面白い小説を書くのは恥。……そんな同人誌界の風潮に敢然と立ち向かう同人誌作家。 第55回候補 北川荘平「白い塔」
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第41回(昭和34年/1959年・上半期)候補作
土屋隆夫『天国は遠すぎる』(昭和34年/1959年1月・浪速書房刊)
昭和34年/1959年からの5年間について、ついつい前クールでは読み飛ばされること承知で、来水明子さんなんちゅう玄人好みの作家を取り上げてしまいました。でも普通に考えれば、この5年間の候補傾向は、断然、“推理小説”色に彩られています。
直木賞の舞台にのぼらされた、ああ、数々の推理小説たち。
推理ファンにとってはキラ星に見える戦後五人男も、まるで直木賞からは無視されます。おっと、その中でただ一人、昭和31年/1956年になってようやく候補になった島田一男さんも、木々高太郎先輩から「こんなものを推理小説の代表ととられるのは困る」みたいに迷惑がられて、そうだよね、そうだよね、しょせん木々さんは“文学”志向だもんね、と推理ファンはますますイジけさせられました。
それが第39回(昭和33年/1958年・上半期)に多岐川恭さんが『氷柱』で颯爽と登場する辺りから、様相は変わっていきます。もちろん、その変容をもたらしたのは、松本清張さんの『点と線』(昭和33年/1958年)の大ヒットです。そして、江戸川乱歩賞の公募化で、仁木悦子さんや多岐川さんなどの実力者がドドッと出てきたことです。
この推理小説の疾風はやがていったん収まり、直木賞の世界のなかでは、次に「同人誌」の時代がやってきます。その嵐が去るまでに、直木賞の網にひっかかった推理小説は、多岐川さんの短篇集(その実、そのなかの短篇3つ)と、戸板康二さんの短篇、黒岩重吾さんの書き下ろし長篇と、この3つだけでした。
嵐の最中、なにせ水上勉さんが“脱・推理”をめざして書いた「雁の寺」が、首尾よく受賞しちゃったもんだから、のちにいたるまで、推理作家が何度か候補になっては撃沈し、推理ものから離れて直木賞をとる、っていうパターンが何回かくりかえされ、“推理小説では直木賞はとれない”なんていう、真実みたいなガセネタみたいなものが語られ始めたりするわけです。
そしてこの水上さんの足跡は、また違った意味のパターンも物語っています。「長篇の推理小説は、どうも分が悪いぞ」っていう教えです。そうです、この時期、直木賞選考委員に認められた長篇推理は、黒岩重吾さんだけで、あとは全滅。水上勉さんの落選(長篇)・落選(長篇)・受賞(短篇)の軌跡は、じっさい、後の時代の三好徹さんや陳舜臣さんなどに、しっかり受け継がれました。
で、今回の名候補作『天国は遠すぎる』は、長篇です。多岐川さんが第40回(昭和33年/1958年・下半期)に、推理小説久しぶりの直木賞受賞を果たして乱歩さんニンマリするなか、続いて候補になった長篇です。でもまあ、推理小説受難の頃ですからね、選考委員たちはしれっとスルーしています。まるで推理小説なんて眼中にありません。
と思ったら、いや、そんなこともないんですよ。『天国は遠すぎる』はしっかりと、直木賞の歴史に、推理小説として楔を打ち込んでくれた作品なんです。
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第40回(昭和33年/1958年・下半期)候補作
津田信『日本工作人』(昭和33年/1958年10月・現代社刊)
前回ご登場の飯沢匡さんと、津田信さんには共通点があります。
いや、二人だけの共通点ってより、近現代の日本には(そしてきっと世界中にも)腐るほど、同じような方はいるでしょう。どんなことでも命名したがる評論家・大宅壮一さんは、そんな人々を「落下傘部隊」と呼びました。
つまり彼らは、元・新聞社勤務です。記者生活をある程度送りました。その間に創作物で名を知られるようになり、のちに退社して文筆の道に進んだ人たちです。
だからといって、割合として作家のなかには、新聞・雑誌の記者出身の人が多い、などと言うつもりはありません。たぶん、そんなことなどないと思うからです。ただ、直木賞っていう狭い枠組みの中でなら、案外、取り上げてみるべき視点かもしれませんよ。だってねえ、菊池寛や佐佐木茂索の経歴をひっぱり出すまでもなく、文藝春秋そのものが、作家とジャーナリストの混合みたいな集団ですから。
そんな津田さんです。でも、ワタクシも詳しくは存じ上げません。しかしみなさんご安心ください。津田さんのことを取り上げた神奈川県・二宮町図書館の『図書館だより』13号[平成17年/2005年1月]がネットでも読めるのです。えらいぜ、二宮町。
ふむふむ。そうですか、『秋田文学』でのお仲間、千葉治平さんの直木賞受賞に刺激を受けて、新聞社をお辞めになったのでしたか。ふむふむ、退職後はしばらく小説が書けなくなり、ジャーナリズムの世界で身過ぎ世過ぎを余儀なくされていたのでしたか。
もしかしたら津田さんも、中村八朗評するところの小泉譲さんと同様、なまじ芥川賞とか直木賞とかに目を付けられてしまったせいで、大きな回り道をさせられたのかもしれません。そこからふっきれたのか、昭和50年代にいたって再び小説を書き始めます。せっかく、さあこれからって時だったのに。58歳での死は、早すぎるし心底惜しまれる。
芥川賞の選考委員には「これは中間小説だ」と言われ、かたや直木賞の連中には「これは純文学だ」と弾かれて、なんだか毬のように弄ばれた感すらあって、可哀相すぎるよ、津田信さん。要は、これら二つの賞の枠に入り切らなかっただけなんでしょう。作品の良し悪しとは関係なく。
両賞での候補は、都合8度にも及びました。さて、今回取り上げる名候補作『日本工作人』は、その中でも唯一の長篇。しかもこの小説、作品内容とは別のところでも、いろいろエピソードを生み出した“奇縁”の作品なのでした。
たとえば、同人誌に連載の途中で一度、直木賞の候補になり、その後完結して単行本化されてから再び候補になった、ってのもその一つです。これは第35回(昭和31年/1956年・上半期)、第36回(昭和31年/1956年・下半期)の赤江行夫さん『長官』と、ほぼ同じです。ただ、『長官』とは違って、『日本工作人』は2度の候補とも強力に支持してくれた選考委員が一人いました。
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第29回(昭和28年/1953年・上半期)候補作
飯沢匡「腸詰奇談」(『別冊文藝春秋』32号[昭和28年/1953年2月])
問題です。『別冊文藝春秋』がこの世からなくなっても直木賞は続けていかれるでしょう。では逆に、直木賞がなくなったら、果たして『別冊文藝春秋』は一人で立っていかれるでしょうか。
正解は知りません。にしても、あの中途半端な立ち位置を保持したまま、世知辛い資本主義社会でいまも残っている姿が、けなげだ。素晴らしい。がんばれ、『別冊文春』。
なぜか一つの出版社に似通った路線の雑誌が二つあります。片や部数7万部、中間雑誌界でもトップセラーの地位を守っているのに、片や部数1万部ちょい。心配と不安の入り交じる低空飛行。『新潮』とか『文藝』とかと大差ありません。そのくせエンタメ誌の顔をしています。
そんな『別冊文春』は、創刊が昭和21年/1946年。最初の頃は、すでに名の売れた大家とか純文学作家とかに誌面を提供して、まさに誌名の通り、『文藝春秋』本誌の文芸欄を拡大してそのまま雑誌にしちゃったようなものでした。芥川賞や直木賞をとったような人が、あとで作家生活で食いつないでいくときのための舞台をつくってあげたわけであって、それはそれ、受賞者を投げ捨てにしないこの出版社の、えらいところでもあります。
それから、時流は中間小説大はやりだあ、の線路にのって、ゴッタ煮で何でもありの娯楽誌『オール讀物』がひた走る中、でもよ、あんなマンガだの下品な読み物だのが混じった低級雑誌なんて買えるか、という良識派のために、もう一車両、『別冊文春』もガガーッと疾走しました。
そうはいっても、新人作家やら、直木賞をもうじきとりそうな人々のテリトリーは、すでに『オール讀物』が提供していたので、『別冊文春』のほうはしばらく、そんな連中にはちと敷居の高いハイグレード(?)雑誌だったわけです。
とか言っているうちに、直木賞がぐんぐぐーんと有名になるにつれて、出版社にとっては、直木賞受賞者はもちろんのこと、直木賞をとる前の、初々しい作家の作品でも客がとれるようになっていきます。それまで“候補作製造マシーン”としての機能は、芥川賞なら『文學界』、直木賞なら『オール讀物』と相場が決まっていました。そこに『別冊文春』が割り込んで、直木賞なら『別冊文春』に発表しなきゃ駄目だよ、ってなふうになるのは昭和40年代以降のことです。
あのね、これって、たまたま、じゃないんですよ。ワタクシ一人の邪推でもないんですよ。
当時の『別冊文春』は、『文學界』の編集部が兼務して編集していました。とくれば、その営業的編集戦略もおたがいに何らか重なり合うはずです。“候補作製造マシーン”化もそのひとつ。芥川賞と直木賞が、作家が頑張って作品を書く格好の目標であることを最大限に活用し、自らの雑誌を勢いづかせるために、うちの雑誌に書けば候補の近道、っていう看板をおったてた豊田健次編集長の功績は、そりゃあ尋常じゃありません。
○
ええと、前置きが長くなりました。さて、今回の名候補作です。「腸詰奇談」です。
この作品が載った頃の『別冊文春』はまだ変容前です。その面からして、当時としてはそうとう異色です。ちなみに同誌が生み出した直木賞候補作は、これが第一号でした。
作者の飯沢匡さんは……有名人ですから、今さらここでご紹介することもないでしょう。劇作、とくに喜劇において一家をなし、自分で書くだけじゃなくて演出もこなし、途中ちょこちょこっと小説も書き、ロマンスグレーなる和製英語を流行らせ、「怒庵」と綽名された父の血を受け継いで社会風俗に対する怒りの雑文を書き続けた、そんなお方です(ちょっと端折りすぎですか)。
「腸詰奇談」は、いわゆる“諷刺”もの。年老いた首相の身に起きた異常事態、それはある朝起きたら、なんと自分の腸が、腸詰め(ソーセージ)になっていた、ってところから始まる、あれやこれやの珍事態が繰り広げられます。
古いアタマの持ち主でも、ああこれは諷刺だなと簡単にわかる“政治諷刺”。どうですか。直木賞では分の悪いユーモア小説類の中でも、いかにも“昭和20~30年代文春的ユーモア”満点じゃないですか。
ただ、選考会では否定されちゃいました。そうか、直木賞の法則からすれば、“何が何をどういうふうに諷刺したものか、はっきりとわからないと高点を得られにくい”んですもんね。飯沢さんのユーモア感覚は、ちょっと飛びすぎてましたかね。
ワタクシは好きです。この“飛びさ”加減が。
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