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2008年3月23日 (日)

花にあらしのたとえもあるぞ 辻平一の八十年

 だいたい大衆小説をここまで発展させた真の功労者はいったい誰だい。直木賞なんぞが生まれるもっと前から、丁寧に新人を発掘して、しかもそんな作家を育て上げようと努力してた大阪毎日、『サンデー毎日』、千葉亀雄じゃないかね、ね、そうでしょ。

080323w170 『花にあらしのたとえもあるぞ 辻平一の八十年』辻一郎編(昭和57年/1982年8月・辻一郎刊)

 でさあ、千葉さんの跡を継いで、『サンデー毎日』の懸賞小説の選者をやったのは木村毅だけども、実務方として働いたのは大毎(大阪毎日)社員の辻平一さんですよ。辻さんのことを、ここのブログで取り上げるのに何の不自然さがあるものですか。

 『サンデー毎日』が果たした勃興期の大衆小説界への貢献は、そりゃ計り知れないものがあります。誌面を大幅に提供するにとどまらず、定期的に懸賞小説を募集して、全国の埋もれた作家の卵たちに、そうか、“大衆文芸”を書いてみようか、とその気にさせた志がエラい。

 直木三十五がいなけりゃ直木賞もなかっただろう、というのと同じくらいの温度で、『サンデー毎日』がなけりゃ直木賞はつくられなかったんじゃないか、となかば真剣にワタクシは思っているわけです。

 早熟の異才・角田喜久雄をはじめとして、『サンデー毎日』主催の大衆文芸系の公募に入選した若き獅子たちを挙げてみますよ。木村哲二海音寺潮五郎、花田清輝、木村荘十井上靖、村雨退二郎、北町一郎大池唯雄宇井無愁、山岡荘八、沙羅双樹大庭さち子関川周長崎謙二郎九谷桑樹稲垣一城伊藤桂一杉本苑子小田武雄新田次郎寺内大吉滝口康彦黒岩重吾南條範夫永井路子木戸織男……、もうおなかいっぱい。さらに選外佳作をもらって、のち大成した作家も挙げてたら、ベルトの穴を二個三個ぐらいゆるめなきゃなりません。

 この『サンデー毎日』の長きにわたる壮挙、大衆小説に情熱を燃やす無名の面々に、どうぞどうぞと門戸をひろげ続けた試みが、辻平一さんの力によるもの大きいことは、ほら、木村毅さんも言っているじゃないですか。

「さて、サンデー出身の諸君が千葉亀雄氏、つづいては誤って僕などの功績を説くばかりで、辻君の縁の下の力もち的功績に認識がないのは、甚だ遺憾である。

 もし辻君と云う支柱が無かったら、サンデー出身作家のまとまりも無かったろうし、あの募集も中絶されていたろう。

(引用者中略)

 とに角、辻君は熱心だ。山陰の支局長に赴任の話のあった時も、この大衆文芸募集への愛着から、それをことわって居残ったのである。」

 そこまでして、新しい大衆小説の誕生に精魂込めた辻さんは、芥川賞に比べてどうにもパッとしない船出になってしまった直木賞のことも、いろいろと記録に残しておいてくれました。

 その裏話のなかから、まず引かせてもらうのは、サンデー出身・沙羅双樹と直木賞のこと。

 本書巻頭で、沙羅さんご本人が「一期一会の人」との文章を書かれています。

「辻さんに初めてお目にかかったのは毎日新聞社の応接室であった。毎日新聞社がまだ有楽町の駅のそばにあったころで、小生は東京市役所の下っ端の役人であった。それが第一回の千葉亀雄賞に当選したのである。一席は井上靖氏の「流転」で、二席が小生の「天鼓」であった。」

「当選発表の日も忘れて居たある日、役所から帰宅すると「サンデー毎日」から速達が来ているという。これにはびっくりした。速達の文面は貴殿は千葉亀雄賞の二席に入選されたから「サンデー毎日」の編集部まで来られたい、ということで、薄紙にタイプライターで打ってあった。賞金は五百円。一席の井上靖氏の賞金は千円。当時小生の月俸はたしか五十円であった。昭和初年の役人は今と違って薄給であった。」

 東京市の役人だった大野さん、このときは「田中平六」の筆名を使っていましたが、のち「沙羅双樹」の名で『サンデー毎日』新作大衆文芸号などにいくつか作品を発表します。そのなかのひとつが、彼の出世作「兜町」です。

 これが、文春の御大・菊池寛の目にひょいと止まったときの様子が、辻平一『文芸記者三十年』から孫引きされています。ってことで、以下は辻さんの語り。

「昭和十三年ごろのことである。

 菊池寛、吉屋信子、小島政二郎など、そろって大阪へ来たことがある。社の幹部がこの一行を南の料亭でごちそうした。

 いろんな話の花が咲いているとき、菊池さんが突然、

「今度の大衆文芸の田中平六(沙羅双樹)の兜町を書いているの、あれなかなかうまいじゃないか。」

 といい出した。当時は選外佳作ばかり十数篇集めて(当選作とは別に)「新作大衆文芸」として別冊で発行していた。(引用者中略)「あれ、キミ、どうして当選させなかったの」と、言葉は短かったが鋭かった。

「当選といっても、みんなの合議で採点したところ、選外佳作の第一席になったのですよ」と、詳しく選考事情を説明した。

「あれはどうしても当選作だよ。落したのはおかしいね」

 と菊池さんは当選作だという意見をひるがえさない。困ったことになった。」

 何がそんなに菊池さんのお気に召したのでしょう。ここまで肩入れする菊池さんの意向が反映されてかどうなのか、第8回(昭和13年/1938年・下半期)の直木賞では、それこそ当選作を差し置いて、佳作に過ぎない「兜町」が候補に挙げられちゃうわけです。

 結果は、同じサンデー出身仲間の大池唯雄に受賞をさらわれるんですが、このとき菊池寛が『文藝春秋』「話の屑籠」に残したことばが、また憶測に憶測を呼びます。

(引用者注:大池唯雄への授賞に)不満ながら、黙認したのである。あの程度の人なら「サンデー毎日」や「週刊朝日」の懸賞小説の作家の中にも、いくらもいるのじゃないかと思う。」

 はは、己の批評眼がくつがえされたんで、ムッと来ちゃいましたかね、菊池さん。

 で、さらに憶測をふくらましてくれることに、本書には、この辻さんの『文芸記者三十年』を贈られた佐佐木茂索さんが、辻さんに送った返信も収められているのです。

「もっと書く材料はある筈であり、もっと突込んで書くといふか、遠慮せずに書くことも出来る筈であり、さうすればもっともっと売れる本になると思ひました。観察の正確なことは、適例ではありませんが、菊地(原文ママ)寛が授賞に異議を唱へるあたり、実にその口吻の活写ぶり敬服しました。よく見てゐないとかういふ風には書けないものでせう。」

 当時、選考委員会で菊池寛が大いなる影響力を及ぼしていたのは間違いないでしょうけど、他の選考委員たちも一癖も十癖もあるツワモノぞろい、とくにこの茂索さんあたりが、おそらくビシッと締めていたんでしょうね。なかなか菊池の自由にはならない空気が、こんなところからも垣間見えます。

080323w170_2  おおむね辻さんの大衆文壇回顧文は、定年退職直後に出された『文芸記者三十年』(昭和32年1月・毎日新聞社刊)に尽きているんですけど、本書には、それ以外の文章もふんだんに収録されているのが、うれしいところ。とくに直木賞関連でいえば、先の沙羅双樹、そして同じく戦前に現れた、あるひとりの若き無名作家が、原稿を寄せているのが大変貴重です。

 以下、その方の文章から。

「学芸部長の石川欣一さんに拾われて、わたしが徳島支局から学芸部(大阪)へ転任したのは昭和十三年で、辻さんはそのころ、学芸部サンデー毎日課におられた。編集長は大竹憲太郎さんであった。」

「わが家の文庫に三冊の本がある。

 奥村信太郎『新聞に終始して』

 福良竹亭『新聞記者五十年』

 そして

 辻平一『文芸記者三十年』」

「辻さんの本には、ちょっぴりわたしのことが出てくる。昭和三十二年、毎日新聞社発行、定価二百円、奥村さんと福良さんの本とともに、この本はわたしのたからものなのである。」(「たからものの本」より)

 さて、これを書いた人とは誰か。ちょっぴり出てくるという『文芸記者三十年』の、その記述を探してみますと、あったあった、井上靖のことを描いた「井上靖の計画と実行力」のなかに、たしかにちょっぴりだけ出てきます。正解はこの方。

「帰還した彼(引用者注:中支に応召されていた井上靖)をつかまえて、大阪のささやかな飲み屋で、同僚二、三人と飲んだことがあった。その時の輜重兵の経験談は実におもしろかった。居眠りをしながら馬にひっぱられてゆく話、馬も歩きながら居眠りをする話。戦争もまだ初期なので、輜重兵の哀歓なんていう文句が、活字になっていない時だ。そのころ、社の同僚で、現在は徳島にいる松村益二が「一等兵もの」を書いて大佛次郎に認められ、直木賞の候補になったりしていた。」

 松村益二さんは作家ではなく、ここに語られるとおり新聞社の記者でした。まだ戦時下の兵隊の姿が活字の世界では新鮮だった昭和13年/1938年ごろに、一等兵たちの生態を活写したのは、まあ文学的活動というより、ジャーナリストとしての職業病のなせるわざだったんでしょう。そんな散文を、大衆文芸の一種と見立てて、わざわざ“直木賞”の土俵に引っ張り上げちゃうところが、まさしく大佛次郎ならではの“直木賞観”なんですよね。

 直木賞が抱えている“ナンでも有り精神”=雑食性は、つまるところ、この大佛次郎の個性から生まれたものなんじゃなかろうか、その代表的存在とも言えるのが、第7回(昭和13年/1938年・上半期)候補の松村益二です。まあ、その松村さんが大阪毎日の記者だったってのも、奇遇といえば奇遇ですけど、ここにも直木賞と大毎の切っても切れぬ関係の一端が現れてたりするのです。

 そう、『サンデー毎日』は、戦前の直木賞を支えた四大雑誌(『オール讀物』、『大衆文藝』、『新青年』、『サンデー毎日』)のうちのひとつです。この雑誌のことを語るなら、本書のほかにも、すでに触れた『文芸記者三十年』、それから野村尚吾『週刊誌五十年』(昭和48年/1973年2月・毎日新聞社刊)と、ウルトラ重要文献がありますよ念のため。

 これらの文献には、今日は全然触れられなかった超人・千葉亀雄のことも、いろいろ出てきます。千葉さんっていえや、直木賞とは直接の結びつきはないにせよ、直木賞に興味をもつ者なら、断然忘れちゃならない人物ですもの、心の片隅でずっと畏敬の念をもちつづけることにしましょう。あ、もちろん、辻平一さんに対してもね。

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