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2008年8月24日 (日)

通俗小説の名作。もっとも“直木三十五”的だよな、と思いきや……。 第4回候補 角田喜久雄『妖棋伝』

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  • 【歴史的重要度】… 3
  • 【一般的無名度】… 2
  • 【極私的推奨度】… 4

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第4回(昭和11年/1936年・下半期)候補作

角田喜久雄『妖棋伝』(昭和11年/1936年7月・新潮社刊)

 戦前に、探偵小説で直木賞をとったのはたった一人しかいません。だからと言って、戦前の探偵小説に元気がなかったと断じる人は、きっと誰もいません。

 しかも、唯一の受賞者が、なぬ? 木々高太郎だって? 何でやねん。と思わせてしまうところが、さすが直木賞、ちと常人の感覚からズレています。

 このズレは、ことに昔は、おおよそ直木賞がはらんでいた自縄自縛に由来していて、つまり、賞を「大衆文芸」に与えると規定してしまったことに無理がありました。大衆文芸とは何だ、そうだ、少なくとも大衆文芸だって「文学」である、そしてそこに通俗小説は含まれない。これが初めの頃の直木賞選考委員会の立場です。でも、たいていの大衆は、文学よりも通俗を愛します。直木賞が、いったいどんな小説を奨励しようとしているのかわからない、なんだかヘンテコリンな賞になっていくのは、当然の流れです。

 第4回(昭和11年/1936年・下半期)は、ようやく直木賞がその選考体制を整え始めた時期にあたり、早くもその無謀さゆえの齟齬がニョッキリ頭を見せた回でもありました。獅子文六でも、小栗虫太郎でも、そしてこの角田喜久雄でもなく、木々高太郎を選んでしまいます。

 木々さんの作品がよくない、ってわけじゃないですよ。ないんですが、『人生の阿呆』ってそんなに面白いか? って疑問は別にワタクシだけじゃなく、すでにいろんな人が語っています。面白さで言うなら、獅子文六が『新青年』に書き出した頃の諸作のほうに軍配が上がりそうなもんです。うーん、これって結局は、選考会内における、「文学」重視の久米正雄小島政二郎連合(木々を推しました)と、芥川賞との掛け持ちでない専任委員の吉川英治(獅子を推しました)との、当時の発言力の差、なんだろうかと思いたくなるところです。

 で、角田さんの『妖棋伝』です。

 通俗性で測るならば第4回候補作のうち抜群のトップでしょう。「大衆文芸」なんて誰もその基準を明確に示すことなどできないんですから、通俗性もまた、大衆文芸の重要なる一要素だとして、直木賞が取り上げたって何の不思議もなかったはずです。

 しかし、そうはなりませんでした。通俗性なぞを評価して、直木賞がさらに文壇から軽蔑されるのを我慢する勇気が、当時の直木賞関係者にはなかったからです。たぶん。……っていうかねえ。軽蔑も何も、直木賞はほとんど文壇からは黙殺・無視されていたんですから、そんなに気にすることなかったんですけど。気にしすぎ。

 読み捨てられ、時代とともに消えていくのが(直木賞の受賞作といえども)大衆文芸の運命なんでしょうけど、『妖棋伝』の面白さを、来たる世の中に伝えられないなんて惜しすぎる。

 と思ったら、まだこれ、新刊本として普通に書店で手に入るんですね。すげーぜ、春陽堂。あっぱれ、春陽堂。通俗小説よ、永遠なれ。

          ○

 徳川治世の享保元年、浅草の裏道。士官の道を求めて、上州の村外れからやってきた武尊守人は、息絶え絶えの男に遭遇します。男は黒装束に覆面、という異様ないでたち。「やまびこ」とのダイイング・メッセージを残して事切れた男の手には、なぜか一枚の将棋の駒「銀将」が握られていました。

 守人はさっそく番所に届けようとしますが、その前に、醜悪な顔貌をした怪人が立ちはだかります。誰だ、こいつは。その怪人こそ、江戸を賑わす縄つかいの「縄いたち」。守人は、父によって完成した武尊流縄術の使い手だっただけに、この縄術という珍しい武器を用いる男と会いたいと思っていた矢先でした。

 死人が最期に発した「やまびこ」の意味とは――? そして、彼の手に握られていた銀将は――? そして怪人「縄いたち」の正体とは――? それを探る守人の前に、次第に、その謎に秘められた壮大な陰謀が明らかになっていきます。

          ○

 『妖棋伝』の最初の版元は新潮社。はて、角田喜久雄と新潮社って、そんなに縁があったっけ、と首をかしげていましたら、その辺の事情を、和田芳恵『ひとつの文壇史』(昭和42年/1967年7月・新潮社刊)が教えてくれました。

「昭和十年四月号から翌年の六月号にかけて、「日の出」(引用者注:当時の新潮社が出していた娯楽雑誌)に連載された『妖棋伝』も、持ち込み原稿であった。これは、新潮社の初代社長の三男佐藤道夫さんと作者の角田喜久雄さんが、東京高等工芸学校印刷科で同級だった縁によるものであった。」(「近松秋江の執念」より)

 ふうむ。早熟の異才、懸賞荒らしで名を馳せた角田さんも、この作品は知友を頼っての持ち込みだったんですねえ。

 さらに詳しく、もうちょっと前の、持ち込む以前のエピソードも紹介してくれているのが、大村彦次郎『時代小説盛衰史』(平成17年/2005年11月・筑摩書房刊)です。

 そもそも、この作品の原型も角田さんお得意の、懸賞募集のために書かれた小説だったんだとか。

「昭和の初期、映画はまだサイレント時代であったが、大衆の人気はマキノ・プロを初めとするチャンバラ映画に集中した。角田が勤務の傍ら、寿々喜多呂九平の「雄呂血」や山上伊太郎の「浪人街」などのような前衛的な時代劇のシナリオを書いてみたい、と思ったのもその頃だった。昭和八年に報知新聞が映画小説という名目の懸賞募集をおこなった。野村胡堂や本山荻舟ら同社の専属社員が選者で、当選したら直ちに映画化されることが条件の一つだった。角田は一ヵ月余をかけ、八百枚の小説を書き上げて、応募した。まもなく選者の胡堂からこの作品は題材的に新聞社のタブーに抵触し、審査の対象にできないから了解してほしい、という丁重な釈明の手紙が来た。」(「角田喜久雄と三上於菟吉」より)

 おお。脈をたどっていくと『妖棋伝』の根は、チャンバラ映画ですか。いいじゃないですか、まさに直木三十五が生前やっていたことみたいで。

          ○

 この作品が直木賞の候補になったのは、もう確実に、選考委員の三上於菟吉ただひとりの惚れ込みによるものでした。三上於菟吉……、そう、酒席での奇行で知られる三上さん。純文芸に対する劣等意識で凝り固まっていた三上さん。ほとんど直木賞選考会に顔を出さなかった三上さん。生前は人気絶頂、でも死後はまるで存在感を失い、今やその名を知る人のほうが怪訝な目で見られるという、まるで直木三十五と相似形をなす三上さん。ああ、三上さん三上さん。

 直木賞選考会には全然積極的に参加しようとしなかった三上さんが、珍しく第4回では角田喜久雄さんを推しました。なのに、やっぱり最終選考会には欠席。……しょうがねえ奴だなあ、それだから小島政二郎から「真剣さが足りない」みたいなお小言を頂戴するんだよ。

 おそらく当時の選考委員のなかで、白井喬二さんと、この三上さんだけは、通俗性もまた大衆文芸には欠くべからざるもの、との正直な評価をしてくれていたと思うんですけど、三上さんの出席率の悪さは、そのまま、三上票への軽視につながってしまいました。結果的に(いや、意識的に?)直木賞は、始まって間もないというのに、“賞の性格からいかに直木三十五的なものを排除していくか”、の路線を歩むことになりました。

 だってねえ。木々高太郎『人生の阿呆』と、角田喜久雄『妖棋伝』とを並べて、さてどちらが直木三十五の賞にお似合いでしょう、と尋ねたら、返ってきた答えが『人生の阿呆』ですからねえ。

 通俗・低俗、かならずしも劣等ならず。直木三十五さんは自分の身をもってそれを体現されたんでしょうけども。その名を冠した賞が、それを引き継げなかったのは、直木さんが偉大すぎたのか。いや、異常すぎたのか。

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