事件に戻ってみます。
このとき、永井龍男が権利を発動したのは、第一に彼(選考委員)にその権利が実際にあったからです。
付け加えるなら、永井さんが賞の創設期から直木賞・芥川賞に関わっていたことも重要な視点かもしれません。つまり昔の両賞を知っている者なら、選考委員が候補作を決めるのがごく自然なはずだからです。永井さんにとって、選考する以前に、その作品が候補として適当かを考えるのは当然だし、不適と思ったら選考前にそのむねを発言するのは、委員に課せられた使命だとすら思っていたかもしれません。
第二に重要なのは、直木賞と芥川賞では、別の日に選考会が開かれていたことが挙げられます。
戦後、運営委託先が違っていた第21回と第22回は置いておくとして(この2回の運営は、芥川賞が『文藝春秋』の文藝春秋新社、直木賞が『文藝讀物』の日比谷出版社)、それ以降の選考会開催日は、次のようにひらかれました。
- 回―直木賞(以下、直)―芥川賞(以下、芥)―差(直木賞基準)
- 23回―直9月4日(月)―芥8月31日(木)―4日後
- 24回―直2月9日(金)―芥2月13日(火)―4日前
- 25回―直7月20日(金)―芥7月30日(月)―10日前
- 26回―直1月30日(水)―芥1月21日(月)―9日後
- 27回―直7月22日(火)―芥7月25日(金)―3日前
- 28回―直1月19日(月)―芥1月22日(木)―3日前
- 29回―直7月24日(金)―芥7月20日(月)―4日後
- 30回―直1月22日(金)―芥1月22日(金)―同日
第23回(昭和25年/1950年・上半期)は昭和25年/1950年。第30回(昭和28年/1953年・下半期)は昭和29年/1954年。それ以降、両賞の選考会は同じ日におこなわれるものとなりました。
第29回までは例外なく、それぞれ別々の日に行われています。でも、常に直木賞のほうが先ってわけでもありません。永井発言は、3日後に芥川賞選考会を控えていたからこそ可能でした。順番が逆なら成り立ちません。その意味で、「或る『小倉日記』伝」の芥川賞受賞は、まったく運のなせるわざです。
しかし、それから1年後には従来の慣例をくつがえし、両賞を同じ日に選考する、という新たなルールがつくられます。つくったのは運営者側です。これにより、永井龍男さんがやらかしたような、予選通過作をもう一方の賞の選考にまわす、なんていう“勝手な”ことはできなくなりました。
運営者が両賞の選考会を同じ日にひらくようになったのには、まあ、いろいろな理由が推測されるでしょう。一緒にしてしまったほうが、会場取りや当日の運営、マスコミ(新聞やラジオ)への対応などの事務一切が効率化できる、といったことがあるのかもしれません。
しかし、意図があったかなかったかは別として、結果的にこの変更は、選考委員と運営者との力関係の移動を示しているじゃないですか。
そもそもですよ、「事務の効率化」なんてものは、小説のよしあしを議論して選考する行為には、なんら関係ありません。おおむね運営者としての事情です。
芥川賞では、昭和20年代、佐藤春夫さんや宇野浩二さんが選評でときどき、最近は運営者が選考の場にまでいろいろと介入してくる、と不快感を表していました。この時期、選考委員と運営者との見えざる権力争いは、すでに始まっていたわけです。
しかし、彼らや永井龍男さんなどが賞の基盤をつくりあげた昭和10年代~昭和20年代の時代は、終わろうとしていました。直木賞や芥川賞の方向性を選考委員が決める時代は終わった、ってことです。
会場や選考日のみならず、なにを選考対象にするのか、という候補作までも、すべて運営者が決めてしまう時代。「或る『小倉日記』伝」は、その時代を呼び込む契機となった作品と言うべきでしょうか。
契機となった、との表現はちょっと言いすぎですか。
では言い換えます。時代の分岐点にたまたまあらわれて、あとあとそこに分岐点があったことを明瞭に示してくれる作品。それが「或る『小倉日記』伝」なのでしょう。ほんと、ことごとく妙な“運”をもった小説です。
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コメント
なるほど。大変興味深く読ませていただきました。
その視点から見ると、山周さんの「日本婦道記」も、「候補にするときに候補作家に断りを入れる」、ちょっと恣意的な言い方をすると「運営側の候補作管理を強くする」ことを生む分岐点にあるのかもしれませんね。
「或る『小倉日記』伝」と「日本婦道記」は、直木賞の歴史を語る上で欠かせない作品であると同時に、「受賞作でないのに、現在も新刊で読める」という点も共通していますね(笑)
投稿: 毒太 | 2008年12月14日 (日) 23時58分
まさしく。周五郎さんの「日本婦道記」は、直木賞の歴史を語る上ではぜったいに欠かせません。
そうかあ、二つの作品は長らく書店に生き残っているんですねえ。
「力」のある小説っていうのは、生き残る力も兼ね備えているんですかねえ。
ちなみに「日本婦道記」が、毒太さんおっしゃるように「運営側の候補作管理を強くする」ことを生む分岐点にあったかどうかは、ワタクシ自身、調べがついていないもので、今の段階では何とも申せません。
誰がいつ、どこで書いたものか、今はっきりとは思い出せないのですが、たしか清張さんの頃やそれ以降でも、候補者が自分が候補になったことを新聞で知った、といったことがあったような、なかったような。そんな文章、なかったでしたっけ?
投稿: P.L.B. | 2008年12月15日 (月) 03時04分