直木賞事典 国文学 解釈と鑑賞 昭和52年/1977年6月臨時増刊号
まる1年間ひたすら歩いてまいりました。これで52冊目です。ぐるり回りまわって結局、キホンに帰ってきました。直木賞の基礎資料として、いまだにナンバー1の不動の座を維持しているのが、文藝春秋の本じゃなくて、至文堂の本だっつうのも、何だか妙なハナシですが。
『直木賞事典 国文学 解釈と鑑賞 昭和52年/1977年6月臨時増刊号』(昭和52年/1977年6月・至文堂刊)
そうです、端から端まで直木賞のことだらけ、しかもエラくまじめに、直木賞を斬ろうとして、時にうまくいき、時に失敗している内容はともかく、ええい、こんな本がそれまであっただろうか。と、当時の直木賞研究家たちが涙を流し、こぞって新宿の至文堂を訪れ、玄関の前で感謝の声をあげる光景が数か月間は見られた、という伝説が残っているほどです。おお、空前。しかしながら、かなしいかな絶後。
文学研究の世界では、そりゃあ、純文学と大衆文学のこととか、文学賞やジャーナリズムのこととか、そんな切り口は、コツコツと積み上げられていました。しかし、“芥川賞”のハナシを抜きにして、直木賞だけを語る文学研究なんて、ふつうのアカデミック人は、やりません。見向きもしません。
だから、『国文学 解釈と鑑賞』が昭和52年/1977年に「芥川賞事典」を出したこと、この行動はおおむね理解できます。しかしねえ、いくら兄弟賞だからって、「直木賞事典」まで出しますか、ふつう。
そんな偉業、はたまた暴挙をやってのけた、制作担当の金内清次さん、編集代表の長谷川泉さんには、大いに賞讃の拍手を送りたいと思います。ありがとうありがとう。……ところで、ハセガワ・イズミって、どなた?
Wikipediaによりますと、っていうか、おそらく小谷野敦さんの調査によりますと、長谷川泉さん、いろんな大学で講師を務めながら医学書院に勤務して、のちにその社長にまでなった方だそうです。本事典は、その長谷川さんが学習院大学講師の肩書きを得ていた頃の、編集書。
まあ、どこまで長谷川さんが編集に関与していたかは不明ですけど、少なくとも巻頭に「直木三十五と「直木賞」の風雪」の一文を寄せています。
本来、本事典に対しては、まったく無風で索莫とした荒野だった「直木賞研究」の場に、昭和52年/1977年の段階、つまりは第76回(昭和51年/1967年・下半期)の受賞作が三好京三『子育てごっこ』と決まった段階で、ザクッと一本の旗を打ちたてた、その行為を褒めたたえるべきです。それから30年も経った今、一介のオタクがその内容をああだこうだ突っつくのは、見苦しいので差し控えたいところです。
と言いつつも、長谷川さんの論稿を一部ご紹介しますと、文学は常に変質するものであって、直木賞も当然変質してきている、といったことが述べられています。作家と読者の間をつなぐもの=マス・メディアが、多様化され多彩となってきていて、これが文学の変質に多大な影響を及ぼしている、というわけです。
そしてハナシは、お決まりのパターン、芥川賞との関係へと流れていきます。
「作家と読者とがマスコミの変化によって、野合したことは、そのことを責めてもナンセンスである。事態は起こるべくして起こったのである。とくに純文学の変質、中間小説の進行は、めだった現象であった。
そのことは、必然的に芥川賞と「直木賞」との接近を結果することになった。(引用者中略)両賞の接近は、(引用者中略)文学そのものの変質という根本的な課題のところでの偏差として提起されてくるものである。」
うーん、なんだか胸にすっきり収まらないハナシだなあ。ええと、文学そのものが変質すれば、その一部の表層である直木賞・芥川賞も変質せざるをえないだろう、ってこれはわかります。でもねえ、その変質の結果、両賞の接近がもたらされた、ってところが、どうも納得できないんだよなあ。
直木賞と芥川賞、それぞれが受け持つ領域のことを、あたかも並立した同レベルの階層と、はなから信じ込んでハナシをすすめているんですけど、そうです、そこが納得できないんです。長谷川さんご自身だって、両賞創設のときの「規定」を引用して、こうおっしゃっているじゃないですか。
「「規定」にいう「大衆文芸」について「細目」で補足説明がある。「『大衆文芸』とあるのは題材の時代や性質(現代小説・ユーモア小説等)その他に、何等制限なき意味である。」としるされ、芥川賞の「創作」という表記に対して「直木賞」の方は、論理的には不備な点もあると思うが、制約を一切取りはずして自由であり、それを「大衆文芸」ということで表現したものであることがわかる。」
この細目を、純粋な気持ちで読んでみましょうよ。どう考えたって、両賞が並立しているとは見えないでしょ。直木賞は何ら制限がない、ってことは、芥川賞の言う「創作」だって、当然その対象に含まれるわけじゃないですか。制約を一切取りはずして自由、ってのはそういうことでしょう。
“芥川賞エリア”があるんだとしたら、“直木賞エリア”はそれを全部含み、なおかつ垣根なく広がる広大無辺な作品群を対象にするわけでして、芥川賞が滋賀県だとすりゃ、直木賞は近畿地方だと。それが正確な両賞のとらえ方のはずです。そこを掛け違えたまま、質的な接近だの、両賞の違いがなくなってきただのと指摘するのは、はは、そりゃおかしいですわな。
長谷川泉さんを筆頭に、本事典の巻頭には、それぞれ課題を与えられて何人かの方が小論文を書いています。瀬沼茂樹(文芸評論家)、高野斗志美(旭川大学教授)、大西貢(愛媛県立松山南高等学校教諭)、尾崎秀樹(文芸評論家)、巌谷大四(文芸評論家)、大久保典夫(東京学芸大学教授)、村松定孝(上智大学教授)、遠丸立(文芸評論家)、有山大五(読売新聞社)――カッコ内の肩書きは巻末の「執筆者一覧」にあるものを、そのまま使用しました。
たしかに、この方々のおハナシも、耳を傾ける価値のあるたのしいものばかりなんですけど、本事典の偉業は、第76回までの全回の「選評の概要」「受賞作家のその後」「選評の批評」と、全受賞作の「初出」「梗概」「鑑賞」「批評」「文献」を、みんなでよってたかって手分けして、網羅したことでしょう。何と言っても。
本ブログを読みの方なら、まず気になるのが、ほら、あの方のことがどう書かれているかでしょう。第11回(昭和15年/1940年・上半期)で受賞した途端、態度を豹変させて周囲のひんしゅくを買ったといわれる、可愛げ満点の40代おじさん、河内仙介さんです。
「河内仙介のその後については、多く記すべきものをもたない。明治三十一年生まれのかれは、四十代半ばに達する歳で受賞しており、あたかも戦中の多事を経験する中で、必ずしも十分な執筆活動をつづけ得なかった。「遺書」「風冴ゆる」等を代表作として、昭和二十八年二月二十一日没した。」(榎本隆司)
かろうじて、「遺書」と「風冴ゆる」を代表作に挙げてはいるものの、早稲田大学教授(当時)榎本隆司さんも、苦しい筆だったことでしょう。
河内仙介の全貌を解明し、“多く記すべきものをもつ”までに突き詰めていくのは、本事典刊行から30年を経て、これからの直木賞研究の課題です。
○
さて、1年にわたり、週に一回ずつ、直木賞の関連書籍ばかりを取り上げてきましたが、キホンの文献に戻ってきたところでちょっと一息、まずは「関連書籍」シリーズは、とりあえずお休みしようかと思います(そろそろネタ切れなんじゃないの、との野次に耳をふさぎつつ)。
来週からは、また違った角度から、直木賞の一面に光を当てていく予定です。
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コメント
最初の一文を見て、「もしかしてブログ終了か!?」と勝手に焦っておりました(笑)
これからも楽しみにさせていただきますm(_ _)m
投稿: 毒太 | 2008年4月28日 (月) 00時49分
毒太さん
焦らせてしまってすみません。……
とか言いつつ、
始める前は、ブログってたぶん手軽に続けられるものなんだろうな、
と甘く見ていたんですが、
やってみると、毎週ひいひい言いながら書いている始末でして。
なんとか、やめずに、継続していけるかたちを
模索していきたいと思います。
これからも、どうぞ、よろしく。
投稿: P.L.B. | 2008年4月28日 (月) 21時58分