ムッソリーニがそこにいるだけで。ハッピーエンドになった時代もありました。 第9回候補 摂津茂和「ローマ日本晴」
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- 【歴史的重要度】… 2
- 【一般的無名度】… 4
- 【極私的推奨度】… 3
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第9回(昭和14年/1939年・上半期)候補作
摂津茂和「ローマ日本晴」(『新青年』昭和14年/1939年6月号)
前週の『空飛ぶタイヤ』の項では、いろいろと過去のモデル小説を挙げました。その余韻を残しつつ、第1回~第10回(昭和10年代前半)の直木賞候補作を眺めてみると、どうしてもこの小説に目がとまります。「ローマ日本晴」です。
作者の摂津茂和さんは、ここでは「一般的無名度」を「4」のハイランクにしちゃいましたけど、いや、なかなか著名な方です。「セモア」の語からすぐさま下着を連想するよりもずっと前に、この言葉をペンネームに拝借したその来歴からもおわかりのとおり、昭和10年代の『新青年』読者たちに、ヨーロッパの風を感じさせてくれた小説家。
って言うより、ゴルフの摂津茂和、摂津茂和といったらゴルフでしょう。ゴルフ文献の蒐集家にして、ゴルフに関するエッセイや読み物のたぐいはきっと山ほど書いています。昭和40年代以降のこの方の著作は、ほとんどゴルフ本一色です。
なある、小説家として出発したものの、戦争を挟んで次第に創作欲を失い、徐々にゴルフのことを調べるのが面白くなって、そっちのほうにシフトしていっちゃった人なのね。と、ワタクシもこれまで勘違いしていました。いや、そもそも『新青年』に小説を書きはじめるきっかけが、ゴルフだったようで。頭から尾っぽまでゴルフの人だったんですね。
「僕は元来ものを書くことは嫌いではなかった。若し僕に作家の友達でも二三あったら、もう少し前から小説位書いて見る気になっていたかも知れない。
処が二年程前にスポーツを通じて博文館の水谷準君と知合になった。僕にとって最初の文士の友達である。彼は僕のスポーツ随筆集を読んで、新青年に何か書いてみいと云った。彼もまさか始めから小説のつもりではなかったらしい。
然るに僕はたちどころに小説を書いて渡した。新青年という雑誌は大衆小説を載せるものと思ったからだ。此の僕の心臓的な早合点が謂わば今日の僕の端緒を作ったのだった。」(昭和16年/1941年3月・東成社/ユーモア文庫『三代目』所収「跋」より)
きっと「僕のスポーツ随筆集」とは、日本ゴルフドム社が出していたゴルフ叢書あたりを指しているんだと推測します。それにしても、ううむ、さすがゴルフの水谷準、水谷準といえばゴルフ(これは言いすぎか)だな。ゴルフ関連からもしっかりと作家を発掘してくるところなんぞが、生まれついての名伯楽ぶり、お見事なことです。
『新青年』と摂津茂和と直木賞、のことは以前のエントリー「『新青年』読本全一巻―昭和グラフィティ」でも、軽ーく触れました。第9回で候補に挙がったときはほとんど黙殺されながら、のちに菊池寛が「話の屑籠」でこの人の短篇集『三代目』を大褒めしたことも。
本名・近藤高男さんが、作家・摂津茂和となって、あれよあれよと評価されて、直木賞じゃないけど文学賞ももらって、それでも今では「ローマ日本晴」はおろか、『三代目』だって容易に読めない哀しさたるや。……賞まであげたんならもうちょっと次世代に対しても責任もちなさいよ、新潮社。
ええと、「ローマ日本晴」のハナシです。昭和14年に発表された、つまり後にくるイヤーな負け戦への道筋を想像させる時代に発表されたユーモア小説、かつ国際小説です。とくれば、今の世の中、復刻される望みはほとんどありません。まあ、宝塚ブームと、イタリア・ブームと、それから戦前ユーモア小説ブームあたりがまとまって訪れれば、どこぞの出版社が拾い上げてくれるかもしれません、それまで待ちましょうか。
○
この小説は、ナポリ市の東洋研究所(インスティテュートオリンタール)で日本科講師をしていたKなる人物が、全篇の語り手です。彼は最近イタリアを訪れたT少女歌劇団の、ローマにおける初公演準備一切の通訳、世話役を務めた人でした。
Kが明かすところによれば、この初公演、大成功裡に終わったものの、ちょっとしたハプニングがあったとのこと。
その初公演では大使館からムッソリニ首相、チアノ外相、遣日使節団長パウリッチ侯に公式の招待状が送られていました。しかし、首相と外相は都合により来られない、との連絡が大使館に入ります。
さて、少女歌劇団のほうは準備も上々の出来。当日の開演は夜7時半、とのことなので、引率者格の木丸土砂は少女たちに、午後5時までに帰ってくるようにと含めて、朝からローマ見物を許します。
4つの班に分けられて、それぞれ案内者がつけられます。断髪、振袖、オリーブ色袴、白足袋、草履の恰好で彼女たちはローマに出かけていきました。
そして、期限の午後5時。みんな無事、帰ってきた、と思ったらひとりだけ姿が見えません。それは渡欧組のプリマドンナ格、祇園花子でした。
同行者たちは、花子の姿を見失ったのはヴァチカン博物館だったと証言します。木丸氏、案内者に命じて博物館に急行させます。しかし、花子は見つかりません。開演の時間は刻一刻と近づき、あせる木丸氏。
そしていよいよ開演がせまった本日の会場、サン・マルゲリイタ劇場。一台の大型自動車が、正面入口の前にすべり込んできました。……
○
以上のあらすじが示しているように、「有名(?)な事実をもとにしたモデル小説」です。誰がみたってこれは、T少女歌劇団=宝塚少女歌劇団が、その数か月前に刊行した訪欧(ドイツとイタリア)公演をネタにしています。
ねえ、木丸土砂、なんて、あなた……。丸木砂土(まるき・さど)という超特徴的な名前以外に、どんな名前を連想させるっていうんですか。丸木砂土=秦豊吉さんは、宝塚訪欧の際の総監督を務めて、旅中の実務を担いました。
事実、宝塚歌劇は昭和13年/1938年~昭和14年/1939年にドイツとイタリアで公演旅行を行ったそうです。この小説のとおり、ローマも公演地のひとつだったとか。さあて、じっさいはどんな感じだったのだろうかと思って、その訪欧のことを詳細に調べて論述した一冊、岩淵達治さんの『水晶の夜、タカラヅカ』(平成16年/2004年11月・青土社刊)を読んでみました。
「一九三八年から九年にかけて実現した宝塚少女歌劇団の訪欧公演は、国家的なバックアップもあり、戦前では最も大規模で組織的な企画であった」(引用者中略)「小林(引用者注:小林一三のこと)は興行師として、日本の芸能が宝塚的なスタイルで欧米の興行市場に受入れられるかどうかを探りたいという本音があったに違いないが、表向きの理由は極めて国策に沿ったもので、支那事変以来独伊両国が示してくれた好意に感謝するためということになっている。」
ははあ、日独伊防共協定ってやつですか。もちろん、ユーモリスト茂和さんはそんなお固いハナシは(少なくとも昭和14年/1939年の段階では)、おくびにも小説中に出さないわけです。
そして『水晶の夜、タカラヅカ』によると、ローマでの初演はこんな感じだったそうです。
「十二月十五日は恐らくこの旅公演最大のハイライトだったろう。「今夕劇場付近に警官の立つもの甚だ多く、……町角には黒き旗を附したる槍を持つ兵士が直立し、何事かあらんとする気配あり」と秦(引用者注:秦豊吉)は日記に書く。なんとムッソリーニ統帥(ルビ:ドゥーチェ)その人が、夫人、令孫二名と黒背広で非公式ながら劇場桟敷に現れたのである。」
おお、ついにきたな、ムッソリーニ。
「いずれにせよ統帥(ルビ:ドゥーチェ)臨席の効果は大きかった。「フィナーレに入るや、見物熱狂して歓声をあげ、舞台にては再びジョヴィネッツアを繰り返し、一斉に伊国国旗模様の扇子を開き、手を挙ぐれば、首相は右手を挙げて極めて愉快に笑いつつ、幾度も舞台に挨拶し、更に繰り返し舞台と見物席に挨拶せり。」という雰囲気で、秦はその間に郵便局に走って、東京宛に「今夜の様子を打電」している。」
見物熱狂して歓声をあげ、という記述を見るとついつい思い起こしてしまいますよね、天覧相撲のときの国技館の様子を。こちとらテレビを通して垣間見るだけですけど、皇室の方が見にきているというだけで、なんだか観客たちのあいだにも、微妙な興奮があるような、ないような。
いずれにせよ、宝塚訪欧のなかでいちばん盛り上がった夜のことを、「ローマ日本晴」は切り取っているわけです。
○
この小説は、たしかにベースでは「国際親善」のテーマを漂わせています。本来なら、盛り上がった部分……ムッソリーニが桟敷にいて、振袖使節の面々も高揚して舞台は大成功、といった部分を小説のなかでも十分に盛り上げに使ってもいいはずです。しかし摂津さんは、そこはかなり端折って簡単に描いています。ちょうど小説のエンディング近くなんですが、付け足しで書いているんじゃないかと疑わせるぐらいに。
全体としてみれば、タカラジェンヌ行方不明の事件と、ムッソリーニ登場からその後の盛り上がりとが均等に配分されて、ようやくバランスがとれそうがものですが、摂津さんはその手はとりませんでした。ひとりの日本の娘が異国で迷子になり、あたふたする経緯でもってハナシを終局まで引っ張ります。ムッソリーニは最後の最後だけ。少し出てきて、オチをつけています。
ムッソリーニがそこにいるだけで、十分にその威厳やら権威やら、特別な存在みたいなものが、読者に伝わる前提があったからでしょうか。
それとも、摂津さんのユーモアに対する考え方によるものなんでしょうか、どうでしょうか。
つまり。……オチに関して、だらだら書くな。文章の最後は、さっさと終われ。
ああ、ほんとうですね。ワタクシもさっさと終わります。今日のエントリーもまた、全然オチてはいないんですけど。
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