「文学」なんちゅうブランドから遠く離れているからこそ、余計にこの作品は光輝きます。 第136回候補 池井戸潤『空飛ぶタイヤ』
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- 【歴史的重要度】… 2
- 【一般的無名度】… 3
- 【極私的推奨度】… 4
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第136回(平成18年/2006年・下半期)候補作
池井戸潤『空飛ぶタイヤ』(平成18年/2006年9月・実業之日本社刊)
ああ、面白かった。と、我々読み手を大満足させてくれただけで『空飛ぶタイヤ』は十分な価値があります。何の賞を受けてなくても。あとは、より多くの人がこの小説を読んで、「やっぱり面白かった」とか「けっ、この劇画チックな文章とストーリー展開にゃ我慢できん」など、いろいろな感想を持たれることを祈るだけです。終わり。
ところがです。ほんの2年前、『空飛ぶタイヤ』は直木賞の候補になっちゃいました。となれば、やはりこの小説を直木賞の枠組みのなかでも語らざるを得ません。
じっさい思い返してみると、直木賞の候補になったことが、この小説にまた違った輝きをもたらすんですよねえ。
そもそも『空飛ぶタイヤ』には、案外この賞の候補の座がお似合いです。なぜなら、直木賞の歴史に流れている血管のひとつに、ピタッとはまるからです。
「モデルが容易に想定できる小説」って血管です。
表現を換えるなら、「多くの人の記憶に新しい、ごく最近の事件を題材にした小説」と言っていいかもしれません。
そんな小説を直木賞では、たまーに候補にしてきました。「大衆小説、それは時代を映す鏡」なんちゅう美しい言説を、よりわかりやすいかたちで残してきてくれました。ときどき思い出したかのように。
しかし、そういう候補作が受賞にまで至ったケースは、そんなに多くありません。だからこそ「背骨」じゃなくて「血管」のひとつなのです。
たとえば「有名な身近な事件」じゃなくて、「有名な身近な人物」を扱った受賞作なら、どうでしょう。きだみのるご登場の三好京三『子育てごっこ』(第76回 昭和51年/1976年・下半期 受賞)とか、島田清次郎大活躍の杉森久英『天才と狂人の間』(第47回 昭和37年/1962年・上半期 受賞)ぐらいでしょうか。
そして「最近の事件」に即した作品が受賞したことなんて、あったでしょうか。むむむ。15年くらい前(発表当時から見て)の二・二六事件を勇気をもって書き切った立野信之「叛乱」(第28回 昭和27年/1952年・下半期 受賞)なんてのがありますね。ああ、発表より1~2年くらい前のポート・モレスビー作戦を半ばまで描いた岡田誠三「ニューギニア山岳戦」(第19回 昭和19年/1944年・上半期 受賞)も、そういえばそうですか。
他に「これもそうじゃないか」と気づいた受賞作があったら、ぜひ教えてください。
受賞しなかった作品ならば、もうちょっと思いつきます。
昭和初期の政治状況=立野信之「公爵近衛文麿」(第25回 昭和26年/1951年・上半期 候補)でしょ。砂川闘争の前夜=赤江行夫『長官』(第36回 昭和31年/1956年・下半期 候補)でしょ。水俣公害=水上勉『海の牙』(第43回 昭和35年/1960年・上半期 候補)でしょ。インドネシア9月30日事件=三好徹『風塵地帯』(第56回 昭和41年/1966年・下半期 候補)でしょ。
まだまだあるはずです。どれもこれも、新聞やラジオを通して巷におなじみだった事件を入り口にして、想像力をバネに虚構の世界を広げてくれていて、面白い作品ばかりだよなあ。モデル小説、万歳。
○
『空飛ぶタイヤ』が下敷きにしている事件のことは、ここでは触れずともいいでしょう。とりあえず小説の出だしの概略だけご紹介しておきます。
33歳の若い主婦が、事故で亡くなります。走行中のトレーラーからタイヤが外れ、それが歩道にいた主婦を直撃するという事故でした。
トレーラーを運転していたのは小さな運送会社の赤松運送。その社長、赤松徳郎は事故の直後から遺族への謝罪、警察の取り調べなど忙しい日々を送ることになります。
問題のトレーラーは大手自動車会社ホープ自動車のクルマでした。伝統もあり海外にも知られた有名ブランドの製品です、まさか不良のあるはずはない。周囲の目は、今回の事故の原因は赤松運送の整備不良だと、ほぼ決めつけている様子です。
それを理由に大口の取り引き先からの仕事を失います。困って銀行に融資の相談に出向いても、けんもほろろの対応。
当のホープ自動車も、今回の事故原因は、運送会社の整備不良だったとの調査結果を発表します。赤松運送は再調査を要求するのですが、ホープ自動車に働く販売部カスタマー戦略課課長の沢田悠太は、その要求を受けても、まるで自社に責任があったなどとは頭にものぼりません。「とんでもない客だな」「こいつはクレーマーに近い」と、逆に赤松運送を見下すのみです。
世間から犯罪者扱いされ窮地に立たされる赤松運送。そして、一方のホープ自動車の内部はといえば、完全な縦割り組織で、それぞれの部署が自分たちの言い分・利益・発言力の保持を優先しています。また、大企業としての威光や、旧財閥のブランドにすがり切るありさまも見えます。市井のひと、赤松徳郎の孤独な戦いは、次第にホープ自動車の軋んだ内部を、おもてにさらすことになっていき……。
○
ははは。池井戸さんはホープ自動車を、実在の大手自動車メーカーをイメージさせるように描いたのかも知れません。ですけど、この作品が直木賞の候補となるととたんに、ホープ自動車=直木賞(とその運営機関)の構図がうっすら浮かび上がってきちゃいます。こりゃ現状の直木賞批判小説として最適だよね、面白いなあ。なんてことは、今回の流れとは関係ないので、わきに除けときます。
直木賞におけるモデル小説の系譜のハナシでしたね。
平成18年/2006年の『空飛ぶタイヤ』にいたるまでに、そうだ、忘れちゃいけない候補作がまだ一つありました。渡辺淳一の『小説 心臓移植』(第61回 昭和44年/1969年・上半期 候補)です。
いわずと知れた昭和43年/1968年の札幌医科大学での心臓移植をめぐる一連の事件をネタにしています。それを、まだ世間で騒がれている最中の昭和44年/1969年1月号~2月号に『オール讀物』に分載するや、直後に文藝春秋から新書版のポケット文春で刊行、と慌ただしいほどスピーディに商品化されました。
で、これが当時の選考委員にどう受け止められたか。ハナシの流れ上、先に挙げたそれ以前のモデル小説に対する選評から順に、ざざっと引用してみます。
まずは第36回、赤江行夫さんの『長官』について。
「現実に進行している事件を書くのは難しいことだし、不安定で抑えがきかないものである。人間を書くのには成功しても、その弱点を免かれ得ない。努力には敬意を感じた。」(『オール讀物』昭和32年/1957年4月号選評 大佛次郎「読後感」より)
第43回、水上勉さんの『海の牙』について。
「水上勉氏の「海の牙」「耳」も、佐野洋氏の「透明な暗殺」も、黒岩重吾氏の「休日の断崖」も、現代小説として正面から取り組むべき材料を扱っていながら、推理小説の形をとった為に、どっちつかずの感じの作品になっている。
わたしは、推理小説も文学でなくてはならないと考えているが、こんどの候補作品の中に入っていた以上の作品は、記録小説としては弱く、推理小説としての面白さに欠けている、と思う。」(『オール讀物』昭和35年/1960年10月号選評 村上元三「推理小説への疑問」より)
第56回、三好徹さんの『風塵地帯』について。
「インドネシアの動乱の陰に、またスリリングな事件が潜んでいたという小説設定はそのまま、自然に肯定できる。しかし、フレミングにしても解決のたわいなさ、つくりごとが目立つように、三好氏の解決も呆気ない。作品構成上の弱点は一考を要するように思う。」(『オール讀物』昭和42年/1967年4月号選評 今日出海「選考所感」より)
はい、そして第61回、渡辺淳一さんの『小説 心臓移植』です。
「すぐれた素質と才能とを持っている人であるが、いわばキワモノを書いたのが損になった。もっとも、キワモノでなければ出版されもしなかったろうが。」(『オール讀物』昭和44年/1969年10月号選評 海音寺潮五郎「滑稽の才を珍重す」より)
うん、たしかに。
「問題はないというべきであろう。冷静に描いてあり、スリルも感じさせられる。しかし、読了後の感動がそれほどでなかったのは、すでに私たちが週刊誌やなんかで知っていることが多かったからであろうか。そこを突き抜けていないようである。」(同 源氏鶏太「上質のユウモア」より)
「まだ小説にするには時機が早かったのではなかろうか。読んでいると、やはり生々しい事実に対する関心が先に立つし、最後が煮え切らないのも、仕方がないだろう。」(同 村上元三「新鮮な作品を」より)
題名に「小説」と敢えて付いているのにもかかわらず(いや、付いているからこそ)、よってたかって、キワモノだの生々しい事実だの週刊誌で読んだだの言って、結局現実に報道されている事件を通してしか評すことができないご様子。読解力が浅いんじゃないの? と疑うこともできるでしょうが、みなさん真っ正直とも言えます。
○
さて、それから30数年たった選考委員の方々です。ここでは、『空飛ぶタイヤ』を現実の事件との関連性から述べた正直者の選評だけ、ひとつ挙げておきます。
「現実にあった事件を発端にふまえていて、更に同じ事件が今も起っているというリアリティが読者をひき込む要素になっているが、それ以上に登場人物がよく描けている。」(『オール讀物』平成19年/2007年3月号選評 平岩弓枝「力のあった「空飛ぶタイヤ」」より)
さすが紳士淑女のみなさんだ。「キワモノ」なんて下品な言葉は使わずに、「文学的香気に乏しい」なんて表現をされた方もいました。でも結局のところ、『空飛ぶタイヤ』は「文学」に乏しいから直木賞にはダメなんだそうです。あまりに現実の事件を想起させすぎる小説は、キワモノにしろ文学性の不足にしろ、文学を標榜する直木賞の場じゃ点数が上がらない、ってことですか。
ええと。モデル小説で痛い目にあった先輩、渡辺淳一委員は、どういうふうにおっしゃっているんでしょう。気になりますよね。
「どこといって悪いところはないが、はっきりいってつまらない。ちょうど、音符どおり正確に唄う歌がつまらないように、小説的なふくらみに欠ける。」(同 渡辺淳一「受賞作なし」より)
そうでしょう、そうでしょう。あなたもそんな若かりし頃の落選をバネに、下手っぴでも聞き手を酔わせることのできる歌い方を次第に覚えられていったのでしょう。聞き手によっては、いったいどこがいいのか全然わからない「文学」なる歌い方を。
いや、渡辺さんの作品がどうこうってつもりはないんです。とかく「文学性」ってベールに包まれていて、奥深そうで、だけど訳わかんなくて、だからこそ時によって便利な概念だなあ、と思っただけでして。
『空飛ぶタイヤ』は、直木賞の世界に脈々と受け継がれるモデル小説の系譜の一コマです。そうでありつつも、図体ばかりでかくなった有名大企業にある根拠なきプライドの哀しさを描いてくれて、それがあたかも創設70年を超えた直木賞のことも連想させてくれる小説だったことが、まことに欣快。やっぱり直木賞史に残る「名候補作」でしょう。
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コメント
モデル小説といえば、直木賞受賞作・佐木隆三「復讐するは我にあり」の印象がつよいですね。でも、すいません、未読です。同名映画は見ました。緒形拳が本当に怖かった。
投稿: あらどん | 2010年9月25日 (土) 13時43分