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2008年5月 5日 (月)

無法松、無法松って、もう言ってくれるな――いえ、言わせてください。第10回・第11回候補 岩下俊作「富島松五郎伝」

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  • 【歴史的重要度】… 5
  • 【一般的無名度】… 1
  • 【極私的推奨度】… 3

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第10回(昭和14年/1939年・下半期)・第11回(昭和15年/1940年・上半期)候補作

岩下俊作「富島松五郎伝」(『九州文學』昭和14年/1939年10月号->『オール讀物』昭和15年/1940年6月号再録)

 しょっぱなから奇をてらうのも大人げないので、堂々たるハイパー有名候補作から行きます。

 作者の岩下俊作さんは、おのれの代表作がいつまでたっても「富島松五郎伝」、いや改題後の「無法松の一生」と言われ続けてホトホト辟易している、と後年にいたるまで、ことあるごとに愚痴をこぼしました。戦中に舞台化されたり、映画化されたりして、戦後になっても何度もそっち方面で取り上げられちゃって、“ああ、『時をかける少女』って原田知世のやつ。……え? あれって原作があったの?”っていうのと同じパターンです(ちょっと違うか)。

 しかし、直木賞のなかでの名候補作の地位は、断然ゆるぎありません。もちろん、「無法松の一生」としてではなく、「富島松五郎伝」として。

 なので岩下さん、すみません。「辰次と由松」や「諦めとは言へど」や「西域記」を取り上げたいのはヤマヤマなんですが、「富島松五郎伝」を抜きにして直木賞を語るのは、もう不可能な領域なんです。どうかコラえて下さい。

          ○

 この作品が、直木賞史上、キラめきを放っている理由は大きく二つあります。

 一つは、第10回(昭和14年/1939年・下半期)で、一度は蹴り落とされながら、なんと半年後に再び、同一の作品で候補にさせられていること。そして2度目もまた、結局、落選の谷に突き落とされている境遇です。

 一度、候補に挙げた作品は、再度の候補にはしない、というのがどうやら直木賞の不文律らしく、それはたとえば、今井泉の「溟い海峡」が第91回(昭和59年/1984年・上半期)候補となりながら落とされ、約10年後、それを収録した短篇集『ガラスの墓標』が第109回(平成5年/1993年・上半期)の候補になったときに、同書に収録されたもののうち、「溟い海峡」を除く「ガラスの墓標」「道連れ」「島模様」の3作のみが、候補として選考対象となったふうなのを見ても、わかります。

 赤江行夫の『長官』(第36回 昭和31年/1956年・下半期 候補)にしても、そうです。その1回前に候補になったのは「長官」第一部(『長官』全体の前半部分)であって、これはこれで珍しいかたちの連続候補なんですけど、まったく同じものが二度候補に挙がったわけじゃありません。

 そうさ、「富島松五郎伝」みたく、2度も連続して選考されながら、2度とも授賞に値せず、なんて失礼な判断をくだされたのは、先にも後にも、これのみなのさ。はあ、大月隆寛さんが『無法松の影』(平成7年/1995年11月・毎日新聞社刊)で指摘されているように、同じく2度連続して俎上に乗せられたお仲間、堤千代「小指」のほうは、2度目でめでたく受賞となっているのに。

 もちろん、ここらの事情はさまざまな解釈が可能でしょうが、たとえば第10回の経緯で瀧井孝作さんが語っている裏事情は、こんな感じ。

「銓衡会の席上で、この「宮島松五郎伝」(原文ママ)は、読了の委員の大方は、この作品を佳作と認めて、褒めていたので、ぼくはありがたかった。評判がよかったが、当選とはまだ定らなかった。それは、同人雑誌の九州文學位に只一つ載ったものに賞をやるのは、如何にも候補者がなくて遠くから探し出してきたようで直木賞の建前としては可笑しい、と菊池さんがぼくに云われ、それは尤もで、ぼくは直木賞の建前をよく未だ知らなかったわけだから、大方の委員に佳作と認められた点まあ十分なので、今回の賞には、引込めてもよいと思った。その代りこの作品は、作者が承諾すれば、オール讀物に掲載してほしいと云っておいた。」(『文藝春秋』昭和15年/1940年4月号「大衆文学に就て――直木三十五賞経緯――」より)

 菊池親分よ、建前だなんだと言うんなら、そもそも候補作にするなよ、とツッコミたくなるのをおさえて、次の第11回の経緯で宇野浩二が書いていることを読んでみると、どうも「富島松五郎伝」を最初に直木賞の場に押し出したのは、この瀧井孝作なんだそうです。

「岩下俊作の『富島松五郎伝』は、これも前の時に可なり問題になった作品で、芥川賞の候補になっていたのを、瀧井が、これを直木賞の方に推したい、と云ったので、私は、読んでみて、鈍なところはあるけれど、なかなか面白い小説であると思って、こういう作品をも直木賞にしては、と推薦した。」(『文藝春秋』昭和15年/1940年9月号より)

 ははあ。第28回(昭和27年/1952年・下半期)のときに永井龍男松本清張の「或る『小倉日記』伝」に対しておこなったアクロバチックな手法は、なにも永井さんの発明じゃなかったんですな(そのときは、直木賞から芥川賞へと、向きは逆でしたけど)。

          ○

 実はここら辺の経緯は、「富島松五郎伝」が放つ光の、二番目の理由にも大きく関係しています。

 というのもこの作品、直木賞の歴史のなかではじめて、同人誌に掲載された個人作品が選考された記念すべきものなのです。しかも、かなりいい線まで評価されたっていうオマケつき。

 菊池寛がブーブー言っているように、それまで直木賞っていえや、一応は商業誌に作品を発表したことのある作家たちを対象にしていました。しかし、菊池さんはともかく、他の選考委員のなかには、果たしてそんな中に新しい大衆文学の芽が埋まっているんだろうか、と疑問に思っていた人(もしくは違和感を感じていた人)が何人かいたことは事実でしょう。

 で、自分たちは純文学を書いているつもりの同人誌のなかから、大衆文学を書けそうな素質の作家や作品を見つけ出してくる。っていうのは、のちの直木賞でもけっこうひんぱんに用いられた方法です。その源が、「富島松五郎伝」にあり、またこの視点を持ち込んだのが、菊池寛でも佐佐木茂索でも、直木賞の選考委員たちでもなくて、芥川賞の側にいた瀧井孝作だった、という事実がここにはあります。

 そんな重要な路線を発見できたんですからね、当時、直木賞の選考を、専任委員たちだけじゃなくて、芥川賞委員も交えて行おうとの試みが数回続けられたんですが、その試みもまったくの無駄ではなかったようです。

 そして、『九州文學』に「富島松五郎伝」が載ったからこそ、第10回のところで、直木賞の向かう方向が変わった――いや、選ぶべき方向に一つ選択肢が増えた、と言えると思います。

 ね。この作品抜きじゃ、直木賞は語れないでしょ。

          ○

 さて、当の岩下俊作さんにとっては、甚だ迷惑なハナシだったのでしょう、たぶん。だって、『九州文學』の仲間たちはこぞって、第10回の芥川賞で予選の候補になって、矢野朗の「肉体の秋」、原田種夫の「風塵」、劉寒吉の「人間競争」、勝野ふじ子の「蝶」と、芥川賞委員・宇野浩二からはボロクソ言われているんですけど、それでも彼らの気持ちのなかでは、直木賞みたいな一段格下のところで議論されるよりマシ、と思っていたかもしれません。

 ただひとり、直木賞のほうに回されて、しかもソッチでも2度も落選の憂き目を合わされるなんて、なんたる屈辱。ああ、岩下さん。涙、涙。

 それでも、芥川賞的でもなけりゃ直木賞的でもない、そんな概念を超えたところに位置する、ひきしまった文章のうえに読んでおもしろい、名候補作第1号の栄冠は、「富島松五郎伝」の頭上に輝いているのです。矢野朗、原田種夫、劉寒吉、勝野ふじ子のどの作品よりも、後世の多くの日本人に愛される作品を書いたという現実をもって、岩下さんの不満が少しでもおさまればよいのですが。

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