新文学史跡 富岡の家 直木三十五宅趾記念号
逆に問いたい。今日、この方のことを取り上げずして、他にどれほど適切な選択肢があると言うのですか。
『新文学史跡 富岡の家 直木三十五宅趾記念号』(昭和35年/1960年10月・横浜ペンクラブ刊、有隣堂発売 横浜文庫第1集)
もちろん今日は、彼の名前のおかげで儲けさせてもらっている某出版社とか、彼の名のついた賞を授与されて仕事の幅を広げさせてもらった種々の作家たちが、彼の偉業をしのんで、盛大なイベントを開いたりしているはずです。ですのでワタクシも、インターネットの隅っこから、直木三十五さんよ、ありがとう、の意をもって本書を取り上げさせてもらいます。
昭和9年/1934年に三十五さんが亡くなって26年目の昭和35年/1960年に、友人であり当時直木賞選考委員でもあった大佛次郎の呼びかけのもと、三十五が晩年建てた横浜市富岡の家と、彼の墓を遺跡として整備しようという計画がありました。神奈川県、横浜市、横浜商工会議所の支援をとりつけ、「直木三十五遺跡記念事業」として、次の5つを行うことにしたそうです。
①「直木の家」記念碑建設 ②直木三十五氏記念碑落成会 ③直木三十五氏記念講演会 ④横浜文学散歩のコースとする ⑤直木三十五氏のヨコハマ生活の資料調査
昭和35年/1960年といえば、50年近くも昔。直木賞だって、たったの(?)43回程度しか歴史がなくて、はてさて、その頃の直木賞は関係者たちにどんなふうに見られていたのか、本書を読むとチラチラッとわかります。
「「芸術は短く貧乏は長し」かれの碑銘は、あの世で直木の自嘲を呼んでいるであろう。
それにつれても、直木賞の受賞作家は、全くこれと反対に「芸術は長く貧乏は短し」の境地をかち取っている。全く羨やましい仕儀である。」(牧野イサオ「直木と横浜スタヂオ」より)
ふうむ。第40回を過ぎた頃で、すでに“直木賞作家は人気作家になる”といった感覚があったんだな。決してそうでない受賞作家も、何人も輩出していたのに。文壇と関わりのない人に、こう感じさせてしまうとは、よっぽど受賞作家の何人かの売れっぷりに、インパクトがあったんでしょうか。
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