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2008年3月30日 (日)

思い出の時代作家たち

 この本は、タイトルでかなり損をしています。いや、少なくともワタクシは損をした気分になりました。だって、この題名なら、枯れ果てた“過去の人”が、関わりのあった時代作家のことを淡々と回想する本、だと誰でも思うじゃないですか。違います。第1回第32回ごろの直木賞のことと、受賞作家・候補作家・選考委員のことについて語られる、堂々たる直木賞裏面史です。ああ、もっと早く読めばよかった。

080330w170 『思い出の時代作家たち』村上元三(平成7年/1995年3月・文藝春秋刊)

 初出は『オール讀物』連載。ってことで直木賞のことを悪しざまに描いているような記述はありません。でも、発表当時すでに80歳を過ぎていた重鎮の村上元三さん、いさめる人もなく、語り口に遠慮がありません。え、そんなこと書いちゃってだいじょうぶ? といった記述に出くわすことしばしば。真っ裸になった正直なお年寄りってのは、いやあ、怖い。そして面白く、頼もしい。

 たとえば、直木賞じゃなくて、芥川賞の関連作家を追っている人なんかも、もしかしてワクワクして読めるんじゃないでしょうか。こんな記述なんか、とくに。

(引用者注:戦時中、海軍報道班員だった)わたしといっしょに南方へ行っていた作家は、帰還してから、わたしのところへ金を借りにきた。生易しい金額ではないし、その作家はいわゆる純文学の畑の農民作家だが、戦地で生死を共にした仲だけに、返してくれとは言わずに金を渡した。それきりどちらも無沙汰で過ぎたが、ある日、新聞を見て、びっくりした。その作家が、北朝鮮の板門店から韓国についての所感を書いている。(引用者中略)つい数ヶ月前までわたしといっしょに日本の海軍の世話になり、いろいろ海軍のことを賞めていたのに、北朝鮮へ渡って向うのことを賞めるとは、変り身の早いこと、驚き入った。こういう例は、ほかにもあるかも知らないが、文学をやっている人の例では知らない。

 評論家の中島健蔵にその話をしたら、呆れ返ったように言った。

「知らなかったのか、あの男は文壇での嫌われ者でね、好きな奴はだれもいなかったろうな。そういう作家を嘱託にするとは、わが国の海軍もずぼらだったんだね。」」(「安保騒動」より)

 “好きな奴はだれもいなかったろう”などと大胆に切り捨てられたその作家、実名を隠して書いているのは、武士の情けですか。と思いきや村上さん、それより前の「海軍爆撃機」の項では、報道班員の同行作家の一人を、こんなふうに紹介しています。

「羽田から新顔が一人、加わってきた。

 農民文学をやっている間宮茂輔という作家で、わたしたちとは初対面だが、ひどく無表情な人で、」

 章を超えて、実名と匿名とを使い分ける名誉毀損スレスレの術。これって村上さんの計算ですか、はたまた天然ですか。

 村上翁はまだまだ語ります。時代作家にとどまらない直木賞関連作家についての、歯に衣着せぬ逸話、そして人物紹介のオンパレード。ドドッっと行ってみますか。

湊邦三――第一次から『大衆文藝』に参加。第1回第2回直木賞候補。

「湊邦三は長谷川一門でのわれわれの先輩だが、どうも何かというと、こう言って自慢をする癖があった。

「ぼくが『花骨牌』を書いたときは」

 しかし、もう時代が経っているし、いまさら感服するような後輩はいなかった。」(「大衆文藝のこと」より)

 ああ、センパイよ。後輩は心の隅でこんなこと思ってたんですぜ。

北条誠――戦前、早稲田大学在学中から同人誌で注目され、戦後は劇作、ラジオドラマ脚本などでも活躍した人。第28回直木賞候補。

(引用者注:戦後、数々の雑誌が誕生して)作家も忙しくなったが、筆の早い、原稿をすぐ渡す作家が重宝され、北条誠のような売れっ子は、書いたものは次々と活字になって世に出た。

 北条誠については、伝説的な話が残っている。雑誌の原稿が間に合わない作家がいると、編集者は北条のところへ飛んで行った。今日の何時までに、三十枚ほどの原稿を入れないと穴があく、と泣きつかれると、北条から今日の何時までに原稿を取りに来い、そのあいだ、近くで映画でも観て時間をつぶせ、と言われて、その日の約束の時間になると、北条誠のところへ駈け戻る。北条家では、ちゃんと三十枚の原稿が出来ている。」(「大池唯雄と北条誠」より)

玉川一郎――博文館の宣伝担当でありながら、長谷川門下、『文学建設』同人など、多くのグループに参加。第12回第23回直木賞候補。

「あとになってわかったのだが、昭和二十年代の直木賞の候補の中に、玉川一郎の名がずいぶん数多く見られる。二度や三度ではなく、候補になった数から言えば、西の長谷川幸延と双璧と言えるだろう。どちらも礫々会の会員であり、新鷹会にも加わっていた。

「どうせおれのはユーモア小説だから、直木賞には軽すぎるんだよ」

 ひがみっぽい言いかたではなく、からりとした口調で言って、玉川一郎は笑った。」(「書き直し賞」より)

小島政二郎――第1回創設からの、直木賞と芥川賞両方の選考委員。

「直木賞選考委員の中でも、小島政二郎氏のように、さかんに長谷川幸延を推す人もいたという。だが、わたしたちがそんなことを知るよしもない。

 東京と関西の違いはあっても、長谷川幸延はいかにも小島さん好みの作家であったように思う。小島さんは、人の好き嫌いの度が強すぎる人だったが、これは、といったんねらいを定めると、人の反対を押し切っても強情にその作家を推した。」(「書き直し賞」より)

 “人の好き嫌いの度が強すぎる”って表現が、ミソでしょう。

戸川幸夫――戦前から毎日新聞社員。そのころから南方従軍の村上と知り合い、戦後、村上の紹介で新鷹会に参加。第32回直木賞受賞。

「新鷹会へ入って会員と認められた新人は、先ず会の席上で自作を朗読する義務があった。朗読といっても、なにも節をつけて朗々と読む必要はないが、正面には長谷川伸先生がきちんと膝も崩さずに坐っている。

(引用者中略)

 そういう雰囲気の中で、戸川幸夫が初めて読んだ小説が、自作の「高安犬物語」であった。山形県の一地方にしか住んでいない、絶滅に近くなった高安犬と、飼主の話を書いた小説で、戸川は少しもあがらず、堂々と朗読をした。

 終ってから、座にいた会員たちは期せずして、一せいに拍手をした。会員の作品に拍手を送るなど、めったにあることではない。」(「戸川幸夫と高安犬」より)

川口松太郎――第1回直木賞受賞。妻は女優の三益愛子。

「時として、文士劇の楽屋で夫婦喧嘩が起きそうになることもある。

 「三人吉三」大川端の場で、幕のあく前、われわれは三階の大部屋へ入れられて、出を待っていた。そこへ、真白に塗った町娘のなりで、お嬢吉三に扮した川口松太郎があがってきた。

 ご亭主を見るなり、三益愛子さんが、けたたましい声を立てた。

「あら、パパの顔、エテ公みたい」

 楽屋中は、静まり返った。」(「吉屋さんのこと」より)

 川口さんのお写真をかたわらに、この文章を読むと、さらに爆笑必至です。

柴田錬三郎――第26回直木賞受賞。

(引用者注:文士劇で、柴田錬三郎は)わたしの相手役は二度やってくれた。(引用者中略)二度目は、「荒神山」で、柴錬は敵方の用心棒になり、わたしと立廻りを演じた。そのとき眠狂四郎の編み出した円月殺法を舞台で見せるのか、と思ったが、照れたのかどうか、その気配もない。

「円月殺法をどうして見せないんだ」

 と訊くと、柴錬はあの苦虫を噛みつぶしたような笑いを浮べた。当人は笑ったつもりだろうが、どうもそうは見えない。こちらもあの笑顔には慣れている。そういえば、柴錬が声を出して笑ったのを見たことがない。

 家庭でも、笑声を立てたことはないのではなかろうか。しかしあの笑顔には、柴錬にしかない魅力があったのだと思う。」(「二人の作家」より)

 柴田さんのお写真をかたわらに、この文章を読むと、さらに微苦笑必至です。

今日出海――第23回直木賞受賞。

(引用者注:文士劇の稽古のとき)「先代萩」床下の場で、洋服の上から長袴をはいた今日出海が、鳴物の太鼓につれて、ゆっくり歩き出した。(引用者中略)稽古机を前に坐った猿之助が、今さんに何か言った。歩き方についての心得だったのだろう。訊き返したとき仁木弾正の口から、巻物ごと何か白いものが畳へ落ちた。いそいで弾正は、それを拾って口へ押し込んだ。今さんの入れ歯であった。

(引用者中略)

 初日に「先代萩」の幕があくと、仁木弾正がまだ舞台に姿も見せていないのに、大向うから声がかかった。「入れ歯やあっ」」(「最後の文士劇」より)

有吉佐和子――第37回直木賞候補。昭和59年/1984年、亡くなる2か月前に出演した『笑っていいとも!』での言動は、もはや語り草。

(引用者注:文士劇の)「修善寺」では、姉娘のかつらは女学生時代からこの役は得意だ、と称する有吉佐和子が扮して、なるほど動きもせりふも鮮やかであった。それはいいが、ひとりではしゃいで、はた迷惑なところがあった。

 これは有吉佐和子最後の舞台になった昭和五十二年の「ヴェニスの商人」のときには頂点に達して、いささか奇矯と思われる振舞があった。(引用者中略)見かねたわたしの女房が、楽屋でたしなめた。

「有吉さん、あなた、少しおかしいわよ」

 それへ有吉君は、平気で答えた。

「ええ、あたし、どうもおかしいのよ」」(「最後の文士劇」より)

神崎武雄――第16回直木賞受賞。南方従軍中に帰らぬ人に。

「昭和十七年下半期の「寛容」で受賞した神崎武雄も新鷹会へ入っていたが、亡父は古い新派の役者で、母は門司で芸者屋をやっていた。

「女ばかりに取り囲まれて、うらやましいね」

 などと言うと、神崎はむきになった。

「とんでもない、お袋がきびしいので、抱えの芸者と内緒話も出来ないのだよ」」(「東西両長谷川」より)

久生十蘭――第26回直木賞受賞。村上さんとは何のかんのと、妙なところで縁があって、海軍の報道班員でアンボンに赴任するのも、『朝日新聞』への連載小説も、村上→久生のバトンタッチでした。

「わたしと交代で(引用者注:海軍の報道班員として)アンボンへ行くのは、久生十蘭と報道部で教えられた。

 面識はあったが、まだ久生十蘭は直木賞を受ける前で、わたしが「朝日新聞」に「佐々木小次郎」を連載したあと、朝日に小説を書くことになった。

 わたしは朝日の学芸部に手数をかけることもなく、十回以上は書きためていたし、連載を担当する門馬義久君に迷惑はかけなかった。あとを受け持った久生十蘭は原稿がおそい、というのは定評になっていた。

 その反対の噂も耳にした。戦前でも博文館の雑誌に作品を書くとき、締切ぎりぎりになったので久生十蘭を社の応接間に閉じこめ、速記者をつけておくと、久生君は応接間の中を歩きながら、すらすらと口述をする。

 たちまち四十枚から五十枚の作品が出来あがる、というのだが、その現場を見ていたわけではない。

 しかし、久生十蘭口述説は、戦前戦後を通じて編集者のあいだでは有名になっていたらしい。」(「久生十蘭」より)

 おそらく『オール讀物』編集部からのリクエストがあったのかどうか、やたら直木賞のこと、受賞作家のことが、端ばしに触れられています。その中でも、川口松太郎海音寺潮五郎大池唯雄神崎武雄富田常雄檀一雄久生十蘭柴田錬三郎戸川幸夫穂積驚のことにはけっこうな枚数が割かれていて、へえ、そうだったんだあと新たな発見しきり。候補作家についても、新鷹会の作家を中心にいろいろ出てきます。

 でも、ほんとに本書で忘れちゃならないのは、新鷹会の二人の作家。村上さんが“関西弁の漫才を聴いているよう”と評している大阪人コンビ、河内仙介長谷川幸延についての回想なんです。そうなんですが、とくに河内仙介については、思うところあって別途いろいろ調べ中なので、どこかでまとめて取り上げたいと思います。ここでは、その一端だけチョロリと引用。

「河内仙介は、「軍事郵便」という作品で第十一回昭和十五年上半期の直木賞を受けると、とたんに仲間を見下すようになり、態度も横柄になった。

 温泉場へ行って仕事をする、などと言って、みんなをうらやましがらせようとしたが、そのころは温泉場で仕事をするからと言って、うらやましがるような仲間はいない。」(「書き直し賞」より)

 最後はやっぱり、本書の著者、村上元三さんのことで締めましょう。第12回の直木賞受賞者。そして第32回第102回、35年間も直木賞選考委員を務めた方です。その選評の折りおりで、自身、推理小説やSFが大好きだと公言しているんですが、候補になった日本SFの諸作品を、ほとんど認めることがなかった方としても知られています。

 そんな村上さんの、夢と現実のへだたり、って言うべきくだりです。

「戦後、自由に物を書ける時代になって、わたしは長年の夢を果そうと考えた。若いころから、わたしは探偵小説を書くという夢を見ていた。(引用者中略)

 わたしは、江戸川乱歩の主宰していた雑誌に、こちらから現代物の小説を売りこんだ。どうも短篇一回で夢は果されず、勝手に二回の連載にして、なんとか結末をつけた。自分ではまあまあの出来だと思っていたが、江戸川乱歩はわたしに会うなり、いきなり言った。

「君には現代物は無理だね。捕物帳を書いているほうが無事だよ」」(「初舞台」より)

 乱歩さん、よう言うた。そして、「君には現代物の選考は無理だね。捕物帳の選考をしているほうが無事だよ」と言葉を変えてみると、村上さん35年の選考ぶりも、スッキリ読めたりして。

 そのほかにも、村上さんが駆け出しの頃、博文館の『譚海』編集長、山手樹一郎に紹介してくれたのが、『サンデー毎日』出身仲間の木村荘十だったとか、お互いに人見知り同士の佐藤春夫と、仙台の講演会で一緒になったことがあって、佐藤が講演の前に壇上で、聴衆を前にして、煙草をゆっくり半分ほど吸ってから、やおら講演を始めたとか、面白い話満載で、何も書名に“時代作家”と付けることなかったんじゃないか、それでどれだけの読者を失っているか、と残念でなりません。『思い出の直木賞作家たち そしてわが師と仲間たち』とか付けといてくれたら、もうちょっと早く手にとる機会もあったのに。ああ、今まで読まずに過ごして損をした。

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