人情味たっぷりの鎌倉アカデミアは、のちの“庶民派作家”を生んだりもしました。 第96回候補 小松重男「鰈の縁側」
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- 【歴史的重要度】… 1
- 【一般的無名度】… 2
- 【極私的推奨度】… 4
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第96回(昭和61年/1986年・下半期)候補作
小松重男「鰈の縁側」(『小説新潮』昭和61年/1986年12月号)
西村望さんに『虫の記』があるように、小松重男さんにはエッセイ『猫の蚤とり日記』(平成4年/1992年1月・新潮社刊)があります。
もちろん、猫の蚤とりのことを経済的でかつ健康にもよい狩猟スポーツの一種、と主張する小松さんの意を汲んで、惜しげもなく披露される毎日の蚤の収穫数を追っていくのが正しい読み方でしょう。でもほら、それを省いた部分、一般的なエッセイ部(って言う方も妙ですか)からも、じゅうじゅう小松さんの人となりが知れるのが、ありがたい本です。
「普通の人みたいな」名前で時代小説を書き続ける小松重男さんは、第96回(昭和61年/1986年・下半期)の「鰈の縁側」で直木賞候補、それから1年半、今度はがらりと趣を変えて昭和初期を舞台にした「シベリヤ」で再び第99回(昭和63年/1988年・上半期)の候補となり、しかもどちらも『小説新潮』掲載の中・短篇、ってところから直木賞に注目する読者たちを驚かせました。
そして実は、このなりゆきを影で操っていた真犯人が『猫の蚤とり日記』で明らかにされているのです。そう、それは、小松家の庭に住みついていた野良猫のフウちゃん。彼女はその少し前、深夜暴走族のクルマにはねられて他界してしまうのですが、自分の子孫を大切に育ててくれている小松家にあの世から恩返しを施してくれた、らしいです。
「昭和六十二年
去年の六月四日から書いて某誌の十二月号に発表した短篇が初めて直木賞候補になったが、おおかたの予想どおり落選した。それでも家人はよろこんで、どうもフウちゃんの子や孫を内猫にしてから我が家に運が向いてきたようだ、きっと“あの世”のフウちゃんが阿弥陀様に頼んでくれたに違いない、などと唯物弁証法に依る創造を標榜している劇団の古手女優とも思えぬ台詞まで口走る始末。」(「3 獲物はカードに貼り付けて」より)
『猫の蚤とり日記』を読んでいると、“家人”こと小松さんの奥さんのことが、ちらちら出てきます。この掃除大好きな奥さん、昭和32年/1957年にさる劇団の若手メンバー同士でご結婚されたという奥さん、テレビドラマの仕事で高知へロケに出かけられたりする奥さんのことも、何だかもっと知りたくなりますけど、まあそれは置いといて、それ以外に思わず興味をそそられた部分があります。
それは「9 讃 鎌倉アカデミア」なる章です。
ん? 鎌倉アカデミア? その名を聞くとつい条件反射で沼田陽一、と口走りそうになる身としては、ああ、小松さんも鎌大出身だったのかあ、とその記述に目がとまります。そして、その文章から伝わってくるものに、直木賞候補作「鰈の縁側」の世界がバチーンと重なってくるのでした。常に年長者を敬う小松さんの生き方、思想です。
「私は(引用者注:鎌倉大学、のちの鎌倉アカデミアの)二期生だが、一期生にはもうすでに他の大学を出たような年長者もおおぜいいたし、同期生にもいた。ここで十六歳の私が生意気だったら、まもなくピークに達した戦後インフレーションの荒波に打ち砕かれて、しょんぼりと新潟へ逃げ帰らざるを得なかったであろう。
しかし、私は年長者の同期生や一期生を心から尊敬して接したから、その人たちが面倒を見てくれた。」(「9 讃 鎌倉アカデミア」より)
そうだよなあ。小松重男といえば、英雄豪傑の類いじゃなくて市井に生きる、どこにでもいるような人間ばかりを書き続ける作家ですけど、そのなかでも「鰈の縁側」に登場する松平外記の人物像は、まさに、小松さんのこんなエッセイに重なり合うんだよなあ。
○
松平外記は、西ノ丸御書院番士。父は、御小納戸役を勤める松平頼母ですが、幼いころから父の職は、武士でなくても用が足りそうだし、下男のようで体裁が悪いと思っていて、家は継いでも職は継がない、と公言していました。
そんな外記が、突然、頼母の職を継ぐと言い出します。最近、頼母がめっきりとやつれてしまい、そのわけを初めて聞いたからでした。
頼母の心痛のわけとは。……彼に担わされた命がけのお役目のせいでした。
のちに十二代将軍となる世子の徳川家慶。彼の好物は煮魚、とくに鰈の煮付けが大のお気に入り。しかも、16年前にその縁側の肉が美味なることを知ってからは、まず縁側の皮と肉を最初に賞味してから、ふつうの身の部分を食べるほどです。
将軍世子の食される縁側の骨取り役、……それが頼母の決死のお役目なのでした。
万が一、骨を取り残し、それを食べた世子ののどに骨が突き刺さろうものなら。かならずや詰め腹を切らされるからです。
頼母自身、まさか我が子にその役目を継ごうとは思いもよらず、さればとて、自分が辞めれば他の誰かが同じ苦労を背負うことになり不憫でたまらない。そのため、目が悪くなり、とても満足にお役目を果たせない年齢になっても、いまだにこの職を続けているのでした。
そんな話を打ち明けられた息子、外記のとった行動とは。……今すぐにでも、父親を辛苦から解放してあげたい、そのために自分が後を継ぐと決め、父の反対を押し切ってまで、家督相続を御小納戸頭取に願い出ることだったのです。
○
「鰈の縁側」の魅力をもう少し語ろうと思ったんですけど、せっかく鎌倉アカデミアのことが出てきたので、もうちょっとそっちのハナシを推し進めましょう。
直木賞の枠組みのなかで、鎌倉アカデミアを取り上げるなら、そりゃあ兄弟そろって入学したっていう山口瞳さんやら、『文化の仕掛人――現代文化の磁場と透視図』(昭和60年/1985年10月・青土社刊)に「鎌倉アカデミア」の一文を寄せた、筋金入りの愛犬家・沼田陽一さんやらを中心に語ったほうが、絶対に適切でしょう。
あと個人的には、演劇科を卒業したっていう石井博さんの来歴とその後も気になったりします。
でも、そうやって気になってばかりいると、つい津上忠さん(演劇科一期生)のいくつかの著作にも手を出してみたりして、戦前から戦後にいたる新劇の歩みの一端に触れざるを得なくなります。すると、おっ、そうか新劇の歴史ってことになると、戯曲として直木賞候補になった稀有なる例「火山灰地」の、あの久保栄さんのことも出てくるんだなあ、とか気になる文章がどんどん出てきて、次第に横道にそれていって、収拾がつかなくなる有り様です。ハナシを小松重男さんに戻しましょう。
前川清治さんの『鎌倉アカデミア―三枝博音と若きかもめたち』(平成6年/1994年8月・サイマル出版会刊)を読んでみますと、ひょっこりと小松重男さんのことが出てきます。そこには、『猫の蚤とり日記』で触れられる鎌倉アカデミアのことより、ちょっと前、……つまりは小松さんがふるさと新潟で演劇に興味をもったきっかけとか、鎌大入学前にはるばる単身、鎌倉にやってきたときのエピソードが語られていました。
「小松氏と演劇との出会いは、自宅の天井に貼ってあった古新聞紙に始まっている。その古新聞紙は、台所の天井に貼ってあった。大きな見出しで「ブルとプロの鉢合せ」という文字が読めた。最初は「ブルとプロ」の意味を知りたくて、小松氏は母親に問いかけた。」
ブル=ブルジョアの代表格、菊池寛が新潟にやってきて、競馬観戦のあと、芸者数十人と遊んだ。それと同じ時期、プロ=プロレタリアの代表格、村山知義も新劇公演のために新潟にやってきたが、劇団員が熱を出し、村山がお粥をつくって食事をとっていた。そんな両者の姿を比較した新聞記事だったそうです。
「このことが強く印象に残り、のちに児童雑誌でみた童話作品『ウサギの郵便屋』を書いた村山籌子さんが知義夫人であることを知り、プロレタリア文学や演劇に深い関心を持つようになった。中学校では初めて演劇部を創立し、新潟演劇研究会の公演では三好十郎作品で効果係として飯盒が『崖』から落ちる音が好評だったことを覚えている」
そんな小松青年、新潟県立中学校(現・県立高校)の卒業を前にして、進学を希望する鎌倉大学に宛てて一度訪ねてみたいと手紙を出します。すると、こんな返事が。
「その返事が文学科一期の山崎照生氏から届いた。便箋にぎっしりと寄せ書きがあり、「みんなで歓迎したい」と書かれていた。」
昭和22年/1947年2月、小松さんは新潟駅から夜行列車に乗り込みます。
「鎌倉駅に着いたのは、翌日の昼すぎである。光明寺(引用者注:当時、鎌倉大学の仮校舎のあった寺)の教室には一期生たちが集まり、大きな拍手で迎えられた。
「鎌倉には一週間滞在し、吉野秀雄先生の万葉集の講義や村山知義先生の『現代演出論』のはなしも聞いた。帝劇にも連れていってもらった。長谷の大仏だけでなく、長田秀雄先生や村山知義先生の家にも案内された。
その熱い歓迎と暖かい心くばりにすっかり感激し、大学卒の資格はとれないかもしれないが、好きな演劇を学ぶことができる鎌倉大学校へ進学する私の意思は固まった」」
ううむ。熱いぜ、鎌大。
○
そもそも猫の蚤とりの楽しさに没頭し、それを背骨にしてエッセイが一冊書けてしまう、という目のつけどころからして、小松さんの独自っぷりは計れます。しかも、そう言いつつ、おそらく連載していた『月刊小説』誌の編集部の意向なのか、徐々に猫の蚤とりとも日記とも関係のないハナシが多くなっていくんですけど、その感じから、編集部に対する小松さんの気遣い(ご本人いわく、小心なことにかけては私も人後に落ちない、というその性格からか)が見え隠れしたりして。
おっと、見え隠れ、なんかじゃないですね。小松さんの筆は潔いですから、ばんばんご自分で語っています。
「他人と喧嘩するのが恐ろしいから、せっかく十七年間つづけた商売もやめてしまった。」(「20 西郷隆盛と犬」より)
「私は小心なくせに自尊心が人一倍強い。自分の作品に他人の手が加えられるなんて堪えられない。」(「9 讃 鎌倉アカデミア」より)
「たいていの編集者には、おれのおかげで発表できるのだぞ、という気持ちが濃厚である。それは事実そのとおりなんだから、どんなに威張られても腹など立たないが、いろいろ修正を要求して、しまいに著者の意図や個性までも自分の好みに従わせようとするから困る。相当な力量を持ちながら、そういう目に遇わされるのを嫌ってか、または過去にそういう目に遇わされたので、いまは筆を折っている作家が、きっとおおぜいいるに違いない、とつくづく思った。」(「8 未熟児モンちゃんの壮挙」より)
ははあ、ともかく小心者にして、自尊心が強いと。そうかあ、そういえば「鰈の縁側」の松平外記も、同僚から自分の父親やその仕事のことを「骨取りざむらい」と嘲笑されて、ぶち切れるという自尊心の強さを発揮していましたなあ。
さらに“小心さ”はこんなところにも表れています。「6 蚤とりの悩みと小説家の悩みと……」の章で、
「私は(もちろん自分の作品も含めて)時代小説や、歴史小説を読んだり、テレビドラマを見物したりするたびに、登場人物の喋るセリフが気になってしようがない。いかにもウソくさいのである。」
とボヤきはじめたかと思うと、江戸時代の武士がしゃべっていた言葉遣いについて、いかに自分の作品でウソくささを省くかその苦労を語っていって、結局この章の締めはこんな感じ。
「しかし、ふり返って考えてみると、私たちも、まさか現代の外来語までは喋らせないけれど、厳密に点検すれば、おかしな個所が、ぞくぞくと発見されるだろう。
いわゆる目糞が鼻糞を嗤うような仕事をしては、大枚(?)の原稿料やら印税やらを稼いでいるのである。」
最後にこんなふうに「自分も当然、間違いをおかしているに違いない」と書かずにいられないところなんぞが、んもう、小心者め。そして、不肖ワタクシ、ブログを書いていると同じような思考に陥ってついつい要らん自己卑下めいた文を書き足したくなってしまう身としては、小松作品にとどまらず小松重男さんご本人にも、どうにも親近感が沸いてきてしかたがありません。
さすが“庶民派作家”だ。庶民の心をとらえるのに長けているぜ。
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