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2008年4月20日 (日)

本屋でぼくの本を見た 作家デビュー物語

 だれか特定の一人の作家を、一生涯追いかける、そんな情熱を自分が持てたらよかったのになあ、と思うことありませんか。ワタクシはあります。“直木賞”みたいな、ヌエそのものの、とらえどころのない研究対象を必死に追いかけている合間なんかに、ふと。

080420w170『本屋でぼくの本を見た 作家デビュー物語』新刊ニュース編集部・編(平成8年/1996年10月・メディアパル刊)

 62人の作家たちが、自分のデビュー作のこと、その生まれた背景やら、発表までのいきさつやらを、それぞれ3~4ページ程度の短いエッセイに書いています。収められているのは、エンタメ作家だけでなく、石坂啓さんとか、鎌田慧さん、高井有一さん、矢口高雄さん、その他幅広く顔を並べていまして、この本を通読していったいどんな感想を持てばいいのやら、迷うばかりです。

 もし一人の作家だけを執念深く追っているのだとしたら。本書のような本に、その作家が登場するだけで幸せな気分になり、たとえそれが短い文章でも、かじりつくように読めるのでしょう。しかし、こちとら、そうも参りません。

 とはいえ、作家のデビューだけに着目してみれば、また違った世界が開けてくるかも。たとえば、明治・大正・昭和・平成と時系列で分析してみたら、“昔は同人誌、今は懸賞当選”みたいな、大ざっぱすぎて、にわかに信じがたい傾向分析以上のものが、かならずや見えてくると思います。けど、今のワタクシは手をつけません。

 まあ、ここは手堅く、直木賞を軸に見ていきますか。

 本書に登場する直木賞受賞作家、候補作家は全部で21人。デビュー作(ってこの定義も、受け取る人によってマチマチですけど)が、直木賞の場で取り上げられるのって、多くはないけど、必ずしも少なくはありません。直木賞は“新人賞”と言われることもあるけど、大して“新人賞性”なんてないんだぜ、とけっこう言われます。しかしまあ、よく見てみりゃ、案外べっとりと蓋の裏のほうに、残っているもんです。

 ほら、たとえば、札幌の広告会社に勤めていた当時39歳のOL、熊谷政江さんの場合。

「中編二作をおさめた「マドンナのごとく」が発刊されたのは、一九八八年の五月十五日だった。発売元の講談社から私用にと二十冊ほどいただいた。

(引用者中略)

「これ、私の一生に一度の記念よ。トシを取ったら、この本を持って老人ホームに入居してね、で、うんとイバって自慢するの。若い頃にこうして本も出版したことがあるんだって。」」

 おそらく、熊谷さん、筆名・藤堂志津子さんの人生を変えたのは、直木賞です。

「私の生活が激変を余儀なくされたのは、その年の七月にこの本が直木賞候補(引用者注:第99回 昭和63年/1988年・上半期)の一冊に挙げられたときからである。

 出版界のことなど何も知らなかった私は、編集者の励ましとも脅しともつかない言葉のかずかずに、そのつど翻弄され、顔色を失い、その結果、日ごとに痩せ、体調をくずした。(引用者中略)

 バチが当ったのだ、と痛切に思った。深い考えも自覚もないままに出版社のすすめに従って本などだしてしまったために、こんな目にあうのだ、と。苦悩の毎日がつづいた。毎晩ベッドのなかで泣いた。会社を辞めるのが怖しかった。そうした日々をへて同年の十二月末日で、私は恐怖におののき、会社に未練を残しつつ退職した。」(「うれしさのあとで」'96・6 より)

 仮に、この世に直木賞なんちゅう魔物がなかったとしたら……。出版社の編集者たちがその魔物の動向にあたふたしなくてもよい世界であったなら……。藤堂さんの『マドンナのごとく』は、熊谷おばあさんの宝もので終わっていたに違いありません。

 まったく、直木賞のおせっかいめ。いやいや、直木賞の功名ここにあり、と言っておきましょう。藤堂さん、どうぞ年老いるまで、いましばらく自分勝手な読者たちに、おつきあいくださいませ。

 もう一発、ピカピカの受賞作家のエッセイを見てみます。ここにも、おせっかい野郎・直木賞君が、飄然と顔を出していますよ。

「雑文書きをしているときに知りあった編集者から、

「小説を書いてみませんか」

 と勧められ、私がまず考えたのは短篇小説であった。

「短篇集は売れないからなあ」

 と、その編集者は難色を示した。これは今日でも充分に生きている鉄則であり、新人作家が短篇集でスタートをするケースは本当にめずらしい。」

 さて、この短い引用のなかに二つも会話文が出てくる文体、「本当にめずらしい」などと、いったい何を根拠にそんな決めつけをしているのか、いまいち真意のつかめない、脇の甘い論調。これをもって、ああ、あの人の書いた文だなと想像できてしまった方、あなたはスルドい。

「さいわい、評判はよく、直木賞の候補にもあげられた。それまでの直木賞の傾向から言えばちょっと異端の作品集だったから意外でもあり、とてもうれしかった。このときは受賞を逸したが、引き続いて出版した同種の短篇集『ナポレオン狂』が第八十一回の受賞作となり、運のよいスタートとなった。

 『冷蔵庫より愛をこめて』は今でもよく売れている。文庫本は三十二刷を数え、五十万部に近づいている。わが家の米びつのような存在である。」(「短篇から長篇へ」'92・6 より)

 そうですね、阿刀田高さん。第80回(昭和53年/1988年・下半期)候補作の『冷蔵庫より愛をこめて』は、直木賞に新風吹く、とも言える画期的な候補選出でした。その新風を乱すことなく、つづいて1年もたたないうちに同種の作品集を出版したことが、なによりも阿刀田さん、もしくは講談社の勝利でしょう。

 デビュー1作、2作でくっきり、短篇作家・阿刀田高像、を印象づけられたのは、もちろん“運のよい”展開ではあったのでしょうが、いえいえ、もう実力のなせるわざです。

 もう一人、本書で語る「デビュー作」が、いきなり直木賞候補に挙げられた作家がいます。いやまあ、これこそ異色の候補作でしょうがに。日本ノンフィクション賞新人賞を受けたこの作品を、わざわざ直木賞の舞台に挙げた事務当局の勇気たるや、相当なもんです。

「作家という職業に転ずる前、およそ十四年もジャーナリズムの世界に身を置いていた。この間、自分の書いた文章が活字になることはごく日常的な現象で、そうした作業をさほどの感動も感慨もおぼえずにこなしていた。

 ところが、三十代のなかば近くになって、ふと思った。時には、ああ、やっと活字になった、よかった……と思えるような仕事をすべきではないかのか、と。」

 平凡出版で、『平凡パンチ』『週刊平凡』『ポパイ』などの編集に携わっていた鈴木正昭さんは、こうして一念発起、北方領土を舞台に漁師、漁船のことを描こうと取材を始めます。

「彼らを主人公にして、ドキュメンタリー・タッチのミステリーを書いてみたい……。そう思うともうじっとしていられなくなり、休みごとの北海道通いがはじまった。

 こうして、約五年近い取材期間と、一年足らずの執筆時間を費して、わたしはデビュー作『オホーツク諜報船』を書きあげたのだった。」(「ぜいたくな作業」'90・8 より)

 作家・西木正明の誕生までには、6年弱の、人知れぬ雌伏のときを要していたのだなあ。6年弱っていえや、ああ結構長いとしつきですぜ。こういう文章を読むと、ほんと尊敬の念がわいてきます。

 そして、この作品、第84回(昭和55年/1980年・下半期)の直木賞選考委員会では、源氏鶏太さんより、

「面白過ぎる程面白かった。しかし、この面白過ぎるところが、文学的な香気を薄めているように思われた。」『オール讀物』昭和56年/1981年4月号選評「感想」より)

 との、直木賞ではありがちな、褒めているのか貶しているのか、ようわからんお言葉を頂戴することになるのでした。うーん、読者の心境としては、ちょっと複雑。

 ええと、せっかくなので、お一人ぐらい、受賞作家でない方の、デビュー作エピソードもご紹介しておきましょう。

 第79回(昭和53年/1978年・上半期)に「イタチ捕り」で候補になった方、どっちっかっていうと芥川賞エリアのお方ですか? で知られる小檜山博さんです。

「三十代の半ば、同人誌に書いた短篇『低いままの天井』が「文學界」に転載され、その掲載誌を神棚に上げて酒を飲み、涙を流した。」

 そうですか。涙を流しますか。当時の同人誌作家にとって、『文學界』の同人雑誌優秀作に選ばれることが、いかにおめでたい、天にものぼる慶事だったのかがうかがえて、胸があたたまります。

 そして小檜山さんは「出刃」という作品を、文學界新人賞に応募します。

「千二百編あったという応募の中で『出刃』は最後の七編に残ったようだが、編集部の予想では『子育てごっこ』という作品が受賞するだろうということで、『出刃』は書き直して次回に再応募しようと一度、返してもらった。」

 またまた、なんちゅう裏バナシを暴露しているんですか、小檜山さんったら。文學界新人賞では、最終候補に残ったものを、本人の希望で途中で取り戻すことができるんですか。知らんかった。っていうより、あなた、「子育てごっこ」が受賞するだろうだなんて、編集部の分際(?)で、そんな予想して他の候補者に洩らしちゃってもいいんですか。んもう、文學界さんったら、何でもアリなんだから。やんちゃ坊主だねえ。

 で、「出刃」は紆余曲折をへて、『北方文芸』の懸賞小説に応募、野間宏、吉行淳之介井上光晴の三氏の絶賛のもと、当選して、これが芥川賞候補にもなってしまいます。さらに元・河出書房新社の編集局長、坂本一亀の目にとまり、坂本が新しく創立した構想社の、旗揚げ出版の一冊として出版され、各紙の書評に取り上げられたものだから、小檜山さんの名はメジャーなものになっていきました。

「そんなある日、吉行さんから手紙がきて「いい評がつづいて嬉しく思ってます。ただ、はしゃぎすぎないように。これらの評は坂本一亀への応援でもあるということを忘れないように」と書かれてあったのだ。

 ぼくは一瞬、息が詰まって宙をあおいだ。(引用者中略)ぼくは腹に力を入れ、吉行さんの気づかいに深く感謝し、たしかにはしゃぎぎみだった自分を戒めた。そのことでぼくは、もの書きは謙虚であるべきだということを教わったのだった。いい人に出会えた幸せを感じた。」(「謙虚さを」'96・3 より)

 最近になって、なんだか新聞記事に、よからぬ面で取り上げられてしまって、さぞかし反省され、また気落ちなさっていることでしょう。吉行淳之介さんは、もうこの世にはいません。しかし、小檜山さん、吉行さんの励ましは今もお忘れになっていないと信じています。ぜひ今後も、たくましくご活躍のほどを。

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