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2008年2月10日 (日)

終戦後文壇見聞記

 どうして大衆文学は純文学より低く見られてきたんだ、そのせいで研究資料も整っていないしなあ、と日ごろお嘆きの同志たちよ。純文学だって、それほど恵まれた時代を過ごしてきたわけじゃないらしいですよ。こと、アノ出版社のなかでは。

080210w170 『終戦後文壇見聞記』大久保房男(平成18年/2006年5月・紅書房刊)

 大久保房男さんは大学卒業後、講談社に入り、『群像』編集部に配属、以後20年間編集に従事して、『群像』に大久保ありと言われるほどの存在にあった大純文学編集者です。本書は、その大久保さんの見聞きしてきた文壇内のあれこれの様子が、ふんだんに詰まっている回想本なんですけど、なんと言っても、同じ講談社出身の萱原宏一さんや大村彦次郎さんとはまったく違う道をかいくぐってきたんだな、と随所に感じさせてくれます。

 『群像』は、『文學界』や『新潮』とは違って、直木賞とは表向きほとんど縁のない雑誌です。各誌の編集方針がどれほど違うかは、もちろんワタクシなぞが語れるテーマでもないので飛ばしますが、少なくとも、『群像』掲載の小説が直木賞候補に選ばれたのは、たったの1回。第59回(昭和43年/1968年・上半期)の佐木隆三「大将とわたし」(昭和43年/1968年4月号)だけです(ちなみに『文學界』は12回、『新潮』は6回あります)。

 まあ、直木賞から見向きもされないからと言って、『群像』にとっては痛くもかゆくもないでしょうが、よし今週は一発、大衆文学と純文学の、果てなきニラミ合いっこのおハナシでいきましょう。

 って言っても、両者が繰り広げてきた白熱の攻防の歴史をご存じない方のために、まずは『群像』が創刊されて間もない昭和26年/1951年頃の、大衆文学と純文学の関係を、この方に語っていただきましょう。拍手でお迎えください。われらが直木賞受賞作家、小山いと子さんです、どうぞ。

「わたしが純文学として書いた小説に大衆小説の賞が与えられた」「日本では自分のことを書いた私小説しか純文学とは認めなくて、虚構の小説は大衆小説とされてしまう、それは文学者だけでなく、文藝雑誌の編集者も同じように考えている」

 これはスタンフォード大学の創作科教授ウォーレス・ステグナー博士が慶應義塾大学で講演をした際、質疑応答の場面で、聴衆のひとり小山さんが放った言葉でした。

 著者の大久保さんは、それを見ていてこう考えます。

「戦前の文壇にはそんな考え方があったかもしれないが、今はない、編集者で今時そんな考え方をしている者は一人もいない、と言ってやろうと思ったが、ステグナー博士は小山女史に、あなたの高いクオリティーの小説に大衆小説の賞が与えられて、多くの読者に迎えられたことは大変羨しいことである、といったようなことを答えた。聴衆の中に笑声が漏れ、(引用者後略)

 ん、なんでみんな笑ったんだ? ここって笑うところかね。

 そもそも小山さんの言い方には、自分の書いたものが純文学じゃなくて大衆小説と受け取られるのは大いに不満だ、といった裏が感じられます。ステグナーさんの返しは至極まっとうなものだとワタクシは思うけれども、この答えになぜか聴衆が笑いを漏らすところなんぞが、だいたい当時の大衆文学と純文学の関係を物語っている気がするわけです。

 さらに具体的な事例もあります。ふだんはおだやかな伊藤整さんがにわかに駄々をこねたこの事件。

「講談社が昭和三十三年一月号を創刊号としてB5判の月刊誌「日本」を発行し、連載小説は吉川英治氏の『新・水滸伝』、連載エッセイは伊藤整氏にお願いして三十二年十一月下旬に発売したのだが、伊藤さんは誌面における自分の扱い方が気に入らぬからと言って連載をやめると言い出した。(引用者中略)吉川英治氏の『新・水滸伝』が九ポイント三段組なのに、自分のは八ポイント四段組なのが伊藤さんには我慢ならなかったようだ。芥川龍之介が「中央公論」に対して、読み物作家の村松梢風と目次に並ぶのは厭だと言ったように、大衆作家より自分を優遇せよとは言わないけれど、純文学作家として大衆作家の風下に立つようなことはしたくない、と伊藤さんは私に言った。」

 カ、カザシモに立つって整さん……。これが巷間いわれるところの、文士の意地ってやつですか。

 そうですよね、直木賞が昭和10年/1935年に創設されて以来、選評の掲載順でも、選考経緯のなかで触れられる順序でも、両賞を併記するときの並べ方でも、果ては現代にくだって、決定発表号が『文藝春秋』の10日以上も後に『オール讀物』が出ることも、みんなみんな、芥川賞の後塵を拝するようなならいになっているのは、結構カザカミ・カザシモ意識の表れだったりします。

 ところがです。大久保さんの勤めていたのは講談社、ここは言わずと知れた戦前からの巨大雑誌出版社、『講談倶楽部』『面白倶楽部』『キング』なんかはみんなバリバリの大衆路線小説しか載せていなかったし、「のらくろ」も「冒険ダン吉」も音羽の仲間、吉川英治や山岡荘八には、生涯忘れちゃならんほどの大恩を受けた会社です。

 そんな会社でいきなり始めた純文学誌の編集者は、そりゃ大変だったでしょう。

「昭和二十四年の秋に講談社では原久一郎訳の「トルストイ全集」を刊行することになり、青野さん(引用者注:青野季吉)に信頼されていると見られていた私が、出版部から推薦文を書いてもらってくれと頼まれた。私は訪ねて行ってお願いを言い出すと、青野さんは急に怒り出したからびっくりした。何の義理でぼくが講談社のものに推薦文を書かにゃならんのだ、山本に頼まれたんならぼくは書くよ、困っていた時に山本には世話になったからね、講談社が音羽にビルを新築した時にぼくは招ばれなかったんだ、と言った。山本とは改造社社長の山本実彦氏のことであるのは私にもすぐわかった。」

 こんな有りさまです。

「専ら大衆物の出版の講談社では「群像」は孤立していて、それに掲載されたものがどんなに評判の良いものでも、文藝出版部員が興味を示さなければ出版しなかった。大評判の『肉体の門』も評価の高かった阿部知二氏の『黒い影』も他社から出た。あるグラフ雑誌が「群像」を他社を儲けさせる雑誌と書いた。」

 こんな痛み、今の『群像』の編集者が味わうことはあるんでしょうか。どうなんでしょう。ところで、諏訪哲史さんの本、最近売れ行きはどうですか。

「文藝雑誌の経験のない講談社では赤字の「群像」に対する風当りが強くなり、社長が議長となって全社的な規模で行われる新年号大会議では、赤字をなくせ、という要望が強く、赤字になるのは掲載作品がおもしろくないからだという批判がどんどん出て来た。時代小説はどの階層の人にもおもしろいから載せろとか、誌面をやわらげるために挿絵を入れよという要求まで出て来た。」

 あのう、これって純文学誌が軒なみ1万部以下しか売れなくなった現代のハナシじゃないんですよ。小説を語るとは、イコール純文学を語ることだ、といった頃の昭和20年代後半のことなんですよ。いかな純文学も、マス・マーケットの世界で生き抜いてきた講談社社員の前では、まったくカタなしですな。

「「群像」廃刊の噂はしょっちゅう流れた。三十二年に「文藝」が休刊になった頃、中村真一郎氏を訪ねた担当者が帰るなり、「群像」を講談社が売り出しているっていう噂があるが、どうなんだい、と中村さんに訊かれました、と言った。」

 おお、赤字担当部署の悲哀なるかな。

 ワタクシが思わず涙したのは、おカネにシビアな営業サイドに対して、編集者・大久保君が実行した、けなげで小さな抵抗。

「『ガラスの靴』を読んでから、安岡章太郎氏は必ず立派な作家になると確信した私は、「群像」を毎月贈ることにした。雑誌は、文壇で地位の確立している文士に贈っているのだが、「群像」は赤字だから、少しでも赤字を減らすために、営業の方から、無代贈呈雑誌を減らせ、とうるさく言われていた。吉行淳之介氏の家によく集っていて、後に第三の新人と言われるようになった人々のうち、雑誌を贈ることにしたのは安岡章太郎氏だけだった。」

 いやあ新鮮だ。純文学は優等、大衆向けは劣等、と普通に信じられていた時代から、いかんぞ、このままじゃいかんぞ、我ら大衆文学もなんとか這い上がらなければ、ずっと軽蔑されて終わっちまうぞ、といった危機意識が、昭和40年代ごろまでの直木賞の歴史の基本路線にあって、そういう歴史ばかり見せつけられている人間にとっては、講談社社内の空気は、いやに新鮮です。

 お互いに、お互いの世界で虐げられた経験をもつ、ってことで『群像』と直木賞は、案外似たもの同士だったのだなあと感じ入りました。

 ふうむ、そんな感想を抱いたものの、今回はほとんど直木賞に関わる作家が登場しなかったな。じゃあ最後は、本書に現れる数少ない直木賞作家の素顔を、少し。

「私から見た梅崎さん(引用者注:梅崎春生は、戦後派作家とは感じが全くちがっていた。梅崎さんは私の近くに越して来て、特別親しくしていただいたが、年中悪戯をしかけられた。私によく下さった手紙の宛名には、必ず、「群像」第一書記殿と書いてあり、自分の名は練馬大王、蓼科の山荘にいる時は蓼科大王と書いてあったから、新しく配属になった編集部員が、時々編集部に舞い込む精神異常者の手紙と思って塵箱に捨てようとしたこともある。」

 はは、ある意味、精神異常者に違いはなさそうですが。

「手紙の内容はほとんどが悪戯で、例えば、遠藤周作君があなたのことをシカジカと悪口を言っていたが、それは本当ですか、と言ったようなことで、私は、遠藤君こそカクカクでひどい人物です、と返事を出すと、それを同封して遠藤君に、大久保君が君のことをこのように言って来ましたのでお知らせします、と手紙を出したりした。」

 さすがだ……。こういう方だからこそ、「ボロ家の春秋」(第32回 昭和29年/1954年・下半期 受賞)なんて抱腹の作品が書けたんでしょうし、純文学の『新潮』誌から直木賞受賞作を生み出すだなんて、いまだに誰も真似できていない仰天の芸当を、平然とやってのけられたんだろうな。

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コメント

私も「ボロ家の春秋」を読んでニヤニヤ笑いを抑えきれなかったクチです。
いやはや、納得しました。あの傑作はそういった頭脳から生み出されたものなのですね^^

(ソースはウィキペディアですが、遠藤周作氏もいたずら好きで、氏の学生時代からご両名の付き合いはあったそうですから、いたずら仲間だったのかもしれませんね)

投稿: 毒太 | 2008年2月11日 (月) 00時24分

お、毒太さんも「ボロ家の春秋」に魅了されたのですか。
実はワタクシもです。
あの、細かいことは気にしていないようでいて、
細かいことばかり気にしちゃっている、
かなりヌケた世界、いいですよね。

投稿: P.L.B. | 2008年2月11日 (月) 08時17分

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