第139回候補・三崎亜記 3年9ヵ月前に第17回小説すばる新人賞受賞 「新人賞の選考会で、「この作者は天才かもしれない」という発言を耳にしたのは、私は今回が初めての経験でありました」
デビュー作にしてベストセラー、のハナシだったら三崎亜記さんのも負けちゃいません。記憶に新しすぎて、振り返るのも憚れますけど、『となり町戦争』が発売から1年4ヵ月後に映画化されたときのニュースソースでは「16万部」の文字が躍っています。 この小説を小説すばる新人賞に選んだのは5人の選考委員でした。そのうちの4人が、10ヵ月後にもう一度、同じ作品を直木賞で選考することになって、褒めてるのか不安がってるのか、よくわからない選評を書いてしまった、っていうのはすでにワタクシたちが目にした過去です。 今日のエントリー・タイトルには、5人のうち直木賞委員ではなかった唯一の人、宮部みゆきさんの言葉を使わせてもらいました。
宮部さん自身が「天才かも」と言ったわけじゃない、ってのがミソでして、宮部さんは悩みに悩んで、結局はこの作品を“推した”わけではないことが、選評に滲んでいます。
この応募作、かなりの“難問”だったようで、大なり小なり選考委員のみなさんに、「これって才能なのか。それとも、たまたま書けちゃっただけなのか」と思わせてしまったのは確からしいです。ただひとり、自信満々の賛辞を塗り重ねたアノ委員を除いて。 |
■選考委員
■応募総数
- 1,176篇
■最終選考委員会開催日
- 平成16年/2004年9月22日
■最終候補 全3篇(…◎が受賞作)
- 御清 街(受賞後・三崎亜記に改名)「となり町戦争」◎
- 弘吉青雨「味わう傷」
- 浅野朱音「オリエンテーリング!」
■賞金
- 100万円(正賞は記念品)
■発表誌
- 『小説すばる』平成16年/2004年12月号・集英社刊
何の疑いも差し挟まず、とにかく褒め言葉を羅列した、といえば、もちろん井上ひさしさんです。他の委員が「才能」の面にこだわって、ああでもないこうでもない、と悩んでいるらしいのに、ひさしさんだけは、そんな難しいハナシをすっ飛ばして、とにかく作品の出来の高さだけをベッタベタに評価しました。
○
ひさしさん賛辞のことばは、直木賞のときにも繰り返されましたので、第133回(平成17年/2005年・上半期)の選評の切れ端をご覧いただくことにしまして、ここでは、ダンディ北方の言葉を引用させてもらいます。
「『となり町戦争』は、わからない小説である。わからないなりに、読む者を惹きつけるのは、細部の描写の巧みさにある。」
「どうにでも解釈できるところがあり、引きこまれて読むことができ、しかしなにを書きたかったのだという批判が出ることも見える。気づくと作品だけがそこにある。明日読むと、また違う意味を傍受してしまうかもしれない。この作品に賞を与えることは、冒険であった。しかし、必要な冒険であろう。そういう冒険ができたことは、選考委員として喜びでもある。」(北方謙三「人はこれをどう読むか」より)
冒険ですか。読者からすれば大歓迎ですよ。だいたい、守りに入った文学賞なんてものは、主催者や出版社、選考委員(つまり既成作家)っていう、ソッチ側の人たちだけが快い、自慰行為に明け暮れちゃいますからね。謙三アニキには、とくに「たまには冒険」じゃなくて「常に冒険」を、心から期待してしまいます。そういうことのできそうな人ですもん。
そんな謙三アニキがデビューした頃にはすでに文学賞の選考委員をやっていたのが、五木寛之さん。直木賞の舞台に登場した三崎さんの候補作については、『となり町戦争』は大絶賛、次の『失われた町』(第136回 平成18年/2006年・下半期)に対してはゼロ回答でしたが、そもそも三崎さんのデビューに立ち会った段階で、こんなハナシをされておりました。
「悪夢をこれほど清澄に、妄想をこれほど細密に描くことのできる才能は、はたして文芸ジャーナリズムの要求する拡大再生産に耐えうるだろうか、というのが私の最大の興味である。」(五木寛之「『となり町戦争』を推す」より)
ほう、文芸ジャーナリズムってやつは、拡大再生産を要求するもんなんですね。“文芸ジャーナリズム”が、いったい何を指し示した概念なのか、はっきりとはわかりませんが、ともかくデビュー以来、常に“それ”と対峙して長年耐えてきた五木さんならではの言い回し、と言ったら言い過ぎでしょうか。
まあ、拡大再生産を要求しない世界も、この世の中にはきっとありますから、だいじょうぶ、三崎さんにはのんびりやっていっていただきましょう。
○
くどいけれどリフレイン。三崎さんにはのんびりやっていっていただきましょう。
「筆の遅い私には、まだこの先どんな一歩が踏み出せるかはわかりませんが、いつか新しい作品をお見せできるその日まで、忘れないでいていただけたら幸いです。」
と、三崎さんは小説すばる新人賞の受賞の言葉で、つぶやきました。そんなに腰を低くしておびえなくても、心配ないと思いますよ。人間、忘れっぽいものかもしれないけど、案外、いろんなことを憶えてもいるものです。少なくとも、何年も前、何十年も前のことを、コッツリコッツリ掘り返しては楽しむような人間が、ここにひとり、おりますし。
直木賞の繰り出す妨害ビームが、この方のマイペースな歩みを邪魔しないことを信じます。
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コメント
五木さん、「この書き手にはたしてこれを超える次作があるのだろうか。」と書いて、でもって次はゼロ回答、というのが何かすごくわかりやすいというかなんというか、ですね(笑)
投稿: 毒太 | 2008年7月13日 (日) 00時25分
毒太さん
そう、五木さんは正直な方ですから。
他の誰もが反対しているのに、ただひとり自分のツボにハマッた作家を推し続ける、
そのゴーイング・マイ・ウェイぶりは素晴らしいんですけどねえ。
ときたま、その「ツボ」が深すぎるのか、
最初のころに抱いた強い印象を、ずーっと持ち続けちゃうところも
おありになるみたいですよ。
深田祐介、西村望、小嵐九八郎、馳星周、桐野夏生、姫野カオルコなんてみんな
その「五木ループ」にハマって、推してもらえなかった面々でしょうけど、
三崎さんがそのループから脱することを、切に祈ります。
投稿: P.L.B. | 2008年7月13日 (日) 18時43分