「最も直木賞に嫌われた男」コンテスト、栄えある第一位。 第13回候補 長谷川幸延「冠婚葬祭」
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- 【歴史的重要度】… 4
- 【一般的無名度】… 3
- 【極私的推奨度】… 3
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第13回(昭和16年/1941年・上半期)候補作
長谷川幸延「冠婚葬祭」(『大衆文藝』昭和16年/1941年6月号)
このブログで名候補作を紹介しはじめてから、すでに半年。だがP.L.B.よ、反省したまえ。なぜに長谷川幸延のことを半年間も放ったらかしにしてきたのだ。
おっしゃるとおりです。今まで取り上げてきたどの候補作家よりも、「最も直木賞に嫌われた男」の称号は、長谷川幸延さんに捧げるべきです。異論なし、異論なし。
真保裕一ファンの憤慨。伊坂幸太郎ファンの諦観。そういったものに心からの共感を寄せつつも、いや、それよりもっと深い悲しみに暮れた人たちが、かつて日本にいたことを、ワタクシは忘れはしません。長谷川幸延ファンのことです。
彼らの悲嘆の歴史は第12回(昭和15年/1940年・下半期)に始まり、何度も何度も何度も悪夢のごとく繰りかえされて、戦争をはさんで第31回(昭和29年/1954年・上半期)まで、都合7度。
回数だけじゃありません。同じく7度のショックを味わった中村八朗ファンに比べて、さらに幸延ファンの傷心の深さに思いを馳せるのには大きな理由があります。多くの回でほとんど受賞目前と言えるほどの高評価を受けていながら、選考委員たちにあと一息の思い切りが足りず、きれいに落とされているからです。こんなにもたくさん「惜しくも落とされた」候補作家は、長谷川幸延をおいて他にいません。
そのくらいの名候補作家ですから、選考委員のなかにも「コーエン擁護隊」と呼ぶべきグループがありました。その筆頭に位置するのは、まず小島政二郎でしょう。吉川英治もかなり好意的です。戦後では木々高太郎がこれに加わりました。ときどき、片岡鐵兵や永井龍男などが援護射撃を放ちます。
それでもやっぱり受賞の的を打ち抜くことができなかった計7度、10作におよぶ候補作品。そのなかでどれを「名候補作リスト」に入れるか悩んだ末に、幸延さん最初のニアピン、カップすれすれ、スーパーショットを選ばせてもらいました。「冠婚葬祭」です。
時は第13回(昭和16年/1941年・上半期)。強力な対抗馬は、木村荘十「雲南守備兵」。選考会では、その「雲南」を推す白井喬二と、「冠婚葬祭」を推す小島政二郎とが争います。あえて「もしも」を持ち出すならば、もしもこのとき、日本が戦時下でなかったなら、中国大陸で暴れていなかったら、「雲南」ではなく「冠婚葬祭」のほうが受賞していたんじゃないかと思います。
惜しくも敗れ去った小島政二郎、その悔しさはずっと胸にくすぶり続けたようです。12年のちの第28回(昭和27年/1952年・下半期)、長谷川幸延「老残」が候補作となったのを目の前にして、政二郎さんガラにもなく懇願口調の選評を書いてしまいます。
「この作品を書き上げた時、作者は私に直木賞候補になるような作を書きましたと云っていました。この言葉から押すと、彼は未だに直木賞に望みを賭けていると思わなければなりますまい。そう思うと、私は笑止でなりません。戦争前の「直木賞」の時、もう少しで授賞作品になりそうになった「冠婚葬祭」を思い出して、(あの時、「婚葬祭」の三作ああ、あと一つ「冠」が出来て、四作完成したら直木賞をやろうと委員会で話がありました。その旨を当時作者へ伝えましたところ、悲しや、現代には「冠」の事実がないと云って慨いていました)この作品に賞を授けて下さい。
こんな傑作を書いても、今更長谷川幸延でもあるまいという意味で敬遠するなら以後「直木賞」候補作品の中から長谷川幸延君の名を遠慮することにして下さい。それでないと、私は笑止で見ていられません。」(『オール讀物』昭和28年/1953年4月号選評「長谷川君のペーソス」より)
ここまで言っても、なお落選。そればかりか日本文学振興会は、このあとも2回ほど長谷川幸延を候補に挙げちゃいます。いわば小島発言を完全無視。恥をかかされた政二郎さん、その2回では長谷川作品について一言も選評で触れず、ああ、悲哀感たっぷりの背中をワタクシたちに見せてくれました。
ほんとに、なぜ河内仙介や神崎武雄など、新鷹会出身の作家が受賞できているのに、幸延さんが受賞できなかったのか。そして、なぜここまで直木賞に嫌われ続けたのか。不思議です。
○
「冠婚葬祭」は、四部作を意図して書かれた作品のうちのひとつです。
大正5年、大木勇造は大阪の葬儀請負業「駕為」で働いていました。明治からこの時代まで、葬儀の最大の見世場は、葬送の行列にありました。そして葬礼屋はいかに大きな葬列を取り仕切るかが商売の腕のみせどころでもありました。
たとえば明治末、有名な新派俳優の川上音次郎が大阪で亡くなります。「駕為」のおやじ花房為次郎は、奮い立ちました。なぜなら音次郎の葬儀となれば当然、華美なものとなり、盛大な葬儀を行うにふさわしく、そして音次郎の亡くなった場所からして、「駕為」が請け負うことが自然だったからです。
しかし結局、音次郎の番頭の遠縁であった別の葬礼屋が請け負うことになってしまいます。新旧俳優や各廓名妓、未亡人貞奴など会葬者3,700人にも及ぶ一大行列がまちを練り歩くなか、「駕為」の為次郎やその娘、お美津、雇い人の勇造などは、悔し涙を流します。
そんな時代から数年後。大正に入ってからは、そのような華美で壮大な葬礼は、徐々に下火になっていました。「駕為」の勢いも下降線をたどるいっぽうです。時代はもっと合理的なものを求めていたのです。
勇造は、自動車というものに目をつけました。行列をやめ、柩も僧も会葬者もみな自動車に分乗して葬儀場まで運ぶ。無駄をはぶき、合理的で明朗会計で葬儀を行うようにしなければ、これからの時代は生きていけない……。この案を為次郎にぶつけてみます。ところが、古いしきたりを大事にする為次郎は猛反対。勇造は、お美津を連れて「駕為」をとびだして、「博益社」を創立、本格的に「霊柩車」を使用する葬儀を始めます。
しかし、始めてはみたものの、営業成績はさっぱり。「仏さんを自動車で送るなんて、まるで貨物扱いやがな」と、尻込みする人たちがまだ多かったのです。
勇造は、どうにか自分の信じる新しい葬儀での注文が増えるようにと、さまざまな工夫と努力をしていきます。……
○
さて、これが短篇小説「冠婚葬祭」で、末尾には「(四部作「冠婚葬祭」のうち「葬」の部了)」とあります。引き続き書かれた「母の婚礼」が「婚の部」、「渡御の記」が「祭の部」、ときて幸延さんが小島政二郎に嘆いたように「冠の部」がその後、書かれたかどうかは、よく知りません。
ええと、長谷川幸延「冠婚葬祭」といえば、直木賞の有力候補だったことでも知られているんですが、いやあ、やはり宮部みゆきの『火車』とか、久世光彦の『一九三四年冬―乱歩』とか、篠田節子『ゴサインタン』とか、もっと新しいところで森見登美彦『夜は短し歩けよ乙女』とか、そういう作品を思い起こさせます。
ん? 思い起こしますよね? 「冠婚葬祭」っていったら、だって新潮社文芸賞第二部の受賞作ですもの。
新潮社文芸賞っていったら、あれです。ざっくり言って、戦前の三島由紀夫賞・山本周五郎賞みたいなもんです。
昭和13年/1938年に始まって昭和19年/1944年の第7回で終わるまで、新潮社がやっていました。「第一部」の文芸賞、「第二部」の大衆文芸賞と二つに分けて、選考は年一回、雑誌掲載の作品というより、単行本化された作品のほうに主眼をおいて、それぞれの選考委員(新潮社文芸賞では「審査員」と呼んでいるようですが)は、芥川賞や直木賞の委員とカブる顔ぶれもいて、賞の一般的な知名度は(おそらく)芥川賞・直木賞ほどじゃない、……って、ほら三島賞・山周賞をほうふつとさせるじゃないですか。
第一部(文芸賞)のほうは、芥川賞との関係において、和田傳さんの一件があるわけですが、ほかにもアノ太宰治さんの作品が何度も候補に挙げられていて、しかも審査員のなかにはアノ佐藤春夫や川端康成がいて、さあ、どうなるどうなる、と楽しそうなネタがたくさん転がっていそうです。でも、ワタクシの範疇じゃないので、無視します。
第二部(大衆文芸賞)のほうは、たぶん世間的な印象も、直木賞の扱いと同じく、「第一部の付属品」みたいな感じでしょう(だってねえ、第一部、第二部ってその命名からして……)。うん、ばっちりワタクシの範疇です。ちなみに、全7回の受賞作は次のとおり。
- 第1回(昭和13年/1938年度) 濱本浩『浅草の灯』(昭和13年/1938年2月・新潮社刊)
- 第2回(昭和14年/1939年度) 坪田譲治『子供の四季』(昭和13年/1938年8月・新潮社刊)
- 第3回(昭和15年/1940年度) 石森延男『咲きだす少年群』(昭和14年/1939年8月・新潮社刊)
- 第4回(昭和16年/1941年度) 北条秀司『閣下』[戯曲集](昭和15年/1940年12月・双雅房/双雅房読物文庫)
- 第5回(昭和17年/1942年度) 摂津茂和『三代目』(昭和16年/1941年3月・東成社/ユーモア文庫)
- 同 長谷川幸延『冠婚葬祭』(昭和16年/1941年12月・新小説社刊)
- 第6回(昭和18年/1943年度) 添田知道『教育者』(第一部=昭和17年/1942年5月・第二部=昭和17年/1942年9月・錦城出版社刊)
- 第7回(昭和19年/1944年度) 牧野英二『突撃中隊の記録』(昭和18年/1943年5月・新太陽社刊)
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さて、第5回の新潮社文芸賞第二部です。審査員の顔ぶれから見てみます。長谷川伸、大佛次郎、加藤武雄、吉川英治、中村武羅夫、木村毅、菊池寛、獅子文六、白井喬二の9名。ふふふ、加藤、中村の両名が第一部との兼任委員として入っているところなんぞが、新潮社臭ぷんぷん。
次に、候補作品です。受賞した二つの他に、赤沼三郎『菅沼貞風』(昭和17年/1942年3月・博文館/国民文藝叢書)、大庭さち子『愛翼一心』(昭和16年/1941年・興亜日本社刊)。
受賞決定発表と審査経過の記事は、『新潮』昭和17年/1942年5月号に載りました。
あらま、菊池寛親分、こっちの審査員にも狩り出されていたのね。そして、どうも文春のほうでやけに摂津茂和さんの『三代目』を褒めていると思ったら、この賞の審査のために読んだのでしたか。先週のエントリーの補足として、菊池親分の新潮社文芸賞選評を抜書きしておきます。
「摂津茂和君は、新人としてその手腕と云い作家的頭脳と云い傑出していると思います。殊に、ナンコ合戦記(引用者注:原文ママ。実際は「メンコ合戦記」)や紅毛茶会記など、芥川が大衆文学をかいたら、こうもあろうかと思わせるものがあります。」
そして、お待たせしました、今日の主役、長谷川幸延さんです。
今までワタクシ、短篇の「冠婚葬祭」が受賞したものとばっかり思っていましたが、そうですか、短篇集『冠婚葬祭』で受賞なのですね。長谷川幸延を研究されている春日井ひとしさんが、こんなにもはっきり書いておいてくれているのに、うっかり見逃しておりました。
「「法善寺横町」で十五年下半期の直木賞候補に初めてあがり、十七年には、直木賞を逸した作品「冠婚葬祭」を書名に据えた小説集で、第五回新潮社文芸賞を受賞しています。」(『SANPAN』第III期第8号[平成16年/2004年8月]EDI刊 春日井ひとし「甚六の今学び(5) 戦時下の新進作家・長谷川幸延」より)
そうだよなあ、あえて短篇集を審査するところに、当時の新潮社文芸賞が、直木賞と一線をかくそうとしていた姿勢が如実に表れているんだからなあ。
「摂津茂和氏の「三代目」も、長谷川幸延氏の「冠婚葬祭」も、もちろん標題の一作のみではない。その標題の作品集に収められている全業績を「一つの価値」と認めた上で、この二作に授賞したいと思った。」(中村武羅夫の選評より)
そして、直木賞の場で小島政二郎を打ち負かして「幸延除外」の旗ふり役となった白井喬二さんも、新潮社文芸賞のほうでは、こんなこと言うわけです。
「この前の銓衡評の時、長谷川幸延君に対して、私はこう云った。「何よりも短篇集をはやく出すこと」と。で、その最初の短篇集「冠婚葬祭」が、やくそくどおり新潮賞に入選したことは、私に取っても甚だ面目が立ったわけである。」
『冠婚葬祭』はけっして幸延さんの最初の短篇集じゃないんですけど、まあ、それはいいとして。直木賞がもしも、もしも戦前から短篇集を候補対象にしていたとしたら。幸延さんの直木賞受賞は現実のものとなっていたかも知れんなあ。……のちに結局、直木賞も、短篇を捨てて短篇集でもって作家を評価するようになった歴史を知っているだけに、つい「もしも」の場合を想像したくなるのです。
なにも悪いことしてないのに、ここまで直木賞に嫌われるか、幸延さん。ああ、どうしてなんでしょうか。不思議です。
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