ひどい感じ――父・井上光晴
桜、桜と浮かれていても、季節はまだ冬まっ只中だなあ。ふと手元を見ると、まさにある年の花見の日を境に、急激に病が悪化してその3年後に亡くなった方についてのこんな本があったんだけど、どれどれ、これを書いた方は、と。
『ひどい感じ――父・井上光晴』井上荒野(平成14年/2002年8月・講談社刊)
ああ、ごめんなさい。このブログは「直木賞のことに触れた昔の文献」を紹介してくれるんじゃなかったのか、と失望した方、ほんとごめんなさい。ミーハーめいた書籍は今回でとりあえず打ち止めにしますので。
“○○さんの娘”のレッテルに負けずに、と前回言っておきながら、舌ぬるぬる湿っているうちにこんな本を持ってくるワタクシも、節操のない奴です。「直木賞」の文字どころか、ご尊父が第50回(昭和38年/1963年・下半期)のときに「地の群れ」で候補になった「芥川賞」のことさえまったく出てこない本書を、わざわざ引っ張り出してきて、さあて、何を語ろうと言うのでしょう。
ご尊父の思い出を家族の視点で描いている(こっちは養父と娘の物語じゃありませんよ、念のため)、とは言ってもやはり本書には、井上荒野さんご自身の、小説観だったり小説家観だったり、そういったものが至るところに転がっています。第138回候補作の『ベーコン』を読む前にしろ、読んだ後にしろ、本書を読めばより一層、『ベーコン』も味わい深く読めそうだぞ、と思うわけです。
「私が育った家は、食べることにかんして異常に真剣な家だった。
父がそういう家にしたのだった。
そうして、わが家がまがりなりにも「家庭」や「家族」でありえたのは、きっと食事によるところが大きい。」
とか言われちゃうとなあ。“私はどんなに目の前に大金を積まれても、生涯絶対に受賞作しか読まないと決めているんです”という意思の固い人はいいけど、こういう作家の書いた食にまつわる小説集が、せっかく候補作として提示されたんですもの、読んでみたって損はなかろうよ。
ばななさんの例もありますから、荒野さんも、ほら苗字だけ本名で名はペンネームだろうと、ワタクシも最初は思いました。ご本名だそうです。
「名前をつけたのは父だ。どういう意味か、と聞かれれば、「文字通りの意味でしょう」と答えるしかない。
どういう意味か、と聞く人は、実際は「どういうつもりだ」と聞いているような気もするが、それは私も父に聞きたいところだ。」
ばななさんと言えば、本書にはこんなハナシが出てきます。荒野さんの記念すべき処女作品集が出版されたころのことです。
「一九九一年――それは父の死の一年前だが――私のはじめての創作集『グラジオラスの耳』と、父の『紙咲道生少年の記録』は、同じ出版社から同じ日に刊行された。
初版発行部数はもちろん出版社が決めるわけだが、私の本が八千部、父の本が五千部だった。
当時は吉本ばななさんがデビューしてベストセラーを生んだばかりで、小説家二世の本ならば話題性だけで多少の売り上げが見込めた、という事情だろう。「いやになっちゃうねまったく」と父は客が来るたび笑い話にしていたが、小説家にとって「いやになっちゃう」時代はそろそろはじまっていたのだった。」
ちなみに、この“同じ出版社”とは、文芸では後発も後発の福武書店、現ベネッセコーポレーション。そうか、吉本嬢もデビューは福武だったなあ。文藝春秋の大岡玲とか二時間ドラマの山村紅葉とかに負けじと(?)、福武もこんな手を使ってまで、頑張って本が売れるように努力していたのに、文芸出版社にとって「いやになっちゃう」時代にまともにぶつかり、撃沈しちゃったのは、なんとも惜しい。
この文のあとで、荒野さんは小説好きの者にとって、なかなか耳の痛いことを言っています。
「文学史にも名を残す某作家が生活保護を受けて暮らしているらしい、などというような話を引き合いに出すまでもなく、今は、本を読む人が少なくなったというよりは、読める人がいないのではないか、と思えるような状況だ。軽くて口当たりのいい「読み物」ばかりが求められる中、父の本の発行部数はどんどん少なくなっていっただろう。」
直木賞ばっかりひいきして、“小説は面白けりゃいいんだぜい”と病的に直木賞を追いかけるワタクシのような読者の存在が、きっとご尊父の本の発行部数を減らしかねない遠因だと思います。罪ほろぼしに今度、『眼の皮膚・遊園地にて』(平成11年/1999年2月・講談社/講談社文芸文庫)あたりでも読ませていただきます。それにてご勘弁を。
本書の内容が内容なだけに、今日は荒野さんのことを“作家の娘”視点でとらえているわけですけど、直木賞の歴史のなかで、作家の娘さんがその舞台にひきずり込まれた例は、そんなに多くありません。っていうか、おそらく統計をとってみたとして、近代日本文学の女性作家のうち、作家の娘と、そうでない職業人の娘とを比べれば、圧倒的に後者のほうが多いでしょうし、また一人の作家の娘さんがのちに作家になる確率なんて、どれほどのものか、とも思います。それだけ、作家の娘が作家になることは珍しい、と考えたほうがよさそうです。
ワタクシが認識できる範囲で、作家の娘が直木賞候補になった先例は、たったの2人。佐藤愛子(第52回 昭和39年/1964年・下半期候補、第61回 昭和44年/1969年・上半期受賞)と、太田治子(第93回 昭和60年/1985年・上半期)です。ちなみに江國滋さんは、作家ではなく随筆家ととらえて、この例から外してあります。
太田治子さんの『心映えの記』は、概して“エッセイとして読めば面白いが、小説と呼ぶには違和感があり、直木賞で議論すべき作品ではないだろう”ってな感じで選考会にて早々にしりぞけられちゃいました。
佐藤愛子さんのほうは、一回目の候補の段階で、すでに2度も芥川賞候補の経験があって、第52回の候補作「加納大尉夫人」はそれら旧作と比べてよいものとは思われない、といった論調が強く、小島政二郎さんにいたっては、
「この人の「ソクラテスの妻」(引用者注:第49回芥川賞候補)が芥川賞でなく、直木賞へ提出されたら当然賞を与えられていたと思う。」(『オール讀物』昭和40年4月号選評「意外なこと」より)
などと、相変わらずの“ブンガク大好きっぷり”を発揮しています。
で、当然のことながら、これら選評には彼女たちの血筋のハナシは全然出てこないんですけど、郷土愛に満ちあふれた石坂洋次郎さんだけ、こらえきれず津軽つながりの感想を、選評に残しました。
「佐藤さんの二作が、今回の直木賞作品に選ばれたが、それについて私は〈よかった〉という私的な親近感を覚えた。というのは、佐藤愛子さんの父君・故佐藤紅緑は、私の郷里・津軽出身の先輩作家であり、太宰治が陰性な破滅型の人物であったとすれば、紅緑は陽性な破滅型――あるいは豪傑型の人物であり、その血が娘である愛子さんにも一脈伝わっているような気がして、同じ郷土気質をいくらか背負っている私をさびしく喜ばせたのである。」(『オール讀物』昭和44年/1969年10月号選評「津軽の血」より)
もしかして太田治子さんのときに石坂さんが選考委員に加わっていたら、また得意の津軽バナシを聞かせてもらえたかもしれない、と思うと残念です。
紅緑―愛子ラインはいいとして(よくないか)、治―治子ラインにしろ、光晴―荒野ラインにしろ、直木賞の領域のなかでアレコレ語るのがほんとうにふさわしいのかなあ、文学のことを少しはまじめに考えている(かもしれない)アッチのほうで取り上げてもらったほうが、まだしも娘さんにとっては幸せだったのかもなあ、とあらぬ想像が沸いてきます。
大手出版社の純文芸誌に載った短篇が「芥川賞」で、大手出版社から出た単行本が「直木賞」という、なんだか変テコな棲み分けになっちゃった現状、荒野さんのことを、こんな直木賞専門サイト&ブログが取り上げてしまうことを、嘆くべきか笑うべきか。
「読了することが幸福なのではなく、読書している時間が幸福であるような小説。
私はそういう小説を書きたいと思っているが、私にとって父の小説は、そういうものだった。」
まあ、何賞でもいいですか。直木賞なんてのは、どんなに偉そうにふんぞり返っていたって、結局バケの皮はがせば、小説(や作家)と、なんか面白そうな小説ないかなーと思っている読者との出逢いの場を提供する一コミュニケーションツールにしか過ぎないんですから。荒野さんには、こんな読者ですんません、以後お手柔らかに、と思うのみです。
こんなご尊父の予言が、正しくあり続けることを、かたわらで願いつつ。
「最後の入院のとき、病室で、毛布の中に手を入れて父の足をさすっていると、
「今、どんな小説を書いてるんだ」
と父が訊いた。
「ええとね。高校を舞台にした話」
「T(私がいやいや通っていた高校)みたいな学校か」
「そう、そう」
父は天井を、私は毛布から出た父の足先を見ながら話していた。
「それはいいね。あーちゃんはあの頃のころをどうして書かないんだろうって、俺はずうっと思っていたんだ」
「うまくいくかわかんないけどね」
大丈夫だよ、と父は言った。
「あーちゃんはもうずっと書いていかれるよ。ときどき駄作も書くかもしれないけど、書き続けるのが肝心なんだよ。もう大丈夫だよ」」
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