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2008年2月の4件の記事

2008年2月24日 (日)

新文学史跡 富岡の家 直木三十五宅趾記念号

 逆に問いたい。今日、この方のことを取り上げずして、他にどれほど適切な選択肢があると言うのですか。

080224w170 『新文学史跡 富岡の家 直木三十五宅趾記念号』(昭和35年/1960年10月・横浜ペンクラブ刊、有隣堂発売 横浜文庫第1集)

 もちろん今日は、彼の名前のおかげで儲けさせてもらっている某出版社とか、彼の名のついた賞を授与されて仕事の幅を広げさせてもらった種々の作家たちが、彼の偉業をしのんで、盛大なイベントを開いたりしているはずです。ですのでワタクシも、インターネットの隅っこから、直木三十五さんよ、ありがとう、の意をもって本書を取り上げさせてもらいます。

 昭和9年/1934年に三十五さんが亡くなって26年目の昭和35年/1960年に、友人であり当時直木賞選考委員でもあった大佛次郎の呼びかけのもと、三十五が晩年建てた横浜市富岡の家と、彼の墓を遺跡として整備しようという計画がありました。神奈川県、横浜市、横浜商工会議所の支援をとりつけ、「直木三十五遺跡記念事業」として、次の5つを行うことにしたそうです。

 ①「直木の家」記念碑建設 ②直木三十五氏記念碑落成会 ③直木三十五氏記念講演会 ④横浜文学散歩のコースとする ⑤直木三十五氏のヨコハマ生活の資料調査

 昭和35年/1960年といえば、50年近くも昔。直木賞だって、たったの(?)43回程度しか歴史がなくて、はてさて、その頃の直木賞は関係者たちにどんなふうに見られていたのか、本書を読むとチラチラッとわかります。

「芸術は短く貧乏は長し」かれの碑銘は、あの世で直木の自嘲を呼んでいるであろう。

 それにつれても、直木賞の受賞作家は、全くこれと反対に「芸術は長く貧乏は短し」の境地をかち取っている。全く羨やましい仕儀である。」(牧野イサオ「直木と横浜スタヂオ」より)

 ふうむ。第40回を過ぎた頃で、すでに“直木賞作家は人気作家になる”といった感覚があったんだな。決してそうでない受賞作家も、何人も輩出していたのに。文壇と関わりのない人に、こう感じさせてしまうとは、よっぽど受賞作家の何人かの売れっぷりに、インパクトがあったんでしょうか。

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2008年2月17日 (日)

直木賞作家 今官一先生と私

 これほど直木賞らしくない受賞作も珍しいぞ、でおなじみの作品集『壁の花』を、思い切って復刊とか文庫化する勇気ある出版社は、きっと今はないでしょうけど、講談社文芸文庫あたりがポロッと光を当ててくれることを、ひそかに期待。

080217w170 『直木賞作家 今官一先生と私』安田保民(平成15年/2003年4月・私家版)

 純文学系のひとが直木賞をとる例はよくあることで、そのことを普通は“悩める直木賞の千鳥足”とか呼んだりするんですけど(いやいや、呼ばれていません。ワタクシが今つくったテキトーな言葉です)、『ジョン万次郎漂流記』「執行猶予」「真説石川五右衛門」「ボロ家の春秋」も、まあまあ、万民に受け入れられやすかろう、って意味ではたしかに直木賞のものでしょう。

 だけどね、今官一さんの『壁の花』を大衆文学と呼ぼうだなんて、そりゃ君、無謀すぎるぜ。

 本書の著者の安田保民さんも、冒頭でかなり地団駄ふんでいます。

「私はいまでも、今官一は芥川賞作家だと思っている。

 今官一の「旅雁の章」が、昭和十三年下半期、第八回芥川賞銓衡委員会に取り上げられていたせいもある。

 もし、宇野浩二が、二時間遅れて到着しなかったら、あるいは芥川賞の最終候補に推せんされ、受賞の可能性もあったのではないかと、私は惜しまれてならない。」

 今さんから直接の薫陶を受けた安田さんにとっては、そうですか、“惜しまれる”のですか。

 ところが、断然直木賞派のワタクシにとっては、今さんが芥川賞でなく直木賞をとったことはじつに喜ぶべき事件なのです。異色の受賞作『壁の花』に出逢えたのですから。

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2008年2月10日 (日)

終戦後文壇見聞記

 どうして大衆文学は純文学より低く見られてきたんだ、そのせいで研究資料も整っていないしなあ、と日ごろお嘆きの同志たちよ。純文学だって、それほど恵まれた時代を過ごしてきたわけじゃないらしいですよ。こと、アノ出版社のなかでは。

080210w170 『終戦後文壇見聞記』大久保房男(平成18年/2006年5月・紅書房刊)

 大久保房男さんは大学卒業後、講談社に入り、『群像』編集部に配属、以後20年間編集に従事して、『群像』に大久保ありと言われるほどの存在にあった大純文学編集者です。本書は、その大久保さんの見聞きしてきた文壇内のあれこれの様子が、ふんだんに詰まっている回想本なんですけど、なんと言っても、同じ講談社出身の萱原宏一さんや大村彦次郎さんとはまったく違う道をかいくぐってきたんだな、と随所に感じさせてくれます。

 『群像』は、『文學界』や『新潮』とは違って、直木賞とは表向きほとんど縁のない雑誌です。各誌の編集方針がどれほど違うかは、もちろんワタクシなぞが語れるテーマでもないので飛ばしますが、少なくとも、『群像』掲載の小説が直木賞候補に選ばれたのは、たったの1回。第59回(昭和43年/1968年・上半期)の佐木隆三「大将とわたし」(昭和43年/1968年4月号)だけです(ちなみに『文學界』は12回、『新潮』は6回あります)。

 まあ、直木賞から見向きもされないからと言って、『群像』にとっては痛くもかゆくもないでしょうが、よし今週は一発、大衆文学と純文学の、果てなきニラミ合いっこのおハナシでいきましょう。

 って言っても、両者が繰り広げてきた白熱の攻防の歴史をご存じない方のために、まずは『群像』が創刊されて間もない昭和26年/1951年頃の、大衆文学と純文学の関係を、この方に語っていただきましょう。拍手でお迎えください。われらが直木賞受賞作家、小山いと子さんです、どうぞ。

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2008年2月 3日 (日)

黒岩重吾の世界

 ミステリー出身者でありながら、平成の世を彩ってきた数々のミステリー系の候補作に対しては、決してよき理解者ではありませんでした。そんな意味で、この方は“直木賞路線”王道とも言える方なのです。

080203w170 『黒岩重吾の世界』尾崎秀樹(昭和55年/1980年5月・泰流社刊)

 著者の尾崎秀樹さんは、若かりし頃、司馬遼太郎永井路子寺内大吉胡桃沢耕史伊藤桂一斎藤芳樹などと一緒に、『近代説話』同人だった方ですから、同人仲間の黒岩重吾のことをボロクソけなすわけもありません。まあそんなことを念頭において読まなければいけない評論集ではあります。

 ただ、21世紀に生きる読者から見た黒岩重吾論(……ってそんなのあまり見かけないけど)も面白いけど、同じ時代をかいくぐり、同じグループのなかで思いを共有した人による黒岩重吾論も、当然大切にしなきゃいけないので、四の五の言わずに、本書を取り上げてみました。

 松本清張水上勉ご両人の、売れるようになるまでの半生は、そりゃあ苦難と忍耐の歩みです。なんのなんの、社会派推理小説御三家のあと一人、黒岩重吾だって負けず劣らず、むちゃくちゃな人生をたくましく生き抜いてこられました。未熟児としての出生にはじまり、たび重なる事故・病気で生涯に何度も生死をさまよい、青春時代に学徒出陣と敗戦を経験し、戦後は職を転々……。

 直木賞受賞後の40年以上にわたる華々しい活躍は、みなさん周知のとおり(ほんとか?)だと思うので、受賞にいたるまでの黒岩青年の苦悩の歩みを、本書から追ってみます。

「『休日の断崖』は前にも述べたように、昭和三十五年五月に浪速書房から書下ろし刊行された。その前年「青い火花」が「週刊朝日―宝石」共同懸賞募集に佳作入選したが、この入選者たちに浪速書房が中島河太郎を通じて書下ろしを依頼、はじめて長篇推理を手がけたという。黒岩重吾は「この一作が駄目だったら、小説はもう止めようと決心していた」そうだが、そのとき依頼に応じた人の中で、実際に書き上げたのは彼一人だったというから、その意気ごみが推察される。」(「第2章 人生の影の部分」より)

 そうですか、話を持ちかけられたら、何が何でも最後までやりぬく胆力が重要とのことで。ああ、反省反省。

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