黒岩重吾の世界
ミステリー出身者でありながら、平成の世を彩ってきた数々のミステリー系の候補作に対しては、決してよき理解者ではありませんでした。そんな意味で、この方は“直木賞路線”王道とも言える方なのです。
『黒岩重吾の世界』尾崎秀樹(昭和55年/1980年5月・泰流社刊)
著者の尾崎秀樹さんは、若かりし頃、司馬遼太郎、永井路子、寺内大吉、胡桃沢耕史、伊藤桂一、斎藤芳樹などと一緒に、『近代説話』同人だった方ですから、同人仲間の黒岩重吾のことをボロクソけなすわけもありません。まあそんなことを念頭において読まなければいけない評論集ではあります。
ただ、21世紀に生きる読者から見た黒岩重吾論(……ってそんなのあまり見かけないけど)も面白いけど、同じ時代をかいくぐり、同じグループのなかで思いを共有した人による黒岩重吾論も、当然大切にしなきゃいけないので、四の五の言わずに、本書を取り上げてみました。
松本清張、水上勉ご両人の、売れるようになるまでの半生は、そりゃあ苦難と忍耐の歩みです。なんのなんの、社会派推理小説御三家のあと一人、黒岩重吾だって負けず劣らず、むちゃくちゃな人生をたくましく生き抜いてこられました。未熟児としての出生にはじまり、たび重なる事故・病気で生涯に何度も生死をさまよい、青春時代に学徒出陣と敗戦を経験し、戦後は職を転々……。
直木賞受賞後の40年以上にわたる華々しい活躍は、みなさん周知のとおり(ほんとか?)だと思うので、受賞にいたるまでの黒岩青年の苦悩の歩みを、本書から追ってみます。
「『休日の断崖』は前にも述べたように、昭和三十五年五月に浪速書房から書下ろし刊行された。その前年「青い火花」が「週刊朝日―宝石」共同懸賞募集に佳作入選したが、この入選者たちに浪速書房が中島河太郎を通じて書下ろしを依頼、はじめて長篇推理を手がけたという。黒岩重吾は「この一作が駄目だったら、小説はもう止めようと決心していた」そうだが、そのとき依頼に応じた人の中で、実際に書き上げたのは彼一人だったというから、その意気ごみが推察される。」(「第2章 人生の影の部分」より)
そうですか、話を持ちかけられたら、何が何でも最後までやりぬく胆力が重要とのことで。ああ、反省反省。
黒岩青年の同人誌修業といえば、先にも触れたように『近代説話』が知られていますが、実はその前にも、とある同人誌に加わっていたことがあります。時期は、黒岩さんの処女作「北満病棟記」にさかのぼります。
「「それまで純文学を目ざしていた関係で、習作のつもりで書いたもの。たまたま週刊朝日で記録文学の懸賞募集があったので応募したところ入選。丹羽文雄氏などが、賞めてくれました。北満で病気したときの病院が舞台ですが、内容はまったくのフィクションです。小説を書こう、作家になろうと本気で思うようになったのは、軍隊時代。(引用者後略)」」(「第15章 ある出発の日」より)
この入選は昭和24年/1949年、黒岩青年25歳でした。日本勧業証券会社調査部のサラリーマンだった頃です。年表に、こうあります。
「昭和二十四年(一九四九) 二十五歳
「週刊朝日」の記録文学の募集に『北満病棟記』が入選。秋、かねてから私淑していた源氏鶏太氏と会う。一時「文学者」のグループに加わったこともある。」
このとき、源氏鶏太さんがかけたアドバイスは、なるほど、源氏さんらしいものでした。
「源氏鶏太は黒岩重吾に、会社に勤めているのなら、止めないように注意したという。作家は決して特権者ではなく、平凡な社会人であり、むしろ勤めをもつことで社会的な視野をひろめねばならないという意味からの注意だったが、まだ昔の文士気風の残っていた当時としては、新しくまた勇気のある言葉だった。」(「第15章 ある出発の日」より)
そんな折り、処女作を褒めてくれたという丹羽文雄御大のひきいる同人誌『文学者』に参加。なのですが、長続きしませんでした。そのあたりのいきさつを、『近代説話』に関する黒岩さんの二つの文章からうかがってみましょう。
「僕は小説を書き出して間もなく、同人雑誌に入り、後味の良くない経験をして、作家は一人で自分の道を歩まねばならない、と思うようになった。僕が文学青年の服を脱ぎ、あっちこっちの懸賞に応募し出したのはそれからである。」(「かれらの眼」―『近代説話』7号[昭和36年/1961年4月]より)
「企業の記者団に対する新製品発表の場で全国紙の記者に無視され、東京の有名な同人誌では、その誌に君臨する奉行・役人・小役人の傲慢さに唖然としていた私にとって、司馬氏は光に似た存在だった。」(「あの頃のこと」―『オール讀物』平成8年/1996年4月号より)
同人誌『文学者』(余聞と余分エントリー「文壇資料 十五日会と「文学者」」もご参照あれ)については、丹羽“信長”がでんと鎮座ましまして、そのまわりに石川利光、野村尚吾、浜野健三郎とかの“武将たち”が取り囲み、要はその狭いグループ内でもしっかとヒエラルキーをなしていて、新参同人がすんなり入っていける空気とぼしく、とかく批判されたものですが、黒岩青年もその文学集団組織のくだらなさに、嫌悪感をもよおしたのでしょう。
青臭い文学論から早々に退散し、純文学の道を蹴った黒岩青年。この段階で彼の目を、まずはたくさんの人に読んでもらうにはどうするか、の方向に向かせたという意味で、これはこれで『文学者』の功績と言わなければなりますまい。
「「小説はなんといっても大多数の読者に読まれなくては嘘である。過去十年間、私はいろいろ模索しながら、どのような手法を取れば、私の小説に対するイデアを損うことなく、多くの人々に喜んで読まれる小説をつくれるかを、考え続けて来た。
そして、その結果到達したのが、推理的手法を使うことであった。」」(「第2章 人生の影の部分」より)
第44回(昭和35年/1960年・下半期)直木賞で、黒岩さんとその仲間・寺内大吉さんがダブル受賞したことで、『近代説話』の存在が一気にクローズアップされたものですが、その影には、『文学者』に属する小堺昭三のひっそりとした落選がありました。タテ型(垂直型)組織による同人誌は、直木賞のおメガネにかなわない、直木賞が評価するのはヨコ型(水平型)組織のほうなのだ、と明らかにされた回でもありました。
「寺内大吉の回想によると、鵠沼に子母沢寛を訪ねたおり、「自分で金を出して好き勝手な強がりを書き、その裏側にはへんな色気がある、そんなお道楽雑誌より、どうせやるなら商品として通用するような、りっぱな雑誌をやるべきだ」といわれ、同人雑誌ではありながら、お金を出して買うに価するものといった発想を得、さらに司馬遼太郎と図ったとき、「世にいう同人雑誌ならいやや」という答えを聞いて、膝をたたく思いがしたという。」(「第3章 グランド・ホテルのドラマ」より)
さらに言っちゃえば、第44回はタテ型 vs ヨコ型の対立の他にも、そういう組織性をまったく持たないところからも、大衆に支持される小説が続々と誕生していたことを示しているんですが、さすがに笹沢左保や星新一まで評価の眼が及ばないところなんぞが、直木賞の力量不足といいますか、限界だったりします。アグラかいてる場合じゃないぞ、もっと精進せよ、直木賞よ。
ワタクシは、同人活動をことさら否定したり蔑視したりする気はありません。でも、戦後になって作家を志した黒岩さんが、結局、タテ型同人誌に入り込めなかったのは、しかたなかったのかな。
「廃墟の日本にもどった黒岩重吾は、人間とは所詮一人だけのものであり、他にたよることはできないという孤独感を内に秘めて、自分一人の力で得られるだけのものを得ようとする姿勢をもち、社会へふみ出してゆく。」(「第22章 混沌の中の芽」より)
徒弟制度のなかで“へんな色気”を抱えながら、世に出るのをうかがう、なんてワザは、男一匹・黒岩さんにはできない相談でした。でもね、たとえ常人には得難い人生経験をわんさか抱えているといったって、たった一人の力で、どこまで作家として立っていけるのか。
そんな黒岩さんにとって“社会派推理”との出逢いは、まさに捨てる神あればうんぬんの類いで、こりゃあ黒岩さん、一生松本清張さんに足向けて寝られなかったことでしょう。
まあ、いい時代にめぐり逢いましたね、と言っちゃえばそれまでなんですが、昭和30年代に起きた社会派ブームの形成要因については、どなたこなたに譲るとして、同人誌修業になじまない男たちがそのブームの一角を担い、“おれは文学やってるんだ”のプライドと“へんな色気”との間で悩むことなく、たくさんの人に読んでもらえるならそれでいいじゃないかと、バリバリ書きまくった黒岩さんのような書き手の存在が、ブーム形成要因のひとつなのかもしれません。
入院もしました。職場を何度も変わりました。昼間働いて、夜せっせと小説を書いては懸賞に応募しました。はじめての単行本『休日の断崖』は昭和35年/1960年5月、36歳のとき。これがいきなり第43回(昭和35年/1960年・上半期)直木賞候補となり、二作目の『背徳のメス』で、あれよあれよという間に受賞しちゃいます。ふうん、あの頃はまだ直木賞も、ポッと出の、これからどうなるかわからん新人作家に、きちんと“先行投資”してたんだなあ。
お、36歳といえば、あらま、桜庭一樹さんの受賞年齢と同じじゃないですか。36歳つながりで連想を進めまして、きっと黒岩さんご存命だったらば、第137回候補の『赤朽葉家の伝説』はともかく、第138回の『私の男』は推していたんだろうな。こういうズンと暗いおハナシ、好きそうだもの。
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